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表 紙 (帯付き)



目 次


  居常心得書  一太郎 宛 明治十三年八月三日
    一 修学心得書 一太郎捨次郎 宛 明治十六年六月十日
    二 一太郎捨次郎 宛 明治十六年六月十九日
    三 一太郎捨次郎 宛 明治十六年七月四日
    :   :
   四九 一太郎 宛  明治十八年十月二十二日~十一月十日
    :   :
   七七 捨次郎 宛  明治二十年五月二十一日
    :   :
  一〇七 一太郎捨次郎 宛 明治二十一年六[?]月十六日


  解題  小泉信三

  後記  富田正文




福沢諭吉 「愛児への手紙」


 昭和28 (1953) 年 5月 発行、 岩波書店。
 新書版、 本文 233頁。


 福沢諭吉(天保5(1834)年~明治34(1901)年) は、幕末~明治期の先見的な思想家、著述家、教育者として著名であるが、立身してからは 公的な役職等には関与せず、自由な市民的立場を維持した。 この時期における、そうした姿勢の近代性も、より高く評価されるべきであろう。
 福沢は、妻との間に九人の子(男四人、女五人)をもうけ、円満な家庭生活を営んだが、男子四人については、いずれも自費により海外留学させた。 速やかな近代化をめざす日本社会において、我が子を有為な人材たらしめるべく、福沢独自の方策を実践したのである。

 本書は、明治16(1883)年から明治21(1888)年にかけ、長男・一太郎と次男・捨次郎を同時に米国留学させた際、福沢から二人に発信した 書簡107通と関係書類を、集成したものである。

 本書の意義について、小泉信三の『解題』は、まず すでに知られてゐるやうに、福沢は非常に筆まめな通信者で、その一生の中に書いた手紙の総数は万に上ると推算されてゐるが、こゝに集めた外国滞在中の両児に与えた手紙は、その中でも福沢を知るべき史料として、また 一の文学として、特殊の地位を要求し得るものと思ふ と述べ、その理由を 次のように説明している。
 父としての福沢が、その子に対し、慈愛深く、時としてそれに溺れる嫌ひを免れなかつたことは、私が別の機会に …… 書いた通りであるが、福沢のこの一面は、他のどの資料よりも やはりこの書簡集に最もよく現れてゐる。 また福沢は 概して何人に対しても自由に奔放に自己を表現したが、やはり最も隔てなく語り得る我子への手紙には、人にはいはぬ我家族の経済、己れの老後の計のことなどを 打ち明けて書いてゐる。 而かも 常に観察と報道とに勤勉であつた福沢の場合、これ等一家の私生活について語る手紙が、亦た自からその背景をなす、明治二十年前後の日本の社会事情を窺はしめることが多い。 それ等の史料価値の問題を別としても、この書簡集は 子を思ふ親の真情を、その賢さと痴かさとを併せ露呈したものとして、人の親たるものゝ心を打たずには措かぬであらう。 古来 父の子に与へた書簡の 世に知られてゐるものは少なくない。 けれども 福沢のそれは、その如何なるものとも比肩して伝へられるべきものであることは、本書の読者の必ず認めるところであると思ふ。

 「本文の一部紹介」としては、一太郎、捨次郎それぞれに宛てた個別書簡(書簡番号「四九」「七七」)および両人宛(連名)書簡(書簡番号「一〇七」)の三通を、掲げることとする。
 全体としてみると、両人宛書簡が圧倒的に多く、個別書簡は少ないのであるが、小泉信三のいう 子を思ふ親の真情 は、二人の子の特性に応じて きめ細かく発揮されているように思われるので、このように選んでみたのである。
 長男・一太郎 (1863~1938) は、内向的な性格で、事に当ってあれこれ思い悩み、逡巡することが多かったようである。 このため 彼は、当初入学したコーネル大学を中退し、実業学校(商法学校)に入り直したものの、卒業証書を得ることはできなかった。 一太郎宛書簡「四九」は、一太郎が商法学校に転じた直後に 送られたものである。 福沢は、大学を中退したことに失望し、一太郎のむら気に不安を感じていたようであるが、それを表に出すことなく、改めて将来への指針を示し、大小にわたる注意を与えている。 小なるものは 一太郎の文字に関してで、「大に手習の労を取らざるべからず」としている。 その文字は かなりの悪筆だったようで、福沢は 後続の書簡(書簡番号「五〇」)でも、同趣旨の注意を繰返している。
 この一太郎に対し、次男・ 捨次郎 (1865~1926) は、マサチュセツ工科大学に入学、専心学業に打ち込んで、留学期間中に首尾よく卒業を果し、父の期待に応えたのであった。 捨次郎宛書簡「七七」は、鉄道技術を専攻した捨次郎が、「一年後には卒業」という見通しのついた時点で、送られている。 福沢は もはや、捨次郎が鉄道技術者として一人立ちできることを確信し、重要技術たる橋梁やトンネルに関する知識習得に加え、鉄道の運営管理に関する知識をも身につけるよう 助言している。 そのうえ、自分が承知している 日本の鉄道網整備の状況と問題点を伝え、捨次郎が専門家として やがてはそれらの課題に取り組むよう、先回りした意識付けを行なっている。
 一太郎・捨次郎の両名宛書簡「一〇七」は、明治21(1888)年の初め頃に発信されたと考えられる。(六月の日付があるのだが、本書の編集者は「誤記」と判定。… 6月の捨次郎大学卒業後 直ちに帰国の途につくように指示しているのであるから、その出発時期を発信日付と混同したと考えられるわけである。) この書簡で 福沢は二人に、帰途は まず英国へ渡り、そこから仏・独・伊などの欧州諸国を廻り、地中海からエジプト・インド・中国を経て日本へ、という経路を提示し、それぞれの主要都市の風俗人情などを観察して来るようにとの指示を与えた。 概括的な印象を得ておくだけでも、将来必ず役に立つ、というのがその理由である。

 福沢の二子は、日本が近代化への歩みを加速させつつあった時期に、父から5年間にもわたる米国留学の機会を与えられ、父の周到な配慮と助言のもとに、その期間を終え、各国を周遊して帰国した。 この極めて恵まれた留学生活が、どのような結果をもたらしたのか、気になるところである。 二人の経歴を調べてみると(本書の『解題』にも多少の記述があるが)、福沢の創始した事業(慶応義塾、時事新報)の中で、それぞれが一定の地位に就いたことは認められるが、特に個性的な業績などは無いようである。



本文の一部紹介





 四九   一太郎宛  明治十八年十月二十二日 ~ 十一月十日

 前便シモンズ氏(Dr Simmons. 明治初年に来日し、福沢と親交のあった米人医師。この時は米国に一時帰国していた。)よりの来状には、貴様事 今回ポーキプシー(City of Poughkeepsie. ニューヨーク州南西部の都市)の商法学校に入れば、凡そ六ヶ月に卒業すべし。 故に 今より(即 本年九月より)凡そ一ヶ年も在米、その上は或は帰国も可ならんとの趣なれども、拙者の所見は聊か之に異なりとまうすは、唯今 貴様が商法学校を卒業するも、これを日本に土産にして一事業を起すの資とするに足らず。 例へば森村豊、岩田茂穂抔も同校に卒業したる者なれども、右両氏が今日社会に居て人に貴重せらるゝは、唯この卒業のみの故にあらず。 卒業は固より大切なれども、是れは唯一芸として身に附け置くまでの義にして、人々の働は自から別に恃むところのものなかるべからず。
 近く之を貴様の身に就て云へば、唯今帰国致して さしむき 何の業に就くべきや、甚だ困難なり。 農業の実際も難し、商売も同じく易からず、然ば即ち文学士として世に立たんか、是亦容易なる事にあらず、併し先づ貴様の天稟、文学に適したる者として考れば、尚所望の点 甚だ多し。 其一二を挙れば、
 日本文字英文字ともに 大に手習の労を取らざるべからず。 文字は唯 字画を誤らざれば以て足るべしなど申者 有之これあり候得共、大なるミステーキにして、決して左様にあらず。 等しく説を吐くにも、能弁トツ弁の別あり。 同じ人の顔に醜美あり。 今 文字は末技なりなど云ふ者は、弁説の巧拙、顔貌の醜美を問はず、と云ふに異ならず。 天下衆人の許さゞる所なり。 左れば貴様は今後 小心せうしん 乃父の言を聴き、手習を勤めざる可らず。 一昨年来 毎度申遣候得共、手習は不致事いたさゞることと見へ、手紙抔の面に上タツ

の様を見ざるは 遺憾に堪へざる所なり。
 次に 文章の事は貴様の得意にて、随分華やかなる妙味なきにあらざれ共、未だ以て十分とするに足らず。 仮に今日 貴様を他人として時事新報社に雇はんとするも、編輯局中の一方に手離して事を任ずべからず。 事を任すべからざれば 給料も多分に払ふ可らず。 独立の生計 尚難き者と云ふべし。
 右(上)の次第なるを以て、今回 商法学校を卒業したらば、心を一にして前記の二ヶ条を学び、兎角有形の文字文章を手に入れて 人に愧ぢざるほどの位に達して、傍に博学を勤ること肝要なり。 貴様は史類抔(など)読み、記憶の強きは拙者も竊に知る所なれば、歴史言行録抔研究するは あまり困難を覚へざることならん。 即ち 先便申遣候商法学校卒業の上は、他の文学々校に入るか、又は私に教師を雇ふて勉強せよとは 此事なり。
 斯の如くして 今より壱ヶ年も二ヶ年も勉強して、福沢諭吉の長子 一太郎は文学の士なり、第一、縦横共に文字美なり、第二、文章は流暢にして条理あり、華実両ながら、全ふして 人の意に通ず、第三、字を善くして文に巧にして 兼て博学なり、史類の取調は一太郎君に限ると云はるゝに至り、この三ヶ条に兼て、数年米国に在りて交際に慣れ、品行は美にして野ならず、能く談笑して人に佞することなく 亦人を怒らしむることなく、何時も悦ばしき顔色して 丁寧深切なりとの名声を博するときは、職業を得ること甚だ易し。 即ち 彼の卒業の商法学も 実用を為すに足るべし。 即ち 其卒業に光を生ずるものにして、生涯大幸福を享けて 安楽なるべし。乃父母の所望は是れにて終れり。 何卒 此手紙を軽々看過せずして、心に銘ずる様致し度頼入候。 貴様の心掛け次第にて 拙者は留守中にも職業の地位を作り置く積りなり。 呉々も小心勉強被致度いたされたく

存候。
  十月廿二夜 孤灯下記ことうのもとにしるす

       諭吉


 右(上)は十月廿二日認候処、其後郵便無之これなく

、十一月六日に至り 十月九日の書状いたり

、披見致候処、書中 未来の目的と題したる一編、其趣意の所在を承了致し候。 其大意は正しく拙者の思ふ所に符合するものにして、甚だ満足に存候。 イーストマン(前出の商法学校)卒業の上、再びコルネルに帰りてリテラチュールの課を取る(コーネル大学で文学関係の科目のみ聴講、という意味であろう)も宜しからん。 迚(とて)も此方より細目を指図する訳には参らず候間、大抵の事は独断に付して可なり。 又 学費の心配もつとも

の事に候得共、拙者は貴様達の出生したる其時より、私力を以て外国へ執行為致度しゆぎやういたさせたく

存じ、覚悟致候義に付、今更驚きは不致いたさず

、拙者も身体尚強し、生計に困る事は無之これなく

候間、相当の費用は弁じ可申まうすべく

、痛く心配無用に存候。
 先達せんだつて

送り参り候ビーハイヴの一文章は、過日 其直したるものを送遣おくりつかはし

候。 夫はミストルロイドの手に掛けたるもの、今度はドクトルキッチン(共に本塾教師)の手直したるもの差送候。 英文にては余り笑を取らず、何卒 文学の士となり、博学好文章、英語仏語の名人、日本文の上手とあれば、夫れにて沢山なり。
 品行論 (1) とて 百ページばかりのものを綴り、本日 出版願差出候。 是は 日本男子の不品行を咎め、頂門の一釘 (2) と存じ、二週日の筆を労したるものなり。 出来候はゞ 差送り可申まうすべし


 森村豊 帰朝のよし。 尚未だ面会不致いたさず

候。 為替金米弗一百枚の代は 同本店へ払込候。
 右(上) 返書にかねて

要用のみ。 早々以上。
  十八年十一月十日       諭吉
     一太郎殿
 尚以、本文貴様文学の義は 正に暗合にて、最も満足なり。 実は拙者より手紙を送り、其手紙の趣に従ひ、父に教へられて自から志を立ると云ふよりも、子が之に先だちて思ふ所を述べ、其旨が丁度 父の志に符合するとは 甚だ愉快なり。 故に 前文十月二十二夜に認たる文意、或は少しく劇しきに過ぎたる所もあれ共、其夜 正に斯の如く思ひ、其の思ふたる儘を認たるものゆゑ、今日貴様の志如何に拘らず、態と書替へずして 其儘さし送候事なり。
 今度は 母人より手紙不差出さしいださず

との事なり。 留守宅 一同無事健康、皆々洋朊にて靴をはき 飛廻はり、甚だ快活の事に候。 以上。
 ポーキプシーの宿所 承はり度候。

(原書の注) この手紙は「十月廿二夜 孤灯下記」までは墨で書いてあるが、そのあと「右は……」以下は 朱筆で認めてある。  (1) この月二十日から十二月一日まで 十回に亙つて時事新報社説として発表せられ、後に単行本として出版せられた。「福沢諭吉選集」第五巻所収。  (2) 普通には「頂門の一針」といふが、「一釘」は 福沢の慣用語である。





 七七   捨次郎宛  明治二十年五月二十一日

 来年度卒業に付ては、日本へ帰りて実地の事を執るに付、何等の業を専務に取調べ可然旨しかるべきむね

、先便、被申越まうしこされ

はなはだ

肝要の問題、拙者も段々人に聞合候処、目下日本にて 鉄道の業は処々方々に起り、苟(いやしく)も其学業を修めたりと言へば 直に仕事のある勢なれども、何は扨置(さておき)、差向の欠亡は 橋を架することゝ、トンネルを穿つことゝ、此の二ヶ条は要用中の要用にして、最も其人に乏しと申事まうすこと

なり。 故に 貴様も鉄道布設全体の事を学ぶと同時に、右の橋とトンネルとの事を別段に念入れ 取調候様致し度候。
 又 日本に鉄道の工事に用る学士は 不自由ながらも皆無とまうす

次第にあらず候得共、鉄道事業全体のマネージメントに至りては、曾て人の心付かざりし事か、今日壱人もなし。 故に 今 鉄道の工事を知りたる上に 鉄道事務の取扱を心得たる者あらば、所謂 鬼に金棒なるものにて、最上の上なり。 既に日本鉄道会社よりは 特別に社員の壮年壱名を英国へ遣し、マネージメント見習を為致居いたさせおり

候よしに承り候。
 扨茲(さて ここ)に 困難は、日本政府にて鉄道の布設は一切英国に依頼して、すべ

て英風に傚(なら)ひし義に付、米国にてマネージメントの事を見習ひ来るも、英風 即ち今の日本風に適せず、はなはだ

困るよし。 然るに 其マネージメントを見習はんとして、米国にては随分見習の都合も出来候よしなれ共、英国にては殊の外 六ヶ布むずかしき

よし。 甚だ困る事に候。 既に 榊原浩逸さかきばらかういつ

(など)も米国にて少々マネージメントの事を見習候よしなれ共、日本に帰りて米国の所得は役に立たずとて、竊(ひそか)に不平を鳴らし居候。
 日本政府は 妙な訳けにて、鉄道の事に付、頓と米国人と談じたることなし。 今度 九州の鉄道会社へも内々説諭して、一切の軌道レール

車両とも独逸に注文せしむるよし。 誠に不思議の様に被存ぞんぜられ

候。
 右の次第に付、貴様も目下学校の専門を修るの傍に、鉄道に関する書籍又新聞抔読み、
   橋梁を架する事
   トンネルを穿つ事
 右二ヶ条を念入れ詮索して、尚 余暇あらば
   鉄道のマネージメント
   「株を募る事
   「之を売買する事
   「賃銭の高低の事
   「チッケットを売る事
   「如何なる地方の鉄道を布設すれば利あり又利なき等の事
   「会社役員給料の事
 尚 右の外にも要用の件は遑(いとま)あらずと雖ども、およそ

其辺の考を以て取調致し度事なり。
 例へば 今度山陽鉄道は 神戸より下の関へ至る線路なるが、此鉄道出来の上、内海は船の通航はなはだ

便利なれば、或は船の為に競争せられて 鉄道不利の事はなき乎。
 又 日本の各地に漫(みだり)に鉄道を布設して、便利は便利ならんなれども、其割合に国中の殖産は進まずして、恰も宝のもちぐさり抔の患(うれい)有之間敷哉これあるまじきや


 右等の事も常に心掛け置き、日本に帰りたる上は 唯の技師のみにあらずして、事務を執るにも差支無き様致し置度、唯今の政府なればこそ 米国を疎外して其鉄道法をも採用せざれども、役人の更迭は何時行はるゝも図る可らず、米国の鉄道法 大に日本に行はるゝの日も可有之これあるべく

存候。 右 要用のみ申入度、早々如此かくのごとくに

候也。
  二十年五月二十一日       諭吉
     捨次郎殿

 今度 私設鉄道条例なるもの出来、下等客の運賃 一英里に付 一銭五厘より超過すべからずとあり。 是れは如何。 日本の鉄道はすべ

て 賃銭高きが如し。

 〔別紙〕
 前便 節倹云々と申遣候処、右の故か 本年度は休暇にてもポーキプシーへ参り 兄弟対面の事も不致いたさず

との報知、母人は之を見て はなはだ

遺憾に思ひ、僅かの金を節倹する為め 兄弟逢はぬ抔は 誠に可愛そふなりとて 頻りに気の毒に思ひ、拙者も之に同感なり。 倹約とは申せども 夫れは事と品に由るべし。 万里の旅天、一年一度 兄弟の面会は無上の快楽、これをも止めにせよとは不申まうさず

、銭を

しまずして 相会するよふ致度存候。 此段 特に申入候。
  五月二十一日       諭吉
     捨次郎殿

 〔別紙〕
 過日 時事新報三四束計り 郵便局より差戻相成候。 右は 捨次郎行紐育森村組へ当たる名前、当の如くなりしに、何者の所為か 態(わざ)と其アダラス (1) を書替へて、森村組へ行かず、以て帰来したる事なり。 先便貴様の来書に新聞紙参らずとありしは 此の間違より生じたる事と存候。 実に不審の至なれ共、致方無之これなき

次第、為念ねんのため

事情申入置候。
  五月二十一日       諭吉
     捨次郎殿

  (1) adress.(ママ)






 一〇七   一太郎捨次郎宛  明治二十一年六[?]月十六日

 本年六月 捨次郎卒業すれば、一太郎捨次郎同道にて帰国可致いたすべく

、其道は 欧羅巴へ廻り 印度海を渡る事なり。 右に付 拙者の意見 左の如し。
一、 六月前より帰国の支度を十分に調へ置、卒業たゞち

に米国出立、直に英国へ渡り、夫れより欧州各国就中なかんづく

露国は見逃す可らず。 ペートルスボルフよりもモスコーも是非一見致度事(此時旅行免状 始て用を為すべし)。
一、 パリベルリン等見物は勿論なれ共、唯一通りにて不苦くるしからず

、或はイタリヤより土耳古のコンスタンチノポルも 一見致し度候。
一、 欧州の文物は 大抵米国と同様なる可けれども、又 或は旧世界新世界の異もあるべし。 唯 大概の処を見て、他日再渡の時の参考に供するまでなり。
一、 地中海を渡りたらば アレキサンデリヤも一寸ちよつと

一見致度、夫れより印度海に出て セイロンに寄り、ポンペイ カルコッタには是非立寄り、支那は 香港よりもカントンの方 大切なるべし。
一、 およそ

右の如くして、六月に米国出発、五六ヶ月を費して日本に着すべし。 故郷の父母は勿論、姉妹兄弟も 実に待ち退屈する次第なれども、世界の風俗人情を視察するは 貴様達生涯の利益、又 世間に対する対面もあり、仮令たとひ

表面の一覧にても 必ず遂げ候様致度候。
一、 米国出立の為めの入費は、ロンドンまで達すべき旅費を 森村にて請取可申まうすべく

、ロンドンえ渡れば 正金銀行の支店にて金子請取候様取斗置可申とりはからひおきまうすべく

、夫れにて用を弁じ可然しかるべく

存候。
一、 故郷にては 一日も早く帰国と申居候義に付、六月は 卒業証書を請取たる翌日にも出立致候様、兼て用意可然しかるべし

。 米国は 最早見物に及不申およびまうさず

候。
一、 印度支那の見物は 甚だ大切なり。 唯今より其地に関する所の諸書を取調置くは、実地見物の利益なるべし。
一、 わづか

五六ヶ月にては 唯宿屋に泊りて汽車に乗るに過ぎず、誠に馬鹿らしきやうなれども、決して然らず、百聞は一見に如かず、存外の利益あるものなり。
一、 諸方に参り候はゞ、つまらぬものにても 其地にある品物を少しづゝ買求め 土産みやげ

に携帰るべし、生涯のメモリーとして甚面白し。
一、 欧羅巴 印度 支那地方巡回の其間は、此方より手紙を遣るに由なし。 日本の領事館ある所には 平安書を送り置可申まうすべく

候。 貴様達は 行付く先きより毎度怠らざるやう 文通有之度これありたく

候。 例へば香港にも日本領事館あり。 天津 上海も亦然り。 唯今 天津の領事は波多野承五郎なり。
一、 旅中より送りたる記事は 新聞紙に記し度、和文にても英文にても不苦くるしからず

、時々報告有之度これありたく

存候。
一、 右の旅行に付、ドクトルシモンズは 本〔来〕年三月までもかゝり候様申候得共、汽船車の便利なる今日、拙者の考は 本年十一十二月までにて沢山と存候。 或は尚 これよりも早からんと存候。
一、 以上は 拙者の所思なり。 尚又 貴様達にも旅行の道順可有之間これあるべきあひだ

承り度候。 拙者の考は 是れまで日本人の余り見ざる所を見度みたく

思ふのみ。
 右 要用申入度、早々不一。
  二十一年六(ママ)月十六日       諭吉
     一太郎殿
     捨次郎殿

 日付の六月は 福沢の誤記であらう。 文意より推せば 前掲書簡九六(略)の追て書に「貴様達欧羅巴を廻りて帰国の義に付いては 別紙連名に記し候」とある 其の「別紙」に当るものと思はれる。





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