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表紙



目 次


   【論説】

 ・ 去来両世紀に於ける世界列国と日本との位置
               (伯爵 大隈重信)

 ・ 十九世紀に於ける思想の変遷
            (文学博士・男爵 加藤弘之)

 ・ 十九世紀の思想     (島田三郎)

 ・ 十九世紀に於ける宗教  (文学博士 井上円了)

 ・ 十九世紀に於ける陸軍の進歩
               (陸軍大佐 井口省吾)

 ・ 十九世紀に於ける海軍の進歩 (海軍中佐 木村浩吉)

 ・ 十九世紀の哲学     (文学博士 井上哲次郎)

 ・ 将来の世紀に於ける列国勢力の消長予想
               (子爵 曽我祐準)

 ・ 十九世紀の大勢及未来  (法学博士 田口卯吉)

 ・ 近世の社会問題     (子爵 渡辺国武)


   【十九世紀】

 ・ 総論          (文学士 高山林次郎)

 ・ 上編 西洋

    第一部 欧羅巴政治史 (文学士 幸田成友)
    第二部 亜米利加政治史(文学士 矢野太郎)
    第三部 産業史    (法学士 河津 暹)
    第四部 学術史
     第一章 総論、 第二章 自然科学
               (理学士 佐藤伝蔵)
     第三章 哲学    (文学士 蟹江義丸)
     第四章 政治法律原理の変遷
               (法学士 笹川 潔)
    第五部 文芸史    (文学士 上田 敏)
    第六部 教育史    (文学士 熊谷五郎)
    第七部 宗教史    (文学士 真岡湛海)

 ・ 下編 東洋

    第一部 東大陸諸国  (文学士 笹川種郎)
    第二部 日本     (文学士 木寺柳次郎)


 ・ 十九世紀歴史年鑑
 ・ 口絵説明 
 ・ 附録:第十九世紀統計表

  総合雑誌としての「太陽」は、巻頭を種々の写真で飾るのが
  特色であった。 本号においても、創業記念あるいは十九世紀
  にふさわしいものとして、各国首長、偉人、記念碑等の写真が
  32頁にわたって掲載されているが、館蔵のものは 褪色が著しく
  画面上への再現が困難であるので、その目次・説明を含め、全
  て省略する。







「太陽」 第六巻第八号



 明治33(1900)年6月、 博文館。
 活版印刷。 縦30.3cm、横22.2cm。 本文322頁。


 「太陽」は、明治28(1895)年1月に 博文館から創刊された、総合雑誌である。 博文館は、それまで発行していた 「日本大家論集」、「日本商業雑誌」、「日本農業雑誌」、「日本の法律」、「婦女雑誌」の各雑誌を廃刊し、この「太陽」に統合したのである。
 そもそも 博文館は、大橋佐平(1835~1901)によって明治20(1887)年に創業された出版社で、大量出版による薄利多売方式で大をなし、この当時 隆盛を極めていた。 本号は、その創業13周年の記念号である。
 13年という数字には 特に意味はないと思われるが、隆盛の時に 西暦2000年という 世紀の境目に際会したことを吉慶として、記念号を出したのであろう。

 記念号の内容は、このときまでに常識化していた「世紀」という 世界標準の時代概念を用いて、過去100年間を総括しているのであるが、西欧関係の記事が圧倒的に多く、東洋や日本に関する記事は、当時の世界における地位に相応した比重で、最後に置かれている。
 具体的には、右の目次に示されるように、「論説」「十九世紀」の2つの部分で構成されている。 「論説」は、言論界の名士が、19世紀の意義に関する自己の見解を開陳したものであるが、概ね口述筆記によるものである。 「十九世紀」の部分は、高山林次郎(1871~1902、号:樗牛。)をはじめとする少壮の学者および実務家が、19世紀における各分野の動向を かなり詳細に論述している。

 なお、上記した 高山林次郎は、早くから「太陽」の編集にも当っていたらしいが、本号の編集者は 奥付によれば 岸上操(1860~1907、号:質軒。)である。

 「本文の一部紹介」としては、
 「論説」の部分から、島田三郎の「十九世紀の思想」の全文。
 「十九世紀」の部分から、上田敏の「第五部 文芸史」中の「第二章 十九世紀の仏蘭西文学」。
を、それぞれ掲げることとする。

 島田三郎(1852~1923、号:沼南)は、新聞記者、政治家として活躍した人で、当時は毎日新聞社社長。 足尾銅山鉱毒事件の責任追及や廃娼運動などを進めたことで知られる。 執筆者中ただ一人肩書きが表示されていないが、敢えて在野の立場を明確にしたものか。 この「十九世紀の思想」は、論説中では最もまとまりの良い文章であり、ジャーナリストながら西欧の思想の流れを適確に把握していて、その行動の背骨を見る思いがする。 本特集号全体の要約をなすもの、とみてもよいのではなかろうか。(「論説」の他の文には、談話筆記である旨の添え書きがあるが、この島田の文にはそれがないので、自ら草したものと考えられる。)
 上田敏(1874~1916、号:柳村)は、評論家、翻訳家。 当時は、東京高等師範学校教授。 上田は、早く東京帝国大学在学中、島崎藤村・戸川秋骨・馬場孤蝶等の「文学界」グループに加わるとともに、「帝国文学」の創刊にも関与、ヨーロッパ文学の最新動向を紹介した。 後の明治38(1905)年に刊行した訳詩集『海潮音』は、清新な訳語表現で 詩壇に大きな影響を与えた。 それに先立つ この「文芸史」は、主要作家や作品についての客観的な解説にとどまらず、創作動機や それを生成した思想傾向等も示そうとする、踏み込んだ姿勢が見られる。 表現の豊かさが 訳詩と共通していて、全編が名文である。 終り近く、「ヴェルレイヌ」の詩について、「一種幽婉の風ありて 縹渺たる妙趣を具ふ。 秋葉の凋落に飄零の生を哀める独創の詩 最も高名なり。」と あるのを読むと、『海潮音』とのつながりが、感じられるであろう。


本文の一部紹介





 十九世紀の思想
島田 三郎     空白


 百年を一世紀と為すは、欧西の慣習にして、現時の世紀は之を基督の誕生より起算す。 精密の計算によるに其誕生の年と、実に四年の差ありといふ。 然れ共現在は唯此慣習を襲用する迄にして、之に関して何の深意あること無し。 但人為を以て世紀を画すと雖、人事は綿々として連続し、世紀の改新と同時に、精確の変化ある者に非ず。 故に十九世紀の思想といふも、特に此世紀に限れる思想ある筈なし。 而かも斯く言ふは、特に其の重大なる者を取て之を概言するのみ。

 蓋し進動して止まざるは、社会の常勢なり。 十九世紀の思想も、又其事変も、突然として此世紀に発するに非ず。 遠く以前に伏蔵して、此百年間に表現したるなり。 羅馬の欧州を統一するや、此に初めて此大州通有の歴史を生ぜり。 尋て羅馬教皇が教俗の二権を以て、欧州を制御するや、全州一社会の如き体裁となり、其各国の地彊は其一区分の如くなりき。 而して教俗の二大権を一教庭に握れる結果、億兆の心を一定の範囲に錮し、思想の自由全く絶滅し、聡明卓犖の士と雖も新意を出し、新見を立つるの余地なし。 ルーテル 一とたび此の鉄索を截断してより、此に一新紀元を開き、焔々たる革命の猛火、欧州の平原を燃焼して、社会の全面を一変せり。 此革命は単に宗教の改革に非ずして、一切の人事、悉く其影響を被らざるなし。 邦国の離合、戦闘の原因、皆之による。 是れ十六世紀の運動にして、束縛解脱の思想は此世紀の動力なりき。 人民一と度束縛を解脱して、一切の事皆新生面を開く。 爾後形而上の創見、形而下の発明、皆此間に胚胎す。 蓋し新思想は新行為の原因となり、新行為又新思想の原因となる。 過去の結果は、将来の原因たらずんばあらず。 新地の発見、器械の創製、学芸の進歩、貿易の拡張、皆多年束縛鎖錮せられたる思想の解脱迸発なり。 而して其結果、人心旧社会に甘ぜずして、現れて政治の変革となれり。 此変革は初に英国に発し、次に米国に起り、終に仏国の大革命に至りて、其極に達す。 左れば、十六世紀の思想は束縛解脱に在り、十七世紀の思想は新意迸発に在り、十八世紀の思想は擅制破壊に在り。 然れ共、世紀の段階は精確に人事を画する者に非ず。 同一の思想を原因とする変故が、甲国に先づ現はれて、乙国に後に発することとなり、久しく地底に伏して、遅く表面に現はるゝとあり。 例へばルーテルの改革は、千五百十七年に発すと雖、千三百六十年、既にウヰクリフの改革を唱ふるあり(英国)、千四百〇五年、ハッスの之に次ぐあるが如し(ボヘミヤ)。 仏国の革命によりて、擅制の覊絆を全脱せりと雖、千六百四十九年、及び千六百八十八年、既に英国の革命あり、千七百七十五年、米国の独立之に次げるが如し。 故に吾人が世紀の思想変革といふは、其特に大且つ普き者に就て言を立つるに過ぎず。

 十九世紀の思想は何ぞや。 社会各局部に自由を拡張するに在り。 吾人之を個人自由の思想と称せむ。 蓋し十八世紀に於て、政治の覊絆全く破れ、自由の主義全勝を政界に占めたり。 此に於てか同一の自由を社会に普及すること、一般の冀望となり、第一に政治の束縛を破れる英国、先づ其舞台となれり。 選挙法・航海法の改正、穀法の廃止、異教徒の寛待、皆此思想の発現に非るなく、後に政治の自由を得たる欧州大陸の諸国も、亦相続て、此風潮に支配せられ、其結果は個人の自由競争となり、各人其力を自在に伸ふるを得て、生産力の増加前古比無く、之に加ふるに器械の新意匠と、学術の大進歩を以てす。 富資の総額殆ど意想の外にあり。 是皆前人の得むと欲して、得ざる所の好成績に類す。 然らば十九世紀は、満足の感を各国々民の胸中に生ぜし乎。 曰く、彼らの失望は猶ほ、前世紀の者が失望せし如し。 十六世紀は宗教の束縛を解脱せむことを望で、之を十七世紀に得たり。 然れ共、之に満足せずして、更に政治の束縛の解脱を望めり。 十七世紀より此運に向ひて、十八世紀に之を得たり。 然れ共、之が為に期待せる満足の域に到らず。 更に個人の自由を望みて、殆ど之を得るに至れり。 是れ十九世紀の現象なり。 然れ共、吾人の思想を距るや尚甚遠きなり。

 此思想の変遷に伴ひて、事実に現はるゝ所の者は如何。 宗教の自由を得むが為めに、教皇に反対して、一時君主の力を藉れり。 君主の権力之が為めに膨脹せり。 君主権力の膨脹は、其相続領土の為めに、人民を駆りて戦事に従はしめたり。 而して国其弊に耐へず、国民の力によりて君権を制限せり。 其初めは貴族を首領として、此運動を為す。 是れ貴族権の一時膨脹せる所以にして、更に国民の君主及び貴族に対する運動起り、一転して個人が国家に対する運動となれり。 此末段の運動こそ、十九世紀を支配せる主義の顕現なれ。 其結果個人の自由、自由の競争、富資の増殖となれり。 之を十六七世紀の状に比するに、大に進めりと謂ふと雖、何人も之を以て満足せざるなり。 是に於てか国内には国家の力を以て個人の競争を制限し、社会と個人を調査するとの説起り、増殖せる富資の分配良法を得むとの冀望を生じ、国際には人類を平等視し、人情主義を唱へ、戦事を仲裁に決せむとするの説となり、理想は一層の高度に進めり。 社会主義、平和主義、同愛主義は蓋し十九世紀末期の思想にして、二十世紀を支配する者は、蓋し此思想の顕現なるべし。

 欧米諸国に此変遷あり。 彼れは四五百年間、次を逐ひて展発し以て今日に至りしも、東洋諸国は久しく局外に別立して、此影響を受けざりしに、汽力の発明により、天外(涯)比隣の如く、電力の応用によりて、万里瞬息に交るを得。 見(?)に於てか、西州の勢力忽然東洋に加はれり。 我国四十余年間の変化は、彼れが四百年間の変化を、一時に演出したる者なり。 新旧の思想、一斉に迸出し、無前の奇象を今日に呈するは之が為めなり。 是れ我思想家は、既に十九世紀末段の新想を懐き、一般社会は十七八世紀の旧態を有し、甚しきは十五六世紀の君主神権を唱へ十七世紀の擅治束縛を談ずる者ある所以なり。 然れ共、物資の変化には、我国既に十九世紀の産物を輸入したり。 精神の進歩をして之に伴はしむるは、二十世紀のに於ける我国民の職分なるべし。 嗚呼、我国運の隆替を決する所以は、唯此職分を尽すと否によりて定らむ歟(か)





 第五部 文芸史
上田 敏     空白


 第二章 十九世紀の仏蘭西文学

 一 仏蘭西文学革新 シヤトウブリヤン
 現世紀の仏蘭西文学は、南欧北欧両思潮の会合に因て、思想の範囲を広め、情熱の活動を得て、冷索なる前代の詩風を一変せり。 而して革新の機は、既にルッソウの「新エロイズ」「懺悔記」等に発し、ベルナルダン・ドゥサン・ピエルの「ポウル・エ・ヴィルジニイ」に起りたれど、スタエル夫人、シヤトウブリアンの二人に至て奔放の勢を恣にせり。 スタエル夫人(の)仏蘭西文学に貢献せし所は、思想界の世界主義を唱へて、全欧の文芸を疎通せしめ、北邦 独逸民族の深邃を、南方 仏蘭西人の明暢に加えたるに在り。 千八百年著「文学論」、千八百十年著「独逸論」の二篇は、此主張を敷衍して当時文壇の頑冥を啓き、清新の生命を鼓吹したる名作なり。 フランソア・ルイ・ドゥ・シャトウブリヤン(一七六八~一八四八)の特色は 始めて仏蘭西の文学に、壮麗の散文を以て、自然の清興を写し、他人の相関を説きたるに在り。 彼の前、ルッソウは 既に青山白水の美を歌ひたれど、未だ物足らぬ単彩なるを免れず。 サン・ピエルが西印度の風景を叙し、森林蒼海の趣を描きたるもあれど、惜むらくは、規模小にして、一世の眼を惹くこと能はざりき。 シヤトウブリヤン(壮?)にして、新大陸に遊び、其比(そのころ)はまだ処女の地たりし青湖飛瀑の絶景を眺めて、天稟の詩才 益(ますます)動き、千八〇一年 終(つい)
に 小説「アタラ」をつくりぬ。 明年 またルイ(シヤトウブリヤン)の著あり。 「巴里ジェリザレム間観光録」(一八一一)、「レナチェズ」(一八二六)、「亜米利加漫遊録」(一八二七)。 皆 幽麗多彩の筆にして 頗る後年の詩文に著しき感化を与へたり。 例へば 「アタラ」の巻にミシシピッピイの長江を描き、ジェリョザレムの「観光録」に死海の風色を写したる名文は 忘れ難き余韻ありて 永く耳底に止まる如き思あり。 彼 また宗教の詩趣を喜び、「基督教の精神」(一八〇二)に 人文史に於ける斯教の感化を論じ、其幽玄婉美なる方面を奨(ママ)説せり。 全篇幽麗の趣を具へて 瑰花窓裡の光線を浴びたる如く、何れも秀でたる名文なれど、吾は亜米利加の月夜、夕暮の祈祷を以て 集中の白眉とす。 ゴウティエの評に曰く、彼は ゴティックの伽藍を復し、大自然の戸を開き、近代の憂愁を創めたりと。 以て 此 散文詩人が一代の佳品を蓋う可し。

 二 メイストルラマティイヌ
 十八世紀の合理主義に反対して、情熱の尚きを唱へ、宗教思想の恒久なるを説きたる シヤトウブリアンに比(なら)ひて、ジョゼフ・ドゥ・メイストル(一七五三~一八二一)は 雄勁の筆を振て、旧教の尊厳を論じ、摂理の疑ふ可からざるを論ぜり。 「法王論」(一八一九)、「聖彼得保夜話」(一八二一)を 其 重(主)なる著作とす。 弟 クサヴィエ・ド・メイストル(一七六三~一八五二) また文才ありて 「室内旅行」(一七九四)、「室内夜遊」(一八二五)、「西比利亜の少女」(一八二〇)等に 玲瓏なる文辞を列ねたれど、哀深く同情篤き「かたい」(一八一一)の短編に 不朽の名を得たり。 ラメンティ(一七八二~一八六四)の思想も亦 当時の風潮に乗じて、宗教の熱意 深く、勁健雄渾の散文を以て、無神論を駁し、軽浮なる十八世紀の俗説を排せり。 千八百十七年 初巻を出せる 宗教に対する冷淡を論ず「信者の告白」(一八三四)、最も高名なり。
  シヤトウブリアンが 散文に於て 幽麗の躰を創めし如く、律語に新精の格調を齎し、シロンサルの後 絶えて久しき仏蘭西抒情詩を復興したる者は、アルフォンス・ドゥ・ラマティイヌ(一七九〇~一八六九)なり。 自然を歌ひ、恋を歌ひ、死を歌ひし 名歌数巻 「メディタシオン」(一八二〇)、「ヌヴェル・メディタシオン」(一八二三)、「アルモニイ」(一八三〇) の類は、深遠の想を誇る能はず、高俊の調にも微かなれど、優麗にして情致深く、これはしもと採り出づべき格調の美はなけれども 詩趣おのづから夢の如く浮びて、青春子弟の好む所とな(れ)り。 流麗の詩作多かるなかに、かれが一代の絶唱として人口に膾炙するものは、エイクス・レ・バンに近き ラック・デュ・ブルジェの湖を吟じたる 短編の抒情詩なり。
 ピユル・ベランジェ(一七八〇~一八五七)は ラマティイヌと時を同うして、一世を風靡せしが、たけ高き壮麗の詩風を避けて、下民の社会を歌ひ、諷世の裡 おのづから詩趣ある短詩「シャンソン」を作りぬ。 たゞ俗臭ありて 全く高遠の理想を欠けるが故に、近代の評は、多く此詩人を賤めども、君主の尊大を嘲りたる「イヴトウ」王の歌は、平淡の辞を以て、含蓄深き意を伝へ、今に仏蘭西短詩の珠玉たるを失はざるなり。

 三 「ローマンチシズム」の風潮
 かくて ラマティイヌ等のめでたき新聞は、詩趣索然たる前代作品の後に現はれて、此国の詩に例なき雅醇の格調を与へたれば、影薄き翰林院の輩が、如何なる必死の反抗を試むるも、清新の思潮を沮む能はざりき。 これより先、巻一(第一?)帝政期の大戦争は、仏蘭西の年少を放て大陸の野に転戦せしめたること 前後廿年、もとより兵馬倥偬の間なれど、全欧 異文の民族を混交し、各国の性情を交通せしめたる結果を生ぜり。 スタエル夫人の如きは、此文芸に於ける此世界主義を明説せし 最初の作家にして、爾後の評家 其志を紹きて、仏蘭西の文壇に異彩を加へむとするに勉めたり。 リチャアドソンの小説、沙翁(シェークスピア)の劇詩を始とし、伊太(利)亜に アルフィエリマンゾオニを求め、独逸に レッシングケスネルシルレルゲエテビュルゲルノワリスホフマンを採り、哲学に於て カントフィヒテシェリングを容れたるのみか、蘇格蘭に トマスレイドデュガルドステュワァト等を学びぬ。 而して 千八百十五年の和なるや、革命の乱を国外に避けし者、故国に帰りて、其新に学べる所を伝へ、益々 世界主義の風潮を早めたり。 全欧の文芸相通じたる前例は、昔 文芸復興の世にあれども、それは単に希臘の文化を以て、共通の標準とせしに過ぎず、今の世界主義が 各国文学の最も国民的なるを拾聚して、自家の特色を発揮する動機たらしむると 甚しき径庭あるを見るなり。
 文芸の門戸を閉ぢ 典雅の詩風に安じ、情熱の活動を厭ひし 仏蘭西の文学も、今や 異邦思想の侵入に依て醒覚し、当時全欧に被及せし「ロマンティシズム」の勃興を見たり。 「ロマンティシズム」は 何ぞ。 欧州の文化に、二種の大思想あるを認むる者は、異教に基督教を、南欧に北欧を、古代に中世を、希臘の社会制度に封建の武士道を対照して、後者を「ロマンティシズム」の清新とす。 スタエル夫人が 「独逸論」第二巻二章に詳論せるもの これなり。 又 スタンダルが 「ラシイヌ及び沙翁」の評論に於て下したる定義に従へば、一民族が慣習信仰の現状に於て、之に最大の娯楽を与ふる文学を指して ロマンティック派文学と称するなり。 されど 此言にして真ならむには、ポアロウも、ヴォルテエルも、ラシィヌ自からも、其当時に於て「ロマンティック」ならざる可からず、而も 誰か此結論に左袒すべき。 ユウゴウ が「クロムエル」の序に 新派の特色は極美を望まず、性格を求むるに在りと評せるは、肯綮に中れる如くにして 未だ尽さざるを憾とす。 謂(おも)ふに 「ロマンティシズム」は 文芸に於ける個人主義の勝利にして、自我の放釈なり。 典雅の芸術に抗し、自由奔放の説を唱へ、文芸に真摯のの調を求め、詩文に地方的特色を要し、又 外邦の詩文を模倣するも 皆此自我を万物の心とし、古伝を棄て 特質を恣にせむとする余勢にすぎず。 されば 此新文学の最も特異とする所は、叙情詩にして、華麗約爛 応接に遑なき名作に、益るゝ如き熱情の奔流するを見る可く、アルフレッド・ドゥミュッセル・ドゥヴィニイヴィクトル・ユウゴウテオフィル・ゴウティエ の徒 社を組みて、一代の民衆を醒覚せむとせし当年の意気は、半世紀後の今人が想像し得べきに非らざるなり。

 四 「ローマンチシズム」の詩文
 ドゥ・ミュッセイ(一八一〇~一八五七)は 巴里の人にして、嫻雅の情に富み、語 巧に 機智 敏く、詩に彫琢の跡あるを厭ひて、唯た恨の愁思を 呵成の辞章に述べたり。 されば 其抒情詩に関する主義は 極めて簡明なり。 曰く 詩人は単に 其心を読者の前に横へ、其同情に依て、わが喜怒哀楽のくさぐさを感ぜしむれば足れりと。 されど 彼が名作「夜の歌」(一八三五~三八)は 無意識の技巧に富みて、幽婉熱烈の反対性を有し、殊に「五月の夜」の歌に ミュウズと詩人との問答を叙じて、韻律の行間 心臓の鼓動を聞くが如く、「臘月の夜」の顔に 憂愁限りなき孤独の情を写して、人の肺腑を穿つあたりは、仏蘭西抒情詩の絶唱なり。 「ロラ」、「エスポアル・アンデュウ」等の詩、「この世紀の児が懺悔記」の散文は 皆 懐疑に悩む今人の苦悶を叙して 情熱の調を弾ぜり。 彼 また「アンドレア・デル・サルト」、「恋は戯むる可からず」等の優麗なる短嬉劇を作り、雅醇の情を以て都人を喜ばしぬ。
 アルフレッド・ドゥヴィニイ(一七九七~一八六三)は、厭世の詩人として、清沈の風格を尚び、真の苦悶 内に蔵して軽発せざる所、ロマンティック派中の一異才なり。 天命を疑ひ 自然を疑ひ、人間を疑ひ、従て 己を疑ふに至りしが、終に高俊の想を失はざりき。 才徳の大人は必らず俗衆の憎悪を受けて 苦悶の裡に一生を過ごす可きを論じたる詩篇「モイズ」、声を放ち 涙を零し 天に祈るは 等しく愚なり。長途の苦業を力行して、運命の導く所を歩み 終に我が如く 語なくて苦み死せよといふ「狼の死」は 彼が世界観の梗概なり。 この峻厳なる詩人は 歴史小説に筆を染めて「サンタ・マル」(一八二六)の著に 前代の復活を求めし如く、シャアルマニュ朝の伝説に遡りて ロウランの最後を叙し、“ 噫 ロンスヴォウ、噫 ロンスヴォウ ” といふ「笛の歌」を作りぬ。 婉美の調 人口に膾炙す。
 ヴィクトル・ユウゴウ(一八〇二~八五)の詩才は 世の熟知する所にして、細説を要せず。 千八百廿二年の著「オウド・エ・バラッド」、二十八年著「レ・ゾリアンタル」に於て 騒壇の令名を獲取し、廿八歳の誕春 千八百三十年二月廿六日 壮劇「エルナニ」の興行を以て ロマンティック派の旗幟を明にし 「秋葉」(一八三一)、「夕暮の歌」(一八三五)、「内部の声」(一八三七)、「光と陰と」(一八四〇)の後、五十三年「レ・シャアティマン」の荘重なる律語を、五十六年 傑作「レ・コンタム・プラシオン」を、五十九年「ラ・レジャンド・デ・シェクル 第一集」を著せしほか、「都大路と森との歌」(一八六五)、「恐ろしき年」(一八七二)、「ラ・レジャンド・デ・シェクル 第二集」(一八七七)、「祖父となる術」(一八七七)、「ラ・レジャンド・デ・シェクル 第三集」(一八八一)、「四風」(一八八二)を以て 近欧芸花の巨人たり。 豊富なる想像と多彩なる散文とを以て、独創の小説を物し、一世の視聴を聳かしたる者、「ノウトル・ダアム・ドゥ・パリ」(一八三二)、「レ・ミゼラブル」(一八六二)、「レ・トラヴィゥルドゥ・ラ・メル」(一八六六)、又は 前代の規範に抗し、かの所謂三一致を破り、「アンジャムプマン」と称する 第一行の終より第二行の頭に続く詩風を用ゐたる劇詩「クロムエル」(一八二七)、「マリオン・ドゥロルム」(一八三一)、「ルロアサミュウス」(一八三二)、「リュクレエス・ポルジャ」、「マリイ・テュウドル」(一八三三)、「アンジェロ」(一八三五)、「リュイ・プラス」(一八三八)、「レ・ピュルグラアヴ」(一八四三)の類 また以て此の大詩人が詞藻の豊なるを窺ふに足るべし。 前代の仏人が言へる如く 文躰はやがて人物にして、ユウゴウの作品には 作者の面影躍如たり。 一生の作詩 かくの如く多きも、皆 明に詩人の個人性を表彰して、感慨深く彩多き文辞を成し、熱烈の調 鏡(鐘?)鼓の楽を聞く如く、変幻の妙、眼を眩ましむ。 されば これらの名什多き詩巻より、何れを選び出で 特に賞讃すべきかは 容易ならぬ業なれど、「レジャンド・デ・シェクル」中の「良心」及び「貧しき やから」の二篇 及び「コンタム・プラシオン」中の「眠れるポオズ」を以て 彼が絶唱とするのみか、仏蘭西詩歌の最高線と為すを躊躇せざる可し。
 ユウゴウが「エルナニ」を場に上さむとするや、保守派の反抗 劇烈を極む。 この時 朱袍長髪の青年あり、情熱の新派を率ゐて、民衆の喝采を促し、ロマンティック派の気焔に(を?)揚げたるものは テオフィル・ゴウティエ(一八一一~七二)なり。 千八百三十年の詩集を始とし、「アルベルテュス」(一八三二)、「ラ・コメディイ・ドゥ・ラ・モウル」(一八三八)及び 傑作「エモウ・エ・カメイ」(一八五二)の律語を以て著はれ、散文の作品「わかき仏蘭西」(一八三三)を以て新声の主張を吐露せる後、「西班牙観光録」(一八四〇)を公にし、続て伊太利亜、土耳古、露西亜の紀行文を草せしが、曠世の奇文として 英の詩人 スウィンバァンの激賞を得たる「マドゥモアゼル・ドゥ・モウパン」(一八三五)及び「ルカビテイヌ・フラカス」(一八六一~三)とは 彼が散文の傑作なり。 ゴウティエの作品は、すべて技巧の精錬を以て著はれ、形式の絶美なるに於て 前後比肩すべきもの無く、描写の細緻なるは 画図を観る如き思あらしむ。 婉柔の情浅く、想像また豊富ならざる此詩人は、美術の好尚に於て 遙かにロマンティック派の群を抜き もとより中世の芸術を以て 古希臘のそれよりも上に置きし冥蒙を与ふ能はざりき。 されば 此衷心より「ロマンティシズム」を奉ぜざりしゴウティエは 漫々此派の奇癖を強めて、後の病的文学の道を啓き ボドレイル等の祖となると同時に、客観的描写の法を以て 写実派の勃興を助け、ルコント・ドゥリイル等の冷静なる詩風に動機を与へたり。

 五 「ロマンチシズム」の反動
 かくて 「ロマンチシズム」は これら名家の作品に依て、千八百三十年より六十年の交までも 仏蘭西の騒壇に覇を称し、「アンナアル・ロマンティック」(一八二三創立)、「ル・グロウブ」(一八二二創立)等の誌上に 華麗多彩なる詩文を列ねたりしが、個人の放釈を尚び、抒情の詩風を偏重せる此詩派の清新は、漸く人心の倦怠を来して、反動の思潮を生ずるに至れり。 スタンダル(マリイ・アンリ・ペイル、一七八三~一八四二)の如きは 芸術の相関を説き、性格の描写を唱へ、個人的意志の強大なる者 即ち那翁(ナポレオン一世)の如き英傑の尊ぶ可きを論ぜしに於て、純乎たる「ロマンティック」派なれども、小説「ラ・シャトルゥズ・ドゥパルム」(一八三九)等に於て、精緻確実を尚び、細事を苟くもせざる点を以て、後世の写実主義の祖たり。 彼がバルザックに与ふる書に曰く、吾は此書を作るに 良法を編む如き用意を用ゐぬ。 又曰く、恐くは われ 千八百八十年の交に成功すべしと。 果然 此予言は命中せり。 プロスペルメリメ(一八〇三~七〇)もまた 「ロマンティシズム」の盛時に出でゝ、北欧の詩文を紹介し、地方的特色の小説を編みしが、文躰清冽にして 同代作家の華麗に倣はず、「シャアル・九世御宇の記」(一八二九)、「コロムバ」(一八四〇)、「アルセエヌ・ギヨウ」(一八四四)、「カルマン」(一八四五)等皆 客観的の描写の好文辞なり。 而して アレクサンドル・デュウマ(一八〇二~七〇)の稗史も 此時を以て起り、抒情の域を脱して 変幻極りなき脚色の巧に 文壇の喝采を博し、ボンサル(一八一四~六七)も亦 古の伝統を紹きたる戯曲 「リュクレエス」(一八四三)等を著して、反動の機運近けるを示せしが、小説の界に於て 近世の文運は一転せり。
 ジョルジ・サン(デュウドゥヴァン男爵夫人、一八〇四~七六)は 詩趣 饒(ゆたか)なる「インディアナ」(一八三一)、「ヴァランティイヌ」(一八三二)、「レリア」(一八三三)、「ジャック」(一八三四)等の小説の情熱を尚び、自由の精神を鼓吹して、特に婦人の権を唱へたれど、ラメンネイルルウ等の感化を受くるに及で、「ムッシウ・アントアン」(一八四五)の如き社会小説を物し、田園の生活を叙したる「ル・マル・オ・ディヤブル」(一八四六)、「ラ・プティト・ファデット」(一八四九)、「フランソア・ル・シャムピ」(一八五〇) を著はして ロマンティシズムと絶つに至り、近世の大批評(家)サント・ブウブ(一八〇四~六九)も 所謂 生物学的評論の発明を以て 前年の情熱派より遠かりたるに際し、オノレ・バルザック(一七九九~一八五〇)の小説「人生の喜劇」の諸篇は 近世小説の革命を齎し さきに文学の一小別なりし稗史を以て、詩歌と思想を比べ、歴史と精確を競ふ重要なる散文叙事詩たらしめぬ。 「レ・シュアン」(一八二七)、「ラポウ・ドゥシャグラン」(一八三一)を始とし 「ウゥジェニイ・グランデ」(一八三三)、「ラ・ルシェルシュドゥラブソリゥ」(一八三四)、「ル・クザン・ボン」(一八四六)、「ル・クジイヌ・ベット」(一八四七)の諸篇は 人生の常態を叙し、時代の精神を透察したるに於て 精厳の史徴とも許(評?)す可く、個人の欲情を活写して 恒久の心理的法則を発見したるの妙あり。 爾後数年、英文学の感化、頗る仏蘭西の騒壇を動かし、ダアインの「生物原始論」(一八五八)、エマアソン・ジョオジ・エリオットの論著、小説は 新様の思想を生ずるに与りて力ありき。

 六 近年の作家
 個人は 万物の標尺に非らず、作品の真摯 必らずしも其正醇を保せず といふ思想は、オウギュスト・コムトの哲学、近世科学の進歩に補はれて、千八百五十年の交、仏の文壇に生じ、ラマルティイヌ・ミュッセイが 鼎の軽重を問ふ者を出すに至りぬ。 曰く 自我を脱却して眼を放てよ。 自然と社会、芸術と人生、真と美とは、詩人小説家劇作家の前に横(よこたわっ)て、文学の材たるに非らずや。 吾等の任務は、自我の思想感情を発揚するに非らず、たゞ前人の筆をつけざる辺を 恒久の姿もて実現するにあり。 而して 情熱派の人は、文躰の冗漫粗鹵なるが為に、此の恒久を企図する能はず。 褪め易き色彩の華麗はあれど、冷静なる大理石像の清秀を有せざるなりと。 ルコント・ドゥリイル(一八二〇~九四)の詩風は、実に此主張の応用なり。 「ポエエム・ザンティック」(一八五三)、「ポエエム・バルバアル」(一八五九)、「ポエエム・トラジック」(一八八四)、「デルニエ・ポエエム」(一八九五) 皆 清冽沈静の作品にして、一字も増減す可からず。 毫も個人の感情を交へざる此等の名作は 古今詩歌のうち 罕に見る所にして、詩社「バルナッシャン」の名を 全欧に轟かしめたり。 「ヒアルマルの心」、「群集」、「サクラ・ファメス」の詩 皆一世の詩価を驚歎せしめたる秀什にして、特に「正午」の歌に独奏の風格と思想とを伝へて、熱烈の情を、強て冷静の器に盛りたるは、此大詩人の特調なり。 「バルナッシャン」の詩社には属せざれど シャアル・ボドレイル(一八二一~六七)が幽聳の鬼才は 「悪の花」(一八五七)といふ詩集を以て病的作品を著はし、深く近代の詩人を動かしたり。 「アルバトロス」の歌に 詩人を海鵞に比べ、青雲のあなたに翔り 嵐をあなどるの長翼はあれど、地に下りては却て其為に歩む能はずと歎き、「夕暮の調」、「破鐘」、「梟」、「猫」、「人と海と」の歌に於て 世に珍らしき奇聳の想を吐けり。 テオドル・バンヴュ(一八二三~九一)は 之に反して ロマンティック派の遺響を伝へ、ゴウティエの蹤を履みて 特に押韻の美に留心し、古代仏蘭西の詩形を復活するに勉めたり。 思想の高妙は敢て期し難けれど、「レ・カリアティイド」(一八四〇)、「レ・スタラクティイト」(一八四六)の婉美は 今た(?)好文者流が愛玩たり。 ホセ・マリア・ドゥ・エレディア(一八四二 生)は ルコント・ドゥ・リイルの衣鉢を伝へて、「レ・トロフェイ」(一八九三)の小詩集に壮麗の「ソネット」を公にし、古史の事跡を叙じ、南海東洋の傀麗なる風色を写して、宛も丹青の名什を成せるが如し。 其他 フランソア・コッペイ(一八四二生)は 流麗の詞を以て、尋常生活の微韻を歌にし、シュリイプリウドム(一八三九(生か?))は 哲学的眼光を以て、高俊の材を雅醇の詩に作り、往々筆を恋愛に向けて 珠の如き抒情詩を作れり。 而して 輓近「デカダン」詩社の勢少く 時を得たれど、曠世の風格を創めて、詩壇の木鐸たるの技なし。 唯 其首領 ポウル・ヴェルレイヌ(一八四四~九六)の詩は、一種幽婉の風ありて 縹渺たる妙趣を具ふ。 秋葉の凋落に飄零の生を哀める独創の詩 最も高名なり。
 ルコント・ドゥ・リイルが律語に及ぼしたる感化を、フロウベエル(一八二一~八〇)は 小説に施せり。 流転の世相を恒久の芸術に化したる「マダム・ボヴァリ」(一八五六)、「サラムボウ」(一八六二)、「レデュカシオン・サンティメンタル」(一八七〇)、「聖アントアン」(一八七四)の諸篇は、写実主義の模範となりて、全欧現時の文芸に波動し、モウパッサン(一八五〇~九三)、ゾラ(一八四〇生)、ゴンクウル兄弟(一八二八~九六 及び 一八二二~八五)、ドデイ(一八四〇~九七) 等を生じて 仏蘭西小説 今日の活況を至せり。 モウパッサンの短編小説「メイゾン・テリエ」(一八八一)、「ロンドリ姉妹」(一八八四)、「ムッシウ・バラン」(一八八五) 等は 観察の犀利と文辞の明潔とを以て、古今独歩と賞すべく、「ピエル・エ・ジャン」(一八八八)、「死の如く強し」(一八八九)、「われらの心」(一八九〇)の諸篇も 現代社会の描写として頗る精覈なり。 ゾラの作品は 景情を人性の醜悪なる面にのみ置きて、深き賞讃を値するに足らず、たゞ かれが一種の健筆家なるを思はしむるのみ。 ゴンクウル兄弟の小説も亦 写実流の流弊に陥りて、病的傾向あれど、ドデイのそれは 温籍なる同情に富みて、読者の心を惹けり。 近年 ピエル・ロティ(ルイ・マリイ・ジュリヤン・ヴォオテル夫人、一八五〇生)は 幽麗の妙文を草し、ジップ(マルテル夫人、一八五〇生)は 軽快鋭利の嬉劇を作り、ロスタンは 「シラノ・ドゥ・ベルジュラック」の新劇を以て芸苑に活気を与へ、ルソイトルアナトル・フランスブリュスティエル の三大批評家は 評論に雄飛して、ストラスブルグ宣誓の辞より伝統連綿たる仏蘭西文学の位置を重(おもか)らしむ。




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