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表紙
蔵書票 (棟方志功) |
目 次
渋江定所、抽斎父子の随筆発見 森 潤三郎 日本人が著作せる耶蘇教攻撃書類の翻訳 幸田 成友 種彦の考証資料となつた其角の句 宇田 久 元禄版『女重宝記』 井上 和雄 ペルリ提督の『日本遠征記』 玉城 肇 ロマン・ロランの一風土 片山 敏彦 アナトオル・フランスと書物 根津 憲三 雑誌の豪華版 河井 酔茗 書物回顧 笹川 臨風 俳句さあびす 田中凉々子 春景 岩倉 倶栄 国木田独歩 寺神戸誠一 独逸の蔵書票その他 小塚 省治 梵字の手引き 服部清五郎 鶴堂牛山良介について(一) 今井 卓爾 『博物館書目』雑考 竹林 熊彦 作者雑考 鈴木 行三 新刊風景 鎌倉 三郎 『神道の宗教発達史的研究』読後の所見 ホルトム 桑 貞彦 日本神社資料目録(二) 大辻 鉱蔵 〔付録〕 明治 大正 著者別大年表(其の三) 斎藤 昌三 |
本文の一部紹介 |
渋江定所、抽斎父子の随筆発見
森 潤三郎 空白
一
家兄 鴎外は その著「渋江抽斎」 の 五十五、五十六に、抽斎の著述について記し、その中に
抽斎随筆、雑録、日記、備忘録の諸冊中には、今 佚亡したものもある。 就中 日記は 文政五年から安政五年に至るまでの 四十二年間に亘る記載であつて、宛然たる大冊数十巻をなしてゐた。 これは 上 直ちに天明四年から天保八年に至るまでの 四十二年間の允成の日記に接して、其中間の文政五年から天保八年に至るまでの十六年間は 父子の記載が並存してゐたのである。 此 一大記録は 明治八年二月に至るまで、保さんが蔵してゐた。 然るに保さんは 東京から浜松県に赴任するに臨んで、これを両掛に納めて、親戚の家に託した。 親戚は その貴重品たるを知らざるがために、これに十分の保護を加ふることを怠つた。 そして 悉くこれを失つてしまつた。 両掛の中には 猶 前記の抽斎随筆等十余冊があり、又 允成の著す所の定所雑録等約三十冊があつた。 想ふに 此諸冊は既に屏風葛籠等の下貼の料となつたであらうか。 それとも何人かの手に帰して、何処かに埋没してゐるであらうか。 これを捜討せんと欲するに、由るべき道が無い。 保さんは今に迨(いた)るまで 歎惜して已まぬのである。と書いてある。
允成は 幼名を専之助といひ、元 志摩国鳥羽城主稲垣家の重臣で、君を諫めて旨に忤ひ、遁れて商人となり、江戸に来て 根津に茗荷屋といふ旅店を経営した 稲垣清蔵の嫡男で、明和元年五月に生れ、六歳にして詩賦を善くした。 津軽家の医官 渋江本皓が これを聞いて養子に所望すると、清蔵は 子を士籍に復せしむることを願つてゐたので 快く諾した。 允成 字は子禮、定所と号し、居る所を容安と云つた。 通称は 初 玄庵と云つたが、天明四年二月 養父本皓が没して 家督を相続し、十一月十五日 道陸と改めた。 儒学は柴野栗山、医学は依田松純の門人で、著述に 容安室文稿、定所詩集、定所雑録等がある。 最初の妻 田中氏は 子無くして死し、後妻 川崎氏は 一女を生んだ翌年離別し、最後に岩田氏を娶つて 文化二年十一月八日 男子を生んだ。 これが抽斎である。 允成は 天保八年十月二十六日 七十四歳を以て没し、谷中感応寺に葬り、法号を得寿院量遠日妙信士といふた。
抽斎 小字は恒吉、長じて 名を全善( 、字は道純、又 子良といひ、道純を以て通称とした。 その号 抽斎の 抽字は、本 籕に作つた。 籕、㩅、抽の三字は 皆 相通ずるのである。 別号には 観柳書屋、柳原書屋、三亦堂、目耕肘書斎、今未是翁、不求甚解翁、三世劇神仙等がある。 安政五年八月二十八日夜 丑の刻 虎拉剌の為に没す、年五十四、生前自ら法諡を選んで 容安院不求甚解居士といふたが、これは石には刻まれず、墓には海保漁村の文を彫つた碑が立てられた。)
保は 抽斎の七男、父の没する前年の安政四年七月二十六日に生れ、小字は三吉、長じて 名を成善( 、通称は道陸、明治維新後 名を保と改めた。 兄たちが夭逝したり、他家の養子になつたりした為に 抽斎の嗣となつた。 明治八年一月二十九日 十九歳で師範学校を卒業し、二月六日 文部省の命を受けて 浜松県に赴くことゝなり、母 山内氏五百を奉じて 東京を発した。 同県学務課長 大江孝文は 県令 林厚徳に稟して 師範学校を創設し、保をその教頭とした。 翌九年八月 浜松県を廃して静岡県に併せ、学校も 静岡師範学校浜松支部と改称せられ、十一年二月 中学校と改まり、十二年十月 保は学問修業のために、職を辞して東京に帰つた。 親戚に託した日記記録類は、この留守中に紛失したのである。)
二
故 文学博士井上頼圀翁の遺書を保管し、有志に閲覧を許せる無窮会神習文庫は、昨 昭和十年十一月 その目録を公刊された。 わたくしもその一部を得て 細検してゐると、第九部門の甲、随筆の二、雑纂の中に
籕斎随筆 文政十 成 写 一一 一三〇〇五
定所雑録 十四巻(巻一、三欠) 定所允成輯 写 六 一三〇二五
とあるを 見付けた。
昭和九年以来 渡辺刀水、森銑三両氏が 伝記調査を主要目的とする三古会を起され、わたくしもその一人に加はり、毎月一回 無窮会内に相会して研究を発表し、文庫の書籍を閲覧してゐるが、印刷された目録が無かつた為に 今まで気付かなかつたのである。 わたくしは 十一年二月上旬文庫に赴き、主事 林正章君に請ふて 両書をだして貰ひ、調査の結果 保翁が紛失を歎惜したものゝ一部であることが判つたが、保翁も家兄も既に泉下の人となつて、この事実を報告して喜ぶ顔の見られぬのは 遺憾である。 この二書と共に紛失した日記と他の雑録類は 果してどうなつたであらうか。 保翁が四十余年捜索して判らなかつた中の二書が 偶然見出されたやうに、他の愛書家の庫中から出現したならば、どんなに嬉しいことであらう。
三
定所雑録、籕斎随筆 共に 半紙判渋引きの厚紙で装幀せられてゐる。 定所雑録の方は 惜しいことに 第一巻と第三巻とを欠き、第七、八巻は 合せて一冊に綴ぢられ、第十四巻まで、現存十一冊、籕斎随筆は 六巻六冊である。 二書とも 毎巻首に、「長井之章」「石塚文庫」、巻尾に 左向き象形の上に「豊芥」と刻した朱印が 押捺してある。 石塚重兵衛は 下谷豊住町に住し、代々粉商をしてゐるので、芥子屋と人に呼ばれたが、真の屋号は豊島屋である。 自分が芥子の臼を踏むこともあるので、豊住町の芥子屋といふ意で 自ら豊芥子といひ、別に豊亭また集古堂とも号した。 寛政十一年に生れ、文久元年十二月十五日 没す、年 六十三、浅草北清島町 報恩寺に葬る。 渋江抽斎は 豊芥子が文字を識つて、広く市井の事に通じ、又 劇の沿革を審にしてゐるのを愛して 厚く交つた。 抽斎に長ずること七年、その死に遅るゝこと二年で没した。 「渋江抽斎」その七十二に
抽斎の蔵書を散佚せしめた顛末を尋ぬる時は、豊芥子も亦 幾分の責を分たなくてはならない。 その持ち去つたのは 主に歌舞音曲の書 随筆小説の類である。といふてある。
抽斎の蔵書は 三万五千部あるといはれてゐたが、万延元年 抽斎の碑を建てゝ、渋江氏が本所台所町の邸を引払つて 亀沢町に移つた時は 一万部に満たなかつた。 抽斎の次男で 矢島氏の養子になつた優善( が 道楽者で、屢ば(しばしば)書籍を持出して 売飛して 遊興費に充てた。 又 抽斎の友人 森枳園と その子 養真に貸した書籍は 多く戻らなかつたといふ事であり、豊芥子も亦 歌舞音曲 随筆小説や、元禄の若衆人形、錦絵の類を借りた儘で、何遍督促しても 遂に還さなかつたさうである。 この雑録、随筆 二書に 渋江氏の印が無くて、豊芥子の印があるところから推して見ると、保翁が親戚に預けた中にあつたと思はれたのは 記憶の誤で、それより前に豊芥子が持去つたものかと思はれる。 もう一つの「長井之章」は 誰人の印か わたくしは知らない。)
抽斎の書が紛失するのを惜しんで、友人 小島成斎 海保竹逕 等が 未亡人五百に勧め、抽斎の師 伊沢蘭軒の次男で 分家して幕府の医官となつた伊沢柏軒に 保管を託する事にした。 文久二年九月 柏軒は 翌年将軍家茂の上洛に随行する事になつたので、預かつた蔵書を返し、渋江家ではこれを 藩主津軽家の倉庫に預け、毎年二度づゝ虫干をする事に定めた。 その時作つた目録によれば 僅に三千五百余部に過ぎなかつた。
四
わたくしは 未だ両書の内容を熟読する暇が無いが、目録を一閲して その数冊を拾ひ読みした処によれば、定所のは 表題の文字通りの雑録で、文字の事(ネタバの字、蛋字、査字等)、書籍の事(平家物語太平記、集義外書抄録、おあん物語等)、世上事件の聞書(鈴木伝蔵復讐、山縣大弐等御仕置、相馬大作一件等)、自藩関係の事(魯西亜船蝦夷地来着一件等)、その他 人物評、医学、数学などに渉つて居り、抽斎のは 世上に起つた事件の聞書が主となつてゐるやうである。 渋江父子と時代を同じくしてゐる 堤朝風の朝風意林、大郷金斎の道聴途説等の類書で、中には同じ問題を扱つたものもあるが、文政、天保、弘化、嘉永頃の事を調査するには、良い参考書であると思ふ。
いづれ 詳細に検討して珍しい事があれば、別に発表したいと考へてゐるが、兎に角 紛失したと思つたものが発見された嬉しさに、取り敢へず 本誌を借りて紹介する事とした。(昭和一一・三・二五) 空白
参 考 |
神習文庫本『定所雑録』・『抽斎随筆』の検証 ― 鴎外『渋江抽斎』の記述に関する森潤三郎の「発見」をめぐって ―
一 ~ 二 <略>
三 渋江保の記憶・関連事実の検討と、潤三郎説の訂正
<前略>
鴎外の『渋江抽斎』は、その材料の多くを、前記の渋江保から得ている。 保は 鴎外に基礎資料(鴎外は それを『渋江家乗』として集成)を提供したほか、細かな事実の教示、執筆中に生じた疑問点への回答に、丁寧に応じた。 (両者の文通は頻繁で、鴎外全集書簡篇の保宛て書簡は七十七通に及んでいる。) 日記・稿本類の佚亡に関する前掲「その五十五」の記述も、両者の相互確認を経た内容と思われる。
まず、親戚に託した時点(明治八年二月、浜松赴任時)は、保の具体的な経歴の記事(その九十八)に照応している。
次に、寄託した日記・稿本類の内容であるが、リストの形にはなっていないものの、概略の冊数や日記の期間などが示され、『定所雑録』と『抽斎随筆』の名が例示されるなど、保が全体を把握していたであろうことは 十分想像される。 『渋江抽斎』に続く鴎外の史伝『伊沢蘭軒』(「その二百十六」)には、保が記憶していた 抽斎日記中の特定記事に関する記述がある。 したがって、当然ながら 保はときどき、これら日記・稿本類を披読していたであろう。 これらの書の存在を身近に感じていたからこそ、「今に迨( るまで歎惜して已まぬ」状況となったのである。)
さらに、保が「両掛(旅行時に衣類等を従者に担わせて持ち運ぶための、2つの小箱と天秤棒を組み合わせた収納・運搬具)に納めて … 託した」という点、これこそ行為者自身の、鮮明でまぎれもない記憶である。
以上により、保の記憶は「記憶の誤り」など生じる余地のない、確実なものであったと、判断される。
一方、石塚重兵衛が死去したのは 文久元(1861)年であるから、『定所雑録』等を借出したのはそれ以前のこととなるが、安政4(1857)年生まれの保は、この死去の年にようやく数えの5歳である。 父から与えられた人形のことを記憶しているのがせいぜいではなかろうか。
さらに、石塚重兵衛には『街談文々集要』という自著があり、その著書における「引用書目」中に 『定所雑録』と『抽斎随筆』が挙げられている。 『街談文々集要』は、文化・文政期(1804~1829、26年間)の江戸や近郊での街談巷説を 年ごとに整理して書き記したもので、現存するのは文化期(1804~1817、14年間)の部分のみであるが、この部分だけでも 382 もの話題を収録、稿本は18冊に及んでいる。(国立公文書館蔵。上・中・下の3冊からなる大正期の刊本あり。) これに文政期(12年間)を含めると、膨大な著作であったと想像される。 文中には多数の挿絵も添えられているので、編集・制作にはかなりの年月を要したことであろう。 その完成は 自序の日付の万延元(1860)年(…保は数えの4歳)と考えられるが、引用書目に挙げられた両書は その数年前から必要としたはずであるから、借り出したのは 保の出生以前のことになり、保にとっては 両書は最初から存在しなかったことになるであろう。
ここに至って、渋江保の証言を記憶誤りとした、潤三郎の「石塚重兵衛持ち出し説」は 完全に破綻する。 潤三郎によって「発見」された神習文庫本『定所雑録』および『抽斎随筆』は、石塚重兵衛によって制作された写本ということになり、丁寧に押捺されたその蔵書印が それを証しているのである。
四 山田椿庭旧蔵『定所雑録』の存在と、その評価
その後 筆者は、国文学研究資料館の「史料情報共有化データベース」において、山田椿庭旧蔵の『定所雑録』が存在することを見い出し(識別番号=ac1950010、資料番号=25J)、同館において これを閲覧することができた。 この椿庭旧蔵本は、巻一から巻十七までの十七冊が揃っており、神習文庫本と対比すると(表を略す)、椿庭旧蔵本には欠落が無いうえ、3巻多いことがわかる。
また 巻十七の巻末には、「巻十七 終」と 特に「終」字が記載されていて、完本であることを示している。
全冊、達筆で美しく浄書されており、挿し絵の描き方も巧みで、神習文庫本より生彩があるように感じられる。 さらに、全書を通じて数か所、朱筆での追記が見られるが、これらは 内容的に著者自身の補充であると考えられる。 次に、その一例を示す。
巻十二の「伊勢大神宮へおかげ参の事」は、文政13(1830)年のおかげ参りについての記事であるが、文の後半には「堺より申越たる手紙の写 閏三月二日出」という絵入りの書簡が その絵も含めて引用されている。 この「…手紙の写 閏三月二日出」の後に 小字で「上野広小路松坂屋将( 来の書状なり」との朱記があり、単に「手紙」としただけでは信頼性に欠けると考えて 具体的事項を補充したと考えられる。)
本書には、「九折堂山田氏図書之記」の印がある。 九折堂山田氏とは、高崎藩の儒医・山田椿庭(文化5(1808)~明治14(1881)、名は業広)である。 椿庭については 『渋江抽斎』の「その五十三」に、「抽斎の父 允成( の門人で、允成の没後 抽斎に従学した」とあるが、友人・森枳園が撰んだ椿庭の墓誌銘にはその記述はなく、漢方医学については伊沢蘭軒に学び、蘭軒没後は多紀茝庭) ( に従ったと記されている。 蘭軒との子弟関係の方が強く、抽斎との関係においても 同じ蘭軒門下としての友人意識の方が強かったのではなかろうか。 明治14年まで在世した人であるから、明治8年以降に流出した『定所雑録』を寓目し、旧師あるいは友人の父親の著書と認識して入手した可能性は きわめて高い。)
椿庭の人となりを見るに、臨床医としての業務に携わるほかは、医経(漢方医学の基本書たる、素問・霊枢・傷寒論・金匱要略等)の考究と著述に精力を傾注していたようであるから、『定所雑録』の博覧的内容にはあまり興味を感じなかったとも考えられるが、あえてこれを入手したのは、亡き師友との縁を感じてのことであろう。
したがって筆者は、この椿庭旧蔵『定所雑録』について、椿庭が明治8年以降に入手したものであり、定所の自筆稿本であると考える。
五 小結
書誌学者・森潤三郎は、無窮会の「神習文庫」中から、兄・鴎外の『渋江抽斎』に記述された佚亡書たる『定所雑録』と『抽斎随筆』の二書を発見したが、佚亡原因については 抽斎の友人・石塚重兵衛が「借出して返さなかった」ことによるものとした。
筆者は この点につき、(一)抽斎の嗣子・保の親戚への寄託による佚亡の記憶が明確で、動かしがたい事実と考えざるをえないことと、石塚重兵衛がこれらの書を必要としたのは 保の出生前に遡る可能性があることから、重兵衛が写本を制作したと考えられることを論証するとともに、(二)定所手稿の『定所雑録』が別に存在することを指摘して、潤三郎の誤謬を訂正した。
六 余論
<略>
〔付記〕 筆者は、東洋文化談話会での発表後、国文学研究資料館にこの発表資料を送付したが、事務的に処理されたようで、「資料共有化データベース」(歴史資料)上で『定所雑録』の番号(前掲)を指定して得られる表示情報の内容には、反映されていない。
終
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