らんだむ書籍館 |
![]() |
表紙 |
![]() |
(口絵写真) 上 : 本館 及 表慶棺 下 : 本館背面 |
目 次
一、沿革 二、建物の概要 三、陳列 1 第一室 (考古) 2 特別第一室 (考古)(埴輪) 3 第二室 (宗教) 4 第三室 (服飾) 5 第四室 (染織) 6 第五室 (調度) 7 第六室 (武具) 8 第七室 (刀剣) 9 第八室 (陶瓷) 10 第九室 (彫刻) 11 第十室 (彫刻) 12 特別第二室 (彫刻) 13 特別第五室 (彫刻) 14 第十一室 (絵画) 15 特別第三室 (絵画) 16 第十二室 (絵画) 17 第十三室 (絵画) 18 第十四室 (金工) 19 第十五室 (金工) 20 第十六室 (漆工) 21 第十七室 (漆工) 22 第十八室 (絵画) 23 第十九室 (絵画) 24 第二十室 (書蹟) 25 特別第四室 (絵画) 26 表慶館 四、陳列総目録 |
本文の一部紹介 |
沿革
全館の陳列を案内する以前に、わが帝室博物館の沿革、構内建物及事業の概要を記すこととする。
帝室博物館の名となつたのは 明治三十三年のことであつたが、館が宮内省の所管に移つたのが 明治十九年のことであり、更に その事業からいへば 明治初年に遡るのである。
明治の始め、大学南校に設けられた物産局仮役所が、各地の物産を蒐めてこれを展観し、以て殖産興業の資とし、又 古来から伝つてゐる古器物や宝物類を調査し、これを保存しやうと試みたのが、博物館の濫觴となつたといつてよい。
明治四年 新設の文部省内に博物局が置かれ、元聖堂大成殿を博物館とした時を 博物館の誕生といふべきであらう。 物産局の列品を移して 博覧会を催した当時は まだ常備陳列の施設がなく、期間を限つた臨時的のものであつたので 博覧会といつたのかも知れない。
明治五年、この博物館に書籍館を設け、官庫の典籍を主とし 和漢洋の群籍を蒐集して 公衆の閲覧に供し、更に明治六年 小石川薬園をも合せて 正院の博覧会事務局の下におき、山下町旧鹿児島藩邸を改修して列品の陳列を試み、毎月 一・六の日のみを公開したが、後は常設陳列館とした。 ここに至つて 博物館の態をなしたといふべきである。
その後、書籍館は浅草文庫となり、薬園の合併も解かれ、明治八年には 内務省に移管されたが、その頃から大博物館建設の議が起り、やがてこれが具体化されて 明治十一年上野公園に建築を起すこととなり、その三月十四日 旧寛永寺本坊跡を敷地として建築工事に着手、功を竣へたのが明治十四年三月のことである。 これが 明治建築の傑作の一に数へられ、人は大正大震災まで その威容をを上野の森の間に仰ぐことが出来たのである。
この年にまた農商務省の管理に移り、動物園が加へられて 翌十五年三月二十日 明治天皇の御臨幸を仰いで開館した。 この時 博物館の列品区分は 天産・農業・山林・園芸工芸・芸術・史伝・兵器・教育・図書 の九部 百十四の細目に分れ、堂々たる態様を以て出発したのである。
明治十九年三月、宮内省の管理にうつり、二十二年には 帝国博物館・帝国京都博物館・帝国奈良博物館と分れ、帝国博物館には 歴史・美術・美術工芸・工芸・天産の五部 及び庶務・会計・鑑査の三課がおかれることとなつた。 この改革こそは わが博物館使命の一大変革といふべく、従来 産業方面にも著しい努力をつづけて来たが、この時に至つて面目を改め、歴史・古美術及び美術工芸を中心とすることとなつたのである。 明治二十一年 宮内省に置かれた全国宝物取調局に協力して、全国の宝物を調査し、後の古社寺国宝保存事業の基本的事業をしたのも、この新しい展開に従ふたのに過ぎない。
明治三十三年、東宮御成婚に際し 東宮御慶事奉祝会が設立せられ、その記念事業として本館内に美術館を建設献紊するの議が定められ、明治四十一年にその工竣り、表慶館と命名して 本館の管理の下におかれることとなつて 威容一段と増して来たのであり、明治三十三年に官制改革せられて 帝国博物館の名を帝室博物館と改め、歴史・美術・美術工芸・天産の四部 及び庶務・会計の二課として、内容をも整へて 大正年度に入った。
大正十二年の関東大震災は わが博物館にも甚大の影響を及ぼした。 陳列館は大破せられて 一時休館の止むなきに至つたが、やがて大破の厄を免れた表慶館のみを以て 主陳列館とし、次いで大正十三年、皇太子殿下御成婚の礼を行はせらる当り、上野公園及び動物園を東京市へ、京都帝室博物館を京都市へ 御下賜の御沙汰あり、同時に天産課(先行の文によれば、天産部であろう。)を廃した。 明治初年 殖産興業を一の目標として建設せられた わが博物館が、この時に至つて それを他に譲つて 歴史・美術及美術工芸をのみ目指すこととなつたのである。 これを わが博物館の第二の変革と数へるならば、第三の変革は 今こゝに新築の姿を現じた 復興博物館の建設と それに伴う内容の改革であらう。 昭和三年九月、聖上陛下御即位の大礼を行はせらるゝに当り、奉祝記念として 本館を復興して帝室に献紊する目的を以て 帝室博物館復興翼賛会が設立され、朝野各方面の賛助を得、六ヶ年歳月を閲して 昭和十二年 この新館の工を竣へ、歳末 翼賛会よりの献紊を御嘉紊あらせられたのであり、同時に 従来の組織を改めて 列品課・学芸課及び庶務課に分ち、列品課を絵画・書籍・彫刻・金工・陶瓷・漆工・染織・考古の八区となし、新館には 古美術・工芸品 及 考古関係のもの、表慶館には明治・大正の現代美術 及 工芸品を陳列し、諸般の施設と相俟つて 美術の発達に資することとしたのである。
建物の概要
本館(「当館」の意で、当時の帝国博物館を指す。)は 東京市下谷区上野公園御料地に在り、元、寛永寺本坊跡にして、敷地面積 三万二千十二坪、復興本館、及び 表慶館を陳列館とし、外に 別館庁舎 及び 公衆食堂・倉庫三棟・防虫室・温室・ポンプ室・園丁詰所 其他 雑棟数棟がある。
本館 鉄筋コンクリート造、間口 約三百六十尺、奥行 二百四十尺、正面中央大棟の高さは百尺に垂んとする。 建築様式は 日本趣味を基調とする東洋風近世式であつて、建坪 約二千坪、地階二階、地上も概ね二階であり、一部に中二階を設けて三階としてゐる。 内部の諸室は 陳列室二十五、貯蔵倉庫六、貴賓室・休憩室・会議室・修理室・写真室・作業室・機関室 其他事務室等五十九、合計九十余室を数へ、延坪総数 六千五百二十二坪余に達する。 その構造は 耐震耐火に備へ、陳列館としての施設には 照明・温度・換気・湿気・塵埃防止等 凡そ東洋古美術の観賞に 又、陳列及び貯蔵上必要にして有効なる設備は勿論、外部の装備に至るまで 現代科学を応用して 殆ど遺憾なきを期してゐる。
表慶館 建築様式は 希臘羅馬の古代風を参酌して立案したもので、平面の形は十字形となし、中央に円形の広間と 両端に小円塔があつて、十字形の室を以てこれを接続させ、後部に突出した別室がある。 前面の長さ 中心線にて二百八十尺、側面の長さ 百六十五尺、建坪面積 三百九十五坪、軒高さは 地盤線より二階建軒パラペット迄 五十五尺、中央高楼尖頭まで 約百十尺、基礎は玉川砂利及浅野セメント材料を用ひ、その上に一等燃過煉瓦を以て壁脚を築いた。 外部は 稲田産の花崗岩を用ひ、中央広間の壁腰羽目・入口・廻廊高欄等は 福島産の大理石を以て装飾してある。 特に 中央広間と両小円塔階段室の部分には 大理石と、仏国産の七色大理石のモゼニックを飾り、正面車寄階段の石は各一本にして 稲田産の花崗岩を用ひてゐる。 中央高楼及小尖頭の屋根は 鉄骨に組み、檜板張りの他に 銅板を以て葺き上げてある。 工費 四十一万三千余円、端正の姿を誇るものがある。
別館 別館は 事務庁舎と講演場及び図書室等を併せたものである。 構造は 鉄筋コンクリート造、外面タイル張にして 地上二階、地下概ね一階にして、これに配して 主要諸室は 聴衆約四百五十人を収容する講演室及び約五十人を容れる小講演場を始めとして、図書倉庫・同閲覧室・汽缶室・事務室等 約三十六室を数へ、その建坪 五百二十余坪、総延坪 一千百八十坪余である。
庭園 前庭と後庭とに分れ、前庭は 正門内、本館玄関前のプールを隔てゝ 大体平坦な芝生として 諸所に樹木を配椊し 後庭は、元寛永寺付属の庭園であつたが、明治維新の際 戦禍によつて廃頽し 昔日の俤も留めぬ有様であつたが、これに改修を加へ、日本式の池泉を配した。 この庭園内には 校倉、六窓庵・応挙館・九条公爵記念館・傘亭等の屋舎があり、又 博物館建設功労者 町田久成氏の碑、其他 数種の列品が 各所に配在してゐる。
校倉 奈良市元興寺の別院、十輪院の境内に在つた倉である。 十輪院は 真言宗で伝へて弘法大師の開基せられたものと謂ひ、その経蔵の扉の両面は四天王像、床下の石基は十六善神を刻むであると云ふことが、『平城坊目愚盲考』に見えてゐる。 この倉の小さいのは 大般若経一部六百巻を蔵める為めに造つたためであると謂はれてゐる。 風火の厄を免かれて 能く今日に伝へたのであるが、本寺の衰頽につれ その修理が困難となつたので 明治十五年五月 こゝに移して永く保存し、且つ往古の建築様式を示すこととした。
六窓庵 原と(もと) 奈良市興福寺塔頭慈眼院に在つたもので、慶安年間、金森宗和の建てたものである。 明治の始め、画工 高階在晴がこの庵の腐朽を憂へ、修繕を加へて寓居してゐたが、その没後 建物の頽廃することを惜しみ、同八年 博物館に購入して ここに移したのである。 十一年に 付属寄つき・待合中くくり・腰掛業(ママ)を一宇に建て、砂雪隠を新築した。 この作事及び庭造り等は 古筆了仲の意匠になつたものである。
応挙館 もと尾張国海部郡大治村字馬島の明眼院の書院であつたもの、その棟札によると 寛保二年六月、名古屋の棟梁 加藤半平・藤原安房の両人が建築したものであることが知られる。 木造瓦葺・間口八間余・奥行五間余、総坪四十三坪余、書院造で二室、廻廊下付である。 一の間 二の間とも 床壁張付、襖・腰障子に墨画の松梅笹稚松 及び、蘆雁図を描いてゐる。 その床脇壁に「天明甲辰春閏月写平安応挙」とあつて、これらの画が円山応挙の筆になつたものであることが知られるし、甲辰は天明四年であつて 応挙五十二歳の時である。 其他 袋戸棚、小襖の墨画山水図は 弟子 山本守禮の筆になつたもので、同じく「甲辰勝守禮」の落款に、「守禮」「子敬」の二印が捺されてゐる。 又 杉戸が二ヶ所に在り、一は 鍾馗の剣を磨する図 及び 桐鳳凰の図で 狩野派の筆になり、一は 着色朝顔狗図 及び墨画雲龍図で、無落款ではあるが 其の画風筆致から見て応挙の筆と鑑せられる。 明治二十年二月、男爵 益田孝氏が この建物を東京市品川区御殿山の庭内に移建し、世に応挙館として知られてゐた。 昭和八年 益田男爵より宮内省に献紊せられたので、本館後庭に地を相し、移して以て旧態を保存し、永く之を伝へることとした。
九条公爵記念館 東京市赤坂区住吉町の九条公爵邸の一部にあり、道実公の居室に充てられてゐたものである。 木造瓦葺平屋建、間口七間半、奥行五間半、総坪数四十四坪余、二室になつて居り、その両間とも、床張間・襖・腰障子に 狩野の筆致を以て 四季の配当した楼閣山水の図が描かれてゐる。 これらの障壁画は、元、京都御所内の九条邸にあつたものを移して これに応用されたのである。 画の筆者は 伝へて京狩野の始祖 山楽・山雪と称されてゐる。 又 欄間は「かりん」の一枚板で それに藤花菱文を透彫したのは 尚忠氏の刀技になると謂ふ。 昭和九年、公爵九条道秀氏より、先考の記念として この屋舎を宮内省に献紊せられたので、同年十二月二十五日、本館に移し 応挙館と並べてここに再建したのである。
第一室 考古
我が国 上古時代の文化変遷の大要を 古代人の遺した物質によつて示すこととしてゐる。 これらの遺物の殆んどすべては、当時の聚落遺跡 即ち 住居阯・工場阯・祭祀阯・や墳墓から出土したものであり、随つて土中に千有余年を過して なほ甚しい腐朽しなかつたものである。
わが国にも 石製の利器を専ら用ひた時代 即ち石器時代が先づ起つた。 銅の利器を特色とする銅器時代はなく、銅に錫を合せた青銅時代は、西日本に於てのみ、僅かながらも その存在が認められるが、やがて利器、即ち 刀剣・鉾 等の刃物を専ら鉄とする文化によつて 全国が支配される様になつた。 この時代には 墳墓を著大に建築し、かつ 遺骸に副へて 武器・装身・家什の類を葬る風があり、その副葬品によつて、当時の文化発達の程度が知られるので、古墳時代の名が相応しい。 古墳時代は 火葬を教へる仏教の流布によつて 終末を告げる。
本室の第一・第二の二函と 第三函の前半とで 石器時代と青銅時代との文化の内容を示すこととし、後全部で古墳時代文化の発達を物語ることとしてゐる。
石器時代には 交通の不便もあり、文化は 地方々々によつて可成り異つた姿を現してゐる。 先づ東日本を見ると、縄文土器と呼ばれる土器によつて代表される文化の発達が著しく、西日本には 弥生式土器(東京本郷弥生町で発見されたものが 研究の最初をなした)なるものが、漸次 西から東へと進展して来てゐることによつて 窺れる如く、文化東漸の様が著しい。 そこで 第一函には 縄文式土器文化、第二函に弥生式土器文化のものを陳列して 相対照せしめた。 縄文土器を使つてゐた人々は 狩猟生活を専らとし、農耕の業は 弥生式土器使用人が大陸から齎して来たものらしい。
青銅器文化も 弥生式土器使用人の間に発展した。 併し 青銅器文化といつても、大陸の文明国に見る様に著しいものではなく、いはゞ 石器時代末期の一の姿といつてよいものであり、北九州を中心とする西日本では、銅剣・銅鉾の様な武器の行はれたことで やゝ青銅器文化らしい姿のものとなつてゐるが、近畿地方を中心とする中部日本に入ると 銅鐸と呼ばれてゐる青銅器製品と、銅鏃の行はれてゐたことによつて、石器時代の文化とは異なるものがあるといふに過ぎない。 併し 兎も角も、銅剣・銅鉾と 銅鐸とは、夫々 西日本と中部日本と相対する青銅器文化の地方相を物語るものとして 注意すべきである。
第三函の前半には、縄文土器使用人の信仰の一端を知ることの出来る 土偶・土版の類と、服飾品 及び 弥生式及縄文土器文化に於ける大陸の影響を示す 硬玉( 製品と 鏡鑑の類とを陳列した。 硬玉は ビルマ地方特産のものあり、鏡は支那に於て発達したものである。)
古墳時代の文化は 前期・後期に区別される。 農耕の業は 既に一般的となり、金工・漆工・染織・窯業( 等の工芸 競ひ起り、支那及び北亜よりの外来文化は、前代より引続いて発達した固有文化と相結び 相並んで 文化進展を促し、前期の終には 国力内外に充実伸張し、更に後期に入つては 豊満なる文化生活を楽むに至つた。 第三函の半ばと、第四函とが 前期、後のすべてが後期関係のものである。)
前期文化の発展及び内容は、第三函の銅鏡によつて 大体を窺ひ知ることが出来る。 即ち その最初は 前代を受けて、支那の前漢代や後漢代のものを其の儘に用ひたが、やがてこれを日本化することに努め、前期の終には 日本化の勢 最も旺んとなり、かつ支那鏡に勝る大鏡に雄健なる文様を現し、まさに国力発展の頂峯を極めるの風あるを 示してゐるのである。 なほ 前期に著しいのは、吾々が石製品と呼ぶ 碧玉( 製品の一類であり、又 刀剣や甲冑にも見るべきものがある。)
後期に入ると、文化生活は 既に壮年期を脱して 老年の域に達した風があると共に、緊張より一歩を転じて 爛熟の概あるを示してゐる。 装身具に華美を競ひ、刀剣装飾 また実用の豪壮を離れて 儀礼の華麗を誇るの風あり、馬具にも修飾を専らとした。 而して 大陸文化の影響 漸く滋く、ガラスの如く 遠き西亜文化の浸染を示すもの 盛んに行れ、又 忍冬文の如く、一面 支那六朝文化の影響を示すものにして、他面 飛鳥文化の来る近きを示すものも 行はれてゐる。
朝鮮は 古史にいふ 新羅・百済及び任那の地に於て、わが後期に平行する古墳文化の発達著しく、しかも 勾玉の如く日本独自のものゝ行はれて 彼我文化の共通するものゝあるを示すと共に 土地の遠隔といふ理由もあつて 彼此相異るものもある。
![]()
鉢形土器
東京 谷 貞三 氏 蔵
千葉県市川市大字国分字堀之内 出土のもの、高 一尺六寸六分、口縁に四の突起(把手)あり、これを拠点として 竪に四区を画し、直線文及び曲線文を刻す。 縄文土器後期様式をなすもの、堀之内式の例としてよい。
![]()
注口土器 重要美術品
東京 高松 孝治 氏 蔵
青森県上北郡四和村大字大不動 出土、縄文土器末期のものと見るべく、形の大なる、施文の規模 大なる、共に この種形式のものゝ首位にあるものといふべきである。
![]()
金冠 国宝
東京 小倉 武之助 氏 蔵
薄い金板を細く切つて 針格子文の透しをつくり、これを冠体及び左右翼形を以て飾り、これと高くつき出た尾とに 歩揺をほどこしてゐる。 南鮮の古墳からは、金冠を発見せらるゝこと再度、孰(いず)れも其の豪華なる装飾に驚嘆させられるが、これもその一に数へてよい。 慶尚南道出土。
![]()
頸飾
朝鮮古蹟研究会 / 朝鮮総督府 寄贈
古墳時代人が頸飾に意を用ひてゐたことは 埴輪人物像にも見られるところであり、副葬品にも関係遺物の多くを見るが、内地古墳に於ては その頸飾としての形を具へたものを発見することが出来ない。 ところが 朝鮮出土のものには、こゝに示したが如く、金属製の緒に貫かれてゐた為めもあるが、よくその形を具へてゐるものがある。
向つて左は、硬玉製勾玉を中心に、金製歩揺付透丸 四十四顆を連ねてゐる。 全長 一尺五寸 慶尚北道慶州郡慶州邑路西里出土。 右は 紅瑪瑙の勾玉を中心に、水晶製切子玉・純金製環飾付空玉・紅瑪瑙製山梔玉・金玉・紅瑪瑙製管玉・金玉・紅瑪瑙製管玉・紅瑪瑙製切子玉・ガラス製切子玉・紅瑪瑙製切子玉 各一対 計二十二顆を連ね、これを銀製鎖に繋けてゐる。 慶尚南道梁山郡梁山面夫婦塚路西里出土、婦人の遺骸にかけてあつたといふ。
![]()
杏葉(写真の右側のもの。 なお、杏葉は 武具や馬具の装飾用部材である。)
東京 東京文理科大学 蔵
鉄台金銅製、長径 三寸二分、双鳳 相対ふ貌を 透彫してゐる。 この種の文様が 遠く起源を西亜に有し、六朝時代末期より 隋を経て初唐に亘つて盛行したことは 既に人の説くところ、わが国に於ては奈良時代のものに 多くを見るのである。 本品は 岐阜県内某古墳出土と伝へて居ることによつて、絶対年代には明証を欠くも、これを古墳時代末期のものに比定し得べく、類品と相模俟つて 古墳時代に六朝文化の流入のあつたことを推知すべきである。
杏葉(写真の左側のもの。)
東京 東京文理科大学 蔵
鉄台金銅製、長径 三寸七分、龍文を 透彫してゐる。 雄渾にして しかも流麗を失はず、出土地を明かにすることは出来ないが、古墳時代末期のものたるは、動かぬ所であらう。
特別第一室 埴輪
垂仁天皇 御仁慈の叡慮あり、野見宿禰の建議を御嘉納あらせられ、埴輪をつくつて殉死の悲惨に代へられたことは 古史に著しい。 今、古墳の周囲や上部から時々発見される埴輪を見ると、円筒があり、男子・女子を現した人物像や馬・鶏等の動物埴輪、武器・武具・蓋・翳の如き器財埴輪 及び家埴輪の種類がある。 円筒には、稀には棺に用ひられたものもあるが、大部分は 神社の玉垣の如く、列をなして 古墳の周囲に繞らして樹てられたものであり、その分布も 広く全国に及んでゐる。
人物埴輪に於ては、男子像の方が多く、その中には武装のものもあるが、そのすべては威風堂々のものといつてよいし、女子もまた 祭祀に関係してゐるが如き姿のものを普通としてゐる。 また 動物で最も数の多い馬は、馬具装飾 美々しいもののみであり、古史にいふ錺馬( は これであらうかと想はしめられる。 次に数の多い鶏は、これが晨を告げるであり、かの天照大神が天岩戸に隠れましゝ時、鳴かしめたといふ故事を考へると、死者に 長夜の眠から覚めよと希うてのものかも知れない。)
埴輪に於いて 面白いのは器財埴輪である。 武器や武具の類はすべて 実用されてゐるものよりも一段と形式化されたものであり、殊にその中でも著しいのは大刀であるが、これは後世の玉纏太刀( の古い型と見ることの出来るものであることが承知出来ると、この器財埴輪の中での武器・武具は 現世から彼世へと遷移の行列につくられた威儀の具と考へてよいし、同じく器財埴輪の蓋や翳は その行列の用具としてつくられたものであると説明出来る。 而して 器財埴輪には他の種類のものはない。 埴輪家は、常に墳丘の真上に近いところから発見されることを考へると、少くも最初には 死者永遠の家とされたといへる。)
然らば、死者の遺骸が墳墓にまで運ばれる時には 側近の侍人や知人は風を正して従つた、女子は葬儀を司つた、錺馬も従つたであらう、葬場で死者を喚起す為に 鶏を鳴かしめたらう。 蓋や翳は 行列を飾り、武器・武具の類が 威儀の具として従者に捧持されたことも考へられる。 併し 死者の旅は長い、しかも 現世のものでないとすれば、殉死が必要となる。 而して これが悲惨 目を蔽うものがあるとすれば、埴輪の如きものがこれに代つてつくられることも 必然であるといふことになる。
今日 考古学調査からいへば、円筒や家は前期に既に行はれ、器財の中にも既に前期に現れたものがあるが、殉死代用の人物像や動物像は、後期に入つて漸次行はれたといへる。 しからば 埴輪の多数は、特殊の用の為めにつくられたものであり、芸術的感興の迸発の儘に形をなしたものではないといふことになり、表現される姿態にも、また種類にも 自ら制限があることになる。 とはいへ、これが上代彫刻の唯一の遺物であるといふことから、注意されて居るし、また 服飾や家屋の構造を研究するものにも 貴重なる資料となつてゐる。
![]()
靱負(うつぼおい)の武夫
群馬 相川 之賀 氏 蔵
錣を垂れた星冑を被り、甲衣に似た挂甲を着込み、石畳文美しい褌( に脚結をし、沓をはいてゐる姿は 武装埴輪には敢へて珍とするに足りないが、これに於ては 背の中央に靱(うつぼ)を直ぐに負ふてゐるを注意すべきである。 靱 即ち矢蔵具の一を かく背に直に負ふことは、これが矢を抜くに不便な貌であることから、戦場に於ける姿ではないことが明かであるし、随つて 埴輪の性質から考へて これを儀仗の武夫と判じ得べく、古史にいふ靱負伴部は かくの如き姿をしてゐたらうと想像してもよからう。 群馬県神田郡強戸村成塚出土、本古墳からは この姿のものが数個出土してゐる。)
![]()
寄棟(よせむね)の家
中央に錣葺又は切妻家と思はれるものをおき、四方に切妻家及び錣葺家各二個を 接着せしめてゐる。 今 その形を見るに、中央に主家をおき、四方に小形の家を密集せしめたところの 群集家屋を表したと見るよりは、寧ろ かの中世大極殿の青龍又は白虎楼の寄棟の屋根の形を連想させられるものである。 宮崎県児湯郡西都原古墳出土。
終