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「大学」と「中庸」で1冊、「論語」と「孟子」がそれぞれ1冊で、計3冊。
「四書集註」

 文久3(1863)年、大阪・積玉圃(柳原喜兵衛) / 松敬堂(山内五郎兵衛) 刊行。 縦:157mm、横:112mm、線装。 3冊。

 四書とは、「大学」「中庸」「論語」「孟子」のことで、宋の朱熹(1130-1200)が選定したものとされている。しかし、これら四つの書を重視するのは 朱熹より少し前の程頤(1033-1107)に始まるようで、「礼記」中の一篇であった「大学」と「中庸」を取り出して独立の書としたのも程頤であるという。
 朱熹は、これを承けて「四書」の名のもとに儒学の基本的教科書としてオーソライズし、注釈を施した。それが、この「四書集註」である。古来の注釈に対し、朱熹のものは新注と呼ばれる。
 (四書集註は、「シショシッチュウ」と訓む慣わしである。)

 わが国では、徳川幕府の文教政策の中心に儒学がおかれ、中でも朱熹の説いた学問 * いわゆる朱子学 * が重んじられたことから、四書集註は、その標準教科書として用いられた。おそらく、この徳川時代を通じた最大のロングセラーで、各種の版本が次々と送り出されていたことであろう。

 「袖玉楼袖珍板翻刻」と称するこの版本も、当時のごくありふれたものにすぎない。袖珍板の名のとおり、現在の文庫本とほぼ同じポケットサイズなので、安価で大量販売されていたものと思われる。
 保存状態も、かなり悪く、「論語」以外は題箋も剥がれてしまっている。
 このようなものををあえてここに掲げるのは、その中の一部におびただしい書き込みがあり、その書き込みにかつての読書人の驚嘆すべきエネルギー(学問への情熱)を感じることができるからである。

 書き込みがあるのは、主に「孟子」の初めの方の部分、具体的に言えば梁恵王・上篇の最初から梁恵王・下篇の第三章までで、20葉 (頁数でいうと33頁) にわたっている。
 欄外の余白に、朱筆でギッシリ書き込まれているが、我々がボールペンで書くものよりも小さな数ミリ角の文字が実に美しいのに、まず驚かされる。
 そして、書き込まれた文は、すべて立派な漢文である。




 書き込みの例 1  (第2葉と第3葉の見開き) 拡大画像

 (画像の右上の 部分をクリックすると、この部分が拡大表示されます。)

 「孟子」梁恵王・上篇の第ニ章、すなわち梁の恵王との対話の第ニ段である。
 恵王の沼(池を中心にした広大な庭園)に臨んでの対話で、王が園中の鴻雁や麋鹿を顧みながら「賢者にもこのような庭園に遊ぶ楽しみはあるのか」と問いかけたのに対して、孟子は「賢者であればこそ楽しめるのであって、不賢者は楽しむことはできない」と答え、詩経や書経・湯誓篇を引いて、すべての人民と楽しみを共有するからこそ楽しみが楽しみとなるのである、と説明する。
 枠内に印刷された大きな字の部分が本文、細字の部分がその本文に対する朱熹の注である。

 その本文および注の字数よりも、朱筆の書き込み字数の方が多いのではないかと思われる。
 書き込みの最初の行に「空地に水をあつめたるなり。行楽の地。」とあるのは、ここでの「沼」の意味を説明しているのであろう。
 続いて、この場面をよりよく理解するための、各種の解釈が次々に紹介されている。
 はじめは、この第ニ章の対話と先行する第一章の対話(恵王が利を言うのに対して孟子は仁義を説いた)との関係ついて。胡期僊という人は、第ニ章の対話は孟子が梁に滞在中に行なわれたもので、梁への到着早々行なわれた第一章の対話とは別の時のものであるとする。王鳳洲という人は、第一章の対話のあと共に庭園に遊んで、第ニ章の対話が行なわれたとする。顧麟士という人も同様で、「鴻雁麋鹿を顧みて曰く」という表現は、第一章の対話につながっているという。「顧みて」とは「見やりながら」であるから、対話のつながりの方が重視されているということらしい。そこで、先ほどの胡期僊は、「顧みる」とは「目を挙げて視る」(=まともに視る)ことであるしている。
 次には、賢者ないし賢ということの意義に移る。盧未人という人は、孟子のいう賢者は君主を指しており、恵王の「賢者にもこのような楽しみはあるのか」の賢者とは同じでない、という。陸稼書という人は、恵王のいう賢者には深い意味はない、恵王は努力を尽くしていると自負していて、自分が不賢者だとは思っていない、という。…まだまだ続くが、書き込んだ本人は頭の中で筋道をつけながら読めるのであろうが、このあとに列挙されている各説は、前後のつながりがどうもよく理解できない。
 それで、この辺までにとどめるが、とにかく枝葉にわたることまで細かく論じられている。

 このように、書き込みによって余白全部を埋め尽くした頁が、さらに10頁もある。




 書き込みの例 2  (第16葉)

 「孟子」梁恵王・下篇の第一章。
 孟子が斉に滞在していたとき、斉の宣王に仕える荘暴という人が訪ねてきた。
 荘暴が言うには、「宣王にお会いしたとき、王は『わしは音楽が好きだ』と言われたが、私には返事ができかねました。音楽を好むというのは、いかがなものでしょう。」と。これに対して孟子は、「王が本当に音楽を好むのならば、それで斉の国も治まるでしょう。」と答えた。
 孟子は荘暴に対してはこのように答えたが、他日宣王に会見した際に改めてこの問題を持ち出し、民と楽しみを同じくすべきことを諄々と説いたのであった。

 書き込みは、ここの荘暴との会話について解説したもので、次のような内容である。
 「荘暴が王に返事をしなかったのは、王の好む音楽が低俗で王にふさわしくないものであることを知っており、これを諌めようとして適切な言葉が見つからなかったためである。そこで孟子に相談したわけで、荘暴の『いかがなものでしょう』という言葉には、政治の妨げになるのではないかという意味も含まれている。孟子は明確には答えなかったが、何かうまい説得のしかたで王に働きかけたいと考えていた。荘暴は孟子の言葉に納得してしまい、それ以上つっこんだ質問をしなかった。そこで孟子が他日王に会ったとき、これこれのやりとりがなされたのである。これは、孔子が孟懿から孝を問われて『違ふなかれ』と答えたのに似ている。『違ふなかれ』という言葉にはいろいろな意味がこめられていたのだが、孟懿がそれについて質問しなかったので、樊遅を通じて理解させようとしたのであった。」

 最後の孔子うんぬんのところは、「論語」為政篇・第五章における孔子と孟懿・樊遅との対話と、状況が似ているというのである。具体的に示すことは省略するが、両者に共通するのは、質問を発した側が、それに対する答えの内容がよく判らないのに、さらに問い質すことをせず、あいまいなままに済ませてしまったことである。

 この章に対する通常の解釈においては、荘暴とのやりとりは、単に宣王への講説がなされたいきさつとして扱われるにすぎない。しかし、この書き込み者の解釈によれば、このやりとりには より積極的な意味があることになる。つまり孟子は、荘暴に、臣下としてなすべきことを自覚させようとした、というわけである。たしかに、下文の宣王との会話で孟子がこの問題を持ち出したときに 荘暴の名前を出しているのは、王に発言を思い出させる意味もあるが、やがて話の内容が荘暴の耳に入ることを意図したもののように思われる。




 書き込みについての考察

 書き込みには、自己の知識・見解を記したものと、「〇〇曰く」として従来の学者(注釈家)の説を引用したものとがある。
 従来の説を引用した部分も、最後に「按ずるに」として自己の見解で総括していることが多い。
 したがって、書き込みをしたのは「孟子」を初めて学ぶ人などではなく、すでに相当な学識を具えた人であったと考えられる。

 従来説として引用されている注釈家はきわめて多く、その名前を出現順に挙げれば、次のようである。
 胡期僊、張泰嶽、金仁山、孫潜村、張彦陵、鄧雉千、呉蓀右、孫詒中、盧未人、説統、輔潜庵、王鳳洲、顧麟士、陸稼書、丘月林、周聘侯、許白雲、中村氏、蔡虚斉、李岱雲、指南、林次崖、楊琨阜、王道元、翼註、胡斐才、王観濤、李安渓、趙格庵、呂晩村、三徳 (計:31)
 ほとんどが 筆者には未知の人名であるが、印の4人はその説が岩波文庫の『孟子』(小林勝人・訳注)の注に引かれている。その他の人々もみな、「孟子」の全体または一部に対する解釈について、何らかの説をなしているのであろう。ただし、これらのうち「説統」と「翼註」は書名の簡称らしく思われ、「指南」や「三徳」もその類かもしれない。
 とにかく、書き込みをした人は、実に多くの文献を参照し、頭の中で整理して、その結果をここに書き出しているわけである。このことからも、これは専門家レベルの人に間違いないと思われる。

 そうすると、既にこれだけの知見を有する人が何のために書き込みをしたのか、ということになる。
 筆者は、教える立場にある人の講義の手控えではなかろうかと考える。
 幕末から明治初めにかけては漢学塾の盛んなときであったから、そういう塾を主宰する人などが、教授の参考となることがらを 盛り沢山に書き込んでおいたものであろう。



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