らんだむ書籍館


表紙

口絵写真 (森槐南先生小照)
口絵写真 (遺墨)


目 次


  凡 例 (大沢 鉄石、土屋 琴坡)


  第一章 平仄の原理

  第二章 古詩の音節

  第三章 唐韻の区画

  第四章 詩、詞の別

  第五章 詞、曲 並に雑劇、伝奇

  第六章 小説概要



森 槐南 「作詩法講話」

 大正2 (1913) 年 10月 第6版。 文会堂。
 (初版は、明治 44 (1911) 年 11月刊)
 縦:19cm、横:13cm。 本文 359頁。 クロース装。



 森 槐南 (本名:公泰、文久3(1863)~明治44(1911))は、明治期の漢文学者・漢詩人。 父は、尾張藩出身の、幕末~明治初期の漢詩人・森 春濤(名は魯直、文政元(1818)~明治22(1889))である。
 春濤は、名古屋で詩社を開いていたが、維新後の明治7年、子息の槐南を伴って上京、翌8年に文人の多い下谷に茉莉吟社を起した。 続けて、雑誌「新文詩」を創刊し、また選詩集「東京才人絶句」を編集・刊行するなどし、まもなく詩壇の有力者と目されるに至った。
 槐南は、父の学を承けながら、漢学者・鷲津毅堂(名は宣光、文政8(1825)~明治15(1882))に学び、さらに父の友人の中国人から中国語を学んで 学識を積み、明治23(1890)年に東京専門学校文学科・講師に、明治32(1899)年には東京帝国大学講師に就任して、その実力を示した。 また これより先の 明治15(1882)年、太政官修史局掌記となって 参議・伊藤博文の知遇を得た。 その後も 伊藤の所管する部局などに籍を置いて、関係を深めた。 伊藤は、漢詩への関心が高かったので、専門家としての槐南を重んじたのであろう。 明治29(1896)年、伊藤は 大磯の邸宅「滄浪閣」に 当時著名の漢詩人達を招いて 詩会を催したが、この時も槐南が、斡旋・運営を担当したようである。 明治42(1909)年10月、伊藤は、ロシア蔵相との会談のため 中国ハルビン市を訪問の際、ハルビンの駅で 大韓帝国の民族主義者・安重根 (1879~1910) によって狙撃・暗殺された。 この時、槐南も随行していたため 同時に被弾した。 当時は、軽傷とみられたが、影響が残ったようで、その1年半後の明治44(1911)年3月に病没した。 死の直前(同年2月)、文学博士の学位が授与されたので、右に掲げた 本書の扉の著者名にはその肩書きが付されている。

 本書「作詩法講話」は、槐南の没後に見出された遺稿(連続講義の速記)を 門人が整理して刊行したものである。 その整理や刊行手配等が きわめて迅速に進められたので、初版の日付は 没年内となっている。
 本文(「第一章 平仄の原理」)が、「私は是より作詩法のお話をいたします」という言葉で始まっているので、「作詩法講話」という書名は、槐南自身が名付けたものであろう。 詩とは漢詩のことであるから、「漢詩の作り方」(に関する講話)ということになるが、よく見受けられるような創作手引き書ではない。 漢詩の構成原理や規則の理論的解説を主にしたもので、詩から始まって → 詞 → 戯曲 → 小説 と展開し、中国文学史とも言いうるような内容となっている。

 今回の「一部紹介」には、「第五章 詞、曲 並に雑劇、伝奇」の前半 約12頁(「第五章」の約2割ほど)を掲げる。
 本書における句読点の使用は、段落の最後にのみ句点「。」を用い、段落内の文の区切りにはすべて読点「、」を用いるという、独特な原則に拠っていて、読みにくい。 このため、段落にかかわらず、文の終りは句点「。」とし、文の途中の区切りは読点「、」とする、現在の通常のやり方に改めた。 また、口述筆記が基になっているため、文が かなり冗長であるので、重複部分を整理するとともに、適宜 読点「、」を追加した。 さらに、余計な追補かもしれないが、論旨のキーワードをゴシック(強調)体としてみた。



本文の一部紹介






第五章 詞、曲 並に雑劇、伝奇


 是より 、それから雑劇伝奇 と云ふやうなものゝ 種類、之に就てお話を致します。
 既に此の前もお話を致しました通り、と申しますものゝ形式が全く変化をいたしまして、と云ふものと相成りました。 ソコで 此の詞と云ふものになつてから後は、モウ 歌と申しますものは 詞に限る、詩の方は 唯古文学を保存すると云ふので 珍重せらるゝものでありましたけれども、兎に角 歌の形は全く 唯々 詞と云ふものになつてしまつた。 それが最も隆盛を極めましたのが 宋の時 ―― 南北両宋、此の時代に於ては 一般に 詞と申しますものが、天下に風行する有様でありました。 それで、最も詩の方の大家 東坡先生であるとか、また黄山谷であるとか、或は 南宋に至つては楊誠斎、陸放翁と云ふやうな大家、是等は皆 作つて居りますところの詩と申しますものは、即ち唯今申します通り古文学を研究すると云ふ上からまいりました。 決して 時世文学 ―― 時の調子の文学と云ふものではありませぬ。 唯今申します大家先生方でも、時調の文学と云ふことになりますと、ヤハリ 指を詞と申します方に染めて居るのであります。 それで先づ 其の 即ち 填詞 * 、此の填詞の極盛に達しましたのは南宋でございます、モウ 此に至つて、填詞の精神と申しますものは 発揚せざる処なしと云ふ位にいたつて居るのでございます。
 * 「詞」を別名「填詞」と言うことについては、先行の「第四章 詩、詞の別」で 説明がなされている。(ここでは省略。)
所が、元、此の詞は 詩から出たものでありまして、而して 支那の詩と申ますものは 其の原則とする所のものが、ズッと古い頃から 詩は志を言ふと申しますことを、書経などに出て居ります文句を原則として居ることでありますから、総て叙情 ―― 己れの志を述ると申しますことを専ら主と致しました。 之が変じて詞となつて 形式が変つて、の方は工夫されましたけれども、其の文句はヤハリ作者が己れの思想を叙写する、斯う申します事が皆主になつて居るのでございます。 ところで、一つ斯う云ふ韻を履みましたところの文辞を以て、唯 己れの述ると云ふことのみでは、未だ完全に有らゆる総てのものを韻文で写すことが十分に其の能事を尽したものとは言はれぬのでございます。 一方の己れの情を述べる外には、又 万般の事柄を述べると云ふことも、之は元より必要であります故に、叙事 ―― 事を述べる、事を写すと云ふことが 又 大に必要でございます。 情を述べます所のものは己れを主と致します、事を述べます所のものは事を主と致します、同じやうでありますれども、聊(いささ)か 茲に相違があります。 其の詩 変じて詞となりまして、情を述べると申します方に於ては、毫髪(少し)も遺憾ないと云ふにいたつて居りますが、事を述べる方には、未だ足らぬ所がございます。 ソコで 其の事を述べると申します(と、) 歌の性霊を述べます歌(詞?)が、次第次第に 時代の変遷に依つて、ヤハリ 己れの情を述べるばかりでなく、人の事柄を写すと申します方に 大分傾いてまいりました。 所で又 事柄を写すと云ふことになるますと云ふと、短かいものでは 十分に事を言尽して仕舞ふことが出来ませぬのであります。 依つて 其の一つの事柄を写すと云ふことになりますと、連篇累牘、篇を連ね 牘を累(かさ)ねまして、一つの段物と云ふが如くに形ち作りまして、それで初めて一つの事実をの上に現はして、韻文の上に現はして言ふことが出来ると云ふ訳になるのでございます。 之が発達致しまして、大分 宋に於ては、段物と云ふが如きものに段々近くなつて参りました。 其の段物と申しますものは、支那言葉では套数と申します。 此の套数を聚めた所の言葉が段々殖へて参りましたが、之が即ち 元曲 ―― と申しますものゝ 依つて起る所のものでります。 曲は即ち 其の詞と申すものより又一変化を致しまして、詞は 単に一つの己れの心を述べますが、曲になりますと 数多の事実を連続致しまして、一つの套数を作つて一つの事実を詳かに写さうと致します。 之が 曲と云ふものになりましたのであります。 さう致しますと、詩から詞が出て、詞から曲が出たのであります。 詩と詞は、尚ほ其の系統を同じうして居りますけれども、曲に至つては 少しく違うのでありまして、先づ近頃の言葉で言ふと 叙情も事を述べる叙事詩と申しますものゝ、大観を極めたものが曲であると云ふ訳であらうかと思ふのでございます。 それから愈々 曲と申しますものが 元に至つて非常に一時に勃興いたしまして、さうしてそれは 唯単に歌と云ふばかりでなく、俳優を以て 其の歌の動作 即ち歌の中にあります事実、歌の中に申します所の人物、それ等の者に 俳優をして扮せしめて、之を場に当つて演出致させます。 さうして 其の一つの芝居を作ると云ふ事になります。 之がすなわち なるものであります。 さうすると 歌と云ふものには(歌と云ふものは)、其の歌を歌ひます役者其の者が、唯 歌を歌ふばかりでなく 自ら其の人になつて其の仕事をする、斯う云ふ(も)のであります。 之が即ち元曲でございます。 元に至つて一時にさう云ふものが起りました所以を調べて見ますと云ふと、御承知の通り 元の時代と申しますものは 朔漠(北方の砂漠地帯)蒙古の種族が支那を一統(統一)して、支那本土の者ではない外国人が来て 一統したものでありますから、ソコで 当時の 上は朝廷の大臣より 下は 地方を治めます枢要の役人に至りますまで、之を皆 蒙古の帖木児と申しまして、其の蒙古部落の人間を以て其の官職に充てました訳であります。 ソコで以て 支那の土地を蒙古人が収めると云ふ事になりましたに就て、支那在来の礼学文章として 支那人が昔から誇つて居る所のものが、一時 地を払つて尽きると云ふやうな観を呈しましたのであります。 ソコで 支那本土の人の文学者 支那固有の文学を修めてて居る者などは、今までは高い処に用ゐられて 各々其の所を得ましたけれども、此の時よりして 皆 蒙古人の為に圧せられて仕舞つて、偶々用ゐられた所が下僚に過ぎないと云ふやうな訳で、志を少しも伸すことが出来なかつたのであります。 現に 其の時分の諺に 九儒十丐と申す事があります。 九の儒者に 十の乞食 と云ふ諺であります。 支那本土の学を修めます 一番エライ者は儒者であります。 所が、人間の階級を一から十までに分つて参りますと、其の九番目に当りますものは儒者である、十番目に当る者が乞食である、斯う云ふことを 時の人は申したのであります。 人間の一番低い階級の九番目が儒者、十番目が乞食、乞食と儒者は 相隣つて居る者であると云ふ位に申す訳でありますから、其の当時の学者は、自ら文学の才を抱いて居りながら、此の如く 曠古未だあらざる所の、二千年来あらざる所の奇変に遭遇して、己れの力を伸べやうとするには、何等か他に方法を求めて 世に立つと云ふことを謀らんければならぬのであります。 所で、本来の学問たる経典詩賦の類を以て行はんとしても、己れの道を行うことが出来ませぬ。 ソコで 已むを得ずして 段々 戯曲と申します芝居を 一方で案出致しました。 即ち、一方には音楽を以て耳を喜ばしめ、一方には俳優をして之を扮演せしめて それを以て目を喜ばしめて、如何に外国人の ―― 蒙古人の 文字なき、無風流 没文字なる人間でも、ヤハリ音楽を聴けば 面白いにちがいない、又 人の色々な所作事を見れば面白いに相違ありませぬから、自然 夫等(それら)を趣味を以て見るやうになり、既に其の演劇を見て 色々の趣味を持つて参りますと、自然 支那本土の風俗人情が蒙古人に能く分かるやうになつて参るのであります。 ソコで それを以て 次第次第に 漢土に於ける従来の学問文章を 蒙古人に知らしめるやうに、自然覚えさせる間に知らしめるやうにと云ふ精神で、ソコで文学者と云ふ者が皆 力を演劇に注ぐと云ふやうになつたのであります。 之は 盛に元の時に曲が勃興致しました 作者の方の側から見た観察であります。 それから、作者の側ばかりでなく 元の天下を一統すると云ふ方から見た観察でありますが、既に其の蒙古人であつて支那本土を治めると云ふことになると、ヤハリどうしても 支那本土には二千年来の礼楽文章がありますから、唯 武一点張で之を治めて仕舞う訳には往きませぬ。 圧抑を加へる訳に参りませぬ。 一時は干戈の力を以て取りましたが、既に己れの物として治めやうと云ふ事になると、ヤハリ其の文辞学が必要であります。 所が之は、蒙古人をして之を認めさせるとしても、ナカナカ 容易に認めさせる事が出来ない。 寧ろ困難な次第でありますから、ソコでヤハリ娯楽に依つて、兼て漢の本土に於ける色々な風俗等を知らしめ、又 其の歌などに依つて、自然に支那の文事に於ける変遷とか、又 文学の面白味と云ふやうなことが分るやうにさせるには、此の娯楽をさせると云ふことが 一番早い。 ソコで政府の方からも 之に対して非常に奨励を加へて、それで 上から奨励を加へる、下からも 外の事ではトンと力を致す事が出来ませぬから、挙(こぞ)つてこの曲譜に赴いて、上下交々(こもごも) 其の必要を感じて、遂に元曲が非常に盛大を極めると云ふことになりました。 ソコで 元の時分に出来上りました曲を 今日から勘定致しますと、総体で 今残つて居るものが 五百四十九曲の多きに達して居ります。 何れも 一つ一つの演劇であります。 僅か一代(「元」という一つの時代)の間に名前の伝はりますものが、そんなに沢山ある訳でありますから、之を以ても 一時に皆上下共に 非常に此の道に赴いた当時の趨向を 窺ふに足る次第でございます。 其の元の詞曲と申しますものが、今に五百四十九種と云ふ目録は残つて居りますが、実物の今日残つて居りますますものは 甚だ稀で、僅か百種だけが、漸く今日残つて居りますのでございます。 此の 元曲選と申します書物が、五百四十九種もあります中から 特に面白いものを百種抜いて、本と致して居るのであります。 《中略》 我国の と申しますものは、ヤハリ 元曲あたりから出たものであると申します。 足利の時代に於きまして 支那に参つて さうして元曲の制度を見て参つて、それで アヽ云ふものを作つたものであると申すことであります。 全く 能 と同じ事であると言つて 宜しうございます。





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