らんだむ書籍館


表紙


口絵(原色版)
「新疆省喀喇和卓 唐時代高昌國人墳墓発見 木心女子土偶首部」



目 次


   芸術雑俎 (1)        児島 喜久雄
   美術雑感          武者小路 実篤
   正倉院三彩         小山 富士夫
   宗達・光悦私論       徳川 義恭
   唐代木心女子土偶首部    熊谷 宣夫

   | |   清長      長与 善郎
   | |    今は昔      滝井 孝作
   | |   旧知      大久保 泰

   志賀直哉への手紙      梅原 龍三郎
   雪 (短歌)        斎藤 茂吉
   小説 悪戯 (1)       志賀 直哉

   編輯後記

   口絵 (原色版) 旅順博物館 女子土偶の首
      (グラビア) 石棺の彫刻とデッサン
            オリンピアのアポロの臍
            アポロとヘルメスの臍
            ミロのヴイナスとアフロデイテの臍
            梅・宗達
            牛・宗達
            ルソー
            デユヒイ


「座右宝」 創刊号(第一巻第一号) 

 昭和21 (1946) 年4月、 座右宝刊行会 (編輯兼発行者 後藤真太郎)。
 A5版、紙装。 本文 64頁。


 本誌「座右宝」もまた、終戦を待ちかねたように出現した、文芸・美術誌である。
 先の 「人間」 第一巻 第一号の紹介において、敗戦時の悲惨で空虚な状況を感じさせない、意外に豊かな内容となっていることを指摘した。 その「人間」 の3ヶ月後に創刊された本誌についても、同様のことが言える。
 これらは、戦時中の不自由さの中でも継続されていた創作や研究の生成物が、ここで一気に日の目を見たということであろう。 しかし、これら創作者の人々は、生産現場などにあって都会から離れられず空襲の犠牲になった人々と異なり、安全な地域に身を寄せることができ、いろいろな意味で自分の姿勢を守ることができた。 その、やや のんびりした雰囲気に、違和感も感じられる。 (例えば、目次中にある梅原龍三郎の「志賀直哉への手紙」は、昭和19年の4通であるが、いずれも伊豆の旅館やホテルから発信されたもので、中に 「一昨夜は無数の敵機の通る音をいい気持に聞いてよく眠つた」という記述がある。)

 ところで、「座右宝」という やや変った誌名については、次のような由来が考えられる。
 まず「座右宝」 なる単行書があった。 これは、小説家の志賀直哉(1883~1971)が、自分の好みで選定した古美術品(の写真)を 随時手許で鑑賞したいとの願望から、大正15 (1926)年に 制作・刊行した、高画質の古美術写真集であった。 この書には志賀の序文が付されているが、書名については特に説明がなく、その実体が「好きなものだけの写真帖」という言葉で表現されているだけである。 説明は無いが、「座右宝」という名は、その実体にいかにもふさわしいものと 受け取られたことであろう。
 この制作・刊行は、写真や印刷などの専門家の密接な協力を得て実現したものであったが、志賀とこれら協力者たちは、やがて「座右宝刊行会」という組織を作り、高品質な写真印刷による美術書を継続刊行するようになった。 そして、これら一連の刊行物によって、「座右宝」という名称には、高度な美意識によって選択された一流の美術品を連想させるイメージが 定着していったのである。
 刊行会に途中から参加し、やがてその活動の中心(主宰者)となったのが、後藤真太郎(1894~1954)である。 後藤は、刊行会の経営を安定させるとともに、鑑賞用の高級美術書だけでなく美術雑誌の創刊を意図するに至った。
 終戦を機に雑誌の創刊を実現するに当って、美術・文芸誌として出発することにした、と述べている(「編輯後記」)が、刊行会周辺の 文学者を含む人脈を利用する狙いがあったのであろう。 また、信頼を得た「座右宝」の名を採用したのも、当然と言えよう。


 内容の一部紹介としては、研究者あるいは著述家として ほとんど知られていない 徳川義恭という人の論文 「宗達・光悦私論」を掲げることとする。
 徳川義恭(1921~1949)は、尾張徳川家の分家筋の人であるという。 1944年 東京帝大・文学部美術史学科を卒業、同研究室の助手となったが、5年後に病没。 在学中の文学仲間であった三島由紀夫は、早世した徳川を記念した作品「貴顕」を書いている。
 論文の内容は、新進の学究らしい、意欲的なものである。 すなわち、光悦と宗達とは、創作者グループとも言うべき 近い関係にあったが、従来の評価では光悦を上位に置き、宗達をその下風に立つ者とするのが一般的であった。 しかし 著者・徳川は、その位置関係を逆転させ、実力で上位にあったのは宗達で、光悦はその影響を受けていた、とするのである。
 論証はかなり緻密であるが、核心部分における実例の説明が不十分である。 いくつかの実例が 書き起こしの図にまとめられているのであるが、その図がお粗末であるため、説得力のある説明にはなっていない。 (下に挿入した図には、いくらか分りやすくするための改善として、輪郭を加えておいた。)
 本誌の口絵には 宗達の絵2点が掲げられ、同じ筆者の説明が付されているのであるが、この論文の説明には直結していない。 ここはむしろ、「舟橋蒔絵硯筥」など、本文に関係した写真を掲げるべきであった。





内容の一部紹介

宗達・光悦 試論 ― 宗達研究の一節 ―

徳川 義恭     空白

 宗達と光悦との関係は 歌巻、色紙、短冊、謡曲本の合作が現存する事により 証明されるが、更に 片岡家本、菅原氏松田本阿弥家系が信じられるとすれば、宗達の妻は光悦の妻の姉と云ふ事になり、極めて近い間柄となる。 又、光悦の書簡の一に 「俵屋方、光悦」と記したものがある。 少庵書状 (1) に依つて 宗達が俵屋を号した事が確認されて居る現在、之も亦 宗達の家に光悦が居たと云ふ事実を知る 興味ある資料である。
 処で 私が此の小論で述べようとする所は、此の二人の芸術的立場に於ける先後問題なのである。 つまり 光悦の芸術から宗達の芸術が生れたものであるか、或は宗達から光悦か、の問題である。 之は 近世美術史上、極めて重大な問題であるにも拘らず、批判的立場から余り論じられて居ない。 そして先づ一般には 光悦から宗達が出たのであるとする説が大部分の様である。 中には 光悦派と云ふ名称を掲げ その中に宗達光琳を含ませる考へもある。 尤も 私が之から述べようとする処は 光悦―宗達説を全然否定し去らうと云ふのではない。 此の問題は 現在の資料を以てしては 確言することは勿論出来ないのである。 それ故、試論として 私が宗達―光悦説を述べてみるのである。
 注 (1) 少庵書状 ― 美術研究第百十一号

 私は先づ、光悦の芸術が 世に余りに高く評価され過ぎてゐはしないか、と思ふ。 彼をレオナルド・ダヴインチと並べて評した一説の如きは 問題外としても、万能の天才 光悦と云ふ文字は 余りにも多く見かける。 勿論私は 彼の茶碗のよさは認めて居る。 陶器に於て あれだけの大きさと深み、渋さを表現した事は 確かに一つの大きな仕事である。 処が 之を賞讃するの余り、彼の他の作品分野に迄 無批判的にそのよさを及ぼし評価することが 行はれて居はしないだらうか。 書道に於て光悦は 松花堂(松花堂 昭堂、1582~1639。真言宗の僧侶にして書家。松花堂流を創始した。)、三藐院(近衛 信尹、1565~1614。五摂家の筆頭たる近衛家の嫡流にして、書家。三藐院と号した。)と共に三筆とうたはれた。 確かに彼の書は暢達であり、独創的で自由な処がある。 殊に 金銀泥の飾絵の上に 太く細く配置して行く技巧と感覚には 勝れたものがある。 当時、賞讃された事もよく肯ける。 併し 一たび視界を広く書の美と云ふ点に置いた場合に、彼の書は 達者ではあるが 真の深みあるよさを感じられない様な気がする。 因みに 宗達の下絵ある歌巻なり、短冊なりの、其の下絵無しで見た場合に さう云ふ事は感じられると思ふ。 処で 今私が問題とするのは 茶碗や書ではなく(勿論 之等も宗達を考へる上に必要なのであるが)彼の蒔絵と絵画なのである。

 元来、光悦が如何なる程度に絵画をよくしたかは 明瞭でない。 屢々記録に現はれるものに 自讃三十六歌仙絵があるが、之に就て古画備考は 「画は皺法正敷歌仙絵也」と記して居る。 尾形流百図を見ると、抱一文庫の光悦自画讃三十六歌仙の絵が載せられて居る。 此の様式が所謂 光悦画の本体であるとすれば、それは又 著しく宗達様式とは離れたものと言はねばならぬ。 又 同書に本田家蔵として、萩之坊乗円讃光悦画定家卿なる図が掲げられて居るが、様式は先の三十六歌仙図と全く同じであり、之には光悦の方印が捺してある。 之等の図に見られる描線は 宗達風のものではない。 而して 従来の説の如く 光悦の蒔絵等に於ける図様を光悦画の本体とするならば、此の三十六歌仙絵の系統(前述の如く その同類のものに光悦の印さへある)は 光悦の画様式の如何なる位置に置かれるものであらうか。 ―― 私は案外、光悦画の様式の本体は所謂宗達風のものではなく、右(上)の例の様な描線を有する 比較的常識的な画様であつたのではないかと思ふ。 そして 若し光悦が、一般に宗達光琳の祖と言はれて居る作風のものを描いたとすれば、それは実は 光悦が宗達の作風に影響されて以後のものではないかと思ふ。 而も 光悦筆と確証し得る絵画作品のないと云ふ事実は、半面に 下絵を宗達に仰いでゐる作品が確実に存する(宗達の伊年円印あるもの三点、その他色紙、短冊等確実に様式上宗達と見做されるもの数十点)と云ふ事実と相俟つて、彼の絵画に対する疑問を一層増大せしめるのである。

 光悦伝に依ると、光悦は書に於ては相当自信を持つて居たかの如く思はれる。 有名な話ではあるが、続近世畸人伝(江戸中期の文人・伴蒿蹊が著した人物伝。1898年刊。)に 「或時 近衛三藐院 光悦にたづねたまふ 今天下に能書といふは誰とかするぞと 光悦 先づ さて次は君 次は八幡の坊也 その先づとは誰ぞと仰たまふに 恐ながら私なりと申す 此時此三筆 天下に名あり」 とある。 即ち 自分が最上で 次が三藐院 次が松花堂 と云ふのである。 此の話は勿論 一概に信じ難いとは言ひ條、光悦が書に於て相当自信があつたと云ふ事実を 察する事が出来る様に思はれる。 又、社会的にも彼の色紙が高く評価されて居た事は 次の話でも分る。 即ち、光悦の甥 光室が江戸城中に於て急病に斃れた際、彼は急ぎ東下した。 こゝで 思ひ掛けなくも 将軍家光に拝謁する事になつたが、献上物を持参してゐないので それを土井大炊頭に告げると、色紙を差し上げるがよからうと言ふ。 光悦は「差上候程の色紙有合不申」と述べると、大炊頭は「先年御貰ひ候色紙有之候間、先是御貸可申候間、献上致可然」と言ひ、之を以て事が運んだと云ふ。 現存の光悦色紙が皆彼の書のあるもので 絵画のみのものを右の場合に想像する事は当らない様に思はれるから、此の話を以て 書に於ては文字通り自他共に許したと云ふ事が分るのである。

 所が 今問題とする絵画に就ては 寧ろ自信に乏しかつたかの如き記録がある。 本阿弥行状記の一節で、同じく無条件に信ずべき性質のものではないが、次の様な話がある。 「或時 猩々翁(松花堂ノコト)、予(光悦)が新に建てたる小室を見て、さても あら壁に山水鳥獣あらゆるものあり、絵心なき処にては、かやうのことも時々写し度思ふ時も遠慮せり、幸と別懇のその宅中 ねがふてもなきことゝ、一宿をして終日色々の絵をしたゝめ 予にも恵まれし、我も絵は少しはかく事を得たりといへども中々其妙に至らざれば、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、あら壁の模様をよき絵の手本とも知らず、勿論古来よりあら壁に絵の姿あると申すことは聞伝ふるといへども、まのあたり猩々翁のかきとられしにて疑もはれ何事も上達せざれば其奥義をとられぬものと今更の様に思ひぬ」 ―― 而して光悦は 一方同じ書に於て、「陶器を作ることは 予は猩々翁にまされり」と述べたと記してある。 即ち 絵画に対する彼の態度が、陶器、書に対するものと異つてゐた事が窺ひ得るのである。 自信あるものは飽く迄も明瞭にしてゐたのであるから、画事に就て松花堂に示した態度は 単なる表面の謙譲ではなかつたと見るべきである。 又、特に文中 猩々とある点に留意すれば、松花堂は光悦より略々廿五年程若いのであるから、此の話は光悦の若い時の事とは思はれない、(ここは 読点(。)の誤りであろう。) (例へ翁と云ふ言葉が敬称として用ひられ、松花堂の所謂 晩年に用ひられたのではないとしても、余り若くしては此の称は用ひられぬであらう(。)) 要するに光悦は 晩年に至つて画事に自信ある境地に達し得たのではなからうか、と云ふ推論の余地は無い訳である。 而も宗達は 慶長十一年には光悦の和歌下絵を既に描いて居るのであるから、此の点に於ても 宗達画の先駆を光悦とすることは困難なのである。 (慶長十一年に 光悦は四十九歳、松花堂は略々廿三歳)
 慶長十一年十一月十一日銘ある 宗達下絵光悦和歌色紙に就ては、嘗て矢代幸雄先生が 美術研究第九十三号に発表されたが、此の特殊なる年紀に関しては疑問のまゝ 問題を残された。 私は 黒板博士の国史研究年表に依り、此の日に近衛三藐院が関白を辞して居る事実を知つた。 三藐院と光悦との交際は既に証せられて居る。 而して 矢代先生も指摘されて居る様に、此等十一枚の色紙には 新古今集秋上の部に互に相近く載せられた月に関する歌が書かれて居る。 而して それらは淋しい歌が多いのである。 例へば 「ことはりの秋にはあへぬ涙哉つきのかつらもかはるひかりに」 「ふかからぬ外山の庵のねさめたにさそなこの間の月はさひしき」 「詠れは千々にものおもふ月にまた我身ひとつのみねのまつかせ」 等。 故に私は 親友信尹の辞職を淋しく思ひ、光悦が宗達の下絵の色紙に筆をふるひ、さびしくも又華やかな作をなして、心をなぐさめたのではないか、と想像して居る。 又、宗達と三藐院の合作らしきものゝあるを 私は聞いて居るが、それが事実とすれば 此の問題は一層趣を増すことゝならう、―― 聊か 本論には蛇足の感もあるが、この紙面を一応の報告として置く。
 処で、所謂宗達派の祖が光悦であるとすれば、光悦は新様式の創始者である。 而して 絵画に於ける優れた新様式は、絵画的天分の豊かなる者に依つてのみ 始めて創造し得るものである。 光悦に それ程の絵画的天分が認められるであらうか。 光悦がさう云ふ天分を十分に備へた作家であつたならば、私は恐らく彼の独立した絵画作品がもう少し現存して居てもいゝのではないかと思ふ。 色紙、歌巻等の筆蹟にも 大虚庵光悦などと筆太に思ひ切つた署名をして居る位の人であるから、独立した絵を描けば 必ず明瞭に落款、捺印をなしたであらう。 つまり さう云ふ彼の独立作品が少いと云ふ事は、彼の絵画的方面への消極性を物語り、彼の絵画的天分の乏しさをも肯定する事になる。 そして同時に考へられるのは、同じ時代の絵画の天才 宗達が、斯くの如き作家の様式に影響されたと見るよりも、寧ろ其の逆を考へる方がより自然であり、素直なのではなからうかと云ふ事である。 而も、前掲の菅原氏松田本阿弥家系の書入れを容認した場合は 宗達は光悦より年長とさへ考へられるし、又 俵屋方に光悦が居た事など思ふと、一層 此の説が有利になるのである。 併し、必ずしも宗達が光悦より年長でなければならぬ事はない。 現に光悦は 年下の松花堂の絵に感心した態度を示して居る。 しかも此の松花堂の絵なるものは 私の見た所、殆ど感朊出来ぬものばかりである。 それに感朊した光悦の美的感覚を 私は余り認めたくない。

 斯くして私は 光悦の絵画が宗達様式の淵源であるとの説に 同意し兼ねるのである。 世に言ふ程 彼は万能の一大天才ではないと思ふ。 而して又、さう云ふ見方の方が寧ろ 光悦の芸術に対して親切であらう。 彼の陶器や蒔絵など いゝ仕事である。 鷹峯(たかがみね。京都の北部の丘陵地帯で、丹波・若狭への街道入口。光悦は、徳川家康よりこの原野を拝領、一族と共に移住し、ここで制作活動に当ったという。)に於ける活動も 当時の美術界に清新な気風を与えたに違ひない。 光琳の蒔絵や乾山の仕事にも 彼の影響はある。 併し、要するに彼の仕事は趣味人的な性格に止つてゐて、大作家宗達には及ぶべくもなかつたのである。 光悦の芸術の特質は 素人的気分である。 いゝ点も悪い点も皆 此の中にある。 具体的に云へば、素直に他人の長所を取り入れて合作などをし、又 自分の感情をも自由に表現する事も行つて居る点、それから其の反面に 彼の芸術の表面華やかに見えながらも、弘く東洋西洋の芸術を含めての観点に立つ時、覆ひ難い事実として消極性を認めねばならぬ点である。

A 舟橋蒔絵硯筥
B 伊勢物語図帖 「むかしをとこふして思ひ…」図部分、土坡
C 源氏物語関屋図屏風部分、土坡
D 御物 扇面屏風保元物語巻二左府負傷図部分、土坡
E 醍醐三宝院扇面屏風牛車図部分、土坡


 蒔絵に就て 私は今迄故意に語らなかつた。 それは 光悦の絵画に対して 如上の見解を先づ示して置く必要があつたからである。 さて、光悦の傑作とされて居る舟橋硯筥(帝室博物館蔵)は 宗達派の感覚と同種のものであり、広くは我工芸史上の一異彩でもある。 「あづまじの佐野の舟橋かけてのみ思ひわたるをしる人ぞなき」(後撰集)の歌意に因み、作られて居る。 高さ 三寸九分、竪 八寸、横 七寸五分。 波と舟 ━━ 金溜地、金蒔絵。 橋 ━━ 鉛。 文字 ━━ 銀金具、金蒔絵。 (歌中の舟橋の二字は 鉛に依る図様を以て暗示され、文字としては記してない。)
 処で 此の硯筥(すずりばこ)に就て私考を述べるに先だち、私は先づ 広く光悦、光琳の漆工芸に就て 次のことを述べて置く。 「漆工芸に於て 銀、鉛、青貝等を嵌入せる意匠が、宗達派の技法的特色たるたらし込み、、、、、の感覚と殆ど同じ感覚を有すること」 である。 具体的に言ふと、鉛の地は墨の肌と同種の重厚な渋味を示し、貝の肌にある一種の濃淡を想はせる自然の調子は 胡粉その他の顔料を以てするたらし込みの濃淡の調子と合し、又更に 其の貝が素地との境目に接する所に出来る輪廓の味は、やはり たらし込みの絵具によつて出来た一種の輪廓の味と共通する。 而して 蒔絵に於ける金銀の感じは、そのまゝ絵画の金銀泥に通ずるのである。 即ち 材料こそ異れ、全く同じ感じを 私は受けるのである。 絵画と工芸が之程迄、密接に関係して居る例は 他に殆ど見られない様に思ふ。 併し、宗達派絵画と光悦光琳派蒔絵との此の不思議な迄の様式の合致は 決して偶然ではない。 要するに 装飾的絵画への十分な理解と感覚が 之を為さしめたのである。

 所で 此の舟橋硯筥に就て 私は次の三点に留意する。 (一) 形態に関する解釈、(二) 宗達下絵光悦色紙との様式類似、(三) 光悦の書体。
 (一) 此の形態に関する解釈は色々あり、或人は田家の形と云ひ、又 或人は鷹峯の山の形に暗示を得たのであらうと言ふ。 確かに鷹峯の形は之に似て居る。 併し 私は之を 宗達の暗示に依つて作られたものであらうと解釈する。 つまり 此の奇抜な形は 何を意味すると云ふのでなく、宗達がヒントを直接与へたか、或ひは光悦が宗達様式から学んだかして出来たのではなからうかと思ふ。 更に具体的に言へば、宗達様式の例へば源氏関屋図屏風に於ける築山風の山塊、三宝院蔵扇面画中に見られる雲形の土坡(つつみ、土手)、慶長十一年十一月十一日銘ある色紙の中「ことはりの……」の和歌ある図の土坡、平家紊経化城喩品見返し画中の土坡、帝室御物扇面屏風画中、梅の図 及び保元物語巻二左府負傷図中に見られる土坡、更に 伊勢物語図帖の中「むかしおとこ、うゐかうぶりして……」の図、「われならて、したひほとくな…」の図、「むかしをとこ、ふして思ひ……」の各図に見られる土坡。 或は源氏澪標関屋図屏風、フリーア画廊蔵松島図屏風を始めとして宗達画の多くに見られる単純化された松葉の表現。 何れも皆、此の硯筥の盛上げの形とよく似て居る。 要するに私は 此の硯筥の形も或特定の意味あるものではなく、宗達的な一種の感覚から生じた装飾形態と解したいのである。 只、之が真に美的効果の上から言つて成功してゐるか何うかと云ふ問題になると、私は 此の形はやゝ奇に走り過ぎて、静けさを欠いて居る点がないでもない様な気がする。
 (二) (一)の場合が側面観を基調としたのに対し、之は真上から見た場合である。  今、中央の盛上げを無くして考へると、其の図は宗達画に近い様式を示し、その上に和歌の散らしてある点、宗達光悦合作の色紙と極めて類似して居る事が分る。 要するに私は 此の図様も宗達画に暗示を得て光悦が描いたか、或は宗達が直接下絵として描いたかの何れではないかとするのである。 尚、忍草蒔絵硯箱は 三藐院風の字が嵌入されて居る所から 光悦三藐院合作と伝へられ、(此の忍草の中に兎のゐる図柄は光悦以前の時代に存するから 光悦の独創ではない) 又、竹の図柄ある硯箱があるが、此の図は松花堂の絵に似て居るから 松花堂との合作ではないかと思つて居るが、要するに かう云ふ事から考へても 宗達光悦の合作も十分あり得ると思ふのである。
 (三) 此の硯筥に嵌入せる光悦の文字に依り、彼の書体の様式を検討すれば 此の蒔絵の製作年代が分る筈である。 大体、慶長末か元和始め頃ではないかと推定されるが、私は未だ光悦の書体に関し 自信ある発言をなし得ない。 只 工芸として金属を以て示された書なるが故に 年代推定が全く不可能と思はれないので 大方の御教示を得たい。
 斯くして私は 此の硯箱が形態及び装飾図様に於て、宗達の様式に近似せる点、更に光悦画に対する先の見解との立場から、之を光悦の独創の作品として提唱する事の危険なるを思ふに至つたのである。

 次に 伝光悦作なる蒔絵作品に就て調べる必要がある。 (光悦以前から 漆工作品には作者の名を記す事は殆ど行はれなかつた。 光悦も 其の例に習つたものと思はれる。)
 (一) 宗達の絵画様式に極めて近い様式を示すもの。 例へば 山月蒔絵経筥、蓮蒔絵経筥、等。 之等は 一見宗達様式に似て居りながら、よく見ると宗達画に比して著しく生気に乏しく、間の抜けた感じを持つて居る。 (経筥蓋裏の鹿と宗達筆謡本飾絵の鹿を比べれば明瞭。 又、蓮を示した蒔絵にも宗達の如き写実性は全くない。) 此の事実からも 光悦様式から宗達様式が生ずると云ふ事は 私には考へ難くなる。 之等の蒔絵の下図は 光悦か或は彼の弟子が 宗達画を基にして作つたのであらう。
 (二) 宗達様式と傾向を異にする作品。 岩崎家の秋草蒔絵謡本箱がそれである。 此の園(ママ)は 光悦以前の蒔絵の延長と見られる点が多い。
 要するに私は 光悦蒔絵に於ける新機軸と云はれて居るたつぷりした図様は宗達から出たものであつて、従つて 其の材料に於ける新しい試みも宗達画に接近せんとして用ひられたとさへも考へ得ると思ふ。 光悦の弟子の作も 結局此の作風のものは宗達の流れを汲むものであらう。
 光悦以前に 蒔絵師が一流の画人に其の下絵を描いてもらつて居る例はある。 幸阿弥道長(文明十年、七十一歳にて歿)は 将軍義政の近くにあつて蒔絵を作り、形状その他の好みは相阿弥に習ひ、下絵は光信に受けたと言はれて居る。 又、帝室博物館蔵、葦穂高蒔絵鞍及び鐙は 秀吉が狩野永徳に命じて下絵を描かせ、古作の鞍と鐙に高蒔絵させたものである。 蒔絵の図様とて、絵画の天分無き者に依つて出来るものではない。

 斯くして私は 従来一方的に光悦 ― 宗達説が称へられて来た事に対して 其の逆説を提唱する十分なる可能性ありとするのである。 それに就て付け加へて置くが、私は 蒔絵の図様から絵画の様式が生ずると云ふ事実を否定して居るのではない。 (宗達の様式は 光悦以前の蒔絵の様式に暗示を得て居ることは種々の点に於て指摘し得る。) 私は 飽く迄も光悦と宗達の関係に於て 之を論じて居るのである。 最後に、何故光悦が今迄高く評価され過ぎてゐたのかと云ふに、その一は 鷹峯光悦村の経営や彼の広い交際 (青蓮院宮尊朝法親王、三藐院、応山信尋、烏丸光広、徳川家康、家光、老中松平信綱、土井利勝、所司代板倉勝重、同重宗、前田利家、同利常、小堀政一、林羅山、等)に依つて知られる政治家的性格の為であり、その二は 彼が茶道の関係者から持て囃された為と思はれる。 茶道に於ける美術品の価値評価には 時々不健全なものがあるからである。





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