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(口絵裏) 訳者 |
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「世界大衆文学全集月報 第二十一号」 |
一部紹介 |
訳本平妖伝小引
北宋の仁宗の治世、慶暦年間、貝州に於いて 王則といふ者が妖術を用ひて変乱を起し、東平郡王と僭称し 得聖と改元したが 六十六日にして平げられたといふことが 史実に見えてゐる。(宋史二百九十二 明鎬伝) 小説平妖伝は これに本づいて作為したもので、この事件をめぐる幾多の妖術使ひたちの妖術談が隈なく織り込まれてゐる。 当時一般に流行してゐた道教的迷信を巧みにとらへて 読者の好奇癖に乗じてゐる上に、説話の組立ても当時の小説としてはよくととのひ、人物の出入、事件の展開も割合に緊密に出来てゐる。 原本はもつと首尾の纏まらぬものであつたらしいが 明末小説壇の流行児 龍子猶の補定が、この点 大いに役立つてゐるのであらう。 原本は 元代著名の小説家であつた羅貫中の作と謂はれてゐる。 羅漢中は 古来我が国でもよく知られてゐる水滸伝の作者とも言はれる人で ―― 尤も、水滸伝は施耐庵の原作で羅貫中は補正しただけだといふ説が今では有力であるらしいが、ともあれ彼が大手腕ある作家であつたことは疑ひなく、明の頃までは彼の筆になる数十種の小説が伝はつてゐたさうだが、今残つてゐるものは 平妖伝の外に三国志演義とか隋唐演義などの歴史小説がある。 然しこの大作家羅貫中の原作も 小説が次第に進歩した明の末頃になつて見ると、余りに荒削りで不用意なところがある考えられるやうになり、そこで平妖伝も龍子猶が手を入れてその形式を整へたものである。 子猶は 明末では非常に人気のあつた作家で、只、当人の創作には大した作品は無いらしいが、却つて古人の作品を 或は纂輯し 或は補訂し 或は批評して、小説戯曲の方面に於いて沢山の功績を残してゐる。 利に敏な書肆が応々にして 名もなき書物にさへ無実に彼の名を掲げた程の流行児であり、大家であつた。
羅貫中の原本は二十回本で、開巻には 胡員外が仙画に出会ふところからはじまつてゐるといふ。 この原本は 先年北京で発見されたさうだが 我が国では見当らないらしい。 今 普通に行はれてゐる 龍子猶が補定の四十回本は、冒頭に十五回を費して 各主要人物の来歴を明かにした外、処々に五回を挿入して 四十回本に纏め上げたと言はれてゐる。 この補訂本は その序文によると 明の泰昌元年(西暦一六二〇)に出来たものである。
普通には単に平妖伝と呼ばれてゐるが 原題は 北宋三遂平妖伝であつて、時代を北宋にとり、また妖人を平げるに殊勲のあつた三人の遂( ―― 諸葛遂智、馬遂、李遂 の名を物語に冠したのである。)
世界大衆文学全集中に支那のものを一冊選定するに当つて、教( を露伴幸田先生に乞うたところが、先生は言下に平妖伝を上げられた。 さうして これの邦訳は 既に先づ林羅山が試みて果さず 滝沢馬琴も志を抱いたままで世を去つたのだから、今日これを完成することは この意味でも快事であらうと、訳者を激励一番せられた。 先生の厚志に対しては 厚く感謝する。 訳者はこれが訳筆を辿) ( りながら、先生が特に最も興味饒) ( なる支那小説としてこの作を挙げられた理由を 具) ( に感得した。 先生の言まことに我を欺かずと思つた。 しかも訳者の菲才) ( に加ふるに 時日と紙数との制限は、この未定稿をそのまま梓) ( に上) ( さなければならなはめ) ( になつた。 第一に先生に対して愧) ( ぢ、また専ら読者諸君の寛恕を乞ふのである。 この書は前述の四十回本に憑) ( りながら、前記の理由で三十回に縮めざるを得なかつた。 これも最初ほど詳細 回を追ふと粗略になり、殊に第二十七回以後の十四回の如きは、これを梗概として四回に綴) ( り了) ( るの暴を敢てした。 もし忠実な訳文を試みたならば これの二倍の紙数を要したであらうし、思ひ切つた斧を揮つて全部を適切に書きつづめるためには 二倍の日子を要したであらう。 繁簡の宜しきを得ないことは覚悟の前であるが、筋だけは辛うじて通つたであらうか。 訳者は この物語を大人の読むメルヘンの上乗なるものと思惟するので、機を得て心ゆくまで稿を改めたい志を持つてゐる。 願はくは江湖の諸君、今日の不出来を叱正し 且つ暫く猶予を与へられるであらうか。)
この翻訳に当つては 畏友 増田渉君の示教と助力とに負ふものが 最も多大である。 最後ながら付記して 一にはこれを謝し 一にはこれを世に明かにして置きたい。昭和四年冬のはじめ佐藤春夫 記す 空白
【世界大衆文学全集月報 第二十一号】
平妖伝のこと
露伴学人 空白
支那の小説の文人詞客的の簡古なものを除いて、大衆的のものには、長いものはなかなか多いが、おもしろいものは却つて少ない。 先づ 水滸伝や、西遊記や、演義三国志や、紅楼夢や、金瓶梅は、それぞれの特色もあり 異彩もあつて、誰しもが支那小説中の巨珠鴻宝とするものである。 この中 紅楼夢は 俗談平話で綴つてはあるが、その趣味は少し高くつて、むしろ我邦の源氏物語といふ格であり、金瓶梅は余り用筆に謹慎さが欠けてゐて、佳い処も少くないが、人の前で評論するには困らせられる。 此等以外には 水滸伝や、女仙外史や、雲合奇蹤や、西洋記( や、いろいろのものがあつて、人の口には上) ( つてゐるが、何様) ( も 余り世間から大喝采を得ては居ないと見做) ( されてゐる。)
然し 平妖伝はたしかに 支那小説中のおもしろいものゝ雄である。 作者は羅貫中といふことになつてゐるが、それは 確認確証するまでにはまだ間隔距離がある。 支那では その国ぶりとして、小説の作者が明白に署名することのない習( になつてゐるから、特に平妖伝のみでなく、水滸伝にしても、西遊記にしても、誰が作つたか朦朧曖昧としてゐる。 水滸伝も羅貫中の作だといふ言伝) ( がある。 平妖伝も羅貫中だといふ言伝) ( がある。 いづれにしても 羅貫中といふ名は、偉い小説作者といふやうな意味になつてゐると心得て宜い位のことになつてゐるのである。)
平妖伝には、三国志的の修羅場もある。 水滸伝的の英雄好漢の痛快談もある。 西遊記的の洸洋放肆の空想の極端表現たる 神怪仙魔の談もある。 そして又 金瓶梅紅楼夢的の人情談や実際生活の赤裸的描写もある。 それに加へて 西洋小説に多く見るところで、支那小説には少ない味の 冒険譚的のところもある。 換言すれば、あらゆる支那小説の長処妙趣を含有してゐて、しかも其上に 他の支那小説の稀有な味を見せてゐるのである。 ふと見ると真面目に見えてゐて、しかしおちついて読むと、甚だしい滑稽や諷刺になつてゐて、大網をぶつかぶせたやうに、根こそげに一切の人間を笑倒してゐるやうなところもある。 篇中、道士が狐に恋のわづらひをする段の如きは、何といふおもしろさであらう。 をかしさであらう。 しかも 世上一般の人に、あらゆる小説戯曲中の才子や有情漢も、誰かこの道士たらざるものぞや、である。
西洋記は 余り面白くは無いものだが それでも其中に、道士の棟梁たる大先生が 恐ろしい崖の中途まで墜落して、そして崖の上からおとしてくれるものを、口を開( いて受け取つて生命をつながうとするところは、自然となかなか面白い人生の諷刺になつてゐる。 平妖伝には 然様) ( いふ調子の、自然に諷刺になつてゐるのがちよいちよい見える。 まさにその作者は 余裕のあるところの 可なり世間といふものを観て達してゐるところの 一個の人であり、羅貫中で無いにせよ 相応の人であると認めてよからう。)
蛋子和尚( の人格がまた 他の小説中の登場人物の常套型でないのがおもしろい。 普通であるならば、何処までも悪の方の加勢で終るべきであるのを、因縁を離れて 悪を滅し邪を掃ふ方になるところなど、読者をしてやや奇異の感を抱かしめるが、そこは正にこれ支那人気質を如実にあらはしたもので、特に日本人に取つては然様は出来ぬところを然様作意してある。 戯曲の明珠記のなかの可なり辛辣な牢獄番人が、自分の言語や意図のために、貞烈な婦人をして身を捨てるに及ばしめながら、後にいたつては澄ましたさびしい僧になつてゐて、その婦人の子に旧事を語り、これを助けて、孝恩を遂げしめるのとおなじやうに、如何にもおもしろい。)
平妖伝の結構の奇、筆墨の妙に至つては、読者は 佐藤氏の移植の労によつて、自然性と移植との差は少しは免れぬにせよ、一々其物自身に就いて看取領略されたならば、成程これも名高いものだけに 随分おもしろいところがあるものだといふことに 点頭されるであらう。
篇中主要人物
聖姑姑 老狐で妖術に通じている婆。 胡永児 聖姑姑の娘。 初め胡媚児といつたが、後に胡員外の家に生れ代つて胡永児といひ、母親から妖術を習つた。 左瘸児 聖姑姑の息。 胡永児の兄。 左足が跛(あしなえ)で、また妖術を使ふ。 蛋子和尚 蛋子(たまご)の中から生れた和尚。 如意宝冊といふ 道術の秘伝書を盗み、聖姑姑及び左瘸児と一しよに その法を修練した。 張鸞 道士で又 法術に通じてゐる。 王則の叛乱の時は 聖姑姑、胡永児、左瘸児、蛋子和尚などと共に 王則を助けたが、左瘸児と意合わずして 去つた。 卜吉 行商人であつたが 張鸞の弟子になり、張鸞と始終 行動を共にした。 王則 貝州といふところの軍人の隊長であつたが、胡永児と結婚し、聖姑姑等と謀つて叛乱を起し、自ら王と僭称して兵を集め、妖術を以て頻りに官軍を悩した。 文彦博 王則討伐の総大将である。 諸葛遂智 蛋子和尚の変身で、彼は九天玄女娘娘の後援で聖姑姑一党を討伐するために立つた。 馬遂 官軍の士卒であつたが 偽つて王則に降り、彼を負傷させた。 李遂 文彦博 麾下の将で、トンネルを穿つて 王則の城中へ攻め入つた。 九天玄女娘娘 天上界にゐる 大神通力をもつた女性の神仙。
終