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表紙



目 次


 自 序
 例 言
 総説 現代文学の大勢及び進歩
    ( 一) 明治時代に於ける文芸発達の由来
    ( 二) 明治文学に対する西鶴の影響
    ( 三) 明治文学に対する芭蕉・近松の影響
    ( 四) 文芸的進歩の五原因と欧米文化
    ( 五) 日本国民の文化的飛躍
    ( 六) 頻出せる文壇の人材
    ( 七) 文芸的進歩の四期
    ( 八) 第一期の後半に於ける文学
    ( 九) 第二期に於ける文芸
    (一〇) 第三期に於ける文芸
    (一一) 第四期の時代に於ける文芸
    (一二) 劇界の新運動

 第一期 旧套墨守時代
  第一章 英米功利思想の流入と啓蒙運動
    ( 一) 大変革の時代
    ( 二) 英米功利思想の流入
    ( 三) 福沢諭吉の文明観
    ( 四) 福沢の啓蒙的・改造的運動
    ( 五) 福沢の文学方面に於ける功績
    ( 六) 中村敬宇の『西国立志編』
    ( 七) 当時の教育と新学術
    ( 八) 新聞雑誌の啓蒙的勢力
    ( 九) 新文化開拓に貢献した『明六雑誌』

  第二章 旧套を離れざる文学
    ( 一) 仮名垣魯文の戯作と新聞小説
    ( 二) 劇壇に於ける河竹黙阿弥
    ( 三) 悪の詩人としての黙阿弥
    ( 四) 黙阿弥の劇的技巧と其の強味
    ( 五) 黙阿弥の短所
    ( 六) 黙阿弥の代表的作品
    ( 七) 『東京繁盛記』其他

  第三章 翻訳文学と政治小説の流行
    ( 一) 政治思想の勃興と英仏独の思想
    ( 二) 翻訳文学種類及び文体
    ( 三) 翻訳文学の効果
    ( 四) 政治小説の作者と技巧
    ( 五) 当時の青年と文学
    ( 六) 劇界革新の微光
    ( 七) 美術界と欧化的風潮

 第二期 新文学発生時代
  第一章 当時の思想及び文学の概勢
    ( 一) 欧米文学思潮と国粋的思潮
    ( 二) 当時の社会思潮と文化
    ( 三) 欧米文学とキリスト教思潮の勢力
    ( 四) 新島襄のキリスト教宣伝

  第二章 新文学の黎明
    ( 一) 坪内逍遥の『小説神髄』
    ( 二) 新文学の模型としての『書生気質』と写実主義
    ( 三) ロシヤ文学と『浮雲』を書いた二葉亭
    ( 四) 『浮雲』を書くについての苦心
    ( 五) 『浮雲』の新着想と新描写
    ( 六) 『浮雲』の欠点と特長

  第三章 徳富蘇峰を中心とした民友社
    ( 一) 『国民之友』の文学的勢力
    ( 二) 評論家としての先駆者桜痴と兆民
    ( 三) 当時続出した雑誌
    ( 四) 文学評論の創始時代
    ( 五) 蘇峰が創始した人物評論と政治記事の文学化
    ( 六) 民友社の人々

  第四章 尾崎紅葉を中心とした硯友社
    ( 一) 言文一致の創始者山田美妙
    ( 二) 美妙の『夏木立』と『胡蝶』
    ( 三) 紅葉の出世作『色懺悔』
    ( 四) 紅葉の人物と優れた芸術的気稟
    ( 五) 紅葉の『新色懺悔』と『二人女房』
    ( 六) 紅葉の文学に於ける一進歩
    ( 七) 『三人妻』の文章及び内容
    ( 八) 硯友社同人の文壇的活動

  第五章 紅葉に対峙した幸田露伴
    ( 一) 詩人としての露伴と其の作品の特質
    ( 二) 出世作『風流仏』の思想・文章
    ( 三) 芸術家気質を描いた『一口剣』
    ( 四) 代表作としての『五重塔』と佳作『血紅星』
    ( 五) 『五重塔』の名文章
    ( 六) 『五重塔』の欠点及び其の他の作品

  第六章 評論壇に於ける逍遥と鴎外
    ( 一) 文芸評論の先覚者
    ( 二) 談理を好んだ鴎外
    ( 三) 『没理想論』についての論戦
    ( 四) 鴎外が逍遥の説に対する論難
    ( 五) 談理と記実との問題
    ( 六) 評論界に於ける緑雨
    ( 七) 評論家にとしての北村透谷

  第七章 硯友社以外の作家及び作品
    ( 一) 逍遥の『細君』及び『一円紙幣の履歴ばなし』
    ( 二) 鴎外の処女作『舞姫』
    ( 三) 鴎外の『文つかひ』
    ( 四) 小説家としての緑雨と篁村
    ( 五) 関西文壇の人々

  第八章 伝奇小説・探偵小説及び歴史小説
    ( 一) 行詰つた写実小説に対する新要求
    ( 二) 伝奇小説の代表的作品
    ( 三) 探偵小説の流行
    ( 四) 探偵小説に対する非難
    ( 五) 文壇に於ける歴史熱
    ( 六) 文学と史伝の調和
    ( 七) 歴史文学と伝記文学の価値
    ( 八) 歴史小説の出現と其の作家
    ( 五) 当時の文芸批評と作家に対する要望

  第九章 翻訳文学の曙光
    ( 一) 最初に出た芸術的翻訳
    ( 二) 二葉亭の『あひゞき』と『めぐりあひ』
    ( 三) 思軒の漢文調と鴎外の国文調
    ( 四) 鴎外の『水沫集』と翻訳小説
    ( 五) 内田不知庵の『罪と罰』
    ( 六) 逍遥の『マクベス評注』

  第十章 新体詩・戯曲及び国文
    ( 一) 『新体詩抄』と初期の詩壇
    ( 二) 哀世詩人としての北村透谷
    ( 三) 劇文学開拓と学海・桜痴
    ( 四) 新しい有意義な演劇論
    ( 五) 逍遥の新史劇についての意見

  第十一章 文化思潮の特相と美術及び演劇
    ( 一) 文明批評の先駆者大西操山
    ( 二) 哲学の民衆化傾向
    ( 三) キリスト教の発展と仏教の復活
    ( 四) 此の期の劇界と新旧勢力
    ( 五) 日本画の勃興と雅邦・芳崖
    ( 六) 青年絵画協会と明治美術会

 第三期 ロマンチシズムの時代
  第一章 思想界の大勢
    ( 一) 日清戦争に対する文化的考察
    ( 二) 日本主義の提唱と其の意義
    ( 三) 日本主義の長所及び欠点
    ( 四) 世界主義及び帝国主義の提唱
    ( 五) 現実的傾向と道徳・倫理の研究
    ( 六) 樗牛の個人主義・天才主義・本能満足説
    ( 七) 哲学宗教熱の沸騰
    ( 八) 綱島梁川の宗教思想
    ( 九) 社会主義思潮の発生

  第二章 文壇の新機運が生んだ新しい小説
    ( 一) 戦勝と文学
    ( 二) 文壇に於ける党閥と新人
    ( 三) 観念小説の先駆者泉鏡花
    ( 四) 川上眉山の新傾向
    ( 五) 広津柳浪の深刻小説・悲惨小説
    ( 六) 柳浪の代表作と心裡描写

  第三章 群起した文壇の新人
    ( 一) 人としての樋口一葉
    ( 二) 生活を芸術化した一葉
    ( 三) 一葉の文学的進路と描写の特長
    ( 四) 一葉の代表作『たけくらべ』の芸術味
    ( 五) 新進小説家としての宙外・抱月・天外・風葉
    ( 六) 風葉の出世作『恋慕流し』

  第四章 社会小説・家庭小説の出現
    ( 一) 文壇に於ける社会的風潮
    ( 二) 内田魯庵の社会小説
    ( 三) 最初の家庭小説『不如帰』を書いた蘆花
    ( 四) 田山花袋の新進作家時代

  第五章 新進作家に対峙した紅葉・露伴
    ( 一) 紅葉等に対する非難と嘲罵
    ( 二) 「小説の米の飯」と自称した『多情多恨』
    ( 三) 『多情多恨』に於ける巧妙な描写
    ( 四) 芸術上の時代的要求を輳合化した『金色夜叉』
    ( 五) 露伴の大作『風流微塵蔵』
    ( 六) 『新浦島』の思想及び技巧
    ( 七) クラシックの味が深い『二日物語』
    ( 八) 水蔭・美妙・小波らの文学的収穫

  第六章 後半期の小説と少壮作家
    ( 一) 鏡花の作品に現はれた神秘的傾向
    ( 二) 此の期に於ける蘆花・春雨・秋声・春葉
    ( 三) 天外が踏み出した新しい第一歩
    ( 四) 風葉の芸術的得失
    ( 五) 小説の新傾向に志した人々
    ( 六) 『水彩画家』を書いた島崎藤村
    ( 七) 『地獄の花』を書いた荷風

  第七章 此の期に於ける戯曲・翻訳・雑筆
    ( 一) 新史劇の先駆となつた『桐一葉』
    ( 二) 逍遥の三部曲の最初に出た『牧の方』
    ( 三) 鴎外の『両浦島』と『日蓮上人辻説法』
    ( 四) 劇壇と文壇の接触
    ( 五) 二葉亭の名訳『片恋』と『うき草』
    ( 六) 鴎外の『即興詩人』と上田柳村の南欧文学の紹介
    ( 七) 写生文・美文・紀行文・随筆

  第八章 此の期に於ける新体詩
    ( 一) 擬古派の少壮詩人
    ( 二) 鉄幹と子規
    ( 三) 新体詩界の黎明
    ( 四) 藤村が開拓した詩境
    ( 五) 冥想詩人としての晩翠
    ( 六) 泣菫と有明の詩人的特質
    ( 七) 史詩の流行

  第九章 短歌及び俳句の革新運動
    ( 一) 直文・鉄幹の短歌革新運動
    ( 二) 『乱れ髪』の女詩人
    ( 三) 竹の里人の一派
    ( 四) 正岡子規の俳句革新運動
    ( 五) 子規及び其の周囲の人々

  第十章 文芸評論の勃興及び演劇・美術
    ( 一) 新評論家の輩出
    ( 二) 文壇に於ける美学研究の傾向
    ( 三) ニイチエについての論戦
    ( 四) 樗牛の美的生活説
    ( 五) 文壇に於ける現実生活の問題
    ( 六) 梁川の思想と文壇的交渉
    ( 七) 文芸評論の勢力
    ( 八) 劇界の新現象
    ( 九) 美術界の新現象

 第四期 自然主義時代
  第一章 自然主義文学の本質と背景
    ( 一) 自然主義文学とは何ぞ
    ( 二) 外国文学の影響
    ( 三) 日露戦争の勝利と一種の悲哀感
    ( 四) 自然主義の描写に至る過程と日本的特質
    ( 五) 自然主義時代に於ける文壇の概勢

  第二章 自然主義理論の成長
    ( 一) 評論家の輩出
    ( 二) 新興ゾライズム
    ( 三) 『露骨なる描写』と『神秘的半獣主義』
    ( 四) 突進時代の評論
    ( 五) 自然主義の支持者
    ( 六) 批判時代の評論
    ( 七) 理論と作品との分離

  第三章 作家及び作品を中心に
    ( 一) 既成作家と新進作家
    ( 二) 『破戒』を出発点とした藤村
    ( 三) 花袋の転向
    ( 四) ロマンチツクな自然主義者独歩
    ( 五) 人生派の代表者德田秋声
    ( 六) 四迷・泡鳴・風葉諸家の作品
    ( 七) 白鳥・青果の進出
    ( 八) 其の他の新進作家群
    ( 九) 『寄生木』と『土』の作者

  第四章 詩歌俳句等に及んだ自然主義の影響
    ( 一) 象徴詩の時代
    ( 二) 口語詩の出現
    ( 三) 新傾向を求めた俳句
    ( 四) 短歌と現実生活
    ( 五) 歌壇に於ける新しき人々
    ( 六) 啄木の自然主義時代
    ( 七) 啄木の理想主義時代
    ( 八) 自然主義が戯曲に及ぼした影響

  第五章 自然主義の分化及び功罪
    ( 一) 破壊に終つた自然主義
    ( 二) 自然主義の欠陥と帰着点の考察
    ( 三) 筆禍を受けた作品
    ( 四) 『火の柱』に現はれたキリスト教的社会主義

  第六章 余裕派文学の主張と製作
    ( 一) 文芸革新会と反自然主義理論
    ( 二) 夏目漱石の自然主義観
    ( 三) 漱石の余裕派文学論
    ( 四) 『猫』から『彼岸過迄』の瞥見
    ( 五) 漱石門下の人々と高浜虚子
    ( 六) 森鴎外の高踏的態度
    ( 七) 鴎外の『青年』と『雁』

  第七章 享楽派及び白樺派の作品
    ( 一) 文壇の新気流
    ( 二) 潤一郎とマソヒズム的傾向
    ( 三) 『悪魔』と『羹』
    ( 四) 荷風の初期に示した傾向
    ( 五) 荷風の後期に示した傾向
    ( 六) 薫・幹彦・未明の諸作
    ( 七) 白樺派の代表者武者小路実篤
    ( 八) 白樺派の人々
    ( 九) 戦争文学の一瞥
    (一〇) 結語

  第八章 明治末期の演劇及び美術
    ( 一) 歌舞伎劇の動揺と新気運
    ( 二) 文芸協会が進んだ道
    ( 三) 自由劇場の新運動
    ( 四) 文展の創設と画家の争覇

 明治文学年表


高須芳次郎 「明治文学史論」

 昭和9 (1934) 年10月、 日本評論社。
 縦 23cm、横 15cm、紙装、本文 551頁。


 著者・高須芳次郎 (明治13(1880)~昭和23(1948)、号:梅渓) は、文芸評論家、水戸学研究者。
 高須は、はじめ 出身地・大阪で組織した青年文学会における活動を経て、明治31(1889)年 上京、文芸誌『新声』の編集に携わり、文芸評論を中心とする広範囲の執筆活動を展開。 後掲の「自序」・「例言」で述べているように、文壇に多くの知友を得たようである。
 本書の巻末に付された「明治文学年表」には、二十九年の条(『新声』の編集)、四十年の条(『我散文詩』)、四十五年の条(『平家の人々』)に、高須自身の活動記事や作品名が掲出されている。

 本書「明治文学史論」は、自らも参画した この明治文学の潮流を、体系的(時期的特徴、分野別)に整理して、論述したものである。
 時期的特徴については、「旧套墨守時代」、「新文学発生時代」、「ロマンチシズム時代(写実主義的過渡時代)」、「自然主義時代」の4期に分かち、具体的な人・活動・作品が論じられている。 変化に富んだ 複雑な様相などが、かなり的確に整理されているように思われる。

 全編 きめ細かな叙述で満たされているため、「本文の一部紹介」としては、明快で まとまりがあり、かつ 独自の見解が見られる箇所を拾い上げて、示すこととする。 (右側の目次と対照すれば、これらがいかに断片的なものにすぎないかが、見てとれるであろう。)



本文の一部紹介





自 序


 昨今、明治文学の研究は、加速度的に旺(さか)んになりゆきつゝあるが、一部の詩歌史などを除くと 全般に亘つたものとして比較的に詳しい叙述をしたものを未だ見ない。 本書は、聊(いささ)か以上の点に力を注ぐつもりで、著者が嘗て明治の文壇人の多くと直接、会つた経験やいろいろ親しく見たところを土台として、組織的に明治文学の全貌を伝へようとした一つの試作である。
 本書では、在来、余り注意されなかつた方面にも、力めて眼を注ぎ、当時、価値を認められなかつたが 現在、意義を有すると云つたやうな作品に 新しい一瞥を加へてゐる。 それに 自然主義時代については、紙数の許す限り 成るべく詳述し、その欠陥、長所、帰着点等を考察すると同時に 反自然主義運動をも、公平に見わたして、その代表的な説は、これを紹介することを惜しまなかつた。 それらは 在来のものにくらべて 少しく新味を加へ得たかと思ふ。
 明治時代の文学は、これを研究すれば、するほど、新しい味が出てくる。 また 資料の発見、考察の多様、その他、いろいろ教へられるところの多い新収穫にも、絶えず、接してゐる。 従つて、完全なものを仮に作りあげたと思つても、後になると、尚ほ付加せねばならぬものを見出す場合が少くない。 本書を書くについて、私は左様したことを痛切に感ずる。 が、私としては、嘗て公にした『近代文芸史論』に於ける明治文学についての叙述、評論が割合に詳しいので、今は、それを土台とし、或は添削したり、修正したりする事とした。 そして同書には、自然主義時代が全く書いてないので、之は全部新しく起稿したのである。 従つて、いくらか在来のものよりも、発見し得たところ、発明し得たところが あらうかと思ふ。 この点、大方の示教を仰ぎたい。
 それから 明治文学研究については、嘗て前日本評論社長で、もう故人となられた茅原茂氏の奨励をうけたのであるが、今度、本書出版について、現日本評論社長 鈴木利貞氏の厚情を受けたことを 茲に衷心感謝する。 尚ほ 本書の「自然主義時代」に関して、材料調査に尽力してくれられた文学士 渡辺竹二郎君の労を謝する。
    昭和九年十月
                            高須芳次郎





例 言

(一)
 本書においては、政治小説を在来よりも少しく高く評価して置いた。 これは、昭和維新の声高く、新しい政治小説が要求されている今日、も一度見直すべき必要があらうと思ふからである。
(二)
 本書においては、文学と密接の関係ある演劇、美術のことを 各時期に亘つて、略述して置いた。 それは、当時の情勢を概観するに便利だからである。
(三)
 在来の明治文学史は兎角、創作(小説戯曲)本位に傾いてゐるが、本書では、文芸評論について可なり注意を払ひ、自然主義時代の如きは、ひとり自然主義派の評論のみに留らず、反自然主義派の評論をも力めて紹介し、叙論した。 殊に 漱石、鴎外が自然主義に対する態度については、聊(いささ)か新しい発見をも付加したつもりである。
(四)
 日露戦後に出た戦争文学は、量において相当あつたが、在来、閑却されてゐた。 本書では、その代表的なものについて論述、批評した。
(五)
 自然主義時代に於て、筆禍を得た作品が割合に多い。 本書では、その一端に触れ、その意味についても亦 聊か触れて置いた。
(六)
 既に故人となつた文学者については 大体、小伝を付することとした。 それは、何かの便宜になると信じたからである。
(七)
 私は 明治の文壇人には、多くの知己を有し、日清戦争時代からの文学運動の種々相をも親しく見て来たので 左様した時代の空気を割合によく知つてゐるつもりである。 従つて左様した文壇的知識が、おのづから本書の一特色を為すべく、多少役立つたであらうことを信ずる。





総説 (七)  文芸的進歩の四期


 明治時代における文学の進歩は、前後連絡して、有機的関係を保つて居るが、其の進歩の経路を明かにするには、勢ひ或る区画を仮定せねばならぬ。 それで、私は 明治初年からその末年に至る迄の文学進歩を 四期に分つて説明しようと思ふ。 其の第一期は、明治初年から十八九年迄である。 第二期は、十八、九年から日清戦争前後迄である。 第三期は、日清戦争前後から日露戦争前後迄である。 第四期は、日露戦争前後から明治末年頃迄である。 此の区画が当を得て居るかどうか、勿論、見る人によつて、多少の相違がないとは云へないけれども 小説、評論を中心として、文壇に於ける主潮の変化に力点を付するとすると、此の区画が比較的に妥当を得て居るやうに思はれる。
 それで、右(上)のうち、第一期は旧套墨守時代である。 第二期は新文学発生の時代である。 第三期は写実主義的過渡時代若しくはロマンチシズムの時代である。 第四(ママ)は自然主義の時代である。 此の区画は、文学のすべてに亘つて、当てはめ得ないかも知れないけれども、大体、評論でも、小説でも、戯曲でも、長詩、短歌、俳句でも、略ぼ文学界の思潮と相触れる関係から脱出しない以上は、大抵、当てはまらう。 私は、評論と小説とに重きを置いて、右のやうな区画を立てたのであるから、時には、俳句、短歌などの方に、当てはまらないこともあるだらう。 が、それは、複雑な現代文学の進歩的経路を明かにする上から、自然、止むを得ないのである。
  … 





総説 (九)  第二期に於ける文芸


 第二期(十八年前後から日清戦争前後迄)に入ると、明治文学は、始めて其の出発点を見出し得た時代となるのである。 それは、坪内逍遙が、明治十八年四月に『小説神髄』を出して、馬琴以来行はれて来た勧懲主義を小説界から一掃して、写実主義を唱へたのに始まるのである。 当時 欧化思想が日本の上下を風靡して、何事も舶来を尊重した時勢であつたところから、文学も亦 欧化的風潮の中に捲き込まれ始めた。 そして 何等か新しい文学を要求しつゝあつた世間、何等か新工夫を出さうとしつゝあつた若い文学志望者の群は 『小説神髄』を読んで、始めて小説の原理、意義及び創作の方針を知つた。 それに続いて逍遥が『書生気質』を出して、新しい小説の模型を示したので、若き人々は 始めて文学上の自覚を喚び醒まされた。 爾来、小説作家は何れも『小説神髄』と『書生気質』の影響の下に、乃至は欧化的風尚の下に 創作することになつた。 其の第一に出たのは、長谷川二葉亭の『浮雲』であつた。 この『浮雲』こそ、逍遥の小説に対する理論を略ぼ具体化した傑作であつた。 それに続いて 文学雑誌『我楽多文庫』や、女学雑誌『以良都女』などが出た。 『我楽多文庫』は、硯友社同人の機関誌で 『以良都女』は山田美妙が主宰して居たのであつた。
 此の期に入つて、小説界の新興気運に乗り出したのは、硯友社の人々で、それに対したのは、早稲田派、文学界一派、民友社の人々らであつた。 個人としては 幸田露伴、内田不知庵、斎藤緑雨、長谷川二葉亭、森鴎外、森田思軒、山田美妙らが 一方に雄視して居た。 だが、小説界の一半は、殆ど硯友社同人の手に帰した観があつた。 硯友社の首領は、尾崎紅葉で、彼れは、最初、山田美妙と提携したのだが、中途で手を分つて、ひとり、同人中の牛耳を執つた。 其の同人には、川上眉山、広津柳浪、巌谷小波、江見水蔭、石橋思案らが居た。
 紅葉は、最初、山田美妙と対立し、後、幸田露伴と対立して、小説界の覇を争つた。 紅葉の出世作は 『新著百種』に出した『色懺悔』であつた。 美妙は、紅葉に先立つて 短編集『夏木立』を出し、続いて『国民之友』に『胡蝶』を出した。 露伴は、紅葉と前後して『都の花』に『露団々』を出した。 此の三人が 文壇の新人として、新しい小説界の暁鐘に促されて現はれたのは、当時の鉅観だつた。 紅葉は、艶麗な着想と文致を以て、美妙は斬新な結構と文体とを以て、露伴は高邁な思想と熱気ある文章とを以て、相対峙した。
 ところが、美妙は、途中、落伊してしまつた。 結局、紅葉対露伴の時代が来た。 二人は、自然、競争の形となつたが、彼我共に西鶴の文致に共鳴して、新しい雅俗折衷の文体を始めたのは同じだつたが、思想、傾向は、全くちがつて居た。 紅葉は その小主観から出た色欲の世界、恋愛の世界を描くに力めたが、露伴は 仏教思想から流れ出た意志の世界、狂熱の世界を描くことに力めた。 紅葉が 『伽羅枕』『二人女房』などを出すと、露伴は 『五重塔』『風流仏』などを出して、一歩も譲らなかつた。
  … 





第一期 第三章 (三)  翻訳文学の効果


 雑種の方には、文学上から見て 相当の価値があるものが比較的に多かつた。 井上勤が訳した『全世界一大奇書』の原本は『アラビアンナイト』で、片山平三郎の『鵞瓈逍回島記』は『ガリバアス・ツラベル』を訳したのであつた。 また『狐の裁判』は、ゲエテの作品を訳したものだつた。 それ等のなかに、特に見るべきものは、坪内逍遙の『該撒奇譚』で、これは、シエエクスピヤの『シイザア』を訳したものだつた。
 其の他、兆民の『維氏美学』は、鴎外の『審美綱領』の出る前に於ける 唯一の美学書で、原著者は、ユウジエエヌ・ペロンであつた。 此の書は、外山ゝ山等の『新体詩抄』と共に、後の新文学興隆の上に資したところが少くなかつた。
 科学小説は、単に当時の読者の好奇心を挑発し、満足させたに過ぎなかつたであらうけれども、一面、暗々のうちに科学思想を養成する機縁となつたにちがひない。 それと同時に ロマンチックな空想を湧起せしむる力もあつたやうに思はれる。
 要するに、翻訳文学の流行は、西欧の新趣味、新知識を大衆の一部に与へて、新しい小説の興起を促がすべき一原因となつた。 かうした気運に応じて起つたのは、末広鉄腸、矢野龍渓、藤田鳴鶴、柴東海散士、須藤南翠などで、南翠一人を除くと、他は何れも評論家であつた。 かうして 逍遥、鴎外、紅葉、露伴、二葉亭などが出るまでに、素人の手によつて、文学上の過渡時代が作られたことは、興味ある現象だつた。





第二期 第六章 (二)  談理を好んだ鴎外


 鴎外は、ドイツ文学に精通すると共に、一面、漢文学、国文学についての素養を重ねることにも力めた。 彼れは、ドイツの哲学、美術をも研究して、其の精確な論理的方面、究理的方面の影響を受けて、文芸評論の上にも、それから来た影響を現はした。 彼れの頭脳は一面、知力的インテレクチユアルに働くと同時に、一面、情感的エモオシヨナルにも能く働いた。 其の知力的に働いたのが評論となり、情感的に働いたのが創作となつた。 が、いづれの分子が多いかと云へば、勿論、知力的分子が、稊情感的分子に勝つて居た。 鴎外が談理を喜んだのは、畢竟、彼れの長所であつたからだ。
 鴎外が『柵草紙』に於ける談理の筆は、当時の日本文学に及んで、作家及び評論家を啓発したが、また新しい思潮や、美術などの紹介に於ても、時人を指導した。 彼れは、何人より早く ハルトマンの美学や、レツシングの思想及び 其の有名な『ラオコン論』などを紹介した。 絵画、彫刻についての新しい意見をも 発表した。 小説に於けるロオカル・カラアと云ふことも 鴎外が、ドイツのロカアル・コロリツトと云ふ言葉を使用したのが、其の最初だつた。
 鴎外が、批評、論理の筆を揮つた頃の最初の文章は、『今の諸家の小説論を読みて』などを見るとわかるが、それには、馬琴の七五調の如きものが 当然、新しい小説に於て存在し得ないことに論及して 余等は 散文の音響を借らずして 心を動かすものを以て、詩学上比較的に純なるものとなせり 此純なるものは十載の久しき何れの国にても かの琅然憂然たるものに掩はれたるが如き迹なきにあらず。 故に余は 近世に至りて散文詩の勃興せるを観て、此の純詩体の漸く将に暗黒裡より顕れんとするを喜ぶものなり。 往時 曲亭馬琴と云ふものあり。 小説を以て一時鳴り、之れに継続するもの 皆その式を追ひて還ることを知らず。 然れども 其の得意の文は純正なる散文にあらず。 美妙子の慧眼 早くこれを看破したり と云つたやうな調子で、ドイツ仕込の頭で、漢文の素養を活用して、精厳な文致を示して居た。
 鴎外が、評論家としての力量を十分に発揮したのは、坪内逍遥の没理想論に対して、非難を加へて、長い間、論戦を続けた時分であつたらうと思はれる。 勿論、それ以前に於ても、文壇の識者は鴎外の実力を認めて、其の評論を敬重したのであるが、一般的に鴎外の価値を認めさせたのは、逍遥と議論して、得意の談理を試みた時分からだつたらうと私は考へる。
 在来 鴎外は、逍遥と論戦する迄に、石橋忍月や、内田不知庵にも、鉾先を向けたことがあつたのだが、彼等は、一溜りもなく、鴎外に突き倒された。 当時、鴎外の矢面に起つて、実力相比しい地位にあつたのは、逍遥のみであつた。 鴎外のドイツ風の文学論、詩論に対して、逍遥は イギリス風の文学論、詩論を以て対抗し、鴎外の談理を重んじたに対して、逍遥は記実を重んじたと云ふ具合で、双方 好個の論敵を得たわけであつた。





第二期 第九章 (五)  内田不知庵の『罪と罰』


 内田不知庵は、評論家として知られて居たが、ドストエフスキイの『罪と罰』を訳するに及んで、彼れが翻訳家として、卓越した手腕を有する事を明かにした。 それは、二十五年の暮から、二十六年の夏へかけてのことで、第一巻、第二巻だけ出て、第三巻は出なかつた。 と云ふのは、当時の読者には、未だ『罪と罰』を味ふほどの理解力、翫賞力がなかつたからだ。 二葉亭の『あひゞき』『めぐりあひ』さへも、僅かに一部の文学書生に味解されたやうな有様だつたから、『罪と罰』の売行が悪かつたのは当然のことであらう。
 が、翻訳として卓越したものであつたことは、逍遥が『早稲田文学』において、口を極めて激賞したのでもわかる。 其の第一巻が出ると、逍遥は 訳文は、すべて『浮雲』一流の言文一致にして、剛柔自在、男女、老少、都鄙、上下、の口吻、まのあたりに開くが如く写し出だされたり。 其の訳文の尤も巧なる処に至りては、読む者、その訳文たるを忘れて『浮雲』中の未だ出版せられざる一節に撞着したる思あるべし。 不知庵主人の、否、近時の傑作也 と云ひ、其の欠点については 疵瑕を求めば、特に見出ださるゝ直訳の口気と、無要なる原語の挿入と、調和せざる雅語の混用とに於て、不調和の感を生ずべけれども、これはた前にいへる、最も巧妙なるあたりと照映するが為の故にして、絶対の疵瑕といふ限にはあらず と評した。
 第二巻が出ると、逍遥は、また特にそれを紹介したが、既に売行の悪かつたことは、 不知庵主人が経営惨憺の翻訳、ドストエフスキーが傑作は、諸新聞、雑誌はいふに及ばず、其の他の読書社会の批評家にも歓迎せられたること事実なれど、買ふものと批判する者とは、格別の社会にありと見えて、好評の割合には、此の書の捌口あしといへり と述べたのを見てもわかる。 逍遥は その理由を尋究して、 主なる理由は、此の作の長編なるを 一巻二巻と切れぎれに出だしたれば 探偵小説一流を喜ぶ買手の末を危みて二の足を踏めると、叙状描写の至精至緻なるが フウハリとしたるをのみ悦べる国俗の嗜好に叶はざると、露西亜名前の記えにくきと、分量の割合に値の貴きと 新聞紙上に広告せざると、旨味の高尚なると、趣向の陰気なると などにやあらん と述べた。 ドストエフスキイの小説が続々翻訳され、非常に歓迎されて居る今日のわが読書界の嗜好と対照すると、今昔の隔絶が余りに甚しいのを感ぜずに居られない。
 第二巻は、第一巻よりも 翻訳に於て、一層 不知庵の手腕の熟練を示した。 逍遥は、 訳文の上よりいふも、たしかに明治の傑作の随一にて、第一巻はさまでにも覚えざりしが、此の巻に至りては、おぼえず妙と呼ばざるを得ざる箇所 数ふべからず。 人情風俗こそ露国のものなれ、読みよみて興に入りては、我れみづからラスコーリニコフと化したらんやうの感生じ、其の周囲に談笑悲喜するものは、皆 血あり皮ありと感ぜられ、いつしか訳文たるを忘るゝに至るなり。 試に、訳文らしき窮屈の跡の残りたるに、鉛筆もて目印を付しもてゆきしに、読み了へて後、其の目印のありか 容易くは見いだしがたし、さる箇所のいと稀なる故なり と激賞した。
 要するに、不知庵の翻訳振は、第二巻に及んで、二葉亭の『あひゞき』などと略ぼ同様の程度に達した。 東京の俗語を巧みに駆使する点も、両者能く似て居た。 唯 不知庵は、二葉亭のやうに、ロシヤ語其の物について直接訳しない点が、物足りないだけだつた。 若し不知庵が、二葉亭のやうに、直ぐに原作について、其の風趣、情韻、詩味を会得して、其の苦心と才気とを以て、翻訳に当つたら、一層見るべきものがあつたにちがひない。
  … 





第三期 第三章 (二)  生活を芸術化した一葉


 一葉の日記を見ると、彼の女が、いかに芸術に対して、全心を捧げて、奉仕したかを知る事が出来る。 彼の女が、最初、文壇に踏み出した前から、彼の女には、豊かな芸術的天分があり、それと同時に、鋭い芸術的良心があつた。 一葉は、半井桃水の紹介によつて文壇に出たが、桃水から文学的な指導も、感化も、殆ど受けて居ない。 彼の女の芸術は、一葉自ら創造し、進化せしめたものである。
 勿論、一葉にも、文学的目標はあつた。 曽て『源氏物語』に傾倒したこともあつたが、殊に西鶴の小説を愛誦して、それから感化を受けた。 それは、紅葉のやうに、皮相的な感化を受けたのではなくて、内部的な感化を受けた。 其の外形と共に、精髄に触れ得たところがあつた。 彼の女は、また露伴の小説を一時、愛読して、それからも、幾分の影響を受けた。 初期のある小説には、左様した影がある。 けれども、露伴から来た影響は、極めて一時的なもので、西鶴から来た影響のやうに長く深くはなかつた。
 一葉は、ある意味に於て、精神的に西鶴を小説上の指導者としたと云ふことが出来よう。 そして 其の内部的な感化の下に、筆を執つて文学的生活の第一歩に入つたのだ。 ではあるが、彼の女の態度には、少しも戯作者的なところがなかつた。 あく迄、真面目で、厳粛であつた。 当時の小説家、殊に硯友社一派の人々のやうに、ふざけ切つたところはなかつた。 遊戯気分、洒落気分が寸毫もなかつた。
 それに、彼の女は、其の小説の題材を 力めて、自己に親しい環境から採ることにした。 彼の女の実際に見たもの、経験したもの、さうした自己に解し得らるゝ狭い世界の中に取材した。 換言すれば、一葉には、現実的傾向が多くて、空想的傾向が少なかつた。 いつも、彼の女は、生きた現実に面して、其の現実のうちから取材した。 空想を主として、小説を製造するやうな手品を 余り用ゐようとしなかつた。 此の点が、一葉の強味であつた。
 それだから、一葉の作品は、二十八年頃に書いたものは、何れも、人生の一面を如実に再現し得て、そこに何等の破綻がなく、欠陥がない。 能く芸術的に小さいながらも完成されて居る。 そして この時代の描写は、すべて新鮮な味があつて、一葉自身の個性から生れた文体と形式とを用ゐて居る。 換言すれば、形式の上において、西鶴と露伴から全く離れて了つて、独自の世界を作つて居る。
 一葉の作品が割合に少いのは、勿論、其の生涯の短かつたにもよるが、一つは、物質的欲望を排し、あく迄も、濫作することを謹んだからである。 二十八年頃には、彼の女の名声は、正に頂点にあつたのだから、普通の文士ならば 濫作しても差支へないと思ふにちがひない。 けれども、一葉は 自己の芸術的良心の許さないことをしなかつた。 書肆の誘惑も、文壇の推讃も、一葉の潔癖な心をどうすることも出来なかつた。 彼の女は、芸術と生活とを一致させて、芸術に裏切るやうな生活をしなかつた。 名誉の最頂点にある時も、謙虚で、沈着であつた。 ある意味に於て、文壇の批評以外に超越して、自己の芸術的生命を守つた。





第四期 第七章 (一〇)  結語


 以上、明治末期の小説について述べたが、尚ほ補遺として、文芸評論方面のことについて一言しよう。 自然主義興起時代から、文芸評論の形式が、以前にくらべて、ずつと自由さを増した形が見える。 即ち 印象批評が行はれ出して、樗牛時代の如く、堅苦しい、正面的方法ではなく、もつと砕けた態度で、側面的な方法で筆を進めてゆく。 左様した印象批評が、行はれて来た。
 それは、在来、評論方面に関与することが少なかつた小説家などが、次第にこの方面にも、筆を着けるやうになつた結果であらう。 少くとも、左様したことが一因となつてゐることは 否まれない。 それには、筆者その人の個性が、直ぐに反映せられるので、個性の卓越といふことが、一つの主要条件となつた。 勿論、かうした条件に合致すべきものが、あつたかどうか。 この点、いくらか頭を傾けねばならぬけれども、文芸評論の形式が、在来よりも自由になり、素直に云はうとするところを表現し、且つ そこに一種の親しみ感ぜしむるといふ点で、新しい意義が存在したと思はれる。
 以上と同時に、自然主義の宣伝、拡大につとめた評論家が、明治末期に至つて漸く行詰り、或はその方向転換に苦心したことは蔽はれない。 この点、既に少しく触れて置いたが、要するに、自然主義は総体の真理でない以上、これに深入りした一部の評論家が、いかに引込みを付けるかといふことは、当然の問題だつた。 天渓の如きは、この点で、行詰つて了つた形がある。
 左様した情勢の前に、新しい文芸評論家が台頭すべき運命のもとにゐた。 が、明治末期においては、まだ其処迄行きつくべき事象が具体化するに至らなかつた。 個人本意の思想を斥けて、社会本意ぬ動いてゆこうとする思想、無理想を排して、有理想に生きてゆかうとする精神、享楽的な傾向を貶して、人道的に進んでゆかうとする考へが、既に明治末期に動いてはゐたが、それらの思想、精神を明快に説き、切実に論ずるところの文芸評論家は、まだ出現しなかつたのである。
 要するに、明治の文学は、大体において、欧米追随の形を持続するとともに、目ざましい進歩をしたが、まだ日本独自の文学を生むところ迄ゆかなかつた。 勿論、いかに欧米を模倣しようとも、不知不知の間に、国民性の閃きを示すことは、云ふ迄もない。 また 過去に於ける江戸文学が、相当、明治文学の上に影響し、東洋思想の片影さへも見えるが、その大勢上から見れば、余りに、欧米的であり過ぎた。 そこに、欧米文学の長所を取り入れて、これを生かし得たところもあるが、欧米文学の短所に囚はれて、自堕落の形に陥つたところもある。 以上の点をどう整理し、どう矯正するかは、明治の文芸評論家がまだ考へ及ばない問題だつた。 それは未解決の儘に、大正の文壇に残された課題である。




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