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表紙




目 次


 特集 ロマン・ロラン研究第40号記念


 [未発表文献]
 自叙伝のためのノート       ロマン・ロラン

 [フランス文芸批評界の第一人者による作家論]
 ロマン・ロランの偉大さは永い忍耐にある  クロード・ロワ

 [日本人最初のロラン訪問記]
 ロマン・ロオランの印象            成瀬 正一
 オルガ山荘とロラン日記            中村 星湖

 [討論]
 革命劇「ダントン」をめぐって
         窪村 義貫・大槻 統・青木 彰・辰濃 治郎
         鈴木 崇・岸崎 隆生・川崎 輝子・小島 正喜
         蜷川 譲・鈴木春香・山崎 実・牧田 美智子

 表紙  フランス・マズマレールのデッサン



「ロマン・ロラン研究」 第40号

 昭和33 (1958) 年11月、 ロマン・ロラン協会。
 A5版、紙装。 本文 28頁。


 本誌「ロマン・ロラン研究」については、筆者は特に知るところがない。 しかし、表紙裏に置かれた編集者の小文で、1951年の創刊であり、熱心なロマン・ロラン読者の支持によって、この時点まで7年間、継続発行されてきた小雑誌であることが知られる。 (この小文は 当時の状況をよく伝えているので、後掲「一部紹介」の前段に含めることとする。)
 また、最終頁に掲載されている「東京のロマン・ロラン研究会」の案内には、その研究会が、テーマと報告者が決められたうえで 毎月定期開催されていることが示されている。

 ロマン・ロラン(Romain Rolland、1866~1944)の作品の日本への紹介は、大正2年(1913年)に、高村光太郎が『ジャン・クリストフ』の部分訳を雑誌『生活』に掲載したのが 最初らしい。
 これを読んで感激した尾崎喜八は、「私は母にねだつて『ジャン・クリストフ』の英訳四巻を、実に『生活』を読んだ翌日、丸善で買つて 酔ふがやうに帰つて来た」 と書いている。(『其頃』、昭和7年)
 『ジャン・クリストフ』の豊島与志雄による完訳が刊行(新潮社)されたのは、大正9年(1920年)のことであるから、一般読者に博く読まれるようになったのは、それ以降のことである。
 しかし、思想や文芸の潮流に敏感な文学青年やエリート学生などは、部分訳に触発された尾崎のように、原書や英訳書などを直接 我が物として、ロランの世界に入り込んでいったに相違ない。 芥川龍之介もその一人で、当時のアンケートに答えて「この頃読んだ本の中で、「余を最も強く感動せしめたる書」といへば、ジアン・クリストフです。 何でも始めて読んだ時は、途中でやめるのが惜しくつて、大学の講義を聞きに行かなかつた事が、よくありました。」と述べている。(『ジアン・クリストフ』、大正5(1916)年)
 この文を書いた年、芥川は、東大英文科の同級生である久米正雄・菊池寛・松岡譲・成瀬正一とともに、同人誌『新思潮』(第4次)を創刊、創作活動に踏み出した。 当時 彼は、これら仲間のうち特に成瀬と仲が良く、「二人とも、偶然同時に『ジアン・クリストフ』を読み出して、同時にそれに感朊していた」という。(『あの頃の自分の事』、大正7(1918)年)
 この成瀬正一(明治25(1892)年~昭和11(1936)年)は しかし、創作には気乗りがしなくなったようで、やがてグループから脱落していく。 そして、その分 ロマン・ロランへの傾倒をますます深め、ロランとの文通を開始する。 大学卒業後は、4年間の米国留学を経て、第一次大戦中の欧州に渡り、念願のロランとの会見を実現した。 成瀬にとって、自らの世界を創造することよりも、時代を主導する大きな知性に接近し、これと協調することの方が、意義あることであったのであろう。

 「第40号記念」と銘打った この「ロマン・ロラン研究」は、その目玉として、上記・成瀬正一と、成瀬の7年後にロランを訪問した中村星湖(1884~1956)との、二人のロラン訪問記を掲載している。 両方とも 既に他の雑誌などに発表されたものの再掲である。
 ここでの「一部紹介」としては、内容の充実した成瀬の訪問記を掲げることとする。
 この成瀬の文は、送り仮名が独特で、かなり読みにくいが、読み進むにつれ そのクセに慣れていくので(?)、そのままとした。 さらに、当初の校正の不完全さに起因すると思われる不自然な個所が、少なからず存在する。 これについては、明らかな誤りを訂正したが、訂正できなかった個所も多い。



一部紹介




(表紙裏の小文)


 この記念すべき号の表紙のロラン像は ロランの友人フランス・マズレールが1925年に描き、その翌年、ロラン生誕60年記念として発行された「ロマン・ロラン友たちの書」(ゴーリキー、デュアメル、ツヴァイク編集、チューリッヒで発行)を飾るデッサンである。
 その後三十余年、ロラン没してから十余年、めまぐるしい世界の動乱をはさんで ロランのもつ意味は一層の厚みを加えている。
 本号は 1921年 日本人として初めてロランを訪れた、成瀬正一氏と、その7年後 同じオルガ山荘でロランと語った中村星湖氏との 貴重な記録を再録し、ロランの死がその完成をはばんだ「自叙伝のためのノート」と、現代フランスの最も優れた批評家クロード・ロワによるロラン再評価とは、当協会の共同研究の成果である討論とともに、今日におけるロマン・ロラン再検討の意味が自らあきらかとなるであろう。

 1951年11月 この「ロマン・ロラン研究」が創刊された時の構想は、この7年間の試練の中で 様々な拡がりをみせ、毎号毎号がいつも出発点に立っている様な気持ちである。
 先日、北海道の牧場から訪れたロランの友は 10号ずつに製本した「ロマン・ロラン研究」を携えていた。 この自家製本だという 3冊になった「ロマン・ロラン研究」という背文字が美しく輝いていた。
 「40号が出れば、4冊目が製本できるのだがなあ! といつも心待ちにしている」 という便りも昨日届いた。 予定より1ヵ月おくれてしまったが 何とか送り出しえた今、彼の喜びの顔が浮かぶのである。







ロマン・ロオランの印象 ― ロオランの宿 ― 

成瀬 正一     空白



 ロオラン氏をその仮寓に訪れてから もう二年になる。 その風貌に接した瑞西(スイス)の湖畔も亦、今は海山を隔てた遠方の国となつた。 それはもう一廉の昔 欧州の地を旅してゐた時の 古い追憶となつてしまつたのである。
 けれども、時は移て既往となり 処は変て異国となつたけれども、併(しかし) 時あつて、自分の過ぎた国々に想が向ふやうなことがあれば、常に脳裏に浮ぶのは 氏の仮寓に暮らした十日間のことである。
 当時氏は ジユネエブ湖の東岸にあるヴイルヌウヴ(Villeneuve)と云ふ小村に寓居してゐた。 この小村の端れに当て、湖水を前に扣(ひか)え 背に岩山を負ふた形勝の地に オテル・ビロンと云ふ旅舎が建てゐる。 英吉利西の熱情詩人バイロンの名を取つてかく呼ばれたのである。
 この宿を一昨年の夏訪れたのが 最初の会見であつた。 慥(たしか) 七月二十日であつたと思ふ。 予め訪問の約束が出来てゐたので 当日朝ジユネエブを出発して 湖上の客船に身を托した。 ヴイルヌウヴに着いたのは もう漸く薄暮が迫らうとする頃であつた。 宿の男に鞄を持たせて、仄白い村端の路をオテル・ビロンに辿着くと、先 一室を占めてから 直に刺を通じて面会の都合を問合せた。
 ロオラン氏は直に現れて 取次をも俟たず眼前にあつた。 そして何の躊躇もなく 固い握手を交わした。 吾々は互に名乗合はなかつた。 その時私は よく氏が書翰を結ぶ Je vous cordialement la main (心から貴下と握手する)と云ふ言葉を想起した。 吾々の握手は 言葉のとおりに「心から」であつた。 何も云はなかつたが しかもそれで十分であつた。
 氏は長大な軀幹の持主である。 日本人としては勿論、仏蘭西人としても丈が高い方である。 少し痩気味ではあるが 併 決して細い方ではない。 寧ろ確とした岩畳な骨格を備へた 逞しい偉丈夫である。 背中が心持屈てゐるのと相俟て、落着いた そして底力のある 如何にも精力的な感を与へる人である。 併しさうは云ても 力に溢れ無暗に何物かに突かゝらうとしてゐるやうな 攻撃的性質は 何所にも見出すことが出来ない。 氏の相貌は 飽まで統一のある 円満な純仏蘭西人の好典型である。 氏の思想が 強い革命的傾向を持てゐると同時に、その半面 深い思索と博い同情とを兼備してゐるやうに、その風貌も亦 無限の力強さと無限の温さとを併せて湛えてゐるのである。
 されば氏は 遠い目的にばかり眼を着けて徒に大声叱呼する革命上の Chanviniste でもなければ、又「オリムピアの高さに座して」俗人を睥睨してゐる知力者の群にも属しないし、無論又 隠遁と自適のみを貪る思索一方の人でもないのである。 一面には あらゆる心を洞察して自分の心とし、以て人類の帰趨を極め、又 他の一面には、その帰趨に向て一歩一歩と進むで行く 真の意味での向上的人物(Homme qui marche)なのである。
 暫して吾々は 側の椅子に腰を下して相対座した。 この宿まで辿着いた旅程の模様を訊く氏の質問と それに答へる私の話とが重な話題であつた。 その間氏は 巾広い胸の上に両手を組合せて 時々頷きながら 遅々と語る私の言葉に相槌を打つてゐた。 仏蘭西 瑞西の国境を越える時の困難や、巴里の砲撃などに話が移た時 氏は、永く私の消息に接しなかつたので 或は軍事探偵の嫌疑で入牢でもしてゐるのではあるまいかと心配してゐたなぞと云て 微笑しながら、此邂逅を 親近の者にでも会ふかのやうに悦むで呉れた。
 Max Hochstaettcr と云ふ人は 氏のことをかう云つてゐる。
「誰でも一度ロオランに咫尺した人は、その、確乎と視据えた碧い眼と 温さに溢れた低い声とを 忘れることが出来ないであらう…… 会話の初は多少冷で その進行も鈊り勝であるが ジヤン・クリストフの著者は次第にその俤を現して来る。 そして終に吾々は、その著書から受けると同じやうな印象を感ずるに至るのである。 徐に唇を流出る言葉が、その真摯な情熱と的確な理解並に温い同情とを以て、聴く者を全り包むでしまふのである。」
 嘗て読むだ右(上)の言葉は 確に本当であると思ふた。 碧い眼は輝いて 深い眼窩の底に限ない柔しさと、鋭い洞察と直感とを同時に湛てゐる。 年の故であらう、もう瞼に細い皺が小波のやうに寄てゐた。 誰でも対座した人は 心の底から正直にならなくてはゐられないやうな眼差である。 眼がさうであるやうに 声も亦 肺腑から、確乎とした丸味を持て 静に流出て来る。 確に氏は多弁ではない。 従て談話は ともすれば絶え勝である。 さう云ふ時は常に 両脚を重ね手を組合せて、凝乎と眼を一方に据え 話題に上つたことを考へるのが癖である。 それから又 二三短い話をする。 又考へる。 丁度 人が氏に就いて Conversation difficile と云ふとほりである。 併しそれでゐて しかも人に気づまりな心地を起させないのが ロオラン氏の特徴なのである。 何も云はなくても 対座してゐるだけで、統一された丸味のある人格で 人を魅力に包むのが特徴なのである。 氏のやうな人は 体全体で物云ふのが常なのである。
 暫して食事の用意が出来たと云ふので 打連立て食堂へ下りた。 そこで私は ロオラン氏の家族と始めて相識た。 壮年の頃 普仏戦争に奮闘したと云ふ八十二歳の厳父、手を握りながら「貴下を待てゐました」と云た母堂、未婚の妹君マデレンと、それに氏と私の五人が食卓を囲むだ。 厳父は年にも似ず矍鑠たる好老爺で、抜けた歯の間から陽気な大声を出して、頻に自分が出戦した普仏の役や 今の大戦の話をしては独り高笑をしてゐた。 話が日露戦争の方まで飛火した。 その話を聴てゐる中 突然厳父は前の方を向いて腰かけたまゝ一寸頷いて誰かに挨拶した。 誰かと思ふ間もなく Bon soir! と大きな声を出して吾々を驚した。 母堂もロオラン氏も妹も 皆笑た。 皆が笑ふのもかまわずに 彼は俄に声を低めて私の耳に囁いた、―― あれは千八百七十一年に随分吾々を苦めた人です と。 そつと振返て見れば 背後の卓子に、独人の老夫婦が二人食事中であつた。 後で聞けば 何でも既に務を退いた独逸の大将とか云ふことであつた。 厳父が独で食卓の会話を引受けてゐるのに対して 母堂は割合に無口であつた。 年も既に老境にあるためであらう。 腰と背が屈むで 頭の毛も父君よりは白かつたし、眼にも大きな老眼鏡をかけてゐた。 併しそれでも 時々話の合間合間に、私の方を向いて種々旅のことを訊いたり、老人らしい細々とした注意をしてくれた、親切な老婦人である。 既に齢五十を越えたロオラン氏が常に、子供の如く親しむで maman と呼び、寝る時起きた時 必ず側に侍して愛護してゐるのも 誠に尤と頷れるのである。 氏の話によれば、氏をして幼少の時代始て音楽に対する情熱を抱かしめたものは母堂であるし、今でもよい音楽が奏せられよい歌が歌はれる時には 必ず一緒に聴くと云ふことであるから、氏が愛着の情も又更に一しほ深いことであらう。 黒づくめの品のよい装をした母堂も亦、氏を Romain と呼び 少年の如く愛してゐた。 妹君マデレンは 既に四十を過ぎてゐる。 何故婚を結ばないのか知らない。 誰かゞ『ジヤン・クリストフ』のアントワネットの modèle だと云た。 その実否も私は知らない。 が併し 本当にアントワネットに似た人である。 たゞ 本当のアントワネットの方が ―― 若この modèle 問題が本当なら ―― 小説のアントワネットより、遙に理智的アンチレクチユルで、遙に理解と判断とに富んだ婦人である。 食事中も ロオラン氏と芸術上思想上の問題に就て 談話を交してゐた。 私に向ては 日本に関する好奇的な質問を多く掛た。 その中「今自分は仏訳されたアイカイを読むでゐるが、アイカイは日本文学中如何なる種類に属するか」と云ふ質問を受けた。 アイカイとは可笑しいので よく聞いて見れば、俳諧(Haikai)を 仏蘭西式にさう発音してゐるのだと分て 大笑となつた。
 食卓を離れてから 私は氏の書斎へ案内された。 そして そこで夜更まで話をした。
 氏の書斎は決して贅沢でない。 宿の一室をそのまま書斎にしただけで、机とピアノと三四脚の椅子の外、壁間にトルストイ晩年の写真が ゲエテの像と相並むでかかつてゐるのと、ベエトオフエンの一隅に置かれてあるだけで、凡ては何の装飾もない 質素それ自身の室であつた。
 その書斎を 私は 十日間の逗留中 夜となく朝となく度々訪れた。 這入ると直ぐ 無雑作にかけるやうに椅子を指すのが氏の常であつた。 今から考へれば 随分仕事の邪魔にもなつたことであらうと思ふが、その都度 氏は悦むで私を容れてくれた。 私も又それを知らないでもなかつたが、頭の中には 態々日本から海山越えて来たのであるから、少し位は堪忍して呉れるだらうと云ふ虫のよい心を窈(かすか)に抱いてゐたのである。
 氏の芸術観は 多くの人から誤解を受けてゐる。 今迄私が会た人の中にも、ロオラン氏の芸術観がトルストイ翁の糟粕を甞め その後塵を拝するに過ぎないと云ふやうな考を持てゐる人が二三人あつたことを記憶してゐる。 又 ロオラン氏を目して思想家となし、芸術上の鑑賞には眼を具へてゐない門外漢と解する人にも 二三出会たことがある。 これ等は皆 甚しい謬見である。 が併し、氏の活動、特に最近の活動を見ては、かう云ふ誤解が起るのも或は自然のことかも知れない。 ジヤン・クリストフを始め その他の著書を貫く精神、並に 最近その渦中に身を投じて活動してゐる非戦運動の精神と その精神の表現なる数種の著書なぞは、慥にトルストイ的である。 如何にもトルストイとその思想の傾向を同ふしてゐる。 又 純芸術の精神から遠いものに相違ない。 併し此事実は決して 氏が純芸術に関して深い智識と正当な理解鑑賞を持てゐることを 妨げるものではない。 芸術は氏に執て理想郷的天国である。 何時でも氏は 偉大な作品の前に立てばその真精神に到り、純三昧の境地に没入することが出来るのである。 この境地は貴い天国の境地である。 氏もよくそれを知てゐる。 それ故 何を措いてもかう云ふ境地を護らなくてはならない。 さればこそ氏は争ふのである。 かう云ふ人類のため願はしい三昧境を妨げる多くの傾向を 敵として争ふのである。 語を換へて云ふなら、氏の努力の積極的方面は芸術的活動であり、消極的方面はその擁護のための争なのである。 さればロオラン氏はトルストイの如く、芸術を解して愛の方便ともしない、従て又 トルストイとは異た芸術観を抱いてゐるのである。 猶更 氏は芸術に盲目な思想家 社会改良家でもないのである。
 このことは 絵 即芸術品としては、ミケロ・アンゼロより寧ろニコラス・プツサンを愛すると云ふ事実によつて 証することが出来る。 氏は 大体こんなことを云つた。
「本当に優れた絵と云ふものは、アンゼロ自身も云ふ如く、それ自身 統一した完全な有機的絶対性を持てゐる。 その性質を搊ふことなくして 個々の組織要素に分解したり増減することが不能であること 恰も人間の体に等しい、即 それ自身既に完全な統一ある有機性を備へてゐるのである。 それ自身完全と云ふことは 即ち絶対と云ふことに外ならない。」
 茲に於て私は 東洋芸術の真髄と相触れる点があるのに気着いた。 然らば西洋の絵に就て云ふなら どんな作品が芸術として優れてゐるかと云ふ私の質問に答へて 氏は言下に云つた。
「それはプツサンの絵である、プツサンは未だ正当に味はれてゐない。 調子が高いために 人に十分よく感じられないのであらう。 彼の絵は 見る人を誘ふて神韻縹渺の三昧境に到らしめ、ミケロ・アンゼロの作品のやうに、不調和なぎごちない感、、、、、、を起さない。 後者の作は まだ囚はれてゐる処がある。 だから絶対と云ふことは出来ない。 かゝる立場から云へば ミレエなぞもまだプツサンに及ばない。 要するに、泣したり悦ばせたりする絵は 絵として未完成品である」
 こゝでロオラン氏の芸術観の内容を検するのは 処を得たものでないから、不満足ではあるが この位に留めて置かう。 話はそれから進むで三昧境になつた時 氏はゲエテの晩年を引合に出した。
「ゲエテ程豪い人は 古今にあまり類がない。 絶えずあらゆるものに眼を向け、犀利な観察により その真髄に触れ、更にそれを自分のものとして 不断の成長を遂げ、自己の中に一の世界を造たのである」
 かく云ひつゝ氏は 双眼を輝しながら自分の額を指して云た。
「これが un monde であつた」 と。
 その世界モンドの中に ゲエテは晩年を送り、悠々自適、静寂幽雅の中間の万態を見下して 生きてゐたのである。
 それから氏は 隅の書架から独エツケルマンの著したゲエテ伝を取出した。 その書の中には ゲエテの幼年時代から臨終に至るまでの肖像を 年代順に精巧な石版刷で複写してあつた。 順序を追ふて頁を飜してゐる中 私はゲエテの相貌が、老年時代と壮年時代とに依て大差あることに気着いて、その旨語たところ、氏は矢張自分もさう思ふと答へた。 そして、特に十八世紀末は彼の精神生活が最苦しかつた時代であるから、従てその面相も一番深い悲を表してゐると云て 当時の肖像を指示した。 そして微笑しながら云つた。
「豪い人は誰でもかう云ふ時代を過ぎてゐる」
 併し かう云ふ三昧境は 今のロオラン氏の心境では決してない。 勿論 氏自身も云ふ如く、人間と云ふ者は己の人格個性を護り その影を失はぬため、一日に少なくも二三時間位は 自分にだけ属する独り沈思黙考すべき時を必要とするから、ロオラン氏も亦独り退いて遠い理想上の三昧境に心を遊せるには相違ないであらうけれども、併し一旦眼を飜して悲惨な現代の諸相を観る時、誰でも博い同情心に富む者は 特に氏の如く人類の運命を共に感ずる人は、比較的静寂な芸術上の三昧境なぞに立籠り、隠棲を事とし 独り自ら高しとするやうな心境に身を置くことを屑(いさぎよし)としないのが 自然であらう。 このことは 氏が戦前 Colas Breugnon なる小説を書て 印刷も終り既に上梓の運となつた時、急に大戦が勃発した為 その企を中止したと云ふ事実が最よく語つてゐる。 つまり 右 Colas Breugnon は 氏が芸術上には自信がある作品であるけれども、その調子が如何にも華で陽気であるため、悲惨な現代に発行しては道徳上から気が咎めると云ふ訳で、校正刷を筐底に蔵したまゝになつてゐるのである。 されば現在氏は 積極的に自分の仕事に向てゐると云ふより、寧ろ消極的に戦争及それから惹起される諸々の虚偽罪悪欺瞞を攻撃するために働いてゐる。 書物を出版すると云ふより、人間に触易い新聞雑誌に 勇敢大胆な非戦論を率直に載せてゐる。 ジユネエブに発行される Journal de Genève や Demain なぞが氏の活動舞台なのである。 従て氏は 欧州殆ど唯一の中立国なる瑞西を目指して集る 各国の亡命客革命家無政府主義者社会主義者、その他あらゆる種類の Internationalisme を奉ずる人達に囲繞され 訪客に忙殺されてゐる。 かう云ふ周囲に置かれた氏は そんなら幸福かと云ふに決してさうではない。
 氏の思想は 傾向から云へば無論 International である。 併し、然らばあらゆる International な傾向を持た人は全部ロオラン氏と同思想同目的の人かと云ふのに 決してさうではないことは 又自明の理である。 けれども 大多数の人はさう思つてゐる。 各自はかく考へて 氏を勝手に解釈してゐる。 つまり氏は 欲する如く周囲の人に解せられないのである。 其結果 所謂贔屓の引倒となり、各方面から誤解が起ることになる。 幾分思想上の味方と目すべき者に対してさへ然る位であるから、全然傾向を反対にする人達の論難攻撃は 随分激烈ならざるを得ない。 しかもそれ等は大部分 誤解中傷が更に誤解中傷を生むだ結果であつて、拾集釈明の途がないのみならず 益深味へ進むばかりなのである。 結局現在は 咳唾皆誤解の種とならないものはなく 氏自身云ふやうに「何のために物云ふのか殆ど自分にも解らない」のである。
 かう云ふ状態に自分を見出すことは 随分な苦痛に相違ない。 特に氏のやうに真摯な人にとつては その懊悩も又人一倊多いことであらう。 普通の人であつたなら 喪心挫折してしまふところであらう。 苦しいには苦しいが 氏は平然として日課の如く仕事を続けてゐる。
 氏はある時 独人ニコライの著した「戦争の生物的研究」(G.F.Nicolai, Die Biologie des Kriegges, Zürich 1917)の話をして、ニコライは大戦勃発以前皇后の侍医で 伯林大学の教授を兼ねてゐたんであるが、開戦と同時に非戦論を宣伝したため 忽ち囚れて牢獄に投ぜられた。 ところが幸にも彼の原稿が官憲の眼を掠めて瑞西に送られ チユリツヒで出版されて 右の著書となつた。 無論それは 平和論を生物学上から強調したものであるが、次第に渇仰者を増し 独逸本国へも入込み、――独人の某飛行将校が、飛行機に乗じて牢獄に至り、ニコライを拉して同乗せしめ、中立国 丁抹(デンマーク)の安全地へ連れて行たと云ふことである。 著者は、人間が元来 団体的生活を営むべき動物であつて、同時に、個々の人間を打て一丸とした人類と云ふ一大集団は 従て一の有機体であるから、現在のやうに人類の一部分が他部分と争闘を事とするのは、人間の本性に反し 自滅を招く路なる所以を 生物学の立場から説明したのである。 約言すれば 今迄科学者が架空の言として振向かなかつた 所謂四海同胞主義に科学的根拠を与へたのである。
 ニコライの此の著書は氏に多大な感銘を与へたと見え、終に雑誌 Demain に Un grand Europèen なる題目の下にその梗概を叙述紹介し 極力激賞の言葉を浴せてゐる。 暫くその話をした後 ロオラン氏は云つた。
「戦争が 始は個人間、次で家族間 村と村 国と国 となつた経路を見れば、今のやうに国と国とが争ふのは 決して必然の状態ではない。 それは慥に人類発達の階段上にあるもので、未来幾年かの後には 東西両半球が相争ふやうになることも可能である…」
 この時代(ママ)は、嘗て私が将来欧州に再来する機会があるだらうと云つたのを想起したのか、微笑しながら付加へた。
「軍隊に従て来てはいけない」と。
「… さう云ふ訳であるから、更に考を馳せれば、終には地球の人類が一致協力して 自然界に対して戦ふことも不可能とは云へない。 ニコライの云ふ如くに、米国の科学者ラウエルは、地球上の人類より遙に進むだ階段にある火星に水気が欠乏してゐるため、今は大機械を宇宙から水気を吸う寄せて生活してゐるから(ママ)、従て始め盛であつた争闘は 火星の人類間に消滅してしまつたと云ふことを説いてゐる。 つまり各人が協力せねば生活が得られなくなつたからである」
 氏はこれだけでも分るやうに熱烈な理想家である。 しかも自分の信ずる理想の前には 決して孤疑逡巡しないし、且そのために全身の努力を捧げる奮闘家である。 ただ世間の所謂理想家と異ふところは、氏が自ら理想として抱く境地をよく識り、、、、、自分の理想に関して明確な観念、、、、、を持つてゐることである。 模糊として正体の明でない感情的「理想家」でない点に 氏の豪さがある。
 されば 氏が争ふこと激しいのは又自然である。 今回の戦争に限らず 氏は元家奮闘家である。 未(いまだ)若かつた時 同志を糾合し文芸雑誌 Cahiere de la Quinzaine を発行してゐた時の話なぞは その好例である。 同人の中には 後名声を挙げた人が沢山あつた。 ロオラン初め 今度の大戦に死むだシヤルル・ペギイ、詩人アンドレイ・スユアレス等が重な人達であつた。 この雑誌で 氏の多くの作は発表せられたのである。 ジヤン・クリストフ、ベエトフエン、ミケロ・アンゼロ等は皆さうである。 一万法(フラン)の資本で 同人は皆熱心に働いた。 誰も一文のの報酬も獲ることなく ひたすらに努めた。 併し読者は一向になかつた。 当時の編輯はペギイの役であつた。 相談の結果 巴里ソルボンヌの側に小さな一室を借り、其室を三分して 二を又貸とし、三分の一の隅に編輯の机を据えて事務を取た。 金がないため ペギイはそこからパツシイの印刷所まで、雪の朝でも徒歩で通ひ、未明の頃よく校正を手にして氏の扉を叩き 相共に働いたと云ふ事である。 しかも雑誌は売れず 巴里には読者がなかつたが、時を経るに従ふて 印度支那亜米利加から先注文が来たと云ふ話である。 爾後幾多の版を重ねた名編大作は皆 かう云ふ時期を経て来たのである。
 それ故 氏は 現代欧州の諸大家の作の如く、既に一定の型に嵌たものに対しては あまり同情を持たない。
「欧州の科学芸術は皆過去の焼直で、今まであつたものを新しい形に見せるばかりであるが、露西亜の芸術哲学は悉く独創的で 深い興味がある。」
 かく云て氏は 露西亜の文物を推讃した。 ロオラン氏の露西亜熱愛は 可成強いらしい。 特に革命後は そのやうに見受られる。 嘗て発表された Salut à la Revolution russe は 此消息を明にしてゐる。 従て其交友も露人に多い。 今 瑞西に滞在中のパウル・ビルコフ、それからニコラス・ルウバキン・サドヴァ(原文は「ワ」に濁点。なお、次の「夫人」は「夫妻」と思われる)夫人なぞは 皆親友である。 後の二人は 私も氏のもとで面会し 卓を共にしたが、何れも代表的露西亜人の性格を備へた 敬すべき人であつた。 ルウバキンは髯だらけの肥た好老爺で 「科学としての文芸」を研究してゐると云ふことである。 訪問すれば何時でもその話をすると云てくれたが 遂にその機を得なかつた。 サドヴァ夫人は 瞳の黒い亜細亜人のやうに短身な婦人で、在瑞西露西亜捕虜のために、ロオラン氏の著作を飜訳してゐる相である。 二人が辞去した後 氏その人為(ひととなり)を讃めて、又も談 露西亜に及むだ時、次第に沈むで 語調が段々反抗的憤慨的となつた。
 明に氏は ロシアに於ける人類上の不幸を想ふてゐるのである。 確り眼を空間の一方に据えて、時々憫笑するやうに、「ふんふん」と云ふ声を交へながら、恰(あたかも)独白する如く語続けた。 その語るところは 多く革命とそれに伴ふ民衆の苦痛並に外国の圧迫とであつた。 終に昂奮した氏は 歯がみしながら 大きな拳を握て叫むだ。
  Ce peuple qui a perdu millions d'hommes dans lagueere, ……
 ― et puis la rèvolution, maladie d'èpidèmie, Cholerra ……
 その有様は 前に人がゐるのを知らないかの如くであつた。 氏は 話が露西亜のことになると 常に懊悩に堪へられなくなるのである。

 朝夕仕事に没頭し 訪客に接してゐるロオラン氏は あまり時間に余裕がない。 従てこれと云ふ特種の趣味道楽も持てゐない。 たゞ日課のやうに 毎日午後二三時間宛野外を逊遥するだけである。 宿の裏に丁度適当な草原がある。 そこは宿から地続の広い野原で、側に聳えた高山の麓が なだらかな傾斜をなしながら平地となり、緑草が野を掩ひ 古木の林が茂り 枝が低く地上を葡ふた 愛すべき草原である。 樹蔭に二三脚の椅子と小卓子を据えてある。 そこへ父君を除いた氏の家庭は 車座になつて集まり、編物をしたり書を繙いたり 客を交へて歓談するのである。 これが氏一日の安息時間なのである。 父君がこの一座に加らないのは、常に散歩して不在なためである。
 私も滞在十日間 殆ど毎日午後をこの草原に過した。 氏等の求に応じて日本詩歌の話をしたり、時には又 識てゐる歌俳句の類を誦したりした。 ロオラン氏も、背の屈まつた母君も、草に座した妹君も 編物の手を息めて皆一心に聞入た。 歌の意味は無論分らないが、音律的効果を聞くためと云ふことであつた。 が併し 大抵氏は母君と無邪気な話をして 日没に及ぶのが常であつた。 その他 携へた麺麭を挘(むしっ)て小鳥を飼(やしな)ふこともあつた。 野の小鳥はよく人に馴れて 麺麭を与えれば首をかしげながら足許まで来て 一々啄むのである。 あまり馴れてゐるので最初は不思議に思はれたが 毎日同じことをしてゐる中さうなつたとのことである。 さう云ふ時代は子供の如く楽むで、餌をやりながら一々鳥の名を教へてくれるのが常であつた。 母君は毎朝麺麭を残して窓枠に載せて置く中、段々鳥が馴れて、今はもう室内の椅子にでも机にでも 翅を休めるさうである。 時にはパナマ帽に太い杖を振舞はしながら 屢々氏は私を漫歩に誘ふ。 散歩中あまり話をしたことがない。 たゞ杖をあげて 時々眼に移る四辺の風物に就て 二三短い話を交すだけであつた。 私も亦 大股の歩調に足を合せながら 黙々として従いて行くばかりなのである。 この散歩癖を 氏は親から受けたのではあるまいかと思ふ程 父君は歩くのが好である。 樹下の一座に加らないのも そのためであらう。 と同じく太い杖をさげて、野となく山となく村となく、朝から晩までたゞ一人歩きつゞけて 食事の時間以外宿へ帰へらないのを見ては、これが八十二歳の老人かと怪しまれる位である。 野原で親子が出会ふことがあれば、先ロオラン氏が遠方から例の太い杖を高くあげて、「ホオイ」と叫びながら 大声で呼びかけるのが常である。 三人になつて歩いても 氏は矢張無口のまゝで、何時も父君一人が私を捕へて 例の普仏戦争の得意話を聞かせるのである。 かう云ふ所から考へても 氏は、父君より寧ろ母君との間が親しさうに思はれる。

 愈々明日 ヴイルヌウヴを去ると云ふ日の夕 又もその書斎に氏を訪ふた。 そして夜更までその話を聴いた。 僅十日を同じ宿に暮らしたに過ぎないが、しかも袂を分つに及んでは、更の如く去難い思が胸に迫て 奈何ともすることが出来なかつた。 室を辞する時 氏は堅く手を握て、「帰国の途次 亜米利加を通たら 紐育の人達に宜しく伝へるやうに」頼むで、更に力をこめて Travaillez bien と云つた。
 氏は、「人間がよくもかう親切であり得る」と怪める程 親切周到な人である。 それは強ち 異国の独旅を温い親切に浴したための感ばかりとは云へない。 「態々瑞西まで来たのだから」と云て、見物すべき名勝風景や訪問すべき人々(その中にはカアル・シユピツテレルやパウル・ビルコフ、ヘルマン・ヘッセなぞもあつた)を一々あげて、猶 私が忘れぬため、道順旅程を表にしてくれ、紹介状と併せて渡されたし、又、悪性の感冒が流行してゐるからと云て その予防法を薬の処方に添へて与へられた。 のみならず 飽くまで周到なロウラン氏は 感冒流行地の名を一々書記して、その地を避けて通るやうに注意してくれた。 そして記念のためとあつて 氏自身の原稿に署名して贈られた。
 八月四日 終に氏と訣別の辞を交した。 その朝 氏は突然私の室を訪れて 五六枚の日本製絵葉書を示した。 見れば 松島の風景を写した一揃である。 これはと訊けば、「名は忘れたが 日本からある、未知の友」が熱誠の手紙と共に送つて来た と云ふことである。 そのことを十日も黙てゐる位 ロオラン氏は無口なのである。
 松島の話をしながら 相共に連立て停車場へ向た。 無理に氏は私の鞄を提げてくれた。 村人は皆 氏に挨拶した。 氏も会釈して その都度、ボンジユウルを繰返した。 私も亦 一々軽く目礼をかへした。 その中 一人荷を負た老年の漁夫が、挨拶と同時に何か氏に云ひかけながら 荷を下して中を見せた。 氏が手招するまゝに覗くと、四尺位もある大魚が生きたまゝ這入てゐた。 今湖水で漁れたばかりと云ひながら 老漁夫は二人を顧て得意気であつた。 誰でもロオラン氏を知てゐるのであらう。 最後まで親切な氏は 駅長とも会釈を交換しながら、私の行先を云て 気を注けるやうに頼むでくれた。
 Bonne sant'e, bon courage と 氏は大きな声で叫むだ。 そして汽車が見えなくなるまで 例の杖を高く振てゐた。

(中央文学 大正十年二月号所載)





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