らんだむ書籍館


カバー


目 次


 支那典籍に現はれたる鑑真大和上とその門流  安藤更生
 皇国僧宝建立考               西本龍山
 泉奘律師                  川瀬一馬

 唐招提寺の造営               福山敏男
 東征伝絵縁起幽考              亀田 孜
 唐招提寺木彫仏像に就いて          金森 遵

 唐招提寺雑詠                会津八一
 境内逊遥                  北川桃雄
 唐招提寺余瀝                内田 誠
 唐招提寺の一夜               大塚五朗
 唐招提寺遊記 ― 憶過海大師鑑真大和上 ―   白 文会

 鑑真大和上の医道並に製薬に関する文献    北川智海

         資 料
 大悲菩薩御抄

         図 版

 鑑真大和上像(原色版)
 古大明寺鑑真和上遺址碑記
 大明寺和上遺址碑現状
 他22点


唐招提寺戒学院・鑑真大和上頌徳会 編
「唐招提寺論叢」


 昭和19(1944)年2月。
 京都・桑名文星堂。
 縦 26 cm、 横 18.5cm。 紙装。 本文 171頁。


 本書は、奈良時代に唐から来朝した律僧・鑑真 (688~763) と、その鑑真が 平城京内に戒律道場として設立した唐招提寺に関する、研究成果、随想、資料紹介 などをとりまとめた 論文集である。
 これらの文章は、本書のために新たに執筆されたもののようであるが、会津八一の「唐招提寺雑詠」のみはそうでなく、すべてが旧作で、「南京新唱」や「鹿鳴集」中の唐招提寺に関する歌を抜粋したものである。 本書の編集者が その作業を行ない、作者に掲載の許可を得たものであろう。
 会津八一の歌に続く 北川桃雄の「境内逍遥」は、この寺の一室で十日余りの寝泊りをするという、羨ましいような機会を与えられた、その体験記である。 「逍遥」という題名どおり、心ゆくまで 寺内の散策を試みたようである。 しかし、文中には、前年知り合ったこの寺の青年僧が、「黒衣を軍服に、経巻を銃にかへて、戦場に向った」という話を聞く一節もある。 この時、日本中は戦時下なのであった。 改めて、このような時期に よくもこれほど充実した論文集を出せたものだと、感心させられる。
 右の表紙では、唐招提寺の付設機関たる戒学院および鑑真大和上頌徳会の編著とされているが、奥付には それら機関を総括するような形で「代表者 北川智海」の表示がある。 北川は、明治期に鑑真の伝記 『過海大師東征伝』を独力で刊行して 特志者に配布し、寺の長老達を感嘆させた人物であるが、その後も研鑽に努め、講学など寺の運営に当ってきたのであろう。 本書刊行時には 自身が長老となっていて、80歳に達していたが、この書にも 「鑑真大和上の医道並に製薬に関する文献」の一文を寄せている。

 「内容の一部紹介」としては、右の目次における「図版」の部分から
 (1)古大明寺鑑真和上遺址碑記
 (2)大明寺大和上遺址碑現状
の2点を掲げることとし、(1)については 併せて その訓読文を示すこととする。
 唐の天宝元年(日本の天平14年、西暦742年)の10月、日本僧の栄叡と普照が、揚州の大明寺を訪れ、鑑真に渡日を要請した。 大明寺における鑑真と日本僧の この出会いが、日本に厳密な戒律をもたらし、唐招提寺の創建にも結びつく糸口となったのである。 つまり、鑑真の日本に向けての活動の 出発点となったのが、大明寺であった。 ところが、近世においては、その大明寺の所在が明らかではなくなって いたらしい。 宋代に揚州太守となった欧陽脩が境内に平山堂という仏堂を建ててから、「平山堂」の名で呼ばれることが多くなり、清代には 乾隆帝によって「法浄寺」に改称されたからである。 大正11年(1922年)1月に 現地の揚州を調査し、平山堂あるいは法浄寺と呼称されていた この寺が、古の大明寺であることを明らかにしたのは、日本の仏教学者・常盤大定(1870~1945)であった。
 常盤は、その事実を報告書(『支那仏教史蹟』、大正12(1923)年刊)で明らかにするとともに、その地に鑑真の遺址たることを示す碑(遺址碑)を建立すべく その碑文を執筆した。 上記(1)が、その碑文で、(2)が、実際に建立された碑の写真である。 建碑の日は 大正11年12月6日(中華民国11年、1922年)で、建碑者は 日本人として現地・揚州にあった 高洲太助 である。
 常盤のこれらの活動から、中国の学者も、鑑真や その遺址たる古の大明寺に注目し、研究が展開されるようになった。 1976年(昭和51年)の日中国交回復以降、この寺は 日中交流・友好のシンボルと みなされて、1980年には 寺は再び「大明寺」に改称された。 現在では、揚州の観光スポットの一つとして、美しく整備されているようである。 ところが 今日、大明寺についてかなり詳細に紹介した webページなどを見ても、この鑑真遺址碑の画像や その碑についての説明を 見い出すことができない。 その事情は明らかではないが、おそらく 文化大革命(1966~1976年、文革)期に破壊されたのではないかと 考えられる。
 鑑真遺址碑に関する記録類も もはや存在しないかも知れず、他の論文等を措き、特にこれらを掲げることとした。
 また、建碑者の高洲太助は ほとんど知られていない人物であるが、若干の手がかりを見いだしたので、「参考」として付記しておく。



内容の一部紹介



          古大明寺鑑真和上遺址碑記
 ( 題額の位置にある「山川異域、風月一天」の8字は、鑑真が渡日を決意した際
 に言及した長屋王の詩句の一部で、碑文中にも引用されている。 揮毫した韓国鈞
 (1857-1942) は、清朝末期から地方官に就いていた古参政治家で、民国11年当時は
  江蘇省省長。 また、本文を揮毫した王景琦 (1878-1960) も、当時揚州で著名で
 あった 書家・詩人である。)

          大明寺大和上遺址碑現状
 ( 窪んだ部分の奥の平面に 碑文が刻まれているのであるが、光の反射で全面
 が白くなってしまっている。 また、上部に載置された石の 中央の四角の部分
 に「山川異域、風月一天」の8字が刻まれているのである。)




古大明寺鑑真和上遺址碑記


     日本 文学博士 常盤大定 撰文  江都 王景琦 書
 古(いにしえ)の大明寺は 唐の鑑真和尚の遺址なり。 和尚は実に海東(日本)の律の祖にして、又 初伝台教(天台宗)の祖たり。 江陽県の人。 年 十四にして、父に随(したが)いて 大雲寺に入り、仏像を見て 出家す。 神龍元年(705年)、道岸律師に従いて菩薩戒を受け、景龍(707~709年)の初め 長安に抵(いた)り、荊州の恒景律師に依り 具を稟(う)け、実際寺の融済律師に就きて南山鈔を学び、義威、智全に依りて法礪の疏を聴く。 両京(長安と洛陽)の講肆(講義場)に歴侍(次々に参加する)して、三蔵(仏教全体に関する知識)を該(ひろ)め、台教を研(きわ)めたり。 壮歳(30歳頃)(現在の江蘇省・安徽省などの地域)に旋(かえ)りて、揚州の大明寺に住し、戒律の宗匠と為(な)る。 天宝元年(742年)、日本の栄叡・普照 寺に来り、聴講し、拝して、東渡を請う。 和尚 言えらく、「我 聞くに、南岳の思禅師は彼(日本)に王と為りて生れ、仏法を興隆すと。 又 聞くに、長屋王は千の袈裟を製して 此の土の一千の沙門に施すに、衣縁に偈の『山川異域、風月一天、寄諸仏子、共結来縁』を繍(ぬいとり)すと。 思うに是れ、仏法の有縁の地なり。 吾 当(まさ)に往かんとす。」と。 天宝二年(743年)冬、神足二十五人を募り、途(みち)に首(むか)いて 海に泛(うか)ぶ。 前後五次、運蹇(時運にめぐまれぬこと)を以て 果たさざるも、其の志は 凡(つね)に在り。 逆旅(旅の宿におること) 十有二年、飢渇・困厄は 具(つぶさ)に述ぶるを以てし難し。 両眼 失明せるも、仍(なお) 初念を変えず。 会(たまたま) 天宝十二年(753年)冬十月、日本の大使 特進・藤原清河等 特に揚州の近光寺に至りて、東渡を懇請す。 和尚は 乃(すなわち) 高弟三十五人とともに 副使・大伴胡萬(大伴古麻呂)の船に乗る。 同年十二月 日本の太宰府に達し、翌年二月 南京(平城京)に入り、東大寺に館(やど)る。 聖武天皇は、正議大夫・吉備真備を遣(つかわ)し、戒を授け 律を伝うるの任を以てすることを伝え宣(の)べ、燈大法師の位に叙す。 四月、壇を 盧舎那殿の前に建て、上皇を始めとして菩薩大戒を受け、皇帝、太后、皇后、太子 (*) 、公卿以下、法戒を受けし者 凡(およそ)四百三十余人。 一時の高徳 八十余僧は、旧を棄て新を受く。
* この部分には、混乱と重複がみられる。 『東征伝』によれば、この時の皇室からの受戒者は、天皇(聖武上皇)、皇后(光明皇太后)、皇太子(孝謙天皇)の3名である。(カッコ内が、実際の人物と当時の地位。)
是れ、日本の登壇授戒の始めなり。 天平宝字元年(757年)、大和尚の号を賜る。 和尚、寺田の税を以て 唐招提寺を創(はじ)め、戒壇を築き、三年(天平宝字三年、759年)竣功す。 律寺の備わる所、奐然(立派、すばらしい)として、有序(整然としている)たり。 五年(天平宝字五年、761年)、奏して、戒壇を 下野(現在の栃木県下野市)の薬師寺 及び 筑紫(現在の福岡県太宰府市)の観音寺に建て、東西の両戒学と為す。 七年(天平宝字七年、763年) 仲夏(五月)六日、円寂(死去)す。 寿(とし)は 七十七、臘(得度してからの年数)は 五十五。 実に 唐の代宗の広徳元年なり。 和尚は 権化(仏や菩薩の仮のすがた)の聖者 と謂(い)うべし。 古記に云う、大明寺は 県(前出の江陽県か?)の西北 五里余りに在りと。又 云う、平山堂(宋の欧陽脩が大明寺内に建てた仏堂)は 大明寺の庭の坤(ひつじさる、南西)の隅に創(つくられ)しと。 又 云う、大明寺の前に平山堂有りと。 又 云う、谷林堂(宋の蘇軾が大明寺内に建てた仏堂)は 大明寺に在り、大明寺は是れ 劉宋(南北朝時代の南朝の宋)の孝武帝の大明年間(457~464年)に建つる所の寺にして、東に棲霊塔有り。 棲霊の号は是れ、隋代の梵僧・大覚遺霊の言(不明)に本づく。 滄桑の変にて、元明(元代~明代)以後、寺塔は倶(とも)に圮(くず)れたり。 余は、本年二月 揚州に過(よぎ)り、高洲太助 公に依りて和尚の遺址を探る。 高洲 公、志 篤く、追遠・報本(古人をていねいにまつって 恩にむくいる)して、攷(かんが)え、今の法浄寺は即ち 古の大明寺の遺址にして、大明寺は是れ 和尚の住せる所なるを知る。 喜び言うべからず。 乃(すなわ)ち 茲(ここ)に碑を建て、以て 縁由を記す。
中華民国十一年十二月六日
日本大正十一年十二月六日         日本 高洲太助 立



参 考






高洲太助について


 上掲の碑記には、最終行に「日本 高洲太助 立」と建碑者が明記されているわけであるが、碑文(本文)の終り近くにも 大明寺調査への協力者として 特に高洲の名が挙げられていて、碑文としてはやや異例である。 常盤大定は、高洲の献身的な協力を多として、報告書たる『支那仏教史蹟』の中にも、その名を挙げている。 常盤は、それまでの経由地で知り合った日本人からの紹介で、高洲に揚州での案内を依頼したのであるが、その高洲は、常盤から鑑真の業績を聞かされて 調査の意義を理解し、感激して、熱心に協力するようになったらしい。 大正11年1月27日から30日までの調査で、大明寺の遺址が確認されたのであるが、 前掲書には、「近く邦人の手に因て 和尚を記念する何ものかが出来るであろう」という記述があり、この建碑が予告されているので、意気投合した二人は そこまで一気に話を進めたのであろう。
 ただし、この書は学術書であるから、高洲については 「揚州 唯一の邦人」と説明されているのみである。

 高洲は、前年にも、別の一人の日本人を迎え入れ、揚州市内を案内していた。
 その日本人とは、芥川龍之介である。 芥川は、大正10年(1921年)3月、大阪毎日新聞社から海外視察員として中国に特派され、同月から7月にかけて 各地を旅行していたのである。 芥川も、経由地の上海で知り合った日本人からの紹介で 揚州の高洲を訪問したわけで、その『江南遊記』には、「揚州唯一の日本人、塩務官の高洲太吉氏」と記されている。 また、後から思い出したこととして、『北京日記抄』には「揚州の塩務官 高洲太吉氏は 外国人にして揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後に高洲太吉ありと大いに気焔を吐」いていたと記している。 芥川は、揚州では 先ず執務場所たる塩務署に高洲を訪問し、署の門前の水路から画舫で古蹟に案内され、その夜は「ホテルより高級な」高洲の私宅に宿泊したのであるから、高洲が地方官署の枢要な地位にあり、かなり高額の報酬を得ていたことは、確かである。
 芥川が水路を案内されて 最終的に行き着いたのは、やはり「平山堂」であった。 「ひやりと埃の匂のする、薄暗い堂へ入つた時は、何だか有難い気がしたものです。 私は 額や聯を読んだり、欄外の見晴しを賞したり、しばらく堂の中を徘徊しました。 この堂の主人 欧陽脩は勿論、ここに遊んだ乾隆帝も、きつと今の私のやうに、悠悠たる気もちを楽しんだでせう。」 と満足感を表現している。 ( ただし、この堂のある寺を「法海寺」としている。 上掲した『支那仏教史蹟』には、付近の景勝地たる「湖心律寺」という小寺の旧称が「法海寺」であったという記載があるので、寺および周辺に関する高洲の説明を混同したのであろう。 ) とにかく、芥川も、鑑真ゆかりの旧・大明寺の地を踏んだのであったが、案内した高洲にしても、この時点では、鑑真のことは知るよしも無かったのである。



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