らんだむ書籍館 |
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表紙 (装幀:木村荘八) (裸本であるが、本来は カバーか 函が付いていたと思われる。) |
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(口絵写真) 晩年の著者 (昭和十五年 書斎にて) |
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(口絵写真) 文学界の頃 後列:上田敏、川上眉山 前列:著者・馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村 |
目 次
自然主義を育ぐくむ文界 明治時代の閨秀作家 北村透谷君 上田敏君 鴎外大人の思出 更に衰へざりし鴎外大人 漱石氏に関する感想及び印象 斎藤緑雨君 山田美妙氏を憶ふ あの頃の川上眉山君 霙降る夜 若かりし日の島崎藤村君 樋口一葉女史に就いて 緑雨と一葉 一葉の手紙 本所横網 大音寺前 「にごりえ」の作者 「にごりえ」になる迄 「たけくらべ」の跡 劇になつた「濁り江」と「十三夜」 一葉旧居の碑 山田美妙斎の廿五周年に当りて 六角坂の家――紅葉君の片影―― 眉山・緑雨・透谷 一葉の日記 少し与太のやうだ 「文学界」のこと |
本文の一部紹介 |
斎藤緑雨君
… …
それから四五日たつて、また手紙をくれましたが、それは、すぐ行かずともよいと云ふやうな事でもあつたし、斎藤君が熱が出て苦しんでゐると云ふ事は幾度もある事で、いつもそれは恢復するのです。
さう思つて無沙汰をして居た処が、四月十一日の五時過ぎであつたが、斎藤君の所から使の人が来て、全く病気が危篤である、今晩にも分らない位である、言葉も聴きとれぬくらいであるから 一時でも早く来て 跡々の事をきゝ置いてくれといふ事であつた。
まだそこまでにはなつて居まいと思つてゐたのでしたから、私は甚だしく意外に思つて、急いで行つた処が、向ふへ著いたのは六時過ぎで、燈火のつく時分で、丁度その時は医者が来て居つて、私が行くと 医者は帰つて行く。
その時 斎藤君は非常に衰弱して居つたが 「 よく来てくれた。 もう愈々いかぬ。 先程医者を頼むで注射をして貰つたが、注射は一回より一回と効力を減ずるから、二三回もやれば注射も効くまいと思ふ。 もうこれが自分の最後である、かうやつて居るのは随分 情無いもので、自分で起きやうと思つても 起きる事は出来ない、人に起して貰つても 息がつまつて呼吸が絶えてしまふ。 最早牛乳も喉に通らない、僅かに氷を飲んで居るだけである。 愈々お別れだ、ながながどうも御世話になつてありがたかつた。 少し頼みたい事があるから 」といつて、家の人に言付けて 古い文庫を取出して、その中から一葉女史の遺稿 (一葉の日記。日記であることは「明治時代の閨秀作家」の一葉の条に記されている。) の預つてあつたのを出して、これを返してくれと云つた。
これは 私と斎藤君と相談して纏める積りであつたが、斎藤君は かうなつては仕やうがないからと云つて 私に引受けて、跡で出来るものならば どうかしてくれといふ事であつた。
また 「 戸川秋骨君から原稿を預つて居るから、之れも返して貰ひたい、もうこれぎりで 頼む事はない、愈々お別れである、もう話はない、君の来るまでは何か話もあるやうに思つて居たが、かうなつては話はない 」と かう云ふのです。
私はそこで、確かに受合つたと言つて、暫時黙つて居つた処が 暫くして 気の毒だが筆を執つてくれぬかと云ふのです。
そこで筆を家の人に出して貰つて 何だと言つたら、例の新聞に出た広告文で 「 僕 本月本日を以つて目出度死去致候間此段謹告仕候也 四月 日 緑雨斎藤賢 」 といふのを 書いて置いて呉れといふのでした。
「 既に幸徳秋水を電報で呼んで居るが、多分は今夜来てくれるかとは思ふが、行き違ふといかぬから、念の為に之れを懐に入れて居つて、僕が死んだと云ふ通知が行つたならば、この広告文を幸徳に托して 「二六」「萬朝」位でいゝから出してくれ 」といふのです。
よしと言つて受合ふと、 「 念の為めに。もう一枚書いてくれ。 幸徳が今夜来れば 直接に頼むことにするから 」 といふから 又一枚同じ事を書いた処が、大変礼を云つて床の下に入れた。
家の人も 私と斎藤君の間に何か内密な話もあらうかと思つて、そこを避けて居たものだから、枕許に在る氷を飲まうとする時などはそれを取つてやり、また家の者に硝子の管は無いかと聴いた所が、私の心持は硝子の管で飲んだ方がよいかと思つてきいたのだが、家の人が 管よりも盃で飲んだ方がよいと云ふから、之れで飲ますのですと云つた。
暫くすると、斎藤君が 家の人に管を持つて来いと言ひ付けました。
これを見ても 私は 斎藤君が万事に行渉つた人であつた事を感ぜざるを得ないのです。
私が注意をしたものですから、家の人に管を持つて来させて、私の面前で飲んで見せて、友人の注意を空しくしないと云ふ事を示したものと思ひます。
死の目前に迫つて居る人の所業としては 如何にも余裕のあることで、通例の人の出来ない事であらうと思はるゝのです。
それから暫くすると、 「 愈々今夜当りは 家の者を寄せて、所謂裏家の葬式の順序立てをする究りだ 」 と言つて寂しく笑つた。
私は 何でも話せ、腹蔵なく話すがよろしい。 書き留むべき事は書き留めて置くから、遠慮なく云へと言つた処が、此の期に及んで何も言ふべき事はない、たゞ死あるのみであると云つた。
其時 家の人も来て介抱して居つた。 私はそれから暫く枕許に控へて居た処が、斎藤君が 「 どうせいつまで居た所が 名残りは尽きないから、もう思ひ切つて手短く別れてしまおふではないか、文筆を執る人が枕許に居て呉れるのは心強く思ふべき筈だが、今ではそれらの事が反つて厭はしくなつて居るから、何うか帰つてくれろ 」 といふのです。
それで、私は 至極尤もだ、善く解つたと云つたら 「 君は僕の言ふことが解つてくれたか 」 と喜ばしさうに云つたのです。
その事に就いては 私は斯う考へたのです。 斎藤君は文学者としても、又一個の俗人としても 色々計画して居つた事もあるだらう、身体が壮健であるならば、あゝも、かうもと思つて居たであらうが、この計画が悉く外れて、自分の思つただけの作物を出す事も出来ずに、今此の如く 所謂陋巷の一小屋裡に斃れる場合になつては、総べてさう云ふ事業の失敗とか半生の不遇とかいふやうな念を全く離れて、唯だの一人の市井の民と成つて、学問から離れて、只の裏屋の主人となつて死にたいと云ふ考を持つて居たのではないかと思ふ。 然るに なまなか文筆の人が枕許に居て、君が計画の齟齬した事を思ひ出させるのはよくないと思つたから、頼まれた事だけは確かに引受けたと云つて帰つて来ました。
その帰り途に 樋口一葉さんの妹さんの所へ寄つて、此の事を話した処が、妹さんは車を飛ばして、その晩行つたさうです。
翌日(十二日)も朝行かうと思つた処が 用があつたので晩方行つた処が、別に病状に変りはないが 今夜にも分らない容子であると云ふ事であつた。 「 逢つた所が口もきかれないので、唯だ苦みをを見せるだけの事であるから、名残は尽き無いかれども逢ふまい 」 といふ事を 病床から家の人が取次いだものですから、その晩は帰つて来ました。
翌朝(十三日)十時過ぎであつたかと思ふのですが、私の親戚の野崎左文(新聞記者)から電話が懸かつて来たから、何用であるかと思つたら、斎藤君が今息を引取つたから 都合して来られるなら来てくれと云ふ事でした。
時間は十一時過ぎで有つたと思ふのですが、横網町へ急いで行つた処が、スツカリ家の片付けは出来て居つたのです。
家の人は 当人が 「 葬式など華々しくないやうに、人にも余り来て貰ひたくないから、世間へは成るべく発表して貰ひたくない 」 と遺言してあるといふのでしたが、友人としてはさういふ訳にも行かないので、他の友人の所へは当人の死んだ事だけは報知しなければなるまい と云つて居る処へ、野崎君が電話をかけに行つてゐたのが戻つて来る。 与謝野君(与謝野鉄幹)も幸徳君(前出・幸徳秋水)も博文館の内山君(内山正如)も来られた。 それから幸田君(幸田露伴)も程無く来られて、五人寄つて報知を出すとか、何とか友人のすべき事をしました。
… …
翌朝(十四日)になりますと 本人の遺言通り 朝早く火葬すると云ふ事になりました。
外の諸君へは一寸も通知をしないで置いたのですから、その供をしたのは、幸田君 与謝野君 私と 友人で三人、親戚の男の人が四人で、朝五時に横網を出棺して 隅田川の岸を伝つて、厩橋へでて、あれから真直ぐに西行し、本願寺の方へ曲がり 日暮里の方へ行つたのですが、その道で色々の事を考へたのです。
文壇に同じく名を馳せた人で、病が危篤だと言へば、各新聞にその事を書立てられ、その死するや 知るも知らぬも打寄つて立派に行列を整へて葬ひを送つたと云ふ人も少くはないのに、之れ等の人に才も作も劣る所のない人で、今 此の如く僅かの人数で遺骸を送つて行く、また その人の身の上を見れば、年齢も既に三十八と云ふのであるのに、妻もなく子もなく、一人で寂しく此の世を送つて、今 屍を送るに当つても極く近い親戚といふのは極少なく、寂しい葬ひの行列を整へて行くと云ふのは、余程その相違が異様であると 色々の事を考へて行つた。 然し此の考へは幸田君も与謝野君もさうであつたらう、余程沈んで居られた。
天の模様は雨を含んで居り、草は露を含んで居る、その中を分けて吾々が寂しい柩を護つて行くのは、あたりの景色のハデヤカなのに相対して、吾々どもには 寂しい何とも言へぬ感じがしました。
かねて幸田君に 法諱(戒名)をつけてくれと云ふ事を吾々から頼んで置きましたが、道々幸田君が考へて、丁度浅草の栄久町あたりであつたか、幸田君が 「 どうだ 春暁院緑雨醒客としては、居士も何もなく、それだけの事にしてしまつては、さうすると春の暁に対して醒客の醒めると云ふ字がきいて よくはないか 」 と云ふので 私どもも至極よいからそれに極めやうと言つた。(緑雨は平生「緑雨醒客」と自称していたので、それを生かし、院号だけを加えたのである) 幸田君も 故人の話をしながら日暮里へ行きました。
日暮里へ行著いたのは七時頃と思ひますが、そこには野崎左文君が先きへ行つて居り、少し後れては鈴木友三郎君(不明)、堀内新泉君(露伴門下の小説家)、内山正如君などが出迎はれて、火屋とでも云ふのですか、焼く所へ屍を納めて帰つて来ました。 その晩また集まつて 方々へ通知を出しました。
その翌日(十五日)も 友人のうち一人を頼んで 悔みに来る人の応接をして貰ひました。
越えて十六日には 駒込東片町の大円寺で 午後一時から友人の人々に集つて貰つて、遺骨を葬る式を挙げました。
その時は非常に天気の悪かつたのにも拘はらず、大抵親しい人々は出席をして下すつたので、式も 厳粛に見苦しからぬやうに挙げる事を得たので、悲みの中にも喜ばしく思ひました。
で、幸田君は、友人を代表し、与謝野君は新詩社同人諸君を代表して 弔辞を朗読してくだすつたのです。
あすこには 斎藤君の祖父と両親の墓があつて、台湾で死んだ弟さんの理学士斎藤譲と云ふ人の遺骨も其所へ納めてあるので、その中へ一所に斎藤君の遺骨も納めたのであります。
… …
『にごりえ』の作者
一葉女史が 大音寺前を引払つて本郷の丸山福山町四番地へ移つたのは、明治二十七年の五月一日である。 『塵中日記』(一葉日記の篇名)の四月二十八日のところには、
「 いよいよ転居の事 定まる、家は本郷丸山福山町とて 阿部邸の山にそひて、さゝやかなる池の上に建てたるが有りけり、守喜といひし鰻屋の離座敷なりしとて、さのみは古くもあらず、家賃月三円也、たかけれども こゝと定む 」とあるのであるが、その家は 六畳二間に四畳半があつて 勿論畳建具付である。 それが月三円の家賃とは 今の人には虚( のやうにも思はれる位であらう。 けれども、その時分にはまだそれでも高いといふ位であつたのだ。)
… …
六畳二間の南面は、手摺のやうに敷居が通つて居て、その下は板戸が開け閉てできるやうになつて居た。 その前が 三坪位は確かにあつたらうと思はれる池であつた。 水は 西片町の山から滲み出して来るC水であつたのだ。 ところで、その池の水は、小さい溝を流れて、入り口の家 ―― 鰻屋の母屋であつたらうと思はるる家 ―― の庭へ行つて、其所でも一葉女史の家のと同じ位 大きさの池をなして居た。 又、一葉女史の家の裏手 即ち北側にも 同じ位な池があつた。 明治二十年頃のことかと思ふのだが、此の辺に釣り堀のあつたことを記憶して居るのだが、これらの池が その釣堀であつたのではなからうかと思ふのだ。
… …
池には、可なり大きい鯉が居るのであつた。 『水の上』(これも、一葉日記の篇名)の二十八年五月十七日のところに、「 隣に住めりし人 家移りすとて、その池に飼ひたる緋鯉金魚など かずかず我家にもて来て預けぬ、大いなる魚どもの 鰭を動かし尾を振りて游げるさま いと面白く 来人ごとにほめたゝゆれば、何時となく我物のやうに覚えて計らざるに 庭上の奇観を添へたるなど喜び合し、隣に住めりし人 家移りすとて、その池に飼ひたる緋鯉金魚など かずかず我家にもて来て預けぬ、大いなる魚どもの 鰭を動かし尾を振りて游げるさま いと面白く 来人ごとにほめたゝゆれば、何時となく我物のやうに覚えて計らざるに 庭上の奇観を添へたるなど喜び合し、程経てかしこの妻なるもの その家に池の掘しかば魚たまはらんと さで(叉手。魚をすくう道具)などもて来たり、いざとり給へといへば、中に入りて追ひ廻るに、隣りよりおこしたる少とあるのであるが、此の池の鯉のことでは、何日(いつ)か ―― 二十八年のその頃かと思ふ ―― 一葉女史の話を聞いて、ひどく笑はせられたことがある。 それは斯うである。 その手摺めいた所に肱をかけて、鯉の游いで居るのを見ながら、話をして居ると、一葉女史が笑を含んで、「 この中には 天上しそこなつた(死にそこなった)鯉が居るんですが」と云つた。 僕が、 「 又 例の諷刺ですか、担いじやアいけませんぜ」と云ふと 「 いえ、それは全く本当。 四五日前 邦(一葉の妹 邦子)が庭を歩いて居ますと、大きい真鯉が泥だらけになつて転がつて居ました。 池で跳た勢で陸上へ上つて了つたのですね。 水へ入れてやると、平気で游いで居るんです。 今に その天上しそこなつた鯉が出て来れば お教へします 」と、一葉女史は云つたが、その日は生憎 その鯉は出て来なかつた。( さきは 得よくも取がたく、もとより我が池にありし大なるをのみ 皆集めて、数にみたしてもて帰る、それしか非じともいふにうるさければ 取るにまかせてやるを 母君などいと憎がり給ふ、斯くあるにて思へば、世は誠に常無きもの也、 昨日面白しと見る事なくば、今日の残り惜しき思ひあらんや、計らざるに景色を添へ、計らざるに景色を損ず、つくづく思ふて、栄華も富貴も一朝の夢なるを思ふ事 切也 」)
… …
一葉女史の家の左側の家 ―― 今 薪屋になつて居る家 ―― には 船板でもあつたらうかと思ふやうな細長い板に御待合と書いた看板が 格子戸の横の柱に懸つて居たが、右側の家は小料理屋といつたやうな体裁であつた。 現今では その家が横側を大溝の方方へ向て、その方には窓が一つあるきりであるのだが、その当時は それが店の正面になつて居て、大溝の上は広く橋になつて居た。 現今、その家の門になつて居るやうな右手の入り口は、その料理屋めいた家の別の入り口になつて居て、その門柱には、一葉女史が四番地へ越して早々頼まれて書いた 御料理仕出し云々といふ 細長い板の看板が出て居た。 その家では 三味線の音がよくして居た。 鈴木亭といふ家であつたさうである。 一葉女史が 「 隣で面白い歌を唄つて居ますよ。 それは、添へぬなら元の他人にして返せ、出雲の神も解らない、結びそこねか、空解けか、といふのです 」と話したことがある。 それから別の日に、一葉女史の家へ行つて居ると、その三下り(さんさがり。三味線の調子の一つ)を隣で唄ひだしたので 女史と顔を見合せて大笑をしたことがある。
一葉女史の日記の中に『しのぶぐさ』(篇名)といふのがあるが、その中に、「 後は丸山の岡にて、物静なれど、前なる町は物の音常に絶えず、怪し気なる家のみいと多かるを、斯るあたりに長くあらんは、未だ年などのいと若き身にて、終に染まらぬやうあらじと、しりうごと折々聞ゆ。とあるのであるが、所謂怪し気なる家は、一葉女史の家の両側のみならず、町を隔ての向ふ側が門並それであつた。 その辺を通ると、 「 寄つてらつしやいよ 」といふ声が方々の家から掛る。 人の足音さえ聞えれば、さう呼ぶのだ。 一葉女史は、 「 此の辺では 人さへ通れば、寄つてらつしやいと呼ぶのです。 通る人の方は少しも見ずに、唯さう呼んで居るんです 」と云つて笑つたことがある。
つまごひの雉子( の鳴く音 鹿の声)
ここもうき世のさがの奥也 」
六
同じ『しのぶぐさ』の中に、「 隣りに酒売る店あり、女子あまた居て 客の伽をすること歌妓の如く 遊女に似たり、常に文書きて給はれとて 我がもとに持て来る。 ぬしは何時もかはりて その数はかり難し。これは、鈴木亭に居た女だといふのである。 二十八年の夏頃、一葉女史が 「 隣に居た女が客に出す文を書いてくれと云つて来たので 書いてやりましたが、それから大層私の書きやうが気に入つたと見えて、数寄屋町へ出てからも、車に乗つて頼みに参ります 」と話したので、僕が「 いや。 貴女の名文で書いた文を貰つては、先の男は到底じつとしては居られなくなつて 直ぐ女のところへ飛んで来るでせう 」と云つた。 一葉女史は笑つて、「 いゝえ、何う致しまして、文句は彼方のいふ通りに書くのでございますよ 」と、云つた。
まろびあふ蓮( の露の たまさかは)
誠にそまる色もありつや 」
それから、少し後になつて、僕が或る日 一葉女史に「 何か新しいお作の御趣向が立ちましたか 」と聞くと、女史は「 面白い女があるので、『放れ駒』(『にごりえ』の初稿)といふのを書かうと思つて居ります 」と 低い落着いた声で答へた。 一葉女史は 自分の作物に就ては 得意らしいとか、熱中したとかいふ様子を決して、人に見せない人であつた。 戸川秋骨が 『われから』の中の奥方が 宮の前で、物思ひに沈むところを賞めたところが、一葉さんは下を向いて、微笑を含んで、「 彼所(あそこ)が肝腎なところです 」 と 低い声で云つた。 「 滅多に自分の作のことを云はない人が、彼(あ)れだけに云つたのだから、 彼所は大に得意なのだらう」 と云つたことがある。 女史自身が自分の作物に就て何か云つたことが その外にあつたか何うか、吾々は少しも記憶して居ない位である。
所で、一葉女史のところへ文を書いて貰ひに来た女といふのが 『にごりえ』の お力のモデルであつたのだ。 鈴木亭が菊の井のモデルになつた訳である。 尤も 鈴木亭は平屋である。 お力のモデルになつた女は、鈴木亭に来るまでは赤坂に居たと云つて居たさうであるが、芸者ではなく、矢張り鈴木亭同様の家に居たのではなからうかと想像される。 その女は、数寄屋町の芸者になつて居るうちに、新派の役者の余り名高からぬ者と深間になつて、何時か数寄屋町を去つてしまつたといふのである。 樋口邦子君の話では その女は器量はそれ程ではなかつたのだが、如何にも人好きのする、心持の好い肌合の女であつたといふのだ。 年は その時分二十二三であつたらしいのである。 名は お留と云つて居たさうだ。
その時分のさういふ家での客の取り方は 今日のさういふ家のやり方ほど簡単明瞭なものではなかつたやうに聞いて居る。 東京者のまだ幅の利いた時分であつたのと、何と云つても人間がまだ鷹揚な、まだるつこい事に趣味を持つて居た時代であつたからとで、さうであつたのであらう。 『にごりえ』の中で、お力が、「 祖父は四角な字をば読んだ人でござんす、つまり私のやうな気違ひで、世の益のない反古紙をこしらへしに、版をばお上から止められとやら、ゆるされぬとかに断食して死んださうに御座んす、十六の年から思ふ事があつて、生れは賤しい身であつたけれど 一念に修行して 六十にあまるまで仕出来したる事なく、終は人の物笑ひに 今までは名を知る人もなしとて 父が常住歎いたを 子供の頃より聞き知つて居りました 」と、云ふところがあるのであるが 一葉女史が或る時、「 白山へ寄つた方に、佐藤一斎の孫が銘酒屋を出して居て、其所には一斎の書が額になつて居るので、それだけを見に行く人が大分あるさうです 」と、話したことがある。 邦子君の話では、一斎の孫の家といふのは、一葉女史が福山町へ越した時分には 最早なかつたといふのである。 お力の身の上のその一条は、一斎の孫のことからヒントを得たものであらう。
… …
終