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口絵写真
「君山老人、時に年六十七」とある。
(君山は、狩野直喜の号。)


目 次


  はしがき (吉川幸次郎)

 第一編 総論
  第一章 中国哲学史の範囲及び其の特質
  第二章 中国古典の研究法
  第三章 中国哲学史の材料―目録学―

 第二編 孔子以前の中国思想
  第一章 中国民族の起源
  第二章 中国思想の起源
  第三章 中国古代の宗教思想
  第四章 中国古代の道徳思想
  第五章 中国古代の五行に関する思想
  第六章 易

 第三編 春秋戦国時代の思想
  第一章 周代の制度と思想の勃興
  第二章 孔子
  第三章 孔門の分派
  第四章 老荘学派の哲学
  第五章 楊朱の哲学
  第六章 墨子の哲学
  第七章 法家の哲学
  第八章 名家の哲学
  第九章 縦横家・兵家及び雑家

 第四編 漢唐時代の思想
  第一章 西漢の経学
  第二章 東漢の経学
  第三章 魏晋南北朝の哲学
  第四章 唐時代の経学

 第五編 宋元明の哲学
  第一章 宋代の哲学
  第二章 元代の哲学
  第三章 明代の哲学

 第六編 清の学術と思想
  第一章 概説
  第二章 漢学の予備時代
  第三章 乾嘉時代の漢学
  第四章 道光以後の学術と思想

  跋 (吉川幸次郎)


狩野直喜 「中国哲学史」

 昭和42 (1967) 年7月、 第7刷、 岩波書店。
(昭和28 (1953) 年12月、 第1刷)
 A5版、クロス装。 本文 663頁。


 狩野直喜(かの・なおき、明治元 (1868) ~ 昭和22 (1947) 年)は、漢学者、京都帝国大学教授。
 本書は、「著者が京都大学の哲学科普通講義として、数回くりかえして行ったものを、著者の草稿の存する部分は、それをもととし、草稿のない部分は、学生のノートによって整理編集したもの」(「はしがき」) である。

 「本文紹介」としては、第二編 第五章の 「中国古代の五行に関する思想」 を、掲げることとする。
 古代中国に発生した 五行の思想は、はるか後の我々の言語や生活習慣の上にも その痕跡をとどめているが、ここにはその拡がりや混迷の全貌が、詳細に説明されている。
 説明の最後に、人事との関係として述べられている 錬金術への影響(注⑦)は、五行の思想の性質を端的に示すものであろう。



本文紹介






第五章 中国古代の五行に関する思想

 古代中国人の所謂 五行なるものを叙述するに、三項に分つて説くを便とする。 即ち、一、五行の起源、二、五行の意義、三、五行に関する思想の変遷、これである。

  第一節 五行の起源

 五行の名が始めて中国の古典に見えたるは、尚書の甘誓であろう。 此より先、禹貢にも「六府孔修」 の語があつて、六府とは五行と穀とを合せ称したものといはれるが、五行に関する詳細なことは、洪範に載せられて居る。
 抑々(そもそも) 五行に関しては、漢儒以来、中国の学者間に 種々議論のあることであるが、近時 西洋人の間には、此の思想を以て 外国より中国に伝はつたとする論者がある。 例せば、チャルマース氏の如きは、六府の思想を以て ペルシャの Avesta から来たと云ひ (Dr.J.Chalmers; The Origin of the Chinese. p.26)、エドキンス氏 亦た 此の説に同じ。 即ち 五行の思想は夏の時代に ペルシャの哲学が中国に入つた結果だらうといふ(Dr.J.Edkins; The Relationship of the Persian and Chinese Calendars, China Review,XVI,1887,95-98)。 然るに 此に反対する論者は Avesta の成りしは 夏の後なので 五行の思想をペルシャから来たとなすは不可である、寧ろバビロニヤから来たとなすべきである、ただバビロニヤ人に此の如き思想を有した確証なきを憾む云云といふのである。 此等の諸氏 其の説く所 一致せぬが、五行を以て中国人に固有なる思想となさず 外国にその起源を求めようとするは 同一である。 しかしながら、余の考へる所では、此等はまだ篤論となすことは出来ぬ。 蓋し、人智発達の或る階段に於ては、いづれにあつても 斯の如き思想を生ずるは 疑ふことが出来ない。 此等の思想が或る一国から伝はつたとなすよりも、相互に関係なくして 自然に発生したとするのが 至当であらうと考へる。 (印度・希臘にも 五行に類似の思想があった。 これも固有のもので、他の影響を受けず 独立に発生したものと思はれる。) 然らば 中国の学者の五行に対する考は如何にといふに、五行と洪範とは極めて密接の関係を有する故、先づ洪範に就いて説明するを便とする。
 洪範とは、周の武王が既に殷を平げたる後、殷の臣 箕子に就き道を問ひたる時、箕子が禹より伝へ来つた洪範九疇につき 武王に語つたものを、当時 史臣が記録し 洪範と名づけたものと云はれて居る。 故に 其の書は周代に成つたものであるが、其の思想は周以前にあつたものとせねばならぬ。 さて 書の説く所によれば、禹は此の洪範を上帝から授つたといふのである。 而して 上帝が禹に之を授けたについては 種々奇怪なる伝説がある。 漢の劉歆の如きは 易の繫辞伝に 「河出図。 洛出書。 聖人則之。」 とあるのを引いて、河、図を出すとは、龍馬が図を負うて河より出てきたのを、伏羲がその図に則つて 八卦(即ち易)を書いたことであり、又 洛、書を出すとは、洛より亀が書を負うて出てきたが、禹はその書に依つて洪範を作つたことだとし、又、洪範の書中に九疇を列ねたる一節 即ち 「初一曰五行。 次二曰敬用五事。 次三曰農用八政。 次四曰協用五紀。 次五建用皇極。 次六曰又用三徳。 次七曰明用稽疑。 次八曰念用庶徴。 次九曰嚮用五福。 威用六極。」 云云の六十五字を以て 洛書の本文とするが (案ずるに 劉歆の説は 漢書五行志に見ゆ。)、緯書によるときは、神亀洛水より文を負うて出たのを 禹が之を取り 法(のっと)つて洪範を陳べたと云ひ、鄭玄の説 亦同様である。 (鄭玄の説は 尚書大伝の注に見ゆ。) 然るに 馬融は 初一曰。次二曰。等 二十七字は 禹が洛書の文について順序をつけたものであつて、之を除いたものを洛書の本文とすべきであると云つて居る(釈文)。 又 或る学者は 五行五事等の二十字を以て本文とし、其の他は総べて禹の加へたものとする。 かくの如く 其の説 一でないが、禹の洪範を洛書に本づくとなす点は同一である。 然るに又 一方から之を非難するものがある。 即ち、洪範の本文には 唯 「天乃錫禹洪範九疇。 彝倫攸叙 」 とあるのみで、未だ嘗て洛書の事に説き及んで居らぬ、劉歆は繫辞伝を以て証とするが、聖人則之云云とあるからとて 洛書と洪範とを結合するは 独断の見(ケン(=見解、意見))たるを免れない。 繫辞伝に言ふ所の聖人とは 蓋し伏羲一人の事で、其の八卦を作つたのを云ふのであつて、固より禹の洪範とは何等の関係もないものだと、このやうにいふのである。 しかし、此は後世から合理的に之を解釈せんとするの意に出たもので、洛書が洪範に関係を有すると否とに係はらず、均しく天より禹に錫(あた(=与))へたものとしてあることは、本文に依つて明かにすることが出来る。
 さて、洪範は天より禹へ錫へたものとすることを 本文に依つて認めるとして、其の中に含まれた五行思想も亦 禹の時代に起つたもので 此より以前には此の思想がなかつたかどうか、此は一の疑問である。 現にエドキンスの如き、夏の時代にペルシャから伝はつたものとするが、此も この疑問に対する答の一である。 しかし、余の考へる所では、禹が五行の一たる水、洪水を治め 天下に大功あつたによつて、之を尊ぶの余り 五行と禹を連想し、遂に此の如き伝説を生じたのであつて、禹のときに至つて突然 五行の思想を生じたとは信ずることが出来ぬ。


  第二節 五行の意義

 古昔 中国人は 何故に五行の名を列べたのであるか。 洪範に見えた箕子の説明によれば、水火木金土といふ順序に並べられ、且つ その性質等に就いて 潤下・炎上・曲直などの説明が付されてあるが、此に問題となるは、古昔の中国人は一体、五行なるものを如何なる意味に用ひたかといふことである。 万物が因つて生ずる原素の意味に用ひたものか、それとも 人民の日用欠くべからざる具とし 之を尊重して教へたものか。 五行に関する学者の解釈を見るに、多くは 「五行とは 天にありては五気流行し、地にありては民 之を行用するを以てなり。」 と言つて居る。 五気流

(この場合、行は めぐる と訓む。)とは、五気、宇宙に散布して万物に形を賦するといふ義なれば、或は原素といふやうな考かと思はれるが、民 之を

(この場合、行は おこなふ と訓む。) するといふ語に至つては、人民生活に必要なので 此の五者を挙げたことになる。 即ち 学者の解釈によれば、五行といふ語には、原素の意味と 利用の具といふ意味と 両者混在することになる。 もちろん漢以後には 総べて万物は五行より成るといふ考を有つて居たが、古代から同一の考を有つて居つたか 此は余程面倒な問題である。 余の考へる所では、古昔 中国人が原素などといふ考を有つて居つたといふことは疑はしい。 蓋し 中国人は、その始めより実際実利といふことを心がけた民族であつて、宇宙論などの如き高遠なる問題には思考を向けなかつた。 第一疑ふべきは、仮りに此の五者を原素のやうに考へたとせんか、金木の如きものが土より生ずるとの考は何人も認めるであらうが、金木を以て五行の中に入れたのは 如何なる理由であらう。 又、五行と穀とを合称して六府としたことは 左伝の説く所である。 (左伝文七年) 六府の府とは倉で、天が人民を養ふ所以の具である。 若し五行を原素のやうに考へたとしたら、同種類でない穀と合称するの不可なることは、古昔の中国人でも知り得たことであらう。 然るに合称して居るのは、五行を人生必要の具となしたのではあるまいか。 又、左伝に五行を五材と称したことが見えて居る。 即ち 「天生五材。 民並用之。 廃一 不可。」(左伝襄二十七年) とあつて、杜注に「金木水火土也」と云つて居る。 材とは材能の材で、五行 各々 材能あり、是れ 天が人民に与へたものであつて、人民は之を使用して生活をなすことが出来るといふことである。 此の外、五行なる語を利用の点より見たるは古書に多い。 伊藤東涯の如きも古今学変に於て、五行の義、古今 解釈を異にするを論じ、Legge の如きも 其の尚書英訳には 本文に The five Elements の語を用ひながら、フート (footnote 脚注) に注意して 「私は五行を訳すに Elements の語を以てしたが、古昔の中国人が五行に対し果して此の如き思想を有したか 明かにすることは出来ない。 故に 唯 The five essentials to human life の意味に解釈するを以て満足するほかない。」(J.Legge; The Chinese Classics,vol.II,pp.325-326) と云ひ、又、仏人 ゴービル (Gaubil) の如きは、その面倒を避くるため、唯 訳して Les Cinq Hings (行の音標) となし、別に之に当る訳語を用ひて居ない。


  第三節 五行に対する思想の変遷

 前述の如く、五行は古昔に於て 単に人生に必要なる具として考へられたと認められるが、後には此の思想が次第に変化して、遂には有形無形に論なく総ての事物と関係を有するものと考へられ、或る場合には 全く原素と同様な意義に用いられるに至つた。 余は 此の変遷の次第を叙述するに先だち、洪範本文に見えた五事と庶徴とに就き一言する。 蓋し、是は 五行思想の変遷を推測するに最も便利であるからである。
 五事とは 貌・言・視・聴・思 の五であつて、均しく人君の行為である。 此の行動を適当に施し 過なき為めには、各行為に属する特性があつて、此を伴ふときは 良好の結果を収めることが出来る。 而して 此等の行為は亦 自然現象に関係を有し、人君の行為の善不善に応じ 徴験あるものと信ぜられた。 此を庶徴といひ、衆験のことである。 貌の特性は恭で、人君の容儀 儼恪なるときは、心中に敬が生じ、即ち 粛といふ結果が得られる。 言の特性は従で、人君が言を出し 道に合し、人 得て従ふべきときは 国治り、即ち 乂といふ結果が得られる。 視の特性は明で、人君 能く明なるときは 万事を照らして蔽はれることがない、即ち 哲といふ結果が得られる。 聴の特性は聡で、人君 聡なるときは 其の謀 当らぬことがない、即ち 謀といふ結果が得られる。 思の特性は睿で、人君 思慮深きときは 事に於て通ぜざることがない、即ち 聖といふ結果が得られる。 而して 此等の特性は、ただ人君の行為に対して良好の結果をもち来すのみならず、又、自然現象に影響を及ぼすとされて居る。 自然現象として現れるのが衆験で、雨・暘(ひでり)・燠(あたたかし)・寒・風 の五気である。 即ち 人君の行為が、前に述べた如き 粛・乂・哲・謀・聖といふ結果を得たときは、五気が能く調ひ 時(時とは 時にかなふことで、例せば 時雨とは雨降るべき時に降り その節を衍らぬのである。)であるけれども、若し之に反するときは、恒雨(恒とは 度を過ぎて長続きすること。)・恒暘等の変が起り、大いに人民を苦しめることになる。 かく 五事と庶徴との両者は、恰も影の形に伴ふ如く、如何にしても遁れることが出来ぬものと かく考へたのである。
 洪範の本文に明言してあることは、五事と五気 即ち庶徴との関係だけであつたが、何時の頃よりか 五行も亦 五事に関係を有するものとして 考へられたやうである。 蓋し、雨・暘・燠・寒・風 も天の生じたものであり、五行も亦 天の生じたものであるから、其の源は一である。 一歩を進めて云へば、雨・暘・燠・寒・風等も 五行の形を変へたもの故、人君の行為が庶徴に影響を及ぼすといふことは、要するに 五行が人事に影響するを顕はすことだと云ひ得る。
 かくて 五行と人事とが 相互に密接なる関係を有するものとして考へた結果は、一変して 総べて天地間の事物を五行に依つて説明するの風を生じた。 即ち 天地間の事物は、一として五行の影響を受けざるものなき故、此等の事物を分類して五行に付属させることになつたが、是を五行の配当といつた。 此に至り、五行の原始的意味はその大半を失ふに至つた。 そもそも 此等の思想は 已に左伝に於て其の一端を窺ふことが出来る。 即ち 同書に於て 五行と五声・五色・五味等を連言するが如き、恐らく五行配当の先声であらう。 唯、当時は万物を尽く五行の範疇に入れるだけであつて、所謂 五行配当といふことは 蓋し戦国以後の事と考へられる。
 以下は 本編に述ぶべき範囲を逸するけれども、説明の便宜上 言及するのであるが、戦国のとき 五行に就いて議論をなしたものは 斉人 鄒衍を以て翹楚とする。 衍の著はしたものに 五徳終始篇なるものがあるが、其の中に 次のやうなことを云つて居る。 いはく、勝つべからざるものを以て徳とする。 即ち 夏・殷・周は 各々 木・金・火の順によつて 之を徳とした、火に勝つものは水なる故、周に継ぎて王たるものは 必ず水徳を受けたものであらうと。 此に於て 相生相剋の説が起つた。 相生とは 五行が相互に生成する順序を謂ふのであつて、木・火・土・金・水 是れであり、相剋とは 相互に前行を剋する順序で、木・金・火・水・土 是れである。 而して 此等の思想は 秦漢の頃、政治及び道徳の思想に大なる影響を及ぼした。
 総べての事物に五行を配当したことは、礼記月令に就いて之を見ることが出来る。 しかし、月令は その本づく所、呂氏春秋 である故、此の思想は 周末秦初に盛であつたことが察せられる。 余は次ぎに五行に配当された事物を列記する。 唯、何故に五行が各事物に配当されたかの理由に至つては、古来注家の説く所 甚だ詳ではあるが、要するに牽強付会に過ぎず、全く非科学的なる故、今 其の事実を挙げるに止める。
(一) 古昔より十干を以て日を数へたことは 尚書等に見えて居るが、後、五行の思想が盛になるにつれ 此等を五行に配当した。 即ち 甲・乙を 未、丙・丁を 火、戊・己を 土、庚・辛を 金、壬・癸を 水 となした。
(二) 四時と方位。 四時を五行に配し、春を木、夏を火、秋を金、冬を水とし、又、四時の各々より十八日を取り、之を以て土に配し、之を季夏の末、孟秋の始めに置いた。 方位については 東を木、南を火、西を金、北を水、中央を土とした。
(三) 五帝。 古代の帝王は皆、五徳を受けたるものなればとて 之を五行に配した。 大皥(伏羲氏)を木、炎帝(神農氏)を火、黄帝(軒轅氏)を土、少皥(金天氏)を金、顓頊(高陽氏)を水 となした。 此は ただ五行を配当する目的で 五帝の目を挙げたものであつて、古史に見えたる五帝が果して上記の人々であつたか 疑はしい。 現に 司馬遷が史記に五帝として列挙するものは 之に異つて居る。
(四) 音楽の五声を五行に配当したことは 已に左伝に依つて知られるが、呂氏春秋も亦 此に同じ。 即ち 木を角、火を徴、土を宮、金を商、水を羽 とした。
(五) 五味を五行に配当したるは 洪範の本文に見え、五味と五行とを列べ挙げたるは 前に引用した左伝の文に依つて知ることが出来る。 その配当は、酸は木、苦は火、甘は土、辛は金、鹹は水 である。
(六) 五臓を五行に配当するには、呂氏春秋及び古文尚書家のいふ所と 今文尚書家のいふ所と 各々異つて居る。 呂氏春秋及び古文尚書家の説によれば、脾を木とし、肺を火とし、心を土とし、肝を金とし、腎臓を水とすれども、今文尚書家は 肝を木とし、心を火とし、脾を土とし、肺を金とし、腎を水とする。 内経素問の言ふ所、又、現今俗間の伝へる所 亦このやうである。
 以上は 重に呂氏春秋に本づいて叙述したのである。 なほ 同書には明言しないが、左伝などに五声と同じく五行に配当したのは 五色である。
(七) 青を木、赤を火、黄を土、白を金、黒を水に当てた。
 此の外、漢儒によつて五行に配当されたものは、洪範の五事と五常との二である。
(八) 洪範に見えたる五事を五行に配当するには、漢儒に二説あるが、今は唯 普通の説を挙げる。 即ち 貌を木、言を金、視を火、聴を水、思を土とした。
(九) 仁・義・禮・智 に信を加へて五常とするは 漢儒に始まつたのであつて、先秦の儒家には この思想がない。 即ち 五行の説が盛になるにつれ、この配当が始まつたので、この事は 班固の白虎通及び鄭玄の中庸注に見えて居る。 その配当は 仁は木、義は金、禮は火、智は土、信は水である。
 以上 述べたる種種の配当は、前にも述べし如く 何等の確実なる根拠あるわけでもなく、又、学者の之に関する説明も、要するに牽強付会を免れない。 今日より見れば 一笑にも値せぬものであるが、当時にあつては 之を信ずること極めて厚かつたことは、漢儒の議論が 毎に五行を援いて其の本拠としたことによつて 知られるのである。
 五行を以て人事 殊に人主の行為に影響されるものとし、天変地妖を以て人主の責任としたことは、或る意味に於いて 人主に対する唯一の制裁として都合のよい面もあつたらうが、五行を人事に結合した結果、五行其の物の性質に対し 研究をなすことが無かつたため、真正科学の発達を見ることの出来なかつたのは 誠に惜しむべきことである。

 五気と人君の行為とが関係を有するとの思想は、最も漢時代に盛であつた。 その詳細は漢書五行志の所説を参照されたい。
 この思想の変遷は何時頃にあつたか 断言することは出来ないが、左伝昭公元年の条に 「天有六気。 降生五味。 発為五色。 徴為五声。」 とあり、又、同二十五年の条に 「生其六気。 用其五行。 気為五味。 発為五色。 章為五声。」 とあつて、六気とは 杜預云ふ、「陰・陽・風・雨・晦・明」 と、即ち 洪範庶徴の五気に同じ。 然るに五味が五行に属することは 洪範の明記する所であるから、左伝時代には 庶徴の五気と五行とは 同一の性質を有つものとして考へられた証ではあるまいか。 又 案ずるに、管子水地篇に五行を述べること 頗る詳であるが、管子の書は 尽くは平仲の手に成つたものでないから 此には引かない。
 後世、陰陽五行は儒家の常言となつたが、戦国時代に行はれた五行説は別個の一学派であつて、儒家とは何等の関係もないものである。 その詳細は 漢志の記する所によつて見ることが出来る。 唯 此に注意すべきは、当時 儒家の中にも その或る者は五行説の影響を受けたらしく、荀子非十二子篇に子思・孟子を非難し 「案往旧説。 謂五行○○

。 甚僻違而無類。 幽隠而無説。 閉約而無解。」 といつた。 楊倞は 五行を注して五常とするが、同じく儒家に属する荀子が、五常を説くの故を以て 子思・孟子を駁すの理はない。 五行とは 蓋し 洪範の五行であらう。 子思・孟子が五行の説を唱へたといふことは、書に於て徴すべきはないが、これ恐らく 思孟系統に属する儒家にして 当時流行の五行説に感染した者を斥したのであらうと考へられる。
 鄒衍の事蹟は 史記孟子荀卿列伝に付見す。 漢志によるときは その著 頗る多かつたと見えるが、今は伝はらない。 唯、玉函山房輯佚書に鄒子一巻を収めて居る。 古書中から 鄒の語を蒐録したものである。
 呂不韋が賓客に編纂させたもので、自著ではない。 その出来たのは 始皇即位八年と云はれて居る。
 人主の五事が五行に関係する所から、補弼の大臣の職務は 陰陽を燮理するを最も重大なるものとして考へられた。 漢書丙吉伝に 「吉又嘗出逢道群闘者死傷横レ一道。 吉遇之不問。 掾吏独怪之。 吉前行逐人逐牛牛喘吐一レ舌。 吉止駐使騎吏問牛行幾里矣。 掾吏独謂丞相前後失問。 或以譏吉。 吉曰。 民闘相殺傷。 長安令京兆尹職所禁備逐捕。 (中略) 方春少陽用事。 未大熱。 恐牛近行用暑故喘。 此時気失節。 恐傷害也。 三公典調和陰陽。 職所当憂。 是以之。 (前漢書巻七十四)」 といひ、又 我が大宝令の官制にも、大政大臣の職、陰陽を燮理するにありとしたのも、亦 同一の理由に本づくものと思はれる。
 医術が五行で説明されたことは、前に述べたる黄帝内経素問に就いて見れば知られる。 又、戦国より秦漢に至り 煉金術の盛であつたのは、これ亦 五行説の影響である。 しかし、此も遂に 一の科学として発達することはなくて了つた。





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