らんだむ書籍館


 函
表紙
 貼付されているのは、安井曽太郎が使用した パレットの写真。
 また、背表紙の文字は、安田靫彦の書。

目 次

図版

1 花をつむ乙女 スタビアの壁画
2 聖ヤコブ伝 中世絵ガラス
3 貴婦人と一角獣(部分) 中世織物
4 聖母子(部分) ピエトロ ロレンツェッティ作
5 奏楽の天使 ヴァン アイク兄弟作
6 聖ウルスラ メムリンク作
7 本を読む少年 伝 フォッパ作
8 マドンナ(部分) ルイニ作
9 ラヴィニア ティツィアーノ作
10 レヴィ家の饗宴(部分) ヴェロネーゼ作
11 少女 フェルメール作
12 風景 コンスタブル作
13 レベッカの掠奪 ドラクロワ作
14 生成 セガンティーニ作
15 風景 モネ作
16 浴み ルノワール作
17 草束をもつ少女 ルノワール作
18 パリスの審判 セザンヌ作
19 風景 ゴッホ作
20 小さいレストラン ヴィヤ−ル作
21 おやつ ボナール作
22 静物 マティス作
23 キリスト ルオ作
24 画架 マルケ作
 (以上は カラー図版。 25 以下は 白黒図版。)
25 村長さん エジプト彫刻
26 ラホテップ夫妻 エジプト彫刻
27 供物をはこぶ女 エジプト彫刻
28 トゥタンカーモンの棺(部分) エジプト彫刻
29 ラムセス四世のウシェプティ(部分) エジプト彫刻
30 河馬 エジプト工芸
31 お菓子の型 エジプト工芸
32 アモン神の前のトゥトメス三世 エジプト絵画
33 王様の馬車(部分) アッスュリア彫刻
34 人面有翼の牡牛 アッスュリア彫刻
35 有翼の山羊 ペルシア工芸
36 ヴァフェイオの黄金杯 クレタ工芸
37 ギリシアの瓶―黒像式 ギリシア工芸
38 ギリシアの瓶―白地式 ギリシア工芸
39 レキュトスの絵 ギリシア工芸
40 パルテノン ギリシア建築
41 馬にのるアテナイの青年 ギリシア彫刻
42 ルドヴィージの玉座(部分) ギリシア彫刻
43 ヘゲソの墓碑 ギリシア彫刻
44 ペリクレス クラシラス作
45 とげを抜く少年 ギリシア彫刻
46 オリュムピアのヘルメス(部分) プラクシテレス作
47 タナグラ人形 ギリシア工芸
48 サモトラケのニケ ギリシア彫刻
49 ラオコーン ギリシア彫刻
50 子供と鵞鳥 ギリシア彫刻
51 いねむり ギリシア彫刻
52 ロマの母狼 エトルリア彫刻
53 婦人像 エトルリア絵画
54 蟹に乗るアモレット ポムペイの壁画
55 婦人像 ロマ絵画
56 おそなえ ロマ浮彫
57 ユスティニアヌス皇帝(部分) 中世モザイク
58 最後の審判(部分) 中世モザイク
59 ランスの大聖堂 ゴティク建築
60 天使(部分) 中世彫刻
61 サント シャペルのマドンナ 中世彫刻
62 聖ヨハネ(部分) 中世彫刻
63 ウタ夫人の像(部分) 中世彫刻
64 マドンナの厨子 中世彫刻
65 玉座のマドンナ チマプーエ作
66 牧場におもむくヨアキム ジョットー作
67 お告げ シモネ マルティニ / リッポ メムニ 作
68 キリストの誕生 ジョヴァンニ ピサーノ作
69 イサクの犠牲 左 ギベルティ作 右 ブルネルレスキ作
70 聖クリストフォロス 中世版画
71 花を持つ人 ペルシア陶画
72 少年聖歌隊(部分) ルカ デルラ ロッピア作
73 りす ベルティ作
74 ダヴィデ(部分) ドナテルロ作
75 ダヴィデ ミケルアンジェロ作
76 コルレオーニ騎馬像(部分) ヴェルロッキオ作
77 ペルセウス チェルリーニ作
78 フローラ レオナルド工房
79 少年の胸像 ロッピア作
80 楽園追放 マサッチオ作
81 王子の回生(部分) マサッチオ / フィリッピーノ 作
82 はずかしめを受けるキリスト(部分) アンジェリコ作
83 聖子礼拝 フィリッポ リッピ作
84 サン ロマノの戦い ウッチェエルロ作
85 ぶどうのとり入れ ペノッツォ ゴッツォリ作
86 キリスト洗礼 フランチェスカ作
87 聖母子 伝バルドヴィネッティ作
88 おじいさんと孫 ギルランダイォ作
89 聖家族(部分) シニョレルリ作
90 婦人像 伝ポルライゥオーロ作
91 ヴィーナスの誕生(部分) ボティチェルリ作
92 オリーヴ山のキリスト マンテーニャ作
93 聖セバスティアヌス(部分) アントネルロ作
94 天使の首 ヴェルロッキオ作
95 女の首 レオナルド作
96 キリスト洗礼 ヴェルロッキオ / レオナルド作
97 巌の聖母(部分) レオナルド作
98 玉座のマドンナ(部分) ベルジーノ作
99 聖母子像(部分) ジョバンニ ベルリーニ作
100 聖家族(部分) ピントリッキオ作
101 聖母子とスフォルツァ一家(部分)ロムバルディア派の画家
102 鶸のマドンナ ラファエルロ作
103 聖ジョルジオ ラファエルロ作
104 アテナイの学園 ラファエルロ作
105 田園の奏楽 ジォルジオーネ作
106 アルピのマドンナ アンドレア デル サルト作
107 聖カテリーナの婚約 コルレッジォ作
108 聖セバスティアヌス ソドマ作
109 最後の審判(部分) ミケルアンジェロ作
110 ストロッツィの娘 ティツィアーノ作
111 マリア デ メディチ ブロンツィーノ作
112 天国(部分) ティントレット作
113 村の婚礼(部分) ブリューゲル作
114 老聖者 グリューネワルト作
115 失われた息子 デューラー作
116 老人の顔 デューラー作
117 皇太子エドワード ホルバイン作
118 アポロンとダフネ ベルニーニ作
119 聖ミカエル(部分) グィド レニ作
120 オルガス伯の葬送(部分) グレコ作
121 カルロス王子 ヴェラスケス作
122 聖アグネス(部分) リベラ作
123 けがれなき御やどりの聖母 ムリリョ作
124 王女とお付き(部分) ヴェラスケス作
125 チャールズ一世の子供たち ヴァン ダイク作
126 聖家族 ルーベンス作
127 ニコラウスの顔 ルーベンス作
128 イサベルラ プラント(部分) ルーベンス作
129 男の肖像 フランス ハルス作
130 氷すべり アーヴェルカンプ作
131 風景 クロード ロラン作
132 レベッカ プサン作
133 三つの十字架 レムブラント作
134 聖家族 レムブラント作
135 エムマウスのキリスト レムブラント作
136 仲良し ヨルダーンス作
137 あ 痛い! ブラウエル作
138 牧場の牛 ポッター作
139 鶸 ファブリティウス作
140 地下室 ホーホ作
141 病める婦人 ステーン作
142 ワイクの風車 ロイスダール作
143 馬と羊のいる風景 アドリアン ヴァン デ ヴェルデ作
144 園遊会(部分) ヴァットウ作
145 踊り子カマルゴ ランクレ作
146 食前のお祈り シャルダン作
147 音楽のおけいこ フラゴナール作
148 ピエロ服を着た少年 フラゴナール作
149 リンゴをもつ少女 グルーズ作
150 ハワード嬢 レイノルズ作
151 ベーリー一家(部分) ゲィンズバロ作
152 母と娘 ヴィジェ=ルブラン作
153 ヴェネツィアの軽気球 グァルディ作
154 人形あそび ゴヤ作
155 私は見た ゴヤ作
156 音楽家ドヴィエンヌの像 ダヴィッド作
157 ジャック アマルリックの像 グロ作
158 婦人像 アングル作
159 ライオンの写生 ドラクロワ作
160 メデューズ号の筏 ジェリコ作
161 テメレール号 ターナー作
162 エステル シャッセリオ作
163 少女 クットゥール作
164 イタリア風景 コロ作
165 森の出口 テオドール ルソォ作
166 青い服の女 コロ作
167 イフィゲネイア フォイエルバハ作
168 お母さんの心づかい ミレ作
169 パイプの男 クゥルベ作
170 水あび ドミエ作
171 貧しい漁夫 シャヴァンヌ作
172 皇孫マリー ミレー作
173 お寝坊 アルト作
174 駅のそば マネ作
175 温室 マネ作
176 サロメ モロォ作
177 踊り子 ドガ作
178 化粧室 ベルト モリゾ作
179 母と子 キャサット作
180 風景 ピサロ作
181 ポル=マルリの洪水 シスレェ作
182 パトネイ橋 ウィスラー作
183 絵本 カリエール作
184 踊るショコラ ロォトレック作
185 トリエテ広場 ラファエリ作
186 海辺の乗馬 ゴォガン作
187 幼稚園のマリア様 ドゥニ作
188 小さい劇場 スゥラ作
189 自画像 セザンヌ作
190 母と子 ピカソ作
191 おけいこ ムニエ作
192 ジュニエ氏の馬車 アンリ ルソォ作
193 風景 ドラン作
194 パリ風景 ユトリロ作
195 冬景色 ユトリロ作
196 ニコル グルーの肖像 マリ ロランサン作
197 サーカス シャガール作
198 少年 モディリアニ作
199 きずた ブラック作
200 パオリーナ ボルゲーゼ像 カノーヴァ作
201 ヴィクーニャ夫人 ロダン作
202 弓を射るヘラクレス ブゥルデル作
203 少女 マイヨール作
204 母と子 ルノワール作


解説

 はじめに
 絵画の本質
 西洋美術の流れ
 東西美術のつながり
 絵画のうつりかわり
 絵画の材料と技法
 版画の技法
 美術家の修業
 古代美術の研究
 欧米の美術館
 作品解説
 あとがき
 美術家在世年表


児島喜久雄・安井曽太郎・矢崎美盛 編集
「少年美術館 西洋美術の流れ


 1959年12月、 岩波書店。
 (縦) 32cm × (横) 25.5 cm、クロス装。 本文 254頁。


 本書は、「あとがき」に記されているように、もと12巻からなっていた一連の書を 1冊にまとめたものである。
 当初の12巻本は、1950年10月から1951年9月にかけて刊行されたもので、1巻につき17の図版を収めていた。 その全て、すなわち合計204の図版を、1冊にまとめ、それを年代順に再編集したのである。
 12巻本の編集に当ったのは、児島喜久雄(1887〜1950:画家、美術史学者)・安井曽太郎(1888〜1955:洋画家)・矢崎美盛(1895〜1953:哲学者、美術史学者)の3人であるが、再編集にはこれらの人々の意を承けた後輩研究者等が当ったものと思われる。
 書名のとおり、年少者を対象とした参考書であり、解説がきわめて懇切・丁寧であるのが、特徴である。

 「本文の一部紹介」としては、204の図版中から、1図「花をつむ乙女」(スタビアの壁画)、9図「ラヴィニア」(ティツィアーノ作)、48図「サモトラケのニケ」(ギリシア彫刻)、75図「ダヴィデ」(ミケルアンジェロ作)の4点を選び、その図版と解説を掲げる。


本文の一部紹介




1図  花をつむ乙女  スタビアの壁画
《Flora.》 壁面彩画。 紀元前1世紀頃。 高 約0.80m 幅 約0.50m ナポリ国立博物館(Museo Nazionale, Napoli)


 スタビアは ポムペイなどといっしょに、イタリアのナポリ市の南にある 有名な火山ヴェスヴィオのふもとに 昔あった町です。 西暦79年8月24日に突然起ったヴェスヴィオの大噴火で ポムペイ、ヘラクレネウムといっしょに 町全体がすっかり熔岩ようがんと灰とにうずもってしまいました。 なにしろ 町全体が約15メートルもの灰の下にうずまってしまったのですから、たくさんの人々が生きうめになりました。 この大噴火にについては いろいろの悲しい物語が残っていますが、そのころの有名な大科学者プリニウスも、この時、町の人々の避難を指揮したり、噴火の様子を観察したりしているうちに死んでしまいました。 このプリニウスの急をきいてかけつけて来た おいで養子の小プリニウスの書いた伯父の死を知らせる手紙が、現在では 当時の模様を伝える唯一の目撃者の記録として 貴重な文献となっています。
 しかし この大爆発の話は、月日がたつにつれて、人々の記憶から失われて、その町がどこにあったかということすらも忘れられていたのです。 ただ、ポムペイの野外劇場だけが、全部うずもれないで、頭を出していたのですが、その付近にこんな大きな町がうずもれていたことを知らなかったのです。ところが たまたま1593年(秀吉が朝鮮に遠征した年)に運河を掘つたところが、わずかばかりの町のあとが出て来ましたし、1748年にははヘルクラネウムの町が発見され、たしかにこの辺りの土の下には大きな町が埋もれているということがわかったので、それらの町を 19世紀になってから学問的に、組織的に、できるだけ物をこわさないようにして、昔のままの姿を掘りだそうと仕事にとりかかり、有名なポムペイの町がこうして掘り出されました。 今もなお、掘りつづけられていますが、まだ全体の半分ぐらいしか掘り出されていません。 この掘り出された町のおかげで 2千年の昔の生活を そのまま知ることが出来るようになりました。 普通の地面のなかでしたら、とっくに腐ってしまったでしょうが、灰にうずまっていたために、そっくりそのまま保存されているのです。
 さて、これは スタビアから掘り出された壁画の一つです。 彫刻には この壁画よりもっと古い時代のものも現在たくさん残っていますが、ギリシア・ロマの絵というのは、ほとんど残っていないのに、これは こんなにはっきりと美しく残っています。 この絵は 現在は切りとられ、ナポリの美術館にあります。 これが2千年も前(法隆寺の壁画より約7,8百年前)にかかれた絵とは思えないでしょう。
 この絵は 花の女神、フローラをかいたものといわれていますが、スタビアの町の少女が花をつんでいる姿をかいたものかもしれません。 片手に花かごをもち、右手で花をつんでいる少女のうしろ姿。 軽い足どり、キトンとよばれる薄い着物は 風に動いています。 花や葉や、また手の指など、達者にかかれています。 そして 全体の夢をみるようにおだやかな、それでいて おちついた色彩は 私たちを2千年の昔の美の花園へと案内してくれます。



9図  ラヴィニア  ティツィアーノ作
《Lavinia.》 (Tiziano di Giorgio Vecellio,1477〜87―1576.) 1550年頃作。 麻布、油。 高 1.02m 幅 0.82m ベルリン、カイザー フリードリヒ美術館(Kaiser Friedrich-museum, Berlin)


 ティツィアーノには ポンポニオ、オラッツィオという二人の息子むすこと ラヴィニアという一人娘がありました。 ティツィアーノは この娘を 二人の息子にもまして 眼に入れても痛くないほど可愛がっていました。 ティツィアーノがしだいに名声と富とを得て、王侯の如き豪奢な生活をし、それが年をとるにしたがってますます欲ばりになったという評判を得たのも、一つには このラヴィニアに美しい服や装身具を惜しみなく買い与え、王女のような生活をさせたかったためだといわれています。 ラヴィニアがお嫁にゆくときには、数十万の財産とたくさんの宝石をつけてやったということです。
 ラヴィニアは1528年ごろ生まれましたが、成長するに従って父の愛を一身に受け、花のような美しい娘となりました。 そして 母チェチリアは1530年、まだラヴィニアの幼いうちに早くなくなっていましたので、まだ若いうちから 父の身のまわりの世話から家事のことまで引きうけて、まめまめしく働いたといわれています。 ティツィアーノは このラヴィニアをモデルにして、名高い《アモルとヴィナス》(現在 ウフィツィ画廊)を描きましたが、そのほかにも 顔だけラヴィニアをモデルにしたような絵はいくつかあります。 そういう歴史画ばかりでなく、肖像としてラヴィニアを描いたものも3点ほど残っていますが、ここに出した絵は その中でも、もっとも美しいラヴィニアの姿です。
 およそ二十歳ぐらいに見えるこの絵の姿から、1550年ごろの作と思われますが、これは娘ざかりのラヴィニアを描いた唯一の作品です。 ティツィアーノはその後も、1555年 ラヴィニアがコルネリオ サルチネルリと結婚したときの花嫁姿(ドレスデン画廊)、また 1565年ごろ(同所)および 1570年ごろ(ウィーン旧帝室美術館)と、結婚後の娘の姿をも描いています。 そのほか ここに出したラヴィニアの絵をもとにして、ティツィアーノ自身、あるいはその弟子が描いた写しもたくさんあります。 その中で、この絵の果物の代りに お盆の上にヨハネの首をささげている《サロメ》の絵(プラド美術館)などは、ティツィアーノ自身の筆と思われます。
 金色の髪に宝石をちりばめた髪飾りをつけ、耳にも大きな紫色の宝石をたらし、真珠の首飾りをつけたラヴィニアは、縫取りのある金繍の服を着け、白い紗のショールをかけて、ほとんど後向きに、果物をいっぱいのせた銀の盆をささげて、顔だけこちらに向けています。 赤い幕をしぼった窓の外には、遠くの山が夕焼けの空に青いシルエットを描いています。 ティツィアーノ独特の暗紅、銀灰、黄金の色調の中から、ラヴィニアの顔と背中の温かい肉色が輝き出しています。 こちらをふりかえって、ぐっとよった黒い瞳、かるく開いた赤い唇に、まだあどけない娘らしさを残しながら、花のような若さをみなぎらせています。 ラヴィニアの背の薄闇の中から、ショールや袖口の白、果物と花の桃色から一番明るい額に移ってゆく色彩の諧調は、まったく眼もさめるような鮮やかさです。 これは 老年(少くとも六十歳以上 七十歳近いころ)の作であり、後に修理をするために手を加えてはいますが、それでも原作のみずみずしい美しさは、今もはっきりと感ぜられます。 最近では、これはラヴィニアの肖像ではなく、ただの婦人像、あるいはむしろ《ポモナ》(ロマの果物の女神)であるという説が有力になっています。 同じ作者の《ストロツィの娘》110図の解説も読んで下さい。



48図  サモトラケのニケ  ギリシア彫刻
《La Victoie de Samothrace.》 紀元前2世紀初。 大理石。 高 約2.40m パリ、ルーヴル(Louvre, Paris)


 紀元前4世紀もなかばをすぎ、アレクサンドロス大王が世界征服の旅に出るころになると、さしも栄えたギリシアも ようやく衰えはじめ、美術の中心は多島海の島々や小アジアの方に移り(《ラオコーン》49図を見よ)、いわゆるヘレニスムの時代に入ります。 ヘレニスムの彫刻は、古典的な端正な美しさを失ったとはいえ、技巧の面では古典時代からの伝統をつぎ、これをいっそう発展させて、大理石でもブロンズでも、巨大なものでも細かなものでも、老人でも子供でも、なんでも出来ないことはないというくらいに発達しました。 主題の点でも、それまで彫刻の対象とならなかった野蛮人やばんじんや病人、老婆や幼児など あらゆる方面に手をひろげましたが (《子供と鵞鳥》50図を見よ)、作品の気品という点では、なんといっても 古典期のものにはおよびません。 それでも まれには、古典期の傑作とならべても 少しもひけをとらないような傑作も ないわけではありません。 この《サモトラケのニケ》や、名高い《ミロのヴィーナス》(メロス島のアフロディテ)などは、そうしたヘレニスムの傑作です。
デメトリウスの貨幣
 この彫刻は、1863年、多島海の北の方のサモトラケ島で発見されました。 いくつにも欠け壊れていて、首と両手はついに見つかりませんでしたが、数度の発掘で しだいにいろいろの部分が見出され、台座の大部分と翼と胴体は、ほぼ完全に近い形をなすまでになりました(右翼と胸の一部など 石膏で補修したところもあります)。 このふしぎな形をした台座は、カット(↑上図)に出した当時の貨幣でわかるように、もとは舟のへさきの形に作られていたもので、つまり勝利の女神ニケが、船首に立ってさっそうと翼をひろげ、全軍を鼓舞こぶしているところを表わしていたのです。 これは デメトリオス ポリオルケテスが、紀元前306年にキュプロス島付近の海戦で エジプトのプレトマイオスを打ち破った勝利の記念として、サモトラケ島のカベイラの聖域に建てられたものといわれています。 この勝利は女神ニケが守ってくれたからであるという感謝のしるしとして、あたかも海戦の先頭に立つ旗艦の船首に女神が舞いおりて、左手に十字形の炬火たいまつをもち、右手のラッパを吹きながら、勇しく全軍を鼓舞している姿に作られたものなのです。
 大きな重い大理石の翼をひろげた この女神の、なんとかるがると見えることでしょう。 向かい風をはらんで、身体にまといつく衣裳の扱い、その流暢な大理石刀法は、全ギリシアの作品の中でもたぐいまれな傑作で、パルテノンの破風彫刻や エレクテイオンのコーレ(パルテノンの北側に立つ南面の平屋根をささえる6体の女身柱カリアテイデスのこと。 コーレとは少女の意)のそれにも匹敵するすばらしいものです。 うすいキトンは 身体にぴったりとまといつき、上に羽織った外衣ヒマテイオンのすそが、腰のあたりで風になびいてひらひらしているさまが、ほんとうに今さっと風が吹いて来たかのように すばらしく表現されています。 さらに そのうすい衣をとおしての女神の身体の美しさはどうでしょう。 全身を衣で覆っているとはいえ、ほとんど裸体像を見るように、身体の起伏をまざまざと感じることができます。 見れば見るほど この大きな翼や衣が冷たい大理石だとは とうてい信じられないような気がするではありませっbか。 この首も手もない女神は、今もなお強い海風を真向うから受けて、勝利のラッパを高らかに吹いているのです。
 この作品の製作年代は、従来 キュプロス島海戦のあった紀元前306年の後 間もないころとされていましたが、最近では 主として衣服の襞の取り扱いの様式上の研究から、だいたい紀元前2世紀初頭の作品だということに落着いてきたようです。



75図  ダヴィデ  ミケルアンジェロ作
《David.》 (Michelangelo Buonarroti, 1475-1564.) 1501 〜 03 作。 大理石。 高 5.5 m フィレンツェ、古代近代美術館(Galleria Antica e Moderna, Firenze)


 太い眉毛をよせて、きっと前方をにらんで立っているこの勇ましい若者は、巨人ゴリアートに立ち向かう少年ダヴィデです。 胸、首、腕、頬、どの筋肉も、これから戦おうとする力に張り切っています。
 昔、イスラエルの国がフィリスティアの軍と戦った時、フィリスティア軍の中からゴリアートという雲つくばかりの大男が、青銅のよろいかぶとに身をかため、青銅のたてに青銅の長槍をもって進み出て、イスラエルの兵に一騎討ちを申し込みました。 なにしろゴリアートの豪勇ぶりは天下になりひびいていましたから、さしものイスラエルぜいも サウル王をはじめとして、みなふるえあがって、だれ一人として相手になろうとするものがありません。 すっかり気をよくしたゴリアートは、朝夕二回ずつ、四十日もの間、陣頭に出てイスラエル軍をばかにしょましたが、どうすることもできません。 そこへ たまたまベトレヘムで羊かいをしていた少年ダヴィデが、イスラエル軍に従軍している三人の兄さんを見舞にやってきて、この話をきき、『よし! ぼくが相手になってやる』と申し出たのです。 ダヴォデは 羊の番をしているとき、羊をとりにきたライオンと熊とを ただ一打ちに殺してしまったという、足柄山の金太郎のように強い少年です。 さて、ダヴィデは 王様が着せてくれた鎧かぶとを 邪魔だといって脱ぎすて、ただ、羊飼いの杖と投石索とうせきさく(石投げ紐)と、谷間でひろった五つの丸い石だけをもって、裸のままゴリアートに向かいます。 ゴリアートは『なんだ小僧、杖なんかもって。 俺は犬ではないぞ』と、ダヴィデを馬鹿にしていましたが、ダヴィデの投げた最初の石で眉間を割られ、あっさりと負けてしまいました。 (この話は、旧約聖書のサムエル記上の17章にあります。) ダヴィデはいま、左手に投石索の一端をつかみ、右手に石をにぎって、きっとねらいを定めているところです。
 ミケルアンジェロが、これを作ったのは、わずか28の時でした。 これは 高さが5.5メートルもある大きな像で、しかも、ほかの人が彫りかけてやめてしまった大理石の塊から 作らせられたのです。 それで ミケルアンジェロがとりかかる前から、石はある形にけずられていたので、像の姿勢を 自分の思うとおりの形にすることができなかったのです。 ミケルアンジェロは、このむつかしい仕事を引受けると、1501年11月13日から彫りはじめ、1503年中に作りあげました。 ミケルアンジェロは ちょうど巨人ゴリアートに向うダヴィデのような意気ごみで、この像に立ち向かったのでしょう。 そして、実際、当時のイタリアの彫刻界を圧倒してしまいました。 しかし 彫刻の《ダヴィデ》は、けっして、石の一投げによって簡単に出来たものでないことを忘れないで下さい。 芸術という巨人は、けっして、意気ごみだけでは征服することはできません。 っそれには、たえざる観察とそれを現わす細心さいしんの手のわざとが必要なのです。
 ダヴィデの首筋や胸、また腕や手首をよく見て下さい。 それは、解剖学かいぼうがく の先生がみても 少しもあやまりはないといわれています。 このようなりっぱな彫刻が出来たのも、ミケルアンジェロが人間の身体を熱心に観察し、古代の彫刻や、また ドナテルロ、ヴェロッキオなどの先輩の作品を一心に勉強したからこそなのです。
 この《ダヴィデ》ができ上ったとき、レオナルド、ボティチェルリ等の美術家も入っている フィレンツェ市の委員会は、この傑作を風雨にさらさせないように、ロッジア デイ ランツィ という建物の中に置くことを主張したのですが、ミケルアンジェロの のぞみ通り、フィレンツェの政庁の入口の左側に、広場に面して立てられました。 それから25年の後、1528年4月26日、フィレンツェに騒動そうどうが起った時、政庁の窓から投げられた椅子があたって 左腕と右手の中指は折れ、右のまぶたにも傷がついてしまいました。 この傷は、その後、1543年に修理され、1874年には風雨にあたらないようにと、美術院アカデミー (いまの美術館)に移されました。 今、フィレンツェの政庁の前に立っているのは、それを模して作ったうつしヽ ヽ ヽです。 ダヴィデのお話が長くなって、ミケルアンジェロのことは ほんの少ししかお話できませんでしたが、ミケルアンジェロの作品は、後にも出てきますから、その時ゆっくりお話いたしましょう。




あとがき


 この本は 1950年10月より、翌年の9月にかけて刊行された「少年美術館」全12巻を1冊にまとめたものです。 まえの「少年美術館」は、各巻に、それぞれ古代より近世までの作品が収められていましたが、今度、この合本では、12巻に収められた全部の作品を、年代順に配列し、一目で「西洋美術の流れ」がわかるように 編集しなおしました。 解説については 前の時 御協力いただいた沢柳大五郎先生のご指導で、さらに平易に書きかえ、前に父兄のために編集された月報の解説も、本文に入れ、あるいは注として付記しました。 用字も、漢字はすべて新字体にしました。
 装幀は、題字は安田靫彦先生にお願いをし、表紙を、安井曽太郎先生のパレットで飾りました。 このパレットは 1941年、安井先生から細川護立氏に贈られたもので、安井先生が数十年間使用されていたものです。
 編者の児島喜久雄先生は 前の「少年美術館」の第1巻の刊行をまたずして、なくなられたのですが、それから9年後の今日では、安井・矢崎両先生も、すでに世を去られました。
 1952年に刊行された児島先生の遺著「レオナルド研究」のあとがきに、矢崎先生は「児島さんは巨樹である。根もしっかり張っているし 枝も繁くひろがっている。心ある人々は その果実を摘んで、またこれを発芽させ、培養することが出来るであろう。そして、そのことを児島さんはアケロン河の彼岸から見守っていてくれるだろう」と書かれました。 アケロン河というのは、死後の国ハデスにある河で、死者の霊は 渡守カロンの舟にのってここを渡るのです。  私たちは、この文章の「児島さん」という語に、さらに、「安井さん、矢崎さん」と書き加えて 「児島さんも、安井さんも、矢崎さんも巨樹である。根もしっかりと張っているし 枝も繁くひろがっている …… 云云」 と訂正し、皆さんに送ることばに致したいと思います。



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