らんだむ書籍館


表紙
(函・カバー・扉 も、すべて 同一デザインである。)


目 次


 改訂新版の発刊に際して (和田 清)
 東洋読史地図凡例 (箭内 亙)
 第三版ニ際シテ
 第四版ニ際シテ


 地図

  巻首  支那古地図
      一 禹跡図
      二 華夷図
      三 清内府一統輿地秘図
      四 ダンヴル支那新図

  第一図 禹貢九州図

  第二図 春秋時代要地図

  第三図 戦国時代亜細亜形勢図
    付図 一 仏教興起以前印度図
    付図 二 仏教興起以後印度図
    付図 三 摩掲陀地方図

  第四図 戦国七雄図
    付図   周及韓

  第五図 其一 秦一統図
      其二 漢初封建図


  第六図 前漢十三部一百七郡国図

  第七図 前漢武帝時代亜細亜形勢図
    付図 一 敦煌付近長城遺蹟図
    付図 二 朝鮮三韓図

  第八図 後漢時代亜細亜形勢図
    付図  漢室復興時群雄割拠図

  第九図 三国時代亜細亜形勢図

  第十図 晋初亜細亜形勢図
    付図  五胡興亡図
       其一 石勒称帝   其二 肥水会戦
       其三 肥水戦後

  第十一図 東晋時代之満州朝鮮

  第十二図 南北朝時代亜細亜形勢図
     付図 一 南北朝末期四国分立図
     付図 二 法顕三蔵印度旅行図

  第十三図 隋代亜細亜形勢図
     付図  隋末唐初群雄割拠図

  第十四図 唐初亜細亜形勢図
     付図 一 唐長安城坊図
     付図 二 唐代海上交通図

  第十五図 唐代之満州朝鮮

  第十六図 五代時代亜細亜形勢図
     付図  燕雲十六州其付近

  第十七図 宋金対立時代亜細亜形勢図
     付図  金宋夏三国末年要地図

  第十八図 元初亜細亜形勢図
     付図  元末群雄割拠図

  第十九図 元代之朝鮮半島

  第二十図 明初亜細亜形勢図
     付図  明初南海要地図

  第廿一図 欧人新地検出時代図

  第廿二図 李氏朝鮮

  第廿三図 明末亜細亜形勢図
     付図  清太祖時代之満州

  第廿四図 清初亜細亜形勢図

  第廿五図 露国之亜細亜侵略

  第廿六図 英国之印度侵略
       其一 総督別   其二 年代別

  第廿七図 其一 清末騒乱図
       其二 清末外国関係図
       イ 遼東半島  ロ 膠州湾
       ハ 威海衛   ニ 印蔵界約
       ホ 伊犁付近  ヘ 香港澳門
       ト 広州湾
  第廿八図 日清日露両戦役図
     付図 一 日露戦役奉天会戦図
     付図 二 日露戦役旅順要塞図
     付図 三 日露戦役日本海大海戦図

  第廿九図 清末亜細亜形勢図

  第三十図 清末支那全図
     付図 一 清代北京図
     付図 二 北京宮闕図


  第丗一図 西比利亜出兵満州事変図
     付図 一 日独戦役概見図
     付図 二 青島要塞戦図


  第丗二図 現代亜細亜形勢図

  第丗三図 現代東亜要図
     付図 一 南京市街図
     付図 二 上海市街図
     付図 三 新京市街図


 解説


箭内 亙・編、 和田 清・補
「東洋読史地図」 〔改訂新版〕


 昭和16 (1941) 年 1月。 冨山房。
 (縦) 26.2cm × (横) 20.2 cm、クロス装、カバー付き、函入り。
 38図版 (58丁)、解説等 84頁。


 本書の原著者・箭内亙(やない・わたり、明治8(1875)~大正15(1926))は、東洋史学者。 東京帝国大学文科大学(史学科)および大学院を卒業後、第一高等学校講師・教授、満鉄歴史調査部兼務を経て、大正14(1925)年には東京帝国大学教授となった。
 箭内が 本書(初版:大正元(1912)年)を編集・刊行したのは、満鉄歴史調査部員 兼 第一高等学校教授時代のことである。 その動機については、自ら次のように述べている。
 「予ノ本書ノ編纂ヲ企テタル動機ハ、東洋史ノ学科ガ普通教育ヲ授クル諸学校ニ於イテ甚ダ嫌厭セラレツヽアルヲ聞キ、且一般人士ノ東洋史ヲ学バントスルニ当リテ適当ナル参考書ナキヲ訴フル声ノ漸ク大ナルヲ知リ、二三ノ師友ニ請フニ 東洋史ニ関スル著述ヲ公ニセンコトヲ以テシタルモ容レラレズ、而モ敢テ自カラ此難局ニ当ルノ自信ナキニ際シ、セメテハ簡略ナル歴史地図ヲ作リ、地図ニ対スル趣味ヲ生ジテ次第ニ歴史ノ攻究ニ心ヲ用フル人士ノ出ヅルアラバ、独リ斯学ノ幸ノミニアラズト思惟シタルニ在リ。…」
 (「東洋読史地図凡例」の一節)

 箭内の著書としては、本書以外に 「蒙古史研究」(昭和5(1930)年・刀江書院)があるが、この書は箭内の没後に、同学の関係者が その論文等を整理して刊行したものなので、生前の刊行書としては本書「東洋読史地図」が唯一のものである。
 このため箭内は、本書の完成に大いに注力したのはもちろん、刊行後も その内容充実に引き続き情熱をそそぎ、改訂を図ったのである。 すなわち、第3版(大正2(1913)年)および第4版(大正14(1925)年)で、かなり大幅な改訂が加えられている。 (目次中の「第三版ニ際シテ」および「第四版ニ際シテ」の各文に、その具体的説明がある。)

 箭内の没後、本書を更に補訂して、この「改訂新版」としたのは、和田清(わだ・せい、明治23(1890)~昭和38(1963))である。 和田は、箭内と同じく 東京帝国大学文科大学出身の東洋史学者、つまり箭内の後輩である。 和田は かねてこの書を尊重し、箭内の仕事に敬意を抱いていたので、自ら進んで改訂の事に当った。 (そのこと および具体的な改訂個所等については、「改訂新版の発刊に際して」に記されている。)

 このページの見出しは、「東洋読史地図」〔改訂新版〕 としたが、原書の表紙や扉には 〔改訂新版〕の語は表示されておらず、この語は 和田清の文「改訂新版の発刊に際して」に見えるのみである。 また、原書の奥付には、改訂以前の版についての記載がなく、「昭和十六年一月十五日印刷、昭和十六年一月十八日発行」の記載のみとなっている。 これでは以前の版との関係が不明となり、昭和16年初版であるかのような誤解も与えるので、あえて〔改訂新版〕の語を加えた次第である。

 本書は地図の書であるから、「本文の一部紹介」としては、主要な地図を示すべきであろう。 しかし、書中のいずれの地図も、微小文字の地名を細かく配置した 精密な図版であり、画面上で判読できるように表示させることは 困難である。 そこで、単なる例示として、最も簡明な地図である、第一図の「禹貢九州図」を「解説」の文とともに掲げる。
 また、「解説」としては、「第一図 禹貢九州図」の前に置かれた 「巻首 支那古地図」(一 禹跡図 ~ 四 ダンヴィル支那新図)の記述が、中国の古地図に関する有益な参考資料であるので、この部分も掲げることとする。 ただし、ここに扱われている4種の図(拓本、写真)は、画面では やはり不鮮明となるので、省略する。
 掲載は、目次の順序である。


本文の一部紹介






東洋読史地図 解説



巻首 支那古地図

 支那に於ける地図の沿革は 頗る古く、周の時 既に「土地之図」あり、一種の地籍図にして 地形は勿論、土性・森林・原野・沼沢等に至るまで 悉く之を表示せしが如し。 秦一統の後、全国の精図 朝廷に存し、漢に至りて各種の地図 作られし如きも、今 伝はるものなく、その製法も詳ならず。 晋初に至り、裴秀(224~271年)の出づるや、始めて分率・準望・道里・高下・方邪・迂直の六体を立て、以つて やゝ、精確なる「禹貢地域図」を作り、支那地図製作史上に一新紀元を画せり。 唐の中世に出でたる賈耽(730~805年)の名+著「海内華夷図」は、この裴秀の法によりて之を改正せるものにして、是に至つて支那流製図の様式は ほゞ大成せられたり。 此の図は 横三丈縦三丈三尺の大幅にして、百里を以つて一寸としたれば、約百五十万分一の縮尺に当るといふ。 宋代の地理学は頗る発達し、殊に元に至りて アラビヤ地球儀の伝来あり、地図学上の進歩も推測に難からざれど、当時の代表的地理学者なる朱思本の輿図 未だ我が国に伝はらざれば、之を詳にし難し。 概して元明の頃は 朱思本の輿図 及びそれより出でたる明の羅洪先の広輿図の盛行せし時代なり。
 明末 天主教の伝来するや、その布教師に博学多能なるもの多く、天文・地理・数学・医学より 建築・造兵・絵画に至るまで、西洋の学術・技芸 一時に輸入せられ、支那の文物は多大の影響を受けしが、地図の学も亦 漸く旧套を脱出せり。 即ち 十七世紀の初頭、伊太利人 利瑪竇マテオリツチ(Matteo Ricci)は 北京に来り、「坤輿全図」を描き、尋いで 白耳義人 南懐仁フエルビースト(Ferdinand Verbiest)之を改訂して、世界地理に関する新知識を伝ふると同時に 製図の新様式を示したり。 これ実に 支那人の世界観を一変せしめたるものにして、その影響の甚大なりしこと言を俟たず。 たゞ 利瑪竇等の地図は 世界の他の部分の知識を伝へたる所に特長を存し、支那内部の地理的知識には 多く加ふる所あらざりしが、清の聖祖康熙帝は当時来往の西洋人宣教師に命じて、全国各地に出張し、西洋の測量法を用ひて 支那の実測地図を作らしめたり。 かくて 康熙四十七年(1708,宝永五年)より同五十六年(1717,享保二年)に至りて、満洲・北直隷・黒竜江・山東・山西・陝西・甘粛・河南・江南・浙江・福建・江西・広東・広西・四川・雲南・貴州・湖広等 各方面の製図を了へ、別に総図一幅を作りて 其の業を完成せり。 之を 「皇輿全覧図」といふ。 その後 高宗乾隆帝の時 更に新疆の一部を測り、この図を拡大して 所謂十三排の輿地図を作りしが、同治二年(1863,文久三年)に至り、湖北巡撫 胡林翼は 「皇朝中外一統輿図」の名+を以つて その改訂普及版を武昌府にて発行せり。 是れ即ち 「大清一統輿図」とも 「武昌輿図」とも 称せらるるものなり。
 之を要するに、支那の地図は古くより存し、晋の裴秀・唐の賈耽に至りてほゞ大成せられ、後その伝統を承け来りしが、明末清初に西洋の影響を受けて一変し、当時にありては世界に希なる大規模なる実測図を製出せり。 而もその後は実測を用ひず、徒に意を以つて改修を重ねて 次第に堕落し来りしなり。 之を救へるは 更に輓近の西洋学術の影響にして、茲に始めて最新の 丁文江・翁文灝・曾世英等の「中華民国新地図」「中国分省新図」を生み出したり。 然れども 此等は皆 不完全なる輯製図にして、未だ十分正確なる実測図にはあらず。 之を基礎として立つべき支那歴史地理学の前途は なほ甚だ遥遠なりといふべし。


 一 禹跡図

 本図は 陝西省西安の碑林中に収めらるゝ石刻「禹跡図」の拓本を 縮写したるものなり。 碑石は 阜昌七年四月の建立に係る。 阜昌は 金の擁立したる劉豫の斉国の年号にして、その七年は金の熙宗の天会十五年、南宋の高宗の紹興七年、西暦1137年に当り、本図は 現存の支那地図中 最古のものゝ一なり。 図名+の下に「毎方折地百里」とあり、今日の経緯線に当る 方、格を存し、図形極めて正しく、黄河・揚子江等の水系の如き、屈曲の形状 真に迫るものあるに注意すべし。


 二 華夷図

 「華夷図」は 右の「禹跡図」と共に 西安碑林中に収めらるゝ石刻の一にして、「禹跡図」と同じき阜昌七年の十月に 西安の西なる岐州の州学に建てられしものなり。 図記の説明によれば、本図は 前述の唐の賈耽の「海内華夷図」を縮めて 約十分一となしたるものなるが、多くの地名+を省略したる上、方格を除いて形状歪曲したるは 尤も惜しむべし。 その名+称よりも察せらるゝが如く、「禹跡図」が禹の迹の支那本部を中心としたる図なるに対して、本図は華夷を包括したる当時の世界図を意味せり。 禹跡図・華夷図に続いては、蘇州文廟に存する「天文図」「墜理図」あり、南宋理宗の淳祐七年(1247年)の石刻に係る。 なほ 我が国京都 東寺所伝の宋図あり、宋の税安禮の「歴代地理指掌図」等もあれど、今 皆之を省く。


 三 清内府一統輿秘地図

 清の聖祖の実測せしめたる図が 今の何図に当るかは 未だ詳ならず。 然れども もと奉天の故宮にその原銅板を蔵し、先年 金梁氏の手によりて印刷せられたる 所謂「満漢合璧清内府一統輿秘地図」が是に非ざるまでも、恐らくそれに最も近きものなることは ほゞ疑の余地なし。 本図は 縦約一尺三寸 横二尺二寸なるもの四十一葉より成り、支那本部の地名+のみを漢字にて記し、爾余の地名+を凡べて満字にて表したり。 こゝにその一葉を見本として示す。 本図は疑もなく 斉召南の「水道提綱」が原図として用ひたるものなり。


 四 ダンヴル支那新図

 支那の実測に携はりたる宣教師等は その稿本の一部を欧州に送りたれば、当時フランス随一の地図学者たりしダンヴル(D'Anville)は 之を編輯して一部の支那図帖を造り、初め之をヂュハルド(J.B.du Halde)の「支那帝国全誌」(Description geographique,historique,etc de I'Empire de la Chine etc.)の中に挿入し、尋いで之を単行して「支那新地図」(Nouvel Atlas de la China)と名+づけたり。 時に 1736 ~ 7 年(乾隆1~2)のことなり。 この図は 今に至るまで支那古地図の最も精確詳密なるものとして珍重せらる。 こゝに示せるは その一葉なり。





第一図 禹貢九州図

 「禹貢」は 「尚書」一名「書経」の中に収めらるゝ支那最古の地誌にして、禹が帝舜の命を受けて天下を周游し、洪水を治したる後、山川の形便によりて天下を九州に分ち、土地の優劣、物産の種類によりて、貢賦の制を定めたる事を記したものなり。 然れども「禹貢」は 古人の信ぜしが如く、帝舜の晩年 若しくは夏の初世に作られしものに非ずして、早くも春秋時代の末より戦国時代の初に於いて編纂せられ、更に後人の攙入あるものなること殆ど疑なし。 故に吾人は 「禹貢」の記事によりて本図を描き、以て春秋末期 若しくは戦国初期の於ける 漢民族(支那人)の地理に関する知識の程度、及び漢民族の勢力範囲を髣髴せしめんとするなり。 而して「禹貢」は 後世「尚書」中の他の諸篇と共に、均しく聖典として取扱はれ、歴代の行政区画・田賦制度等、多く之に淵源するものなるが故に、仮令(たとえ)其の記録が純真なるものに非ざるにもせよ、支那の歴史地理学上重要なる価値を有するものなるをを以て、本書の第一図として茲に著録することゝなせり。











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