らんだむ書籍館


表紙


目 次


   森鴎外博士の「訂正オルフェウス」  木下杢太郎
   シー・アール・ボックサー氏に再会す 幸田 成友
   唐史漫抄(一)        石田幹之助
   訳詩五篇           児島喜久雄
   禱り             城  左門
   玉の観音(上)        吉川幸次郎
   カラマアゾフ兄弟と漱石    日夏耿之助
   日記抄(昭和十四年・上)   德田 秋声
   東都の古塔(一)       滝井 孝作
   澳門記(1)         中山省三郎
   猟人日記           菊池重三郎
   木下杢太郎追憶        石井 柏亭
   太田の思ひ出         小宮 豊隆
   追哭             阿部 次郎
   太田正雄君の声        颯田 琴次
   杢太郎先生          谷口 吉郎
   太田君と巴里にゐた頃(飾画) 児島喜久雄(各葉)
   芸林閒歩(文壇消息的な短文集で、複数の人物が執筆。)
   編輯後記

   表紙 Nel mezzo del cammin di nostra vita 児島喜久雄
     (全体が液体のシミで汚れ、判別できない。)



挿画:木下杢太郎 筆「巴里に於ける児島氏」


「芸林閒歩」 第一巻第一号

 昭和21 (1946) 年4月、 東京出版 (編輯兼発行人 野田宇太郎)。
 A5版、紙装。 本文 97頁。


 本誌「芸林閒歩」も、終戦直後に簇生した、文芸誌の一つである。
 前年(1945年)10月、木下杢太郎が亡くなったので、その死を悼んだ文章が多い。 「芸林閒歩」という誌名も、杢太郎の著書に因むもので、野田宇太郎の編輯後記には、杢太郎を記念する意味のあることが 述べられている。 しかし、創刊号であるところから、以後の多彩な展開のために 追悼あるいは記念号とすることは 避けたのであろう。
 右の目次の順序は、実際の各篇の配列順序とは異なっており、実際の配列では、杢太郎を記念・追悼した5篇の文章は、前半部分にまとめて置かれている。
 また、この目次の終り近くに 「太田君と巴里にゐた頃」と表示されている 児島喜久雄の素描 5点が、誌面のところどころに配置されている。 これも もちろん、杢太郎 記念の意味であろう。
 そして、目次には表示されていないが、木下杢太郎の描画1点が、本文中(『森鴎外博士の「訂正オルフェウス」』の部分)に 挿入されている。 児島の絵がクロッキー的なものであるのに対して、杢太郎のは かなり丹念な写実であるのは、モデルが他ならぬ 美術専門家の児島であるからか。 これは、右の目次の下に掲げた。

 内容の一部紹介としては、最も新鮮・独特で、当時の状況がよく出ている 幸田成友の文 「シー・アール・ボックサー氏に再会す」を掲げることとする。
 幸田成友については、「日欧通交史」 において、人物・業績を 紹介した。
 成友は、既に日本経済史の分野で名をなした55歳の時点で オランダに留学し、その学問領域を 日欧通交という新たな分野に拡大したのであったが、そのオランダで、この「シー・アール・ボックサー氏」(Charles Ralph Boxer, 1904~2000. 英国の歴史学者。普通は「ボクサー」と表記される。)と知り合い、学問の友の関係となったのである。 上記の「日欧通交史」 の内容も、ボクサーの業績に基づくところが多いようで、筆者が同書の注釈について調べたところでは、ボクサーの著書・論文に基づくものが 22 にも上っていた。
 この文は、太平洋戦争の 特に「香港の戦い」(1941年)以降 交流が途絶していたボクサーとの、戦後における再会について記したものである。 本誌に「唐詩漫抄(一)」を寄せている石田幹之助が、日本側関係者の一人で、しかもこの会合を 成友の居宅に赴いて通知した、ということで、当時の交友関係が知られる。
 余談となるが、成友はこの文の中ほどで、ボクサーの近著についてふれ、「葡国独立四百年祝典に際し『三百年前のマカオ』と題する豪華版正続二冊を出されたさうであるが、まだ一見せぬ」と記している。 この書については、神田喜一郎が「三百年前のマカオ ― ボクサー氏の近業 ― 」と題する文章(『典籍剳記』昭和22(1947)年刊、所収)で、詳細にその内容を紹介している。 神田は 文の初めの方で、成友のこの文に言及しているので、これに触発されて執筆したことが明らかであり、これもまた、興味深い つながりである。



内容の一部紹介




シー・アール・ボックサー氏に再会す

幸田 成友     空白

 日英開戦以来 久しく消息を絶つたシー・アール・ボックサー少佐が、極東委員会 Far Eastern Commission の一人として、今東京に居られると聞いては、再会の念 禁じ難きものがある。 足の不自由なのも忘れ、長い杖に縋つて 荻窪の陋屋から神田神保町まで 超満員の電車中を前後左右に揉まれながら 到着した。 一月十四日午後三時である。
 会合の場所は 書林 一誠堂の楼上である。 躍るやうにして上る自分の足音を聞かれてか、先着のボックサー君は 今迄見てゐた古版の江戸絵図を静に畳んで 椅子から立上り、二三歩 自分の方へ進まれた。 自分も我知らず 急ぎ足で君に接近し、双方の間に固い握手が交はされた。 挨拶の言葉としては 彼我共に「再会満足」といふだけであるが、無言の中に 両者の意は充分に通ずるものがあつたらう。 僕は 瞼の熱くなるのを覚えた。
 自分は 和蘭留学中に 同国国立文書館部長バイルスマ氏の紹介によつて君を識つた。 当時の君は 一青年紳士と言はんより 寧ろ一大学生の風采をして居られた。 それから十八九年、君も四十歳を越えた。 頬の肉付こそ豊かになられたれ、戦争中の辛苦によるか、灰色の髪の毛が著しく眼に着くのみならず、某日の戦役で君の左肩胛を貫通した小銃弾は、筋を破つたか、神経を傷けたか、君の左手は利かなくなつた。 之は後刻 気付いたことであるが、フォークを使用するにも 靴の紐を結ぶにも 難渋して居られる。 日本の剣道を好み 武徳会で修行して有段者となられた君も、再び面小手を付けて 竹刀を揮ふ機会はあるまい。
 一方 僕も亦 頽然として老いた。 身体は クェッション・マークのやうに曲り、視覚も聴覚も衰へ、殊に歩行が不自由で 陋屋から荻窪駅に到る僅か数町の道を 一気に歩行むことさへ難かしい。 一誠堂主人が僕を迎へるために、当日態々荻窪へ来てくれたが、僕は ボックサー君に会ひたい一心で、早目に家を出たため、折角の好意を無にした。 之は 主人も諒してくれるだらう。 ボックサー君の眼に 僕の衰残の身体がどう写つたか、之は聞くだけの勇気が無かつた。
 僕から数分後れて 石田幹之助君が見えた。 石田君は 前夕わざわざ荻窪に見えて、本日の会合を通知して下さった。 それから間もなく一誠堂主人も帰つて来たので、席を三階の日本間に移し、ガラス戸を透す陽光を受けて、話はそれからそれへと転じた。 が、過去の戦争や、現在のボックサー君の使命については、主客共に口を閉ぢて 敢へて語らなかつた。 蓋し我々は 英国陸軍少佐としてまた極東委員会の一人として、本日 君を迎へたのではなく、大きな歴史家にして また大きな一蔵書家として 君を迎へたからである。
 交遊多年の間に 君から聞いた断片を綜合すると、君は 一九〇四年 英国南部のドルセットに生れ 陸軍士官学校を卒へて リンコルンシャイヤ連隊附となり、累進して少佐となり、戦争中は香港駐屯軍の参謀であつた。 昭和の初年 日本陸軍の研究生として来朝、東京・奈良・豊橋等の諸連隊に勤務するもの数年、奈良を去るに方り、同連隊の将校団から 左陸奥守包保の刀 一口を贈られたは、君の人望を証する一例である。 香港赴任後も時々来朝せられたので、その都度 旧友数輩相集まつて 小宴を開いたものである。
 君と日本との関係は 必ずしも君が日本研究生として派遣せられた時に始まつたものでは無いと考へる。 君の祖父君は海軍中佐で、英艦が鹿児島湾を攻撃した時に参戦し、日本人が劣勢の兵器を執つて勇敢に戦つたことを 盛んに賞揚せられたといへば、日本来訪の希望は 少年の時から既に君の胸中にあつたものと思ふ。 僕が和蘭で初めて対面した時も、日本行のことを言はれた。 君の日本派遣は 君の宿昔の希望を達したものと称して差支へなからう。 君の令妹は 亜細亜大陸に幾度か大旅行を試み、先年は西蔵を探検したといふ。 どうもボックサー家には 典型的の英吉利人の敢為進取の血が流れてゐると思はれる。
 歴史家また蔵書家としてのボックサー君については 我等は語るべきより多くを持つ。 君は 一九三七年 マカオで蔵書目録を出版し、その序文において 自分の蒐集目的は (一)十七・八世紀 東洋に於ける葡人の歴史を研究するに必要なもの、(二)日本と西欧諸国との初期の関係、(三)和蘭東印度会社及び十七世紀の英蘭海戦に関するもの である。 自分は 第一については 著しく成功したものと確信する。 この点につき 個人の文庫で之より能く史料を取揃へたものがあるか疑はしい。 第二の目的も 相当能く充実されたとはいへ、此の部分の大多数を占むる日本側の史料数百点は、本目録に省略せられてゐるから、本目録を通覧しただけでは、読者は了解に苦しまれるだらう。 第三の蒐集は 第一第二に比すれば 遙に劣つてゐる。 然し 全然蔑視すべきものではあるまいと 明言して居られる。 これは 自負でもなく、卑下でもなく、すべて真実である。
 本目録に列挙せられたは 版本七百十三点 写本五十点である。 版本は千八百年を一境界線とし、その以前に出版になつた分は フール・タイトル、頁数、大小、製本等を明記し、必要な解題を加へ、後者は 単に書名を知り得るだけに止めてゐるが、現在では その中にすら容易に得難いものがある。 又 古版本中 先輩の目録学者の著書に見えてゐることを参照した分が数々ある。 一例を挙げれば (Mattos P.2; Barbosa III, P.59) とあるは、その書がマットスの葡国貴重書目録第二頁、バルボーザのルシタニア史籍目録巻三、五十九頁に出てゐることを示すもので、さういふ注記があれば それは言ふまでもなく、貴重書である。 一体 欧州では 写本は少い。 個人で写本五十点を有することは 特有と言はざるを得ない。 この目録出版後 君の架蔵に帰した古版本及び古写本が何程あつたか、知りたいものだ。 君は 是等の希書珍籍を補充してくれた リスボンの三書林 コエリョ、ジョゼ・ドス・サントス、故アルマンド・タバレス、ロンドンのマッグス、ハーグのナイホフ 及び東京の一誠堂に 感謝の意を表して居られるが、我々極東の読書人が逆立しても及ばない巨額を支払はれたたに相違ない、我々は価格に釣られ、差当り必要のない書籍を買込むこともあるが、君には断じてその風が無い。 必要ならば 如何程高価でも買取り、必要なければ 如何様安値でも買はれない。 目的に突進する君の性質が 能く窺はれる。
 君の史料蒐集範囲は 即ち研究範囲である。 君の蔵書目録の刊行を援助した マカオの人 ジェー・エム・ブラガ氏に シー・アール・ボックサー少佐の文庫と題する短編がある。 その巻末にある 君の著作目録によると、君の処女作は、一九二六年 即ち数へ年の二十三歳に葡語で書いてゐる。 どうして君が古い葡語を能くし、古い蘭語を能くせられるか、同人の驚異する所であるが、君に言はせると 別段の苦労もなかつたやうである。 然し 日本の軍隊では外国語の使用を一切許さぬから、君は 日本の軍隊に勤務するに先立ち、漢字交りの日本文を読んだり書いたりする修行をせねばならなかつた。 我々が欧州の言葉で苦労すると同じ様に、君は日本語で相当苦労したらしい。
 君の著述は 一九二六年以来 一九三八年までに 五十一点に達し、その中 単行本が少なくとも六部ある。 是等の大部分は 刊行の都度恵贈せられたので、自分は鄭寧にほぞんしてゐる。 開戦後出版になつた論文も書籍もあらう。 葡(ポルトガル)国独立四百年祝典に際し 「三百年前のマカオ」と題する 豪華版正続二冊を出されたさうであるが、まだ一見せぬ。
 君は 欧州の語学に苦労しなかつたと同様、史学家の素養を積むに苦労しなかつたらしい。 我々は 孜々 史学研究法を学び、材料の鑑別取捨等の大要を会得したものであるが、考へて見ると、史学研究法の唱へられぬ以前に、既に良い歴史が存在したのである。 天稟の強い歴史家は 史学研究法を必要としないで、さうしてその成績は 研究法に叶つてゐるのである。 また 多作は駄作を伴ふものであるが、君の研究に駄作は一篇も無い。 執筆当時 出来得る限りの史料を利用して論文を書かれるが、その以後 新史料が出ると、丹念に旧稿の訂正に従はれる。 旧稿訂正は 口で言へば容易だが、甲を削れば乙に影響し、新に原稿を書くより 遥に、始末の悪いものである。 君が一九二八年に出版した 葡国使節ゴンサロ・ド・シグイラ・ド・スーザの日本来朝記を 十年後 訂正改版せられた根気には敬朊する。
 欧州人は 必死の場合に妻子の写真を懐中して出陣するとは 能く聞く所である。 ボックサー君は何を懐中しましたかと問へば、今でも是だといつて、小さい紙入を明けて見せた。 細川忠興のローマ字印 tadaoqui のある古文書の断片と 一六一二年葡国の大歴史家ヂオゴ・ド・クートとの自筆署名のある それであつた。 「君に似合はしい、スプレンヂット」と言はざるを得なかつた。
 石田君が前夕 弊屋を見舞はれた時、ボックサー君は 多年蒐集した蔵書を日本軍に没収されたことを終生の遺憾とし、取戻運動を始めるに違ひない。 書物は 前陸軍参謀本部から某省に引渡され、某省から更に某図書館に移され、目下調査中との事である。 之を知つて同君に告げざるは 友情に欠くる所ありといふべく、なまじひに之を告げて官庁図書館の迷惑を惹起すも 亦不可なりとし、両名共 思案に余つた。 会見の結末を告ぐる頃 たうとうこの問題に触れた。 君は 今迄に無く声色を励まし 事日本軍が個人の蔵書にして戦争に全く関係の無い文化財を没収したは 不法である、仍つて自分はその返却を求める、若し日本側で不承知ならば マッカーサー司令部に訴訟を提起すといひ、支那人某が英文で書いた証拠書類一通を示した。 それには 憲兵隊と共にボ氏邸押収に向つた日本官憲の氏名も明記されてゐる。 そこで自分等 同君に向ひ、君は蔵書を取戻せば宜いではないか、訴訟に勝つことを主眼とするのではあるまい、先づ マッカーサー司令部の役員と同伴して某図書館に到り、果して君の蔵書が大部分移管されてゐるかを確め、それから徐に 文部の大官に向つて返却を要求したらよからうと勧め、同君も納得した。
 冬の日は早く暮れた。 これで別れては 如何にも惜しい、もう一回 会はうといふことになつて、廿二日を会日と定め、外語のピントー教授、岡本良知、芦田伊人、慶応の吉田小五郎 諸氏に案内状を出したが、それ等の端書は 一通も宛名人に達しなかつたと見え、二十二日、一誠堂に会合したは 前回通りの四人であつた。 ボックサー君は 某図書館での調査交渉が順調であつたと見え、甚だ機嫌能く、三月になつたら書物を英国大使館に引取るといつた。 小善と雖も 為すは為さゞるに勝る。 我々は 安倍新文相が、ボックサー氏蔵書返却の件を一日も早く決済し、新しい日本官憲の公明正大なことを 中外に発揚せられんことを千万希望する。
 君は 昼食後一旦席を外し、蘭国公使館に到り、我が子の如く君を愛せる 故パプスト公使の遺物を受領し、それから多磨墓地に往つて故公使の墓前に香華を供し、再び一誠堂に帰店せられた。 君の故人に対する友情の厚きは 我々の敬朊措く能はざる所だ。 御招きした人々の来られぬのは如何にも残念だが 何時まで君を引留め置くことは出来ぬ。 左様なら左様ならを連呼して 東西に手を分つた。 君は 月末横須賀出港、布哇まで船、其処から飛行機でワシントンに向ひ、二月十五日、同地着の予定だといふ。 それ程多忙の君が 二度まで我々に面会してくれたことは 感謝に堪へない。 君は軍職を離れるのを不本意とせられるかも知れないが、然し 我々は一日も早く君が書斎の人となられることを冀(ねが)ふものである。 この無遠慮な意見を吐露して、本篇を終らう。 (二一・一・三〇 稿)



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