らんだむ書籍館 |
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表 紙 (装幀:立石 鉄臣) |
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口絵写真の一部 「森於菟の母・赤松登志子」(明治22年3月) |
目 次
鴎外の健康と死 観潮楼始末記 鴎外の母 鴎外と女性 鴎外の隠し妻 父親としての森鴎外 〔附〕おぢいさまとしての鴎外 (森 富貴) |
本文の一部紹介 |
鴎外の母
(1.祖母(鴎外の母・峰(みね))による於菟の幼少期の教育)
私が五歳の時 乳母の家 平野さん方から観潮楼(鴎外が明治24(1891)年以降、両親、祖母(清)、弟等と住んだ家)に帰つて来てから、家の興隆といふ事を目あてにして 一途に進んで来た祖母は、家の中心となるものは長男であるといふ信念から、次代の建設を新たに志して 私の世話一切を 人手にかけず、読書算術などを幼い時から教へ込まうとした。 また 私の生母を離別した父が私に愛を感ずる事の少いのをおそれて、父の明治二十七八年戦役(日清戦争)従軍中、私をつれて浅草公園で写真をとり 戦地の父に送つた。 小さい私が水兵朊を着て椅子の上に立たされた写真には、後から私の落ちぬやうに支へてゐる祖母の愛の手の影が 今でも薄いながらぼんやり残つてゐる。 また その後も 父が夕方散歩する時など 必ず私について行かせ、私が何かしぶつてゐると 殊更けはしい眼ざしで私を見て 「お父さんに可愛がられるやうにおしよ。」と 父の後を追はせた。
祖母の早教育のおかげで 明治二十九年 数へ年の七歳になつた私は、既に小学一年の課程をを大方家ですませてゐた。 唱歌なども 近所の子供達の歌ふのを祖母が覚えて私に教へ、紀元節の「雲に聳ゆる高千穂の……」 天長節の「今日のよき日は大君の……」 など歌へるやうになつてゐた。 また 「池の鯉よ緋鯉よ、たたく手をしるべに……」など、私は首をかしげ 手を叩きながら拍子をとる祖母のまはりを踊りまはつた。 私を尋常小学校の二年に入れようとした祖母は、上流子弟の通ふ所から一番いい学校と思つたと見えて、まづ学習院の初等科へつれて行つたが ここでは私を入学させてくれなかつた。 つぎに本郷区でのよい学校といふので 誠之小学校に連れて行かれ、尋常二年の編入試験をうけ 及第した。 祖母はそれから毎日 私をつれて誠之小学校に通ひ、課業中は教室に沿ふた廊下に立つて 先生の教へる事を見て置き、帰つて来ると私に復讐させた。 家で祖母に教はつた歌で今もよく覚えてゐるのは、中村秋香作の「秋のはじめになりぬれば、今年も半ばは過ぎにけり、いくよへにけん月影の……」 といふ歌である。
私の課業が進んで 算術では四則雑題から分数、小数、比例、利息算などになり、また 歴史、地理、理科などが出て来ると 新しい学問をしない祖母は漸次困難を感じて来た。 しかし そんな事にひるむ祖母ではなく、大きくなつた私が「お祖母さん、みつともないたらありやしない。」と抗議してもきかずに、教室に来ては 先生の許しを得て廊下に立ち、窓硝子ごしに黒板を見つめてゐた。 冬の寒い日、廊下では 運動場から吹きこむ風に打水も凍り 窓の中の人いきれに硝子の白く曇つてゐる時、先生が「まあいいから 此方にお入りなさい」と扉をあけてくれたのを 祖母は固辞して窓のわきを離れず、時々袖で硝子を拭ふが 中からの曇りはとれぬので とうとう窓を細目にあけてそこから覗き出したのを、同級生が皆その方へ眼をやるので 私は身体をちぢませて恥ずかしがつた。 学校では 受持の先生、同級生はもとより 学校中の先生、生徒、小使まで 皆祖母を見覚え、私の誠之小学校での上級高等科一、二年(現在の小学校五、六年)の二年間を受持つた上田徳太郎先生の如き、その後十年余にして私達卒業生の有志が集つて先生を招待し 昔語りをした席で、第一に私に向つて その時すでに故人となつた祖母の安否をたづねられたのであつた。
………
(2.祖母と生母・登志子との邂逅)
私のまだ尋常二年の時、ある秋の日の午後 祖母が誠之小学校から家の用事のためにひとり帰る途中、根津権現の境内で 私の生母 登志子に出会つたさうである。
<中略>
前に記した根津権現境内でのことは それから数年を経て、すでに他家(法学士 宮下道三郎)に再嫁した私の生母と その遺児(残した子)を育てつつある祖母との邂逅である。 嫁と姑として同じ家に住んだ親しみは深くないが、またそれだけに みぢんも悪い感情を残してゐなかつた二人は 如何なる感慨を抱いたか。 静かな秋の日に照らされた権現の社の瑞垣の外には 敷石をとびとびに置いた歩道があり、それに沿ふて長楕円形の古池、その後には雑木の枝の繁り合つた丘がつづき、木立にまじる栗の木の梢には 笑み割れた緑色のいがの間から、濃褐色の艶をみせる実が 枯葉ごしに降りそそぐ日ざしに映えてゐる。 その店のほとりにある茶店に腰をよせた二人の女は、不幸なる訣別以来の物語に一刻を過した。 境内には銀杏の木も多いから その黄ばんだ撥形の葉の数片は 床几の上にも落ち散つたであらう。 「今から思ひますと ほんの子供の、何事もわかりませぬわたくしの我儘から 旦那様にうとまれまして、あなたにも申し上げやうのない御心配をかけました。 叶はぬ願とはあきらめて居りますものの、この世で今一度おめにかかり お詫び言を申せたらと、思へば眠れぬ夜もいく度かございました。」 との悔み言に 「まあまあ お登志さん。」 と 嫁であつた時と同じやうに呼びかけた祖母は、「過ぎ去つた事は 今更何とも致方がありません。 あなたも他家の奥様、これからの御身ですから どうか御大切に。 於菟は 私が面倒見て居りますから 御心配なく。 もうこの近くの小学校に行つて居ります。 余所ながら御覧になるなら 御連れしませうか。」 「子供の事はお母様が、あら御免遊ばせ、お母様と申し上げまして。 あなた様が御世話下さいますなら 心残りも御座いません。 あひましても 却つて子供のためになりますまい。 それにわたくしも、どうやらすまぬ心持もいたしますから、それではこれでお別れいたしませう。 皆様、あの皆様 御大切に。」 「あなたも御機嫌よう、ご無事に。」 「有りがたうございます、では御免遊ばせ。」 赤松家では 言葉使ひが特に礼儀正しかつた。 くり返す「御免遊ばせ。」が 祖母の聞いた私の生母の最後の挨拶であつた。
………
(3.祖母と於菟が 赤松家(生母・登志子の父母の家)を訪問)
その年(明治41(1908)年)の四月一日 学校の春休みでひまになつた私をつれて、祖母は土山(現在の 滋賀県甲賀市土山町)の常明寺へ詣るために 東京を後にした。 曾祖母(鴎外の祖母 清(きよ))の遺骨を葬つた時には 祖母は叔父(鴎外の弟) 潤三郎を伴つたので、私が此処を訪れるのは初めてである。 東海道線を草津で降りて乗りかへ、水口駅から乗合馬車で二時間余ゆられて着く土山の町は 寂しかつた。 馬子唄に 「坂は照る照る鈴鹿はくもる、あひの土山 雨がふる。」といふ、今は全く交通の大動脈から切りはなされた 昔の合の宿である。 まづしげな旅人宿、荒物店などぽつぽつまばらに並ぶ街道から少し離れてある 古い由緒ありげな寺がそれで、低い石垣に囲まれ、外から庭に多い松の根方まで眺められる。 釣鐘堂には松風が飄々と通つて 撞木をかすかに揺がす。 その墓地の一隅にある曾祖父母の墓の前に額づいた祖母は 暫く面をあげず、私は夕暮のせまる薄曇りの空を眺めて 傍に立ちつくした。
土山から京都に出で 二、三日を名所見物に暮しての帰途、祖母と私は 四月六日のひるすぎ 浜松の駅に下り立つた。 祖母は 全く襁褓(むつき)の中から手一つで育て上げたと云つてもいい 私への盲愛から、己が齢の傾くにつれ、その死後に於ける私が 父、継母、異母弟妹に伊して 孤独でありはせぬかと 案じせまつたらしい。 昔絶たれた きづなの絲をつなぎ合せて、私を生母の実家 赤松家の祖父母に引きあはせて置かうと思つたのである。 浜松で降りたのは人伝(ひとづて、人の話)に、もと幕臣の赤松男(男爵)が この辺 徳川家にゆかり深い土地に隠棲して居るときいたからであつたが、浜松停車場できくと それは誤りで、同じ遠州でも見付町(もと、現在の静岡県磐田市中心部に存在した町)、そこへは東海道線で中泉駅から入るがよいと教へられた。 私達はまた汽車に乗つて 中泉に下車したのは すでに暮方近くであつた。 浜松とはちがひ、さびしい駅の構外で漸く見つけた二台のの人力車、祖母を先にして私はあとにつづく。 ここは三河平野につづく遠江の国、わづかに起伏する丘の間に 田畑がはてしなくひろげられる。 中泉の町を離れてしばしが程は その間を縫ふ街道、それは所々に松並木の名残りをとどめ、やがて土地の人が名物の裸踊りを自慢にするといふ八幡神社の森を横に、彼方に火の見櫓の高く聳える所は はや見付町であつた。 町の軒並は低く、少し高い建物と見ると、それは時計台のある小学校であつたりした。 これも土山と同じく東海道五十三次の一つの宿でありながら 明治になつて主なる交通路からとり残された処なのである。
見付の町をはづれる頃には 日は全く暮れて、桑畑の間を行くほこりの多い道が 二つの車の提灯の鈊い光に照らされるほか、一帯にほの白く見えるのは 白雲に掩はれた空の一隅から、折々下弦の月の淡い光が洩れるのである。 私達の車は 見付町から二町余り離れた畑中、広く土塀で囲つた重々しい屋敷門の前に止つた。 これが赤松男の邸ときいた祖母は すでにきびしく閉された大門を車夫に叩かせて、やがて傍のくぐり門をあけて現はれた門番の老人に 私の名刺を渡した。 それにはかねて祖母のいひつけで 名前の肩に小さく第一高等学校生徒と手書してあつた。 祖母にしてみれば 入りにくいこの門を入るには、私をこれまでに育てたといふのが唯一の力草であつたのであらう。 邸の中には まだ所々の窓から燈火がもれてゐたが、今まで静まり返つて見えた家内が 俄にざわめいて廊下を小走りに往来する人の気勢さへ聞えた。 その響は 門の外に立つ私の胸に、まだ見ぬ祖父母が 思ひもかけぬ孫の訪問に驚かされた気持そのままのやうに伝はつた。
しばらく待たされてから 案内に従つて玄関に通り、式台を上つた私達は やや奥まつた六畳の室に導かれ、ここで一人の青年に迎へられた。 「私が盛三です。」と挨拶したのは 則良翁の三男 即ち私の生母の弟で、当時京都帝大法科の学生で 休暇に帰省中であつた人である。 初め私の名刺を見て驚いた人々は 或は事情を知つて名を騙る者かとの疑ひに、まづこの人をして応接せしめたのださうである。 これについで間もなく部屋の障子をあけた老夫人に、祖母は座布団から身を退いて「閾がお高くて上れません所を押して上りまして。」と手をつくと、夫人は「いいえ どう致しまして、どうかお手をお上げ下さいまし。 まあよくお訪ね下さいました。 あなたのおつれ下さいました事を存じませんで 実はあまり思ひがけなく、かたりかと思ひまして失礼を。」と挨拶され、私の方を見ては「ほんとにあなたが於菟さん。 ねえ 盛三 御覧、お登志によく似て。 これでは ひとりで来ても見違ひはありません。」と眼をしばたたかれた。 祖母の「お登志さんも おなくなりなさいましたさうで。」といふには 「はい、あれも不仕合せな事で。」とのみ多く語らず、「則良もさぞ喜ぶ事でございませう。 さあこちらへ。」と、それから私達は 主人の居間に通された。 八畳の居間の床に近く机を据ゑて 書見してゐた主人の翁は、廊下を近づく足音に はや落ちつかず 片膝立てられた様子で、私達を見ると 「おう、おう。」と立上つて迎へた。 ここでも祖母が 慇懃に「かねてから林太郎が 成人致しました於菟を、一度お邸にと申しますのでつれてあがりましたが、よく会つて下さいました。」と挨拶するのに、「よくおいででした。 林太郎さんも御出世で結構。 あなたもお達者で。」と軽く答へ、私に ここへここへとうなづいた。 老夫人は後から押すやうにして 私をその膝下に坐らせたが、翁は片手を私の肩にあて、片手で私の手をとつて 薄暗い電燈の光をたよりに、いつまでも黙つて 私の顔を茫然と見つめてゐた。 後に「わしはあの時、死んだとあきらめた孫が帰つて来たのは、夢ではないかと思はれたので。」と述懐されたといふ事を、私はその後この家をひとりで再び訪ねた時、叔母の一人からきいたのであつた。
その夜私達は 広い邸内の離れ家になつてゐる一棟の二階に宿をあてられた。 翌朝早く眼をさまして廊下に出ると、眼下の藤棚の向ふにある畑では すでに主人の翁が 昨夜の「門番」実は老用人を相手に鍬をとつて居た。 やがて夫人は 十歳ばかりの、そして年齢よりも発育の遅れた小さい女の子を連れて 階段を上つて来た。 それは 私の生母が再嫁して生んだ 私にとつては異父妹の美代子で、母の没後 父の実家の事情から母の実家に養はれ、今は見付町の小学校に通つてゐるのであつた。 祖母は「まあこれがお登志さんの」忘れ形見かと おどおどする少女の下げ髪を撫で、その手をとって私の手といつしよに握りしめた。 この時ただ無言で立つ私は 昨夜と異り 隈なく晴れた朝の日射しの下、二人の老いた婦人の眼に ひとしく光る露を認めたのである。 それから私達は 主人の翁の案内で広い邸内を見廻つた。 建築はすべて大ぶりに 木材もしつかりと組まれ、すべてががつしりした感じであつた。 かつて海軍の造艦術の権威として重んぜられた翁は、「私のつくる家は皆船だと人が笑ふのでね。」といひ、また祖母が「このお邸から東京へお通ひでは お大抵ではいらつしやいますまい。」などいふと、「いいえ 東京へ行けば陣笠でね。人の真似をして立つたり坐つたりするだけですよ。」と笑つた。 翁は当時 貴族院議員であつたのである。
この日の夜 東京へ帰つた私は、父母の同席の所で この訪問の次第を告げた。 父は「さうか、赤松さんも御元気であつたか。」とのみ言葉少なく、母(鴎外の後妻・志げ。茉莉、杏奴、類らの生母)は終始沈黙してゐた。 私は こんな事がまた母の気に障り、ひいて父をも苦しめはせぬかと、東京へ帰る車中にも 車輪の響が心臓の鼓動につたはる位に心配したが、案外無事にすんだので、ほつとして 母の寛大に感謝したが それを口に出す私でもなかつた。 自体 この訪問については 祖母が前から父に云つてあつたらしいが、母の諒解をを得てゐなかつた。 私も こんな時に 父を措いてまづ母に謝すれば 母の気持の上に好い影響を与へたであらうが、何事もせずにすむ事は黙つてすます性質の私は 全く可愛げのない青年であつた。 一体に母は 継母と継子といふ悲しい因縁から その若い日には私に対していい顔を見せる事は甚だ少いのではあつたが、とくに機嫌のわるい時のほかは 筋目の立つた事は やかましくいはぬ方で、その後 私が赤松家を訪ねるにも小言はいはなかつた。 また 私の家の付近に住んでゐた私の生母の弟の一人で、私と心易くした色部庸男(赤松家四男、色部義太夫養子)が屢々私の家を訪ね、時には父とも話すのにも、それが私の叔父としてでなく 私の友人としてならいいといひ、その人が快活な話の面白い人物であつたからでもあるが、時には自分も会つてこれと談笑した事もあつた。 そのくせ 則良翁の隠居後、長男赤松範一男(私の生母の長兄)から私に電話をかけてきた時には ひどく怒つた。 これは 母の性質の著しい特徴の一つで、父が私に注意をする時 冗談めかして、「あれは大義名分を重んずるのだから 気をつけなければいかん。」といつた事がある。 母の話では 父は私の生母について何もいはなかつたが ある時「あれは籍が入つてゐなかつたから、於菟は女中の子といはれてもしかたがないのだ。」といつたといふ。 父の没後 何か腹を立てた時に 母は「於菟ちやんはパッパが自分の子だと認知しただけよ。」と 法律上の言葉を使つた。 この旅行の後 私は祖母と共に 赤松家で聞き知つた私の生母の墓に詣でた。 それは 私の家に程近い駒込の吉祥寺で 墓は赤松家の墓地の一隅に建てられてあつた。 私には不幸な生母の、後の夫の菩提寺にも送られず 一人の幼男児(それは私が見付で会つた少女の兄 馨三)と共に実家の墓地に寂しく埋められてゐるのを 一しほ あはれに思つた。
終