らんだむ書籍館


表紙




目 次


 露伴管見             太田 正雄
 露伴先生に関する私記       斎藤 茂吉
 写実主義作家としての露伴     片岡 良一
 露伴の小説            湯地 孝
 紅露時代             柳田 泉
 露伴と鴎外            成瀬 正勝
 『川舟』について
   ― Unattainable の女性 ―    木村 毅
 初期浪漫主義と露伴        塩田 良平
 迎曦塾時代の幸田露伴       遅塚 麗水
 漢学者としての幸田露伴先生    漆山又四郎
 露伴先生             土井 晩翠
 露伴翁に敬意を示して       武者小路実篤
 「運命」             小泉 信三
 露伴先生小説年表         柳田 泉


「文学」 第六巻第六号 

 昭和13 (1938) 年6月、 岩波書店。
 菊版、紙装。 本文 173頁。


 文学研究誌「文学」 における 幸田露伴(慶応3(1867)~昭和22(1947))の特集号には、次の4種がある。

 昭和13 (1938) 年 6月 (第 6巻・第 6号) 「露伴研究」
 昭和22 (1947) 年10月 (第15巻・第10号) 「露伴追悼」
 昭和53 (1978) 年11月 (第46巻・第11号) 「幸田露伴研究」
 平成17 (2005) 年1・2月 (隔月刊 第6巻・第1号) 「幸田露伴」

 ここに取り上げるのは、最初(昭和13 年)の特集号である。 このとき 露伴は在世で(71歳)、沈黙ぎみではあったが、執筆・創作活動を続けていた。 「幻談」、「雪たゝき」、「連環記」などの晩年の名作は、この特集号の後に発表されたのである。
 露伴は 学問的交流には積極的であったが、自分をひけらかすことは嫌いで、自身に関するこの特集号発行も、望まぬことであったらしい。(小林勇「蝸牛庵訪問記」、昭和13年の条)

 露伴と交際のあった人を含め、当時の有力な文学者による、各種の論説が収載されている。 これらの文章は、執筆者それぞれの著書・全集等に再録されていると考えられるので、今なお この特集号に拠らねば 読むことのできない文章は、遅塚麗水と漆山又四郎のものくらいであろう。
 二つの文のうち、漆山のものは、散漫・雑駁で、内容が乏しい。 遅塚のものも、文の運びに渋滞はあるが、内容的には その時代についての具体的証言に富んでいる。
 露伴の詳細な伝記である 塩谷賛「幸田露伴」(1965~68 初版)においても、少・青年期の記述には 遅塚のこの文を利用したところが多い。 また この文は、明治初期には数多く存在していた漢学塾の実態を記したものとして、また 我が国最初の近代図書館たる東京図書館の運営・利用の実態を記録したものとしても、貴重である。

 そこで、本文紹介としては、遅塚麗水 「迎曦塾時代の幸田露伴」を、掲げることとする。
 遅塚麗水(慶応2年12月(1867)年~昭和17(1942)年、本名:金太郎)は、露伴の少年時代からの友人。 青年時代には、露伴に倣って小説を書き、「新佐保姫」という作品を「読売新聞」に連載したこともある。 明治23(1890)年 郵便報知新聞社に入社し、以後はジャーナリストとして活動。 紀行文にすぐれ、「日本名勝記」、「山水往来」などの著がある。



本文の一部紹介

迎曦塾時代の幸田露伴

遅塚 麗水   空白


 西郷南洲が肥薩の間に兵を挙げて、世の中が騒々しくなつて来た明治十年の頃、神田の末広町に 子爵堀某なる大名華族の邸があつた。 厳めしい黒門の前、路を隔てゝ連らなる 簷低い貸長屋の中を貫く 窄い路地を入ると、そこには二三百坪もあるらしい草原の真中に、工事を始めたばかりで資金がなくなり 立腐れになつてゐる米搗場が、丈なす雑草の中に寂しく立つてゐる。 其広場の北の一角には、当時 芝居の金主をしてゐると聞く高浜某家の黒板塀と相対して、貧寒なる四辺の家の中にあつて、有福らしい平屋の家があつた。 この家こそ 幼名を鉄三郎 (「鉄四郎」の誤り。)成行 幸田露伴氏が、お茶の水高等師範の付属小学校時代の家である。 頭髪のやゝ薄い 円満な福相を有つその父と、あから顔で壮健さうな 其の母との間に、鉄ちやんは、弟妹達と共に 極めて幸福に其の日を過ごしてゐた。 父は当時 大蔵省の官吏である。

 当時の鉄ちやんは、内気らしい質と見えて、近所の子供達とは、嬉戯を共にしたことはなかつたやうだ。 私の父も 当時大蔵省租税局の役人であつたが、西南戦争の当初、岩村高俊氏が鹿児島県令となつて、戦争最中、任地に赴任するに随行したので、母子四人は 堀家の長屋に僑居してゐた。 熊本城の包囲戦、椊木、田原阪の激戦と、世は非常時となるにつれて、子供達にも戦争ゴッコの遊戯が始まつて来た。 餓饑大将であつた私は、小学校から帰るや否や、本の包みや弁当箱を投げ出して、新聞紙を畳み折つた紙兜をかぶり、棒切を得物にして、漱近所の悪太郎を狩り集め、精米所跡の草原を陣地として 戦争ゴッコに日を暮らしたものであつた。 精米所跡には 一列の杵を動かすべく 大きな木の歯車を取りつけた柱木が、まだ取り外されずに残つてゐた。 或る日私は 其の歯車の上に乗つて督戦に勉めてゐたが、誤つて顚落して その歯車の間に挟まれ、左の大腿部に打撲傷を負ひ、其の場で気絶したことがあつた。 群童の驚呼を聞いて、長屋中の人々が駈けつけた時、独り戦争ゴッコの群を離れて 手を袖にして看めてゐた鉄ちやんは、静かに踵を回して 我が家の門口からその母を呼びて、今まアノ長屋の子供が大けがをしましたよ と告げ知らせたといふことを、後で遊び友達から聞かされたことのあるほど、孤峭独立、尋常一様の童児と嬉戯を共にすることを好まざるの風があつた。

 同じ町内に住んでゐた故をもつて、其後私は 幸田氏と親しく相往来するやうになつた。 幸田の鉄ちやんは、何時の間にか 名を成行と呼ぶやうになつた。 君の名の成行は、楠木正成の成の字とその子の正行の行の字を採つたのではなからうかと、私は或る日 これを幸田氏に質して見たことがあつたが、幸田氏は笑つてこれには答へなかつた。 付属小学を卒業したのは、氏が十四歳の時であつた。 当時 八年学期の小学の制度としては、二年も早くその業を卒へたことは、学業の優秀の為めに、随時に抜擢進級させられたからであるといふことを、私は常に 亡き母にいひ聞かされて、幸田の鉄ちやんに見習へよと 訓戒されたことを覚えてゐる。 当時の同窓に 石橋思案氏のあつたことを、三十数年後、逝ける氏の数年前に聞いたことがあつた。

 西南戦争は十年九月下旬に終り、戦地から帰つて来た私の父は、元の大蔵省の役人となり、数年ならずして群馬の前橋に出張し一年を踰えた。 私達も お玉が池の桜池小学校を中途で退学して、父と共に前橋に移り住んだ。 この間、暫く幸田氏との音問は杜絶えたが、翌明治十五年、東京へ帰つて見ると、幸田氏は、鼻下に青髭の生え初むる 立派な少年となつてゐた。 遠国に旅行の途次、父が病を獲て 其地に逝去した後の母は、私はじめ三人の遺孤を抱へて 下谷徒士町に僑居して以来、私は世路の艱苦を嘗めつゝ 学校へも通はず苦学を続けてゐたが、幸田氏とは相渝らず交遊をつづけてゐた。 或日、僑居を尋ねて来られて、自分は今ま 菊池松軒先生といふ老儒の門に贄を執つてゐる、君も其の迎曦塾に入りたまへ、僕、君の為めに紹介の労を執らうと 懇ろに勧められた。

 菊池松軒先生の迎曦塾は、当時、神田五間町の裏町にあつた。 名は駿、字は千里、幕末の鴻儒 佐藤一斎先生の高足弟子でこの時は 齢早や古稀を過ぎてをられた。 一斎先生の読書楼が 愛日と名づけられたのに因みて、その日を迎ふべく 家塾を 迎曦と名けたのであつた。 安積艮斎先生とは、同門で、爾汝の間柄であり、安井息軒先生とは 同門ながら先輩であつたが為めに、常に畏友として敬意を払はれてゐた。 息軒文集を披いて、処々に 菊池駿、若くは菊池松軒の名を散見するところを見ると、亦た息軒先生に重ぜられたことが知られる。 松軒先生の生国は何処であるか 問ひ質しては見なかつたが、純粋の江戸弁で、辞に些の訛りがないところを見ると、恐らくは生粋の江戸人であらうと察する。 一斎門を出てた(ママ)先生は、薦められて 川越藩の侍読になられたこともあり、明治維新前には 甲府なる徽典館の督学として同地にあること数年に及んだ。 或年、昇仙峡に遊んで「遊昇仙峡記」を撰んで 之を梓に上した時、艮斎先生は其の巻頭に序文を書いた。 学派は 一斎先生の衣鉢を受けて 朱子学たるはいふまでもなく、専ら経書を研鑽して 大道の本義を闡明し、詩歌文章の如きは、余り重きを置かない純儒であることは 勿論である。

 明治十五年の、多分晩春の午後の事であると記憶する。 私は 汚れた飛白の袷羽織に襞の捻れた小倉の袴を穿いて、幸田氏の後に跟いて、松軒先生の迎曦塾に伺候した。 地図を披いて見ると、大震火以後の町並は 其の前よりも大いに変つて、迎曦塾の所在を詳かにすることを得ないが、今の半分もない道幅の御成街道を 北に進んで、黒門町の市電停留所、いまだその停留所に至らざる二町ほどの 西側の細い路を入つた 其の尽頭の左側にあつて、路を隔てゝ、西方斜めに矢田堀子爵の黒門を望むところが 迎曦塾である。 御成街道のこの付近には、当時 日本亭と呼ぶ寄席があり、又た 天松(?)といふ大衆的天麩羅屋もあり、迎曦塾へ入学して後、時々輪講に夜が更けることがあると、その帰途 二銭銅貨を奮発して 日本亭に芸人の演芸を聴き、偶まには天松の暖簾を潜つて、五銭の上天に一銭の白い飯で 豪華を誇つたことのあるのを 今も想ひ出す。

 古稀の老儒の住まれたこの迎曦塾は、門を推すまでもなく 門柱のみ立てる入口で、苔蒸す石に添ふ 寒竹数竿 山躑躅数株、花崗岩の甃石は やがて其の玄関の格子戸に人を導く、いかさま 去る大家の隠居の住居かと思はるゝ 竹樹清新の趣きがあるに 先づ意外の思ひがした。 格子戸を啓けて四和土の沓脱に入ると、其処には 朴歯の下駄や駒下駄が 算を乱して枕藉してゐた。 障子を隔てた講堂には、早や講義が始まつて居ると見えて、義歯を漏れて聞ゆる先生の錆のある御声が さやかに聞かれる
蔽芾たる甘棠、翦ること勿れ、伐ること勿れ、召伯のやどりし所
蔽芾たる甘棠、翦ること勿れ、敗ること勿れ、召伯の憩ひし所
蔽芾たる甘棠、翦ること勿れ、かゞること勿れ、召伯のやどりし所
 講義は正しく詩経の召南で、召伯の教へが 南国に明らかなるを頌めた 甘棠の條りであつた。
 一章の講義の終るまで、私は幸田氏の背後に跪坐して控えて居た。 竊かに眼を挙げて見渡すと、講堂は畳十二枚敷ばかり、息軒書と落款された迎曦塾の額を掛けた その下に 壁を背にし北面して坐してゐられるのは松軒先生、先生の左右、東、西、北の三方には 白木の机を並べて 十七八名の諸生が本を控えて 熱心に講義を聴いて居た。 髪を撫でつけにされた先生の頭には 僅かに稀い髪を留め、頂門に至るに及んで 銀いろの髪が巻き螺れて光つて見えた。 鼻は隆準、眥(まなじり)は長く 眼は巨きく、薄き眉には長い白毛を交へて赭ら顔、丁度 芝居の菊畑で見る 中村歌右衛門の扮する鬼一法眼の、頭の毛を薄くし髭髯を撤去し、そして三分の愛嬌を添へたと思はれる 如何にも老儒の風貌を 備へた人であると思つたのである。

 時の司法卿 大木喬任氏は、曾て先生に就いて 其の教を受けた人である。 狷介なる先生は、当時 時流に翩翾する 重野成斎、依田百川、石川鴻斎、岡千仞、中村敬宇、蒲生褧亭、三島中洲などの人々と、相徴逐するを屑(いさぎよし)としないで、隠居放言してゐられたが、大木氏が司法卿となるに及んで、強ひて先生を起して 司法省の編輯官となし、幕府時代の諸法令の編輯を委嘱した。 知遇に感激した先生は、諸生の教授は毎日午後三時以後と定め、朝の九時になると、老躯を抱へ車に載せて、今の東京駅付近にある司法省に通勤して 諸法令の編輯に従事し、午後二時過ぎに退庁して 諸生に経史を教授したのである。 当時 門下の諸生で、今ま私の記憶に存するものは 笠原虎太郎、岡村斌男、加藤万之助、加藤幾、関場不二彦、伊藤為吉、増子某、私と前後して入門した長谷川豊の諸氏に過ぎず、その他の人々は 終に之を忘却したのである。 記憶してゐる人の中で、北海道札幌の医学博士 関場不二彦氏は 今ま尚ほ健在に、伊藤為吉氏は其の後 建築家となつて、数年前、金婚式を挙げたことを 新聞紙上で知り得たる外、交遊の多くは 既に館を捐てたものであらうと思ふ。 その渝らざる交誼を辱うするもの、独り吾が露伴博士のみである。

 迎曦塾の聴講生の中に在つて、比較的少年組に属してゐた幸田氏の躰度は、大人びて寡黙であつたが、一たび講義の席となると、堂々と議論を闘はして、同輩を圧倒した。 朱子学派であつた先生は、諸生に対して 経書の講義は総て朱註に拠るべきことを諭したが、幸田氏は多く古註を基礎に論難したので、議論百出、講義の席は何時も賑やかであつた。 掌を耳朶の辺に翳して、その議論を聴いてゐられる松軒先生は やがて其の議論を是正し諭説せられる。 当時に於ける幸田氏は、其の旺盛なる知識欲を満足すべく、経史といはず、諸子の書といはず、濫読し、多読し、精読した。 迎曦塾講堂の左右の壁間には、先生の手沢を留むる書籍の 幾十函が陳べられてあつた。 幸田氏は先生の許諾を得て、その蔵書を片ッ端から耽読した。 史記、漢書、八家文、孔子家語、古文真宝、左氏春秋、近思録、手の触るゝところ 眼の視るところ、貪るやうに読み耽つた。

 当時 お茶の水の聖堂(いわゆる「湯島聖堂」)には、東京唯一の東京図書館といふのがあつた。 入徳門の石磴を登り、杏壇を入ると、正面に大成殿、殿から廻廊長く続いて 杏壇に連る、図書館は、大成殿を書庫とし、左右の廻廊を閲覧室とし、杏壇は入口、入口を過ぎると 其処に司書が控へて居て 書籍の出入を司つてゐた。 当時は 世の中が、まだ世智辛くない時とて、閲覧手続きも至極簡略で、紙のない者には紙を与へ、鉛筆を忘れた者には鉛筆を貸し、電灯もまだない頃とて、夜になると 多くの洋蝋燭を抱へた使丁が、閲覧室の机上に分配し、閲覧者は之を燃して書を読むなど、文部省の所管ながら、官府の臭味などは微塵もない所であつた。 幸田氏も亦た 弁当を携へて図書館の日参者となつたのである。

 迎曦塾の蔵書を読破し尽した幸田氏は、図書館に往て見て、牛に汗し梁に充てる 幾多の珍らしい書籍を発見して 驚異の眼を瞠つたことであらう。 幸田氏の右の人名指は 先づ諸子の書に触れたのであつた。 老、荘、列、墨、荀、韓非子、と 次第に読み漁つて、終に 鬼谷子、抱朴子などの異書にまで及んだ。 私も何時となく 図書館日参の一人となつてゐた。 幸田氏は、図書館の閲覧室で 淡島寒月氏と初対面をしたことを 私に語つた。 幸田氏は 淡島氏を燕石十種君と綽名してゐた。 私も或る日 淡島氏に面会したが、其の机上には 大部の燕石十種が積み重ねられ、丁嚀に之を筆写してゐた、色白な細面の、銘仙づくめの服装で、宛ながら大家の若檀那然たる容子に見えた。

 幸田氏も、善書に逢つては、常に之を筆写してゐた。 曾て古註を排撃した先生の言に感奮して、朱註論語を筆写して、先生に褒められたこともあつた。 郭註の荘子も、全部これを筆写したが、これは大いに先生に叱責された。 私も亦た幸田氏と競争して荘子を筆写して 先生から訓戒を頂戴した。 幸田氏が 筆写したその紙を、丁寧に折り、畳み、積み揃へ、厚紙の表紙をつけて 器用に之を正式の日本綴の本と作すことは、本職の製本師の手を歴て成るものゝ如くであつた。 潢装の術も亦た頗る巧みで、今までも時に糊を練り、刷毛を揮つて、茶掛くらゐの軸物を製することあるは 其の為めである。

 昼間 図書館の大文庫より獲来つた知識を抱いて、夜の迎曦塾の講筵に臨む幸田氏の意気は 当るべからざるものであつた。 塾の先輩は、議論で幸田氏に敵対するものがなかつた。 私は性来 音声の頗る大きい質で、餓飢大将時代には、仲間の群童から ガラきんの綽名をもつて呼ばれてゐた。 其後 後漢書の中で、廬椊、字は子韓、涿郡涿の人なり、音声、鐘の如し といふ條を読んでから、いよいよ得意となり、生意気盛りの時代とて 輪講の席末から 自分の唱ふる議論は兎に角、大声揚げて喚めき叫んだものである。 論理は通つて居ないにしても その声が大きいので、私のいふ毎に 先生は口を開いて笑はれる。 笑はれる途端に 先生の総義歯がパクリと落ちる、先生は総義歯を入れて居られたのであつた、 この事あつて以来、幸田氏の警告に拠り、自からも亦た慚愧して 音声の嗇ならんことを勉めたのである。

 松軒先生は、毎月 第一土曜と第三土曜に 復文を諸生に課した。 漢文を片仮名に訳したものを、再び原の漢文に復訳させるものであつた。 この復文に由つて、漢文を作る その力倆を試験するのである。 原文は 多く東坡全集の中から撰ばれたやうに覚えてゐる。 この復文で 原文と些の相違もない満点であつた諸生は、先生からその自作の詩を書いた半切物を頂戴したのである。 幸田氏は、他の先輩と共に、多く其の金的を射中てた。 私も偶まには詩箋を頂戴したこともあるが、今は全く散佚して 其の一葉をも筐裡に留めてゐない。

 先輩達の編輯する 二科蒐集といふ白紙刷の小冊子が 月を隔てゝ諸生に分配された。 二科とは 詩と文とである。 先生の雌黄を受けた 及第した詩と文章とを集めたものであつた。 私が 多少ながら文章や詩賦を読み得るに至つたことは、斯うした先輩や畏友の砥礪に由ることであらうと 感激する次第である。 殊に 今から顧みると、少年時代の図書館生活ほど、書籍といふものに難有味を覚えたことはなかつた。 紙は与へられ、鉛筆は貸られ、食事には茶をさへ与られ、宵になれば白蝋の洋燭を燃して 書を読むことが得られる。 上野の図書館は、このお茶の水図書館の後身であるが、今を昔に比べて見ると 誠に隔世の感に禁えない。 閲覧する諸種の書物の多くは、出版者から文部省の検閲官に提出する 許多の書物は言ふまでもなく、幕府時代にあつた千代田文庫、浅草文庫、大学南校、開成所、古くしては金沢文庫、足利学校の蔵書印が押捺されたものも少くなく、いづれも 其の当時の大儒名流の手沢ある唐本で、六六山人 (江戸時代前期の儒者、文人・石川丈山(1583-1672)の号。)の蔵書印があり、更に林家数氏の印があつて、丈山の朱墨で書き入れたる箇所も多く、誠に稀覯の物であつた。 名山勝概記の唐本も、亦た処々に書入れあり、披き読めば、龍脳の香沸々として四辺に薫する。 斯うした貴重な珍籍を、眇たる蓬頭垢面の一少年学生が、僅かに一片の借覧紙を差入れて、之を耽読すること得たる(ママ)当時の東京図書館に対して、其余りの勿躰なさには、涙が零れるやうである。 かかる善本も、現時では九襲して 容易に読むことを得ないであらう。 今日の露伴博士が其の大を致したのも、亦この図書館時代の賜が 定めて多かつたことであらうと推察せられる。

 其後、私は芝の愛宕下の仙台邸内に居を移したが、迎曦塾へは通つて居た。 図書館の日参も昔の通りであつた、 幸田氏も亦た続いて 末広町の父の家から、愛宕下の仙台邸と路を隔てた 群司大尉の家に同居された。 幸田氏の愛宕下時代は、勉強の暇さへあれば、群司大尉が秘蔵してゐる精妙な射的銃を持ち出して、二階の窓から庭前に遊ぶ家猫を射撃したり、鉛を熔して粘土の模型に濺ぎ込みて 拳大の大砲を拵らへ、草原へ持出して 煉瓦塀を砲撃したり、日頃 自ら作つてゐる硝石と硫黄と、桐炭との煙硝では、爆発力が微弱であるといふところから、わざわざ寒暖計を打ち折つて 其の中より水銀を取出し、一種の煙硝を作り得たが、これを張子の大砲に填めて火を点したところ、一大音響を発して爆発し、大いに群司夫人を驚かしたこともあつた。 時に 或は芝浜離宮を隔てた南方海岸に突出した 大盤石の上に席を布いて 観海坐と名づけ、海風に向つて嘯嗷したこともあつた。 これ等悪戯の相伴は、言ふまでもなく私であつたことを自白する。

 幸田家では 其の子女を教育するに、従吾所好といふことが、其の家風であつた。 当時 其の長男は 既に志を遂げて紡績会社に入りて枢要の地位を占め、成忠氏は 海軍に入つて少尉となり、延子氏と幸子氏とは 文部省音楽取調所に入り、成友氏 亦た大学を志して勉学した。 幸田氏は 愛宕下時代より英書を読習ひて 電信学校に入り、明治十八年 其の業を卒へ、十九年には 北海道余市の電信局に勤務したが、鬱勃の心 黙止がたく、二十年、官を捐てゝ上京した。 是れからは 一意文学に精進し、数年ならずして 蔚然たる大家となるに至つたのであつた。 当時、小学校の教員から一転して逓信省為替貯金局の一雇吏であつた私も、やがて其の推挽に由つて、終に驥尾に付する蒼蠅となつたのであつた。 幸田氏の 文界の寵児となつてから二十年、明治四十一年の初春、新聞紙上に 京都大学教授に任ぜられるといふ記事があつた、 私は書を寄せて之を祝した、一日を隔てゝ左の尺牘を領受した、其の文に曰ふ、
拝啓
御よろこびの御書を賜はり 兎に角 御芳情奉謝候
併し 大学教授の任命などに 僕未だ落手せず、有体を申上ぐれば 其内談を受けたることはあれど
官府の事ゆえ 僕毫も之を人に語ることこれなかりしに御座候
蘆芽未抽 要するに水中のものと御覧被下度候
御答まで 草々 頓首
   二月末日
 水兄 御許
 明治四十一年といへば、初老を僅かに過ぎた齢である。 この頃の幸田氏の筆蹟は 最も秀潤にして穆茂なりといふべく、殊に欣賞するに値する。 しかも この尺牘のうちに、曠懷にして放胆なる氏の半面に 細心の流露を観る、 蘆芽未抽の一句、詩味 誠に飄渺、私は今ま この尺牘を茶掛に表装して、時に壁間に懸けて 眺めてゐる。

 松軒先生は 明治二十年、館を捐てられた。 当時私は 世路の嵜嶇に艱んで居た為に、その葬に会するを得ざりしを悔恨するの念に禁えない。 先生の晩年、世に遺した著作に 徳川禁令考といふ大部の書物がある、司法省の蔵版で公刊されてゐる。 先生の文章は 之を数巻に収めて、生前既に其の浄書を終り、刊行するまでに至つたが、岡村斌男(梅軒)借り得て帰り、これを筆写しつゝあつたうち、端なく急病で逝去したので、随つて先生の遺稿もその所在を失つた、 誠に惜むべきである。
(四月尽)     空白



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