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カバー |
目 次
支那典籍に現はれたる鑑真大和上とその門流 安藤更生 皇国僧宝建立考 西本龍山 泉奘律師 川瀬一馬 唐招提寺の造営 福山敏男 東征伝絵縁起幽考 亀田 孜 唐招提寺木彫仏像に就いて 金森 遵 唐招提寺雑詠 会津八一 境内逊遥 北川桃雄 唐招提寺余瀝 内田 誠 唐招提寺の一夜 大塚五朗 唐招提寺遊記 ― 憶過海大師鑑真大和上 ― 白 文会 鑑真大和上の医道並に製薬に関する文献 北川智海 資 料 大悲菩薩御抄 図 版 鑑真大和上像(原色版) 古大明寺鑑真和上遺址碑記 大明寺和上遺址碑現状 他22点 |
内容の一部紹介 |
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古大明寺鑑真和上遺址碑記 ( 題額の位置にある「山川異域、風月一天」の8字は、鑑真が渡日を決意した際 に言及した長屋王の詩句の一部で、碑文中にも引用されている。 揮毫した韓国鈞 (1857-1942) は、清朝末期から地方官に就いていた古参政治家で、民国11年当時は 江蘇省省長。 また、本文を揮毫した王景琦 (1878-1960) も、当時揚州で著名で あった 書家・詩人である。) |
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大明寺大和上遺址碑現状 ( 窪んだ部分の奥の平面に 碑文が刻まれているのであるが、光の反射で全面 が白くなってしまっている。 また、上部に載置された石の 中央の四角の部分 に「山川異域、風月一天」の8字が刻まれているのである。) |
古大明寺鑑真和上遺址碑記
日本 文学博士 常盤大定 撰文 江都 王景琦 書古(いにしえ)の大明寺は 唐の鑑真和尚の遺址なり。 和尚は実に海東(日本)の律の祖にして、又 初伝台教(天台宗)の祖たり。 江陽県の人。 年 十四にして、父に随(したが)いて 大雲寺に入り、仏像を見て 出家す。 神龍元年(705年)、道岸律師に従いて菩薩戒を受け、景龍(707~709年)の初め 長安に抵(いた)り、荊州の恒景律師に依り 具を稟(う)け、実際寺の融済律師に就きて南山鈔を学び、義威、智全に依りて法礪の疏を聴く。 両京(長安と洛陽)の講肆(講義場)に歴侍(次々に参加する)して、三蔵(仏教全体に関する知識)を該(ひろ)め、台教を研(きわ)めたり。 壮歳(30歳頃) 淮(現在の江蘇省・安徽省などの地域)に旋(かえ)りて、揚州の大明寺に住し、戒律の宗匠と為(な)る。 天宝元年(742年)、日本の栄叡・普照 寺に来り、聴講し、拝して、東渡を請う。 和尚 言えらく、「我 聞くに、南岳の思禅師は彼(日本)に王と為りて生れ、仏法を興隆すと。 又 聞くに、長屋王は千の袈裟を製して 此の土の一千の沙門に施すに、衣縁に偈の『山川異域、風月一天、寄諸仏子、共結来縁』を繍(ぬいとり)すと。 思うに是れ、仏法の有縁の地なり。 吾 当(まさ)に往かんとす。」と。 天宝二年(743年)冬、神足二十五人を募り、途(みち)に首(むか)いて 海に泛(うか)ぶ。 前後五次、運蹇(時運にめぐまれぬこと)を以て 果たさざるも、其の志は 凡(つね)に在り。 逆旅(旅の宿におること) 十有二年、飢渇・困厄は 具(つぶさ)に述ぶるを以てし難し。 両眼 失明せるも、仍(なお) 初念を変えず。 会(たまたま) 天宝十二年(753年)冬十月、日本の大使 特進・藤原清河等 特に揚州の近光寺に至りて、東渡を懇請す。 和尚は 乃(すなわち) 高弟三十五人とともに 副使・大伴胡萬(大伴古麻呂)の船に乗る。 同年十二月 日本の太宰府に達し、翌年二月 南京(平城京)に入り、東大寺に館(やど)る。 聖武天皇は、正議大夫・吉備真備を遣(つかわ)し、戒を授け 律を伝うるの任を以てすることを伝え宣(の)べ、燈大法師の位に叙す。 四月、壇を 盧舎那殿の前に建て、上皇を始めとして菩薩大戒を受け、皇帝、太后、皇后、太子 (*) 、公卿以下、法戒を受けし者 凡(およそ)四百三十余人。 一時の高徳 八十余僧は、旧を棄て新を受く。* この部分には、混乱と重複がみられる。 『東征伝』によれば、この時の皇室からの受戒者は、天皇(聖武上皇)、皇后(光明皇太后)、皇太子(孝謙天皇)の3名である。(カッコ内が、実際の人物と当時の地位。)是れ、日本の登壇授戒の始めなり。 天平宝字元年(757年)、大和尚の号を賜る。 和尚、寺田の税を以て 唐招提寺を創(はじ)め、戒壇を築き、三年(天平宝字三年、759年)竣功す。 律寺の備わる所、奐然(立派、すばらしい)として、有序(整然としている)たり。 五年(天平宝字五年、761年)、奏して、戒壇を 下野(現在の栃木県下野市)の薬師寺 及び 筑紫(現在の福岡県太宰府市)の観音寺に建て、東西の両戒学と為す。 七年(天平宝字七年、763年) 仲夏(五月)六日、円寂(死去)す。 寿(とし)は 七十七、臘(得度してからの年数)は 五十五。 実に 唐の代宗の広徳元年なり。 和尚は 権化(仏や菩薩の仮のすがた)の聖者 と謂(い)うべし。 古記に云う、大明寺は 県(前出の江陽県か?)の西北 五里余りに在りと。又 云う、平山堂(宋の欧陽脩が大明寺内に建てた仏堂)は 大明寺の庭の坤(ひつじさる、南西)の隅に創(つくられ)しと。 又 云う、大明寺の前に平山堂有りと。 又 云う、谷林堂(宋の蘇軾が大明寺内に建てた仏堂)は 大明寺に在り、大明寺は是れ 劉宋(南北朝時代の南朝の宋)の孝武帝の大明年間(457~464年)に建つる所の寺にして、東に棲霊塔有り。 棲霊の号は是れ、隋代の梵僧・大覚遺霊の言(不明)に本づく。 滄桑の変にて、元明(元代~明代)以後、寺塔は倶(とも)に圮(くず)れたり。 余は、本年二月 揚州に過(よぎ)り、高洲太助 公に依りて和尚の遺址を探る。 高洲 公、志 篤く、追遠・報本(古人をていねいにまつって 恩にむくいる)して、攷(かんが)え、今の法浄寺は即ち 古の大明寺の遺址にして、大明寺は是れ 和尚の住せる所なるを知る。 喜び言うべからず。 乃(すなわ)ち 茲(ここ)に碑を建て、以て 縁由を記す。
中華民国十一年十二月六日
日本大正十一年十二月六日 日本 高洲太助 立
参 考 |
高洲太助について
上掲の碑記には、最終行に「日本 高洲太助 立」と建碑者が明記されているわけであるが、碑文(本文)の終り近くにも 大明寺調査への協力者として 特に高洲の名が挙げられていて、碑文としてはやや異例である。 常盤大定は、高洲の献身的な協力を多として、報告書たる『支那仏教史蹟』の中にも、その名を挙げている。 常盤は、それまでの経由地で知り合った日本人からの紹介で、高洲に揚州での案内を依頼したのであるが、その高洲は、常盤から鑑真の業績を聞かされて 調査の意義を理解し、感激して、熱心に協力するようになったらしい。 大正11年1月27日から30日までの調査で、大明寺の遺址が確認されたのであるが、 前掲書には、「近く邦人の手に因て 和尚を記念する何ものかが出来るであろう」という記述があり、この建碑が予告されているので、意気投合した二人は そこまで一気に話を進めたのであろう。
ただし、この書は学術書であるから、高洲については 「揚州 唯一の邦人」と説明されているのみである。
高洲は、前年にも、別の一人の日本人を迎え入れ、揚州市内を案内していた。
その日本人とは、芥川龍之介である。 芥川は、大正10年(1921年)3月、大阪毎日新聞社から海外視察員として中国に特派され、同月から7月にかけて 各地を旅行していたのである。 芥川も、経由地の上海で知り合った日本人からの紹介で 揚州の高洲を訪問したわけで、その『江南遊記』には、「揚州唯一の日本人、塩務官の高洲太吉氏」と記されている。 また、後から思い出したこととして、『北京日記抄』には「揚州の塩務官 高洲太吉氏は 外国人にして揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後に高洲太吉ありと大いに気焔を吐」いていたと記している。 芥川は、揚州では 先ず執務場所たる塩務署に高洲を訪問し、署の門前の水路から画舫で古蹟に案内され、その夜は「ホテルより高級な」高洲の私宅に宿泊したのであるから、高洲が地方官署の枢要な地位にあり、かなり高額の報酬を得ていたことは、確かである。
芥川が水路を案内されて 最終的に行き着いたのは、やはり「平山堂」であった。 「ひやりと埃の匂のする、薄暗い堂へ入つた時は、何だか有難い気がしたものです。 私は 額や聯を読んだり、欄外の見晴しを賞したり、しばらく堂の中を徘徊しました。 この堂の主人 欧陽脩は勿論、ここに遊んだ乾隆帝も、きつと今の私のやうに、悠悠たる気もちを楽しんだでせう。」 と満足感を表現している。 ( ただし、この堂のある寺を「法海寺」としている。 上掲した『支那仏教史蹟』には、付近の景勝地たる「湖心律寺」という小寺の旧称が「法海寺」であったという記載があるので、寺および周辺に関する高洲の説明を混同したのであろう。 ) とにかく、芥川も、鑑真ゆかりの旧・大明寺の地を踏んだのであったが、案内した高洲にしても、この時点では、鑑真のことは知るよしも無かったのである。
終