らんだむ書籍館
表紙
見返し
題字「追遠」
(諸陵頭・伯爵 戸田氏共 書)
後語〔諸陵属 渡 楫雄〕 題言〔諸陵助 足立正声〕
(いずれも 冒頭部分のみを示す。)
「陵墓一覧」
明治34(1901)年、 宮内省 諸陵寮。
縦 13.3 cm、横8.3cm、活字印刷、折本。
「陵墓一覧」
は、歴代天皇(*)・皇后・主要皇族の陵墓について、明治期の宮内省諸陵寮が把握していた 「被葬者」「陵墓の名称」および「所在地」を、表形式で示した資料である。
(* ただし、皇室の直接の祖たる三柱の神、瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)
・彦火々出見尊
(ひこほほでみのみこと)
・鸕鶿草葺不合尊
(うがやふきあえずのみこと)
、を 神武天皇の前に置き、歴代天皇に含めている。)
ここに掲げる「陵墓一覧」に先行して、同名・同形状の書が 明治30(1897)年にやはり諸陵寮から刊行されており、その内容は
「国立国会図書館デジタルコレクション」
で公開されている。 (以下、単に
「明治30年版」
という。)
ここに掲げる「陵墓一覧」は、見返しに「明治三十四年改正」とあるので、上記「明治30年版」の内容を改正したものとみられる。 (以下、単に
「明治34年版」
という。)
両者を比較してみると、「明治34年版」における改正は、かなり大幅なものである。
まず第一に、明治30年版が天皇の即位順、すなわち時代順に 陵墓を配列しているのに対し、明治34年版は 陵墓所在地の区分、すなわち地域別に 各陵墓を配列している。
第二に、明治30年版が本文(陵墓データ)のみの簡素な内容であるのに対し、明治34年版は 顕官たる諸陵寮の幹部による 題字および前後の序を付して、書物としての体裁が整えられている。 書の内容が 万民によって尊ばれるべき事項なので、それにふさわしい権威付けを図ったのであろう。
なお、明治30年版の見返しの標題頁には、やはり「明治三十年
改正
」の語があるので、これ以前の版があることは 確かである。 筆者はその変遷について承知しないので、上には ただ、明治30年版と明治34年版との相違のみについて述べた。 さらに付言すれば、この相違に対応して、利用目的にも相違が生じたように思われる。 すなわち、時代順配列の明治30年版は、天皇や皇族を特定するのが容易であるから、その特定した被葬者の陵墓の所在地も容易に知ることができる。 一方、地域別配列の明治34年版は、ある地域における陵墓の分布を 時代にかかわらず知ることができるので、地方史研究者等には便利であろうし、特に作成元の諸陵寮のような管理者には必須の資料であろう。 (この館蔵書には、追加・訂正に関する多数の書き込みがあり ― 悪筆で判読しにくいが ― 、そうした人物が日常使用していたもののようにに思われる。)
こうしてみると、これら二種の「陵墓一覧」は、それぞれ存在意義を有している、と言える。
以後は、専ら
明治34年版
について述べることとする。
前述したように、この版においては 地域別に各陵墓が配列されているのであるが、その地域はまず、(1)古くから都が置かれた いわゆる「畿内」の地と、(2)それ以外の地、とに2大別されている。 (目次や説明は無く、通覧することで看取される区別であり、「畿内」の語も使用されていない。)
陵墓の配列は 畿内以外の地から始まっていて、その小分類は、「東京府下部」、「神奈川県下部」、「静岡県下部」(それぞれ「東京府下の部」、神奈川県下の部、静岡県下の部 と読むのであろう)… のようになっており、以下、愛知県、三重県、岐阜県、長野県、新潟県、青森県、山形県、栃木県、岡山県、鳥取県、島根県、香川県、徳島県、山口県、愛媛県、高知県、福岡県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、長崎県 と続いている。 畿内以外の地は、この24府県が 小分類を構成しているわけである。
次に 畿内の地は、次のような小分類となっており、6府県で構成されている。
甲第一部~第十八部(京都府)
乙第一部~第二十二部(奈良県、大阪府)
丙第一部~第四部(兵庫県)
丁第一部~第三部(滋賀県)
戊第一部~第二部(和歌山県)
明治34年版は、以上のような構成で 陵墓が配列・記載されている。 「畿内」の地とそれ以外の地とを合せると、陵墓は 30府県に及ぶ広範囲に 分布しているわけである。
個別の陵墓についての記載事項は、明治30年版と明治34年版とで変らず、冒頭に述べたように、「被葬者」、「陵墓の名称」、「所在地」の3項目である。
「被葬者」の中心である天皇は、諡(おくりな、
諡号
(
シゴウ
)
ともいう。)で表示されている。 諡は中国から伝来した習慣で、人徳や善政を表わす漢字の組合せが多く、漢風諡号と呼ばれる。 初期の天皇の諡が奈良時代に一括撰進されたことから、漢風諡号が一般的であったが、平安時代以降は多様化し、特に譲位した上皇については、譲位後の居所すなわち執務場所の名称(〇〇院)を諡とすること(これを院号という)が多く行なわれるようになった。 この院号の使用は大正期に廃止されたが、廃止に先立って発行された本書で、それが広く行なわれていたことを、逆に確認することができる。
「陵墓の名称」に関しては、まず 天皇および皇后・中宮のものが「陵」(リョウ、みささぎ)で、その他は「墓」である。 天皇の父母についても「陵」とされているものがあるが、ごく小数である。 陵には、当該天皇(または皇后)単独のものと、複数の天皇(皇后)のものが一体化(共同施設化)したものとがある。
なお、「火葬所」、「分骨所」、「髪爪塔」、「髪歯塔」、「灰塚」など、陵墓に準ずる施設についても、陵墓と同様に記録されている。
また、各地に、伝承等から天皇あるいは皇族のものと考えられるものの、被葬者を特定できない陵墓が 存在する。 こうした陵墓については、その存在地が「御陵墓伝説地」あるいは「御陵墓参考地」として記録されている。
明治34年版で新たに加えられた 題字等を、右に掲げた。
題字の「追遠」は、『論語』学而篇にある曽子の語の一部で、「遠い祖先の祭も ていねいに行なうべきである」との意味である。
「題言」と「後語」とは、冒頭部を示すにとどめた。
「本文の一部紹介」
としては、被葬者の人物像や 時代の動きなどのトピックスを、その部分の本文画像を示しながら 紹介することとする。
本文の一部紹介
明治天皇の子女たちの墓
地域別配列の明治34年版「陵墓一覧」 は、「東京府下の部」 から始まっている。
冒頭に記録されている被葬者は、「今上天皇皇子」または「今上天皇皇女」という肩書きが付された 10名の人物である。 明治期刊行の本書において、「今上天皇」とは もちろん明治天皇のことである。 天皇は、皇后との間には子がなかったが、5人の側室との間に 15人もの子女(男子5人、女子10人)をもうけたことが 知られている。 その15人のうち、この時点(明治34年)までに、10人が死去したわけである。 うち2人は死産であったが、それを含め、宮殿内の出産・養育環境に 何らかの問題があったのであろう。
男子のうち、唯一 成人した人が 次代の大正天皇であるが、この天皇が健全な家庭生活を営み、皇室の一夫一婦制を確立したのであった。
10人すべての「墓」の所在地は、一括で「東京市小石川区小石川大塚坂下町」とされているが、現在の 皇室専用「豊島岡墓地」である。
安徳天皇の阿弥陀寺陵
「山口県下の部」には、安徳天皇の「阿弥陀寺陵」がある。
寿永4年(1185)3月、源平最後の決戦となった 壇ノ浦の戦いのとき、満6歳の安徳天皇は 二位の尼(平清盛の妻・時子)に抱かれて海に入り、短い生涯を閉じた。 同様に入水した天皇の母・建礼門院は、源氏方の兵士に引き上げられたが、天皇と二位の尼は 戦後の源氏方の捜索でも発見されなかったという。
6年後の建久2年(1191)すなわち次の後鳥羽天皇の時、壇ノ浦の近くに存在していた阿弥陀寺に、勅命によって 安徳天皇の御影堂が建立された。 これは、後鳥羽天皇が安徳天皇の在世中に即位したことで 二人の天皇が並び立つ事態となったことを謝し、安徳の鎮魂のために行なわれたことであろう。
神代三陵
「鹿児島県下の部」には、瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと)
・彦火々出見尊
(ひこほほでみのみこと)
・鸕鶿草葺不合尊
(うがやふきあえずのみこと)
それぞれの陵(可愛山陵・高尾山陵・吾平山上陵)、いわゆる「神代三陵」がある。
(明治30年版では、神武天皇の前に 別枠で掲げられていたのが、この版では こんなところに配置されてしまったわけである。)
これら三陵は、明治期の認定に基づくものであるが、諸陵属・渡楫雄が「後語」で「太古は邈
(はるかで遠い)
として、山陵も弁じ難し」と述べているように、根拠らしい根拠があったわけではない。 高千穂の峰に降臨した「天孫」が東上した推定経路などから、いわば想像力の産物として 設定されたのであろう。
「鹿児島県下の部」は この神代三陵のみで、次は「長崎県下の部」となるが、ここは「御陵墓伝説地」が1個所あるのみ。 これで、「畿内」以外の地は終りとなる。 ここまでで、本書全体の約1/4程度である。 すなわち、残り約3/4 の陵墓は、「畿内」に存在していることになる。
観音寺陵・月輪陵・後月輪陵
「畿内」に入り、「甲第一部」の最初は、後堀河院天皇の「観音寺陵」である。
続いて、12人の天皇を被葬者とする「月輪陵」、2人を被葬者とする「後月輪陵」と続く。
これらの天皇のうち、初めの後堀河院天皇と四条院天皇は 鎌倉時代の天皇であるが、他はすべて江戸時代の天皇である。(明正院天皇と後桜町天皇は女性。)
この表示部分には 天皇のみが並んでいるので、これらの時代には 諡号として院号が用いられていて 今日の表記と異なることが、よく判るであろう。
「後月輪陵」の光格・仁孝両天皇が院号でないのは、これらの天皇のときに 漢風諡号が復活したためである。 両天皇とも 旧来の朝廷儀式の復旧に熱心であったが、とくに仁孝天皇は、漢風諡号を復活させて 父天皇に「光格」の諡号を贈った。 それが 仁孝、孝明、…と継続され、明治以降の「一世一元制」に推移して、今日に至っている。
なお、これら三陵の所在地は いずれも「京都市下京区今熊野町」とされているが、現在は 真言宗(泉涌寺派)の寺院「泉涌寺」の境内となっている。
安積親王・以仁王・一休和尚 の 墓
「甲第十四部」から「甲第十六部」までは、これらの人々の(単独の)墓である。
記載順は、この見出し と逆になっているが、ここでの紹介は、この見出しのように 時代順に行なうこととする。
「甲第十六部」は、奈良時代の聖武天皇の第二皇子・安積親王の「和束墓
(わづかのはか)
」である。 親王は、皇太子に立てられるべき順位にあったが、光明皇后の生んだ阿部内親王が、皇后の父・藤原不比等の権勢で 女性皇太子に立てられ、即位する(孝謙天皇)結果となった。 その後 親王は、難波宮に行啓の途中、17歳で死去したが、藤原家の人に暗殺された可能性があるという。 墓の所在地の 現在の表示は、京都府相楽郡
和束
(
わづか
)
町。
「甲第十五部」は、平安時代末期の後白河天皇の第三皇子・
以仁王
(
もちひとおう
)
(政争のため親王宣下は受けられなかった。)の墓である。
以仁王は、治承3(1179)年、平清盛が後白河法皇を幽閉した政変の際、平氏追討の令旨を 諸国に雌伏する源氏に発したことで 知られる。 源頼朝や木曽義仲は、この令旨によって挙兵したのである。
以仁王 自らも 挙兵を試みたが、事前に計画が平家方に洩れ、先ず逃れた園成寺から南都の興福寺に向かう途中で、討たれた。
墓は、落命後 土地の人々によって葬られた所であるという。 木津川市山城町大字綺田小字神ノ木・高倉神社。
「甲第十四部」は、室町時代の禅僧・一休の墓である。
一休に関する一部の書に、後小松天皇の落胤と伝えるが、あくまで伝承とするのみで、一休について論述しながら そのことを記さぬ文献も多い。
一休は その行動が不羈奔放で、豪邁な性格であったので、それが境遇に基づくものと解釈されることがあり、諸陵寮も、そうしたことから、落胤伝承を採択したのかもしれない。
しかし そうであるとすれば、一休は 出自を意識して 大胆に行動していたにすぎないことになり、個性的特徴は失われることとなろう。
一休の生涯そのものは、終焉に至るまでが かなり明確にされており、墓そのものは真実のものと考えられる。
墓は、京田辺市薪の酬恩庵にある。
箸墓古墳
「乙第八部」には、第七代・孝霊天皇の皇女・
倭迹々日百襲姫命
(
やまとととびももそひめのみこと
)
の墓、いわゆる「箸墓古墳」がある。
この姫は、父・孝霊天皇から三代後の第十代・崇神天皇の時、霊的な能力を発揮して、崇神天皇に対する謀反や呪詛を予知し、この天皇を援護したとされる。
このことから、倭迹々日百襲姫命を『魏志倭人伝』における卑弥呼に擬定する見解が生れた。 早く大正期にそれを主張したのは、笠井新也(1884~1956)という研究者であったが、当時は 「邪馬台国」を九州に求める学説(邪馬台国九州説) が主流であったため、あまり注目されなかった。 しかし 戦後流れが変り、特に上古漢字音の精密な検討で、九州には「
邪馬台
(
ヤマト
)
」に比定し得る地名が見出されないため、「邪馬台国畿内説」が有力となり、倭迹々日百襲姫命の卑弥呼擬定説も注目されるようになった。
卑弥呼と倭迹々日百襲姫命の類似には、霊的能力者であったということの他に、死後に巨大な墓が築かれた ということがある。 『魏志倭人伝』に 「卑弥呼 以て死す。 大いに
冢
(
はか
)
を作る。 径 百余歩。 葬に徇(殉)ずる者、奴婢百余人。」 と あるのに対し、『日本書紀』の「崇神紀」には 「この墓は、
日
(
ひる
)
は人が作り、夜は神が作れり。 大坂山の石を運びて造るが故に、山より墓に至るまで 人民 相い
踵
(
つ
)
ぎ、手を以て伝え運びしなり。」 と、大がかりな人海戦術で建造されたことが 記されている。 箸墓古墳は、墳丘長 約280m の前方後円墳で、奈良県で第3位、全国で11位の古墳であるから、この記述にふさわしい規模であると言えよう。
ただし 『日本書紀』は、墓の建造の前に、姫と大物主神との交渉について記し、その死去(自殺)のいきさつに及んでいる。 箸墓の名はその死因に由来するのであるが、このあたりは卑弥呼のイメージに合致しない。
墓の所在地が「箸中」であるのは、古代より箸墓の名が伝えられてきたことの 証であろう。 現在の地名表示も、桜井市箸中 である。
終
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