らんだむ書籍館 |
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表紙 (カット:岸田劉生) (劉生は 昭和4(1929)年に没しているから、 本誌のために制作した作品ではない。) |
目 次
「自然主義作家の研究」 特輯 島崎藤村論 岡崎義恵 田山花袋論 吉田精一 国木田独歩論 高橋義孝 徳田秋声論 片岡良一 仏蘭西自然主義と日本文学 後藤末雄 明治美術と自然主義 河北倫明 藤村先生の思ひ出 宮坂古梁 自然主義時代の短歌 谷 馨 漱石「明暗」の女性観について 熊坂敦子 「奉教人の死」の比較文学的研究 安田保雄 [明治大正文人評伝] 上田敏 ━━ 「うづまき」覚書 ━━ 本間久雄 [資料] 方陣秘説(未発表) 幸田露伴 [口絵] 露伴原稿の写真、河北論文関連絵画の写真 |
本文紹介 |
方陣秘説
概 論
方陣は 何の国を問はず 其の来る事 甚だ久し。 蓋し 古代人民の少しく数学思想発達したる時期に当り 偶然として起りし者なる事 疑を容れず。 而して 其の奇偶交錯して 且つ和数の常に等しきにより、蒙昧神怪に富みし所の古代の癖として、(人民開明の度を分て 神怪の時代、想像の時代、実理の時代とするは アウガスト、カント(仏、オーギュスト・コント、Auguste Comte,1798-1857 のことであろう。人類知識発達の3段階論がある。)の名論なり)之れに付するに 種々の臆説を以てしたる事 是れまた疑ふべからざる者なりとす。 即ち 支那に於て洛書と号し 天地の大道 之に尽くとなす如き 笑に余りある妄説は、蓋し 彼土の聖人等と尊称する禹の時代に 偶然発生して、而も禹 之に驚嘆して大に喜び 且つ 連山(夏の時代に行なわれたという占いの書。今は伝わらない。)の根底となりしか 若しくは 連山を飾るの具となせしに相違なし。 而して 後世の数理思想に乏しくして 想像と神怪の感覚強き湯、文武、周公、孔子の如き者、相補ひ相助けて 帰蔵(殷の時代に行なわれたという占いの書。今は伝わらない。)と変じ 易となり、孔子に至て大成せり。 然るに 尚ほ笑ふべきは 其後の儒者道士の輩も 皆な此の迷想を遺伝せる愚蒙の人なれば、少しも実理の境界に足を入るゝ能はずして 千古の秘を闡(ひら)き 幽を発して 方陣を敷衍する事あたはざるのみならず、併せて易の如き愚書をも増補する事なきのみならず、(楊雄の太玄経を除く) 又た飜て 此れを駁して 妄談臆説と断言する事もなさず、悲夫(かなしいかな)々々。 日本の如きは 応神以来 支那の余臭遺香に 其の嗅神経の籠絡せられて、其間 或は易を論じ 理を談ずるの学者なきにあらざれども 未だ実理の域に進まず、実験の尊ぶべくして 想像(単純)は半文銭の価値なき事を知らざるの故に 洛書の秘密を知らず。 阿部晴明、新井白蛾の如きは 今日までは其美名を伝へたれども、今日よりは 児童の笑柄となり 玩弄物となりて 淸水帯弘先生(この文の執筆当時、世間に名を知られていた易者であろう。)と 其段格を等ふせんとす。 彼の印度も亦た然り、但し 支那人よりは勝りて 古代は世界第一の人民たりし丈け、洛書の浅薄卑近なるを超えて 其の古婆羅門の寺院に存せると云ふ者は 稊々進歩したりと雖ども、惜哉 時世変遷して形勢一革、耆婆(古代インドの名医の名。)後に耆婆なく 釈迦後に釈迦なく、徒に是を以て病災を攘ひ 未来を知るの具となす。 西洋も亦た然り。 方陣を名(なづけ)て マジック、スクウェアー(magic square) とす。 スクウェアー(square) は 方 の義にして、マジック(magic) は 魔法の義なり。 蓋し 羅甸(Latin、ラテン)語より来る。(Magicus) 然れども 是れ語原にあらずして、マゲカスなる語は ゼンド語(古代イランの言語。現在ではアベスタ語 Avestan Languagesとよばれている。)の マヂ より来りし事 疑を容れず。 而して ゼンド語は サンスクリット語と殆んど近き者なる故、或は印度より流伝せしやも 計るべからず。 而して 其の病疾災難等を除くと言ふ事も 亦た同じとす。 噫(ああ)、古代人民の神怪を好む事 何ぞ甚だしきや。 然りと雖も 活眼を開て観ずれば、怪を好むは想像の母にして 想像は実理の母なる事 天地の妙作用にして、人に怪を好み神を喜ぶの情あるは 理を明め実を知るの 根たり源たるに相違なく、予 何ぞ尤(とが)めんや。 然りと雖も 今や時積り月重りて 人類あるより既に 六千余歳なり、神怪の時代は去り 想像の時代も終りを告て、二十世紀の新天地に入らんとする世界の気運に当りながら、尚ほ依然として 東洋の腐敗空気の中に呻吟して、神怪と想像の念慮のみを運用して 徒らに玄を語り 理を談じ 傲然として得意なる人多くあるは、憫むべく 歎ずべし。 噫、余は神怪を好み想像を喜ぶ事を責めず、唯に之れに甘んじて 其歩を進めず 百尺竿頭一躍の勇気なきを 責めざるあたはず。 今 此の方陣の事 素より取るにも足らざる 一小奇巧の術たるに過ぎざれども、是よりして 人或は一隻眼を開て 新知識と新学説を得るに至らば、余の満足喜悦すべきの事と感ずるや 小少にあらずして、読者の利益も亦た少なからざるべし。(洛書を取るに足らずとする丈にても)
説明第一
上(左)に掲ぐるは 古来より人の知る所なり。 即ち 三鉛直線、三水平線、二対角線とも 合数十五となる也。 此の単白なる 浅薄なる方陣は 即ち 支那 日本 印度 羅馬の古代人民及今人(一部分)を籠絡せし者なり。 古代人民の脳髄の弱くして 此の数の当嵌の因て来る事を知らず、禹を聖人として孔子を聖人とするも 彼等は皆な脳髄薄弱にして 吾人と異なる事なく、否 古代の人民たるに負かずして 此の組織方法の所以をしらず。 今 バッチェット氏(フランス人 Claude Gaster Bachet,1581-1638)の法によりて 説明せば、実に易々たる者にして 読者も驚嘆すべし。 蓋し バッチェット氏の法は 善美を尽したる者にはあらざれども、最も分り易きを以て 第一著に読者の脳中に蔵するを必要とす。 但し 奇数の方根
( にのみ用ゆ。)
図の朱圏内に 一より九まで(根数三)を置配して 拾五合数を得るを要するには、先づ圏外に上(左)の如く 図をなして 而して其第一上格内に 最初数を置き、順次に四十五度を以て右方下部に赴き、次に上格より左方四十五度に当る最端格より置き 順次に終りて後、圏外より 其同列中の第三(根数に従ふ)番に当る格内に入る。 即ち (一)を(五)の下に、(九)を(五)の上に 置く如し。 如是(このごとく)して 圏外の数を圏内に入れ終りて 即ち 方陣をなすもの也。 此のバッチェット氏法は 根数奇数の者には 常に応用して窮りなしとす。
説明第二
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上(左)に掲ぐる所は 根数四の方陣なり。 合数は即ち 三拾四となる。 四縦線、四横線、二対角線 共に皆同数なるなり。 是れを作る方は 大に易し。 然れども バッチェット氏の方は 之をなす能はず。 即ち 根数の奇数ならざる故なりとす。
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偶数方陣を作るの方は 甚だ易し。 上(左)に掲ぐるは 何人の発明に出づるやを知らざれども 古来よりある所の者なりとす。 即ち 図中に対角線を曳きて、右側第一格より順に下りて 線に当る所を格中に安置す。 而して 逆に一より十六に至るを数(かぞえ)て 其の空虚を補ふなり。 青 を以て 之を著(あらわ)す。
説明第三
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サードルールと云へるの法あり。 バッチェット氏の法よりも 少しくよろしとす。 第一図は 即ち 根数(五)に至るの中央数 即ち三を 左対角線に置く。 次に 第一横列内に適宜に(順に不構(かまわず))他の数を配置す。 即ち 三五一二四の如く 乱雑にても宜し。 次に 五より斜に 対角線に準じて下る。 一よりし 二よりし 四にて終り、此の終りの数を 直に対角線の下に斜に準下し、逆に戻りて 二、一、五と終り、第二図に於て 之れと同方法にて 唯右方より起るなり。 (第二図は 零より起り 順の五の因数を用ふ。) 即ち 二図を合して 合数を一格内に置きて、即ち 方陣五根の者を造り得たり。*
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* 第一図と第二図を合した 五根の方陣は、とくに表示されていないが、念のため 作成・表示すれば、次のとおりである。
(各行各列、および対角線の合計は、いずれも 65 となる。)
8 5 16 22 14 4 18 25 11 7 17 24 13 10 1 21 12 9 3 20 15 6 2 19 23
説明第四
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ボイグナード氏法と称するものは 方陣組織の中に於て 尤も精良なる所のものとす。 即ち 第一図に於て、一より七(根数)に至る数を 随意の順序を以て次第重複せざる様に左より横列し、次に 其根数の次の数を(即ち第三番の数)第二列の左頭に置きて 第一列の同順序を以て配置し、順次其の全格内を満して終る者とす。
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第二図は、零より順次 42 に至る七の因数を 同く適宜の順序にて 重複せざる様に第一列内に配置し、次に又随意を以て 三番四番五番に関せず 一定の規則を為して (仮りに此の図にては四番目) 次列の左頭とし、前列の順序に従ひ 全格を填めて終り、三列四列も如是すべし。 偖(さ)て 二図を書し了(おわ)らば 是れ既に方陣をなせり。 即ち 二図を相重ねて 其同数を一格内に填(うず)め来れば、平等数百七十四を 横線縦線対角線に於て得べし。**
** この方陣についても、完成形が表示されていないが、念のため 表示すれば、次のとおりである。
(各行各列、および対角線の合計は、いずれも 175 となる。 上記の 「百七十四」 は、誤り。)
31 14 47 1 20 39 23 5 15 41 25 30 10 49 27 32 9 45 7 19 33 44 3 21 40 22 34 11 42 26 29 13 46 2 17 8 48 4 16 33 28 33 18 37 24 35 12 45 6
説明第五
各種の方法に因て 組織の順序異りたる処の 各種の方陣を得るといへども、其の平等数は 元より一定の数を一定の目的に向て組織せるものなる故に 相異なるべき理なしとす。 然れば 各自の其根数に因りて平等数に差異あるとも 同根数なれば同平等数たらざるべからず。 故に 自ら其根数によつて其の平等数を発見し能ふ所の公理( なきの理なし。 既に公理あれば 公法なかるべからず。 今に 其の公法を掲げん。 即ち 如左(ひだり (=下) のごとし)。)
是を実例に照せば、第一説明中の図は 根数三なり。 三の二乗 九に 一を加へ、之れに三を乗じて二を以て除すれば 十五を得るべし。 既に この公式以上は この公理を発見する難きにあらず、読者 級数の理を精思せば 得る所あらん。 今 繁雑を厭て 之を略す。
説明第六
上来の諸法中(偶数方陣法を除て 奇数方陣のみを云ふ) バッチェット、ボイグナード、サードルール を比較するに、バッチェット氏方法は 唯一の成形を得るのみにして、サードルール に因れば 根数 五なれば 五百七十六の成形を得、七にては 五十一万八千四百の成形、九の根数にては 二千万以上の成形を得べし。 ボイグナード氏方法にては 根数 五なれば 五万七千六百の成形を得、七なれば 四億六百四十八万五千六百より少からざるの成形を得べし。 驚くべきかな 噫。 而して ボイグナード氏方法は 此の点に於て感嘆すべきのみならず、又た一の驚嘆すべき事あり。 即ち 算法の奇なる事 是なり。 バッチェット氏方法は 根数 五なる時は 縦線 五、横線 五、対角線 二、合計 十二線 各自に平等数を得るに止まれども、ボイグナード氏方法にては然らず。 バーチアル、ダイアゴナル(部分対角)の八線を増し 合計廿線に於て平等数を得る事 是なり。 図に示す如し、噫 何ぞ奇なるや。〔註。図を略せり〕 実に 是を以て 古代愚昧の怪を好む者に見せなば 其の抱く所の感情 果して如何ぞや。 洛書 未だ尊からざるなり。
説明第七
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然りと雖(いへど)も 偶数根の方陣に至りては 思考未だ詳かならず。 説明第二に掲ぐる所の法は 根数六の時に当りて方陣をなす能(あた)はず、是れ 六は偶数なりと雖も 其の実 純偶数にあらずして奇数の三と偶数の二との雑偶数なればなり。
此の雑偶数の根数の方陣は 然らば果して作る不能歟(あたわず か)と云ふに 不然(しからず)、如右図(みぎ (=左) の ず のごとし)。 蓋し 此の方法は 説明第二に載する所と同じき如くして 同じからざるあり、然れども 同法を根として作りたるには相違なく 奇数偶数混加の方陣なれども 奇数根方陣と全く根基を異にするは疑ひなし。
*** この方陣の 各行各列、および対角線の合計は、いずれも 111 となる。
説明第八
イー、ボイス氏、書を ノーレッジ雑誌("Knowledge")に寄せて 其の奇妙幽玄の方陣ヲ報ぜり。 その方法は 窺知すべからずと云へども、或は 同氏は之を知りて 故に秘匱中に蔵するやを測り難し。 吾人は 読者と共に 他日必ず発明開悟するの時あるを信ず。 余 聊か臆説あれども 之を告げず、同氏の意を奉ずるの微旨のみ。 蓋し 未だ臆説たるの故を以て 揚々として之を説くの 良心に背けるを知ればなり。
左図の如き組織にして、此の方陣の特殊玄妙なる所以は 各縦列横列及び対角列の平等数なるのみならず、各接近の四角 仮令 (たとえ)ばの如き者 皆な同じく平等数を得るにありとす。 即ち 九個の算法を増せり。 加ふるに 尚ほ一奇を添るは、四隅を合するも 同く平等数を得るにありとす。 噫、二十の算法 皆平等数を得るは 何の鬼工神匠の作為ぞや。 喜馬拉峰(ヒマラヤ)を見て 泰山の小を知り 阿馬緑河(アマゾンのことか?)を渉りて 黄河の細を知る、ボイス方陣を見て 洛書の取るに足らざるを見る。 翻(ひるがへつ)て其の洛書を崇尊し 神秘としたる人を見れば 又た論評するに足らざるを覚ゆ。 ビーコンスフィルド氏 曰く、驚嘆をなす者は 自ら無学なる事を見(あらは)すなりと、達人 一嘆も苟くもせざる 真に故ある哉、吾人また何をか驚かん。 請ふ 次章に説く所のスナルト氏の方陣を見よや。
説明第九
七の根数の方法によれば、(バッチェット、サードルール、ボイグナード 皆 用ふべし) 其の方陣の算法は バッチェット氏 縦横対角合せて十六線に於て各自平等数を得、サードルールも 同じく十六線にすぎず、ボイグナード氏方陣に於ては 之れに加ふるに、バーチアル、ダイヤゴナルスを以てする故、二十八の算法を得べし。 然るに スナルト氏の方陣は 合せて四十二の算法に於て悉く平等数を得るを以て、天下第一(方今の世界にて)と称す。 如左図(左図のごとし)。 即ち 縦線及横線合十四(14)、対角線二(2)、正角八(8)、鋭角八(8)、鈊角八(8)、イ及ロハニホ 一(1)、イ及ヘトチリ 一(1)。
同氏も亦た 其の方法を知りて之を秘するか、果して之を知らざる歟(か)は 吾人の断ずる不能ところなれども、蓋しまた 森羅万象の紛々たる中に於て 吾人の十九世紀の知識の境界は 大洋の数滴に異ならず、何ぞ此の方法も 他日発見せざるを知らんや、又た 尚ほ奇幻なる方陣術の存せざるを知らんや。 進め 進め 吾人の知識を防遏するの神あらんや、吾人の知識は 正さに神の蘊奥の扉を開くの鍵なり、神のヴエイルを除て 親しく接吻すべきの唇なり。 若し夫れ 数理の間に存する 微妙霊玄なる 奇珍幽異なる 其の方陣に属する神の意志を知る事を得ば、豈に 大快事大功名にあらずや。
第十 結論
首篇に於て概論をなせり、今や説明を止めたれば 結論なかるべからず。 方陣に付て 古来の妄見を既に排撃したるの筆は、今や変じて 実理を探求するの方法を講じて、永遠未来の智識を収穫するの 田地を耕耘するの説を書すべし。 蓋し 吾人の智識を以て有限となす耶(や) 無限となすかは 哲学的の大議論にして、神の存在を許すものは 之れを無限となす事あたはず、神の存在を非難するものは 有限となすあたはず。 如何となれば、智識無限となさば 神人の差別を分(わか)たず 無限の智識は無限の力(Knowledge is Power.)なればなり。 神とは(Supreme being)最勝者なれば、人を無限の力あるものとなすは 即ち最勝者なしとするの論たるを免れず、是れ 論理学上見易きの道理なり。 故に言を易(かへ)て之を言へば、神の存在に付ての見解の異なるは 智識の限界の有無に付ての見解の異なるによると云ふも 誤にはあらず。 即ち 一は自己の智識を無限となし最勝者となすにいり、之を以て神を判定し、一は 自己の智識を有限となして劣者の地に居り 神を無限となして最勝者となして、是れによりて自己を判断するなり。 到底 智識の有無限と神の存不在は 密切の関係を有するものにして、牛の一角の形を見て他の角の形を知るべく、最も緊要にして離るべからざるものなりとす。
偖(さ)て 余は神の存在を許すものなる故、(たとひ多数の無神論者と神の解釈を異にするにせよ) 堅く智識の有限を説かざるべからず。 斯く云はば 忽ち 論者 口を尖(とが)らして、何の故に有限なるやを問はん。 答へて曰く、人は自己によりて天地の大法 万象の大規を定めたるにあらずして、神によりて作られたる 天地万象のの中の一動物なれば、神の意志の存する所は知るべくして 其の第一因 即ち何の事の故に神は此の意思を生ぜしやは 知るあたわず、また最終結果 何の目的の故に此の意思を生ぜしやも 知る事あたわず。 請ふ 空想に渉るを避けて 実例に就(つか)ん。 一と一と合して二となる、此理を如何と問ふに、誰れか之を言ひ得ん。 或は 強ひて 一が二つある故に 二なりと云ひ、二つと云ふ事が一つある故に二なり と釈するも、皆な是れ 理にあらず。数式にて云へば 1+1=2,1×2=2,2×1=2 となす如し。 少しも理にあらずして 皆な事実なるのみ。 即ち 信ぜざるを欲すとも 信ぜざるを得ざるの的の感を 吾人の脳裏に神の画き出せる者にして、吾人は 此の画かれたる法律によりて 微分積分の如き難解の数学を釈し得る事あれども、其の法律の精神を解釈することは 到底望むべからざるの事なりとす。 即ち 吾人の解釈の正当なるものは、一と一と合せば二となるは 即ち是れ神の意志の法律なりと云を限りとす。 或は曰く、是れ自然( なりと。 噫、笑ふに堪たる答なるかな。 誠に 自然の意義を問はん。 曰く、然るべき理なりと。 然らば問はん。 何の故に然るべき理なりや。 即ち 此の答をなせし人は 答ふるあたわずして、却て 問の無法なるを責めんとす。 呵々。 此の疑問は 無法にあらずして、実は此の自然論者は 答ふる能はざる者 (即ち 其人の智識の限外) を強ひ 名(なづけ)て 然るべき理と云ひ、智識的の解釈を与ふるあたわざるものを自然と称して、自己を欺き 人を瞞着して 其の智識の高きを誇る所の、取るに足らざる人なる事は 其の事実上に明瞭なる事、日を看る如しとす。 若し果して智識無限ならば、解釈に解釈あり、その解釈に又解釈ありて 即ち無限の解釈あり、無限なるの故に 理の固定する事 必ずなし。 理 若し固定せずんば 何ぞ理を学ばん。 真に潜思せば 無限智識論者の愚なる事 知るべく、従つて無神論者は常に傲慢の骨ありて 浩博の脳髄なき者たるを知るに足れり。 次に考ふるに、数の中に零あり。 是れ 数なきの意なれども、また 零といへる数に違ひなし。 而して 一といへる数あり。 是れ 最小の数なり。 是より百千万億兆京に至り、終に極大の数あり。 其後に無窮大の数あり。 この無窮大も 数なきの数なりとす。 智識 もし果して無限なる時は 無窮なるものあるの理なしとす、智識有限なるの故に 無窮ありとす。 反対論者 もし此の点に於て観察せば 思半にすぎん。 論者 又た問て曰く、然らば 智識の度は 如何なる度に於て限らるゝや、汝もし此の至大の問を明了に答へなば 適々汝の智識の勝れたるを著すのみにして 汝の論の証拠となすにたらず、汝もし答へ得ずんば 即ち智識の区限の度は無窮にして 智識の無限なる事を見はすなりと。 是の如き言を一聞すれば 実に然る如くして 答へに苦しむごとし。 然れども 予は此の問に答ふるを恐れざるべし。 何となれば 此の問は 希臘の詭弁学派の人の言の如く、甚だ鋭利に似て 実に薄弱なるものなればなり。 曰く、人の智識は限りあり、故に智識の限りの度の如何を知る事あたわず。 又た 汝の言ふ所に一歩を仮して 智識を無限なりとするも、又た実は 有限たるをあらわすにすぎず。 無限の智識は 知らざる所なくして、知らざる所あるは 無限の智識にあらず。 汝の智識の区限は 汝の知らざる所なり。 故に 汝の智識は無限の智識にあらず。)
扨て 以上論じたるごとく 吾人の智識は全く限りありとす。 故に 吾人は 決してとはいわざれども 方陣の組織法の起る所以は 解釈を読者に与ふるあたわず。 如何となれば 一と一を合して二となる如く 唯だ幾度か説明するとも事実に過ずして、理論的に解釈する能はず。 但し 吾人は 智識の限りの度を知るあたわざるの故に、後世 或は俊秀の士ありて 此の妙理を知る事は 吾人の智識の外にあらずして、吾人の智識の内にある事を発見するやは 元より測り難きところとす。 噫、吾人の智識は限あれども 限なきが如し、尚ほ 無窮大の数あれども 数なきがごとし。 是れ 吾人の智識の大なるを 見(あら)はすものなり。 神よ神よ、吾人 汝に感謝す。 吾人に与ふるに 空亡に墜る無限の智識を以てせずして、無限の如く絶大にして 有限なる確実の智識を 勉強によりて得せしむる事を、又た 冀(ねがは)くは 汝の恩賜の明鏡によりて 汝の栄光ある意志の跡を発見せしめん事を。
参 考 |
1.公表されていた事実
昭和49 (1974) 年に至って、『明治大正文学研究』所載の『方陣秘説』を読んだ 数学史研究者・高木茂男により、本稿が 明治年間に次のとおり公表されていた事実が 明らかにされた。
(1) 明治26(1893)年、雑誌『小国民』に掲載
(2) 明治31(1898)年以降、単行書『算数奇観』、およびその後掲書に掲載
『小国民』は、当時 学齢館から発行されていた半月刊の少年少女向け雑誌で、石井研堂(1865~1943、編集者、文化史研究者)による良心的な編輯で知られていた。 同誌には、「数理奇問」と題した、数学遊戯に関する無署名の連載記事があり、『方陣秘説』はその連載に組み込まれ、九回に分けて連載・公表されたのである。 露伴は、明治25年から『小国民』に寄稿しており、この雑誌の有力な執筆者の一人となっていた。 学齢館からは、『宝の蔵』(明治25年)、『真西遊記』(明治26年)の2著を出版している。 同社の顧問格・高橋太華や、『小国民』の編集者・石井研堂とも、親しい間柄であった。 こうした関係からみて、『方陣秘説』は、露伴が『小国民』に原稿を提供し、その公表を委ねたものであろう。 掲載記事には 露伴の原稿と相違するところがあり、読みやすくするための修改が加えられたと考えられる。
雑誌『小国民』は、その後、学齢館の経営不振により発行権が譲渡され、明治30年1月号からは この譲渡を受けた北隆館から発行されることとなった。 北隆館はもともと 新聞・雑誌・書籍の取次業者であったが、取引上の関係から発行権の譲渡を引き受けたもので、新たに出版部を設けて『小国民』の発行に当たった。 この北隆館出版部はまもなく、別の雑誌『少年倶楽部』や 単行書も出版するようになったが、『算数奇観』は、その単行書の一つとして、明治31年に刊行されたものである。
『算数奇観』は、73項目の話題で構成されているが、その大部分は 前記『小国民』連載の「数理奇問」の再録である。 このため、『方陣秘説』も 自動的に本書に収録されたわけである。 収録に当っては、文章などに さらに修改が加えられている。 『算数奇観』は その後、版権譲渡により鳴皐書院から刊行されたのをはじめとして、転々と版元を変え、また書名も変えられて出版が継続された結果、全部で少なくとも6種類の版本があり、最後のものは 昭和13 (1938) 年の・興風書院刊行の『数理応用百中秘伝 透視術』であるという。 零細な小冊子ながら、なかなかのロングセラーであった。
かくて、『算数奇観』と その後継書に収められた『方陣秘説』は、その著作者が認識されることはなかったものの、かなりの長期間にわたり、多くの読者(少年少女)に、方陣という数学問題への興味を植え付けたのであった。
2.『方陣秘説』の特色
方陣は そもそも、わが国の数学 すなわち和算における 主要な研究テーマであった。 和算そのものが中国の数学に由来するように、方陣の研究も 中国の数学書(宋・楊輝の『算法』、明・程大位の『算学統宗』など)を手がかりに 開始されたのであったが、やがて 中国を凌ぐ独自の発達を遂げることとなった。
星野実宜(?~1699)、安藤有益(1624~1708)、関孝和(1642?~1708)、田中由真(1651~1719)、建部賢弘(1651~1719)、久留島義太(?~1757)、安島直円(1732~1798)、御粥安本(1794~1862)などの有力和算家は いずれも方陣の研究を手がけ、それぞれの成果を示している。
しかし、前記 高木茂男によれば、露伴は こうした和算家の研究成果を利用することなく、もっぱら英国のポピュラー・サイエンス誌『Knowledge』の 1881(明治14)年12月から翌年1月に刊行された号に掲載された記事によって、『方陣秘説』を著作したのであるという。
たしかに、『方陣秘説』の「説明第一」に掲げられた3方陣(奇数方陣)の作り方などは、早く『算学統宗』にその概念が示されていて、和算家には常識化していたのであるから、和算への理解があれば、「バッチェット氏法」などと称することはなかったであろう。 また、和算家が挙げた業績を知っていれば、建部賢弘の9方陣(両対角線と中央の行・列が等差数列をなす)や、田中由真の立法陣(4組の4方陣を重ねて立法陣を構成)などを掲げたかもしれない。 さらに 関孝和の方陣研究についての系統的な方法論があれば、偶数方陣における双偶数方陣と単偶数方陣の作成方法の違いも 明確に説明し得たことであろう。
露伴が和算の成果を利用していないのは、その当時の状況を考えれば、当然のことである。 露伴が小学校に入学したのは 明治8 (1875) 年のことであったが、その3年前に文部省は「和算廃止、洋算専用」の方針を出しており、「洋算の輸入と翻訳の時代が、嵐のようにやって来た」(小倉金之助『日本の数学』)ので、露伴は洋算による学校教育を受けて育ったのである。 今日の我々はかなり詳細に和算についての知識を得ることができるが、これは その後に行なわれた 和算についての回顧的研究の成果によってである。 和算の衰退とすれ違いに成長した 当時の露伴には、そうした手がかりはなかったはずである。 ただ、和算のわずかな余燼のようなものがあって、「方陣」の語が記憶されたのであろう。
その方陣が、西欧では「マジック・スクウェア」(magic square)と呼ばれるとして、露伴は そのマジック・スクウェアを解説しているわけである。 方陣すなわちマジック・スクウェアは、中国やインドに起源を有すると考えられ、西欧には、ビザンティン帝国を経由して14世紀初め頃 伝えられた。 当初は 神秘的なものとして 占星術家達に利用されたらしいが、次第に数学的な興味からその作成方法の研究などが行なわれるようになり、数学的思考を楽しむ「数学パズル」の一つとして定着するに至った。
露伴の記述は、その大部分が『Knowledge』誌掲載記事に基づいていることもあり、教科書的な説明と高度な方陣の紹介とを調和させたもので、数学的思考に導く手引き書としては 成功したように思われる。 ただし、「概論」と「結論」という 前後の部分での観念的議論が過剰で、重苦しくなっているのが 難点というべきか。 この点については、追って補足説明を加えることとしたい。
なお、方陣は、今日では「魔方陣」と呼称されることが多い。 これはもちろん、和算以来の「方陣」の語に 「magic square」の意味を重ね合せたものである。 その最初の用例は、露伴の『露団々』の「例言」(「無名翁の地盤は、ぼいす氏の魔方陣なり」)中の語であるとされている。
3.『方陣秘説』の執筆時期
『方陣秘説』の執筆時期に関しては、塩谷賛と二瓶愛蔵に説があるので、それぞれの概要を紹介してから、筆者の見解を述べる。
塩谷賛は、「迎曦塾」時代の終り頃(明治16(1883)年の前半頃、満15歳)と推定している。 概論部分における、洛書を易の起源とする議論が、きわめて明解に叙述されている点を重視したためであろう。 しかし、塩谷にとって科学雑誌『Knowledge』は 思いもよらぬことで、もちろん考慮の外である。
二瓶愛蔵(『若き日の露伴』、1978年)は、北海道・余市から帰京後の「明治二十年の末からその翌年の初めころ」(1887~8年、満20歳)の執筆としている。 結論部分で展開されている有神論を、キリスト教ユニテリアン派(Unitarian)の影響と見て、その教義を知ることのできた上記の時期としたものである。 『Knowledge』の閲読に関しては、「キリスト教関係の人から借りて」 読んだものと推定している。 このような雑誌がキリスト教関係者のところにあって、それを借りることができた蓋然性は、きわめて乏しいであろう。
筆者の見解であるが、『Knowledge』の刊行時期から妥当な経過期間を有し、かつその閲読の便宜が得られた時期、ということになると、(迎曦塾時代の次の)電信修技校時代(明治16(1883)年8月~17(1884)年8月頃、満16歳)とする以外、考えられないのではなかろうか。
電信修技校は、工部省が早く明治4(1871)年に創設した電信技術者養成機関であり、露伴が入学した明治16(1883)年頃の施設や教育内容はかなり充実していたものと考えられる。 露伴の学んだ汐留校舎の状況は判らないが、その後明治19(1886)年に移転した芝公園内の校内配置図(『東京郵便電信学校一覧』、明治36年)には、別棟の書庫を伴った、かなり大きな図書館の建物が示されている。 この図書館に相当する施設は、露伴の在学当時も存在し、そこで閲覧に供されていた文献類の一つが『Knowledge』だったのであろう。
迎曦塾での勉学生活からみると、非常に大きな環境の変化である。 教科の中には、露伴の興味を惹くものもあったろうが、多くは履修の義務を果すにととまったであろう。そして、この新しい環境での模索の中で、主体的な研究対象としての「マジック・スクウェア」に出会ったのではなかろうか。
16歳といえば、今ならば高校1年生に相当する年代である。 この年代で、ほとんど未知の数学テーマに関する英文文献を読解し、その内容を再構成するとともに、独自の思索を含む著作に仕上げたわけである。
終