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 表紙には、画家・杉本健吉(1905〜2004)による
西田の素描(上半身、和服姿)が用いられていて、
その鋭いまなざしが 印象的である。 本書の一大
特徴であるが、著作権が存続しており、割愛した。




目 次

 西田寸心先生遺墨

 序       西田 琴

 西田先生の風格       高坂 正顕

 西田先生の日記について   西谷 啓治

 西田先生と数学者      下村 寅太郎

 教育と貧乏         相原 信作

 先生によつて予見せられた日本民族の運命
               相原 信作

 晩年の西田幾多郎先生    島谷 俊三

 続・晩年の西田幾多郎先生  島谷 俊三

 西田先生の思ひ出      高山 岩男

 西田先生と哲学的概念    高山 岩男

 思惟            鈴木 岩弘

 付録
 「善の研究」の生れるまで  島谷 俊三
   ― 寸心先生伝資料の一節 ―

            装画  杉本 健吉


高山岩男、島谷俊三・編 「西田寸心先生片影」

 昭和24 (1949) 年11月 再版、 黎明書房。
 (昭和24年1月 初版)
 B5版、紙装。 本文 175頁。


 哲学者の西田幾多郎(号:寸心、1870 〜 1945)は、太平洋戦争終結直前の 昭和20 (1945) 年6月、鎌倉市の自宅で逝去した。
 本書は、その逝去の後、後輩・門下の人々によってまとめられた 西田を記念する文集である。 この種の文集は、とかく本人を賛美・偶像化するものになりがちで、収録文の内容も 一般読者の参考には ならないことが多い。 本書の場合もその傾向が強く、西田夫人の「序」にしても、西田が、家庭内においても「思索の人」であったことを かなり強調している。 西田が既に著名人となった61際のときに妻となったこの人には、簡素かつ儀礼的な文章で済ませることは できなかったのであろう。
 目次から拾ってさらに例示してみると、下村寅太郎「西田先生と数学者」 は、そのテーマに興味を惹かれるし、前段には「哲学者がいかなる科学に主たる関心をもつかは その哲学の性格を決定すると言つてもよい」という記述もあって、本文の展開が期待されるわけであるが、まもなく「西田哲学と数学との関係のやうな問題には立ち入らないで、断片的な思ひ出を一つ二つ記しておきたい」と、逃げを打たれてしまう。 数学および数学者との関係についての具体的な話題はあるものの、これでは「他の哲学者と違って、西田先生は数学にも通じていた」という飾りを、付与しているに過ぎない。
 目次中で最も目につく題名は、相原信作「先生によつて予見せられた日本民族の運命」であるが、欠陥の多い文章で、論旨が明らかでない。 ここに「予見」とされているのは、敗色濃い時期に西田が発したという「日本民族は奴隷になるよ」という 言葉らしいのであるが(後掲の書簡中にも類似の語がある)、 絶望的な状況では、国民それぞれの間で この程度の悲痛・率直な発言が生まれるのは当然であった。 哲学者らしからぬ乱暴な言葉を、「予見」などと特別扱いするのは、不適当であろう。 当時は、いかに叡知の人といえども、超然と達観して生き抜くことなど できなかったのであるから、大多数の国民と同様、西田もまた困惑、焦燥していたわけである。 相原は こんな状況下でも、師を 常人と異なる 高い境地に置いておきたかったのであろう。
 やや批判が過ぎたかもしれないので、これから少し 本書のプラス面を評価していこう。

 西田は、死の直前まで精力的に論文執筆を続けており、門下生との交流も密接であった。
 このため、完成した論文については、門下生を第一として 自分に関心を寄せてくれる人達に、一刻も早く 印刷物としてそれを届けたい と考えたようである。 そうした、自分の著作に対する執着が異常で、特に それを早急に発表したいという意欲の強かったこと、これこそ 西田の大きな特徴と考えられる。
 島谷俊三「続・晩年の西田幾多郎先生」 は、そのことを きわめて具体的に記している。 まず発端となったのは、『生命論』という論文であるが、かなり長大な分量であったようで、その前半は 昭和19年10月 岩波書店発行の雑誌「思想」に発表されたものの、後半は先送りになっていたようである。 ところが、「思想」の印刷所が空襲に遭い、発行の目途が立たなくなってしまった。 西田は諦めきれず、どのような形でもよいから、この論文を早く発表したいと考えて その方法を模索し、島谷はこれに協力した。 本文は、そのドキュメントである。
 島谷は 西田に、哲学講義用テキストとして小部数印刷することを提案し、まずは その線で実行が図られることとなった。 島谷は静岡で教師をしていたので、その静岡の地で印刷した方が、東京よりも安全であろうと考えられたようである。 ところが この期に及んで西田は、『生命論』と平行して執筆を進めていて 同様に頓挫していた『宗教論』の方が気になり出し、その印刷を先行させることになった。 このあたりのやりとりは複雑で要約しがたいが、島谷の奮闘のクライマックスは、勤労動員で静岡の学校から川崎の工場に出掛けた一人の生徒を 鎌倉の西田邸に立ち寄らせて『宗教論』の原稿を入手し、その持ち帰った原稿について 生徒と自分の家族の5名で「原稿のコピイ」を作成したことである。 「原稿のコピイ」は、空襲に備えて分散保存するためで、具体的には 原稿の全てを書き写した、ということであろう。 灯火管制のもと、「遮蔽した電灯の下」での作業であったらしい。
 このように進行していたが、ここで西田は急逝し、校正済の印刷物も 直後の静岡全市への空襲で 灰燼に帰してしまったのだという。
 島谷に残されたものは、自己の著作とその発表にかけた、西田の執念に関する記憶であった。

 西田の著書を読む上で、あるいは西田哲学を知ろうとする上で、参考になりそうな文は、高山岩男「西田先生の思ひ出」 および 同「西田先生の哲学的概念」 である。 特に後者は、説明が簡潔・適切で、「西田哲学入門」の趣きがある。 また 前者においては、ドイツ人講師の協力を得て 西田の「ゲーテの形而上学的背景」を独訳し、これをドイツの刊行物に掲載した話が、大変 興味深い。 なお、次に掲げる「遺墨」の高山宛書翰も この文中で紹介され、「私は この手紙を先生の私達に与えた遺言状だと考へてゐる」 と付記されている。

 右の「扉」の下の説明に記したように、表紙の素描が 本書の外観を特徴づけているのであるが、内容的な特徴をなすものは、本文の前に置かれた「西田寸心先生遺墨」の部分(片面印刷、5頁)であろう。 死の3か月前に、高山岩男に送られた書簡である。

 「内容の一部紹介」としては、上述した「西田寸心先生遺墨 (高山岩男宛書簡)」を掲げる。
 ペン書きなのに「遺墨」という表示はおかしいが、西田その人を髣髴とさせるかのように、書簡が 極めて精巧・忠実に再現されている。 西田は、(普通の便箋ではなく)横罫の小形レポート用紙に、罫が縦になるようにして ペン書きしているのであるが、まずそのレポート用紙が忠実に再現され(本文とは用紙そのものも変えて)、その上にブルー・インクのダイナミックな文字が載っているので、まるで本物の書簡に接するかのようである。 …… しかし、ここに掲げる画像では、その迫真性を示すことができなかった。
 本書中に このような部分が設けられたことについては、何の説明も無いが、次のように考えられる。 金沢時代の西田の恩師・北條時敬(1858〜1929)について、西田が編集した記念誌『廓堂片影』(昭和6(1931)年刊。本書と書名は似ているが、こちらは900頁余りの巨冊。)があり、その口絵写真部分に北條の日記の一部が掲載されている。 その先例に倣ったのであろう。
 なお、下の表示においては、画像の左側に釈文を示したが、この釈文は、岩波版『西田幾多郎全集・第十九巻』(1980年、第3刷)の「書簡集」に依った。 (この書簡の整理番号は、「二一四三」である。)



内容の一部紹介







        西田寸心先生遺墨 ― 高山岩男宛書簡 ―



1
御手紙 拝見いたしました。 御宅の事 心配してゐましたが それでも皆々よくなられました由 安心致しました。 東京は 実に大変の様です。 誠に気の毒なものです。 敵機 時々私共の頭上を通りますが、こゝには投弾は せない様です。 京都は今の処 無事の様だが これも中々分りませんよ。
総力戦など これでは全くだめですよ。 もつともつと日本人は systematic に組織する訓練ができてゐなくてはだめです。 従来 全くそんな教育ができてゐなかつたのです。 俄に泥縄的なことを教へても だめでせう。
2
私は此際 実に心配いたし居ります。 此には 実に大決心をせねばならぬ時ではないかと存じます。 このまゝに引きづられて行つて 足腰も立たない様になつては 民族生命もだめになつてしまはないかと存じます。 何とかしても 我々民族がどうあつても 此際 精神的〇 〇 〇 自信◎ ◎ を失ふ様なことがあつては ならないと存じます。 力でやられても 何処までも 道義的に 文化的に 我国体の歴史的世界性 世界史的世界形成性の立場だけの自信を失はず、固く此立場を把握して 将来の民族発展の自信を持たす様にせねばならぬと思ひます。
3
先日 例のK君がこちらへ来訪せられました故 此事を論じ 同君も全く同意見でしたが、同君も どうも何ともできない様なので、私はどうも 此外に将来の途はない様に思ひますが。
そこで 私は君方に一言したいのですが、君方は 一つ此の出立点となる 深大なるに思想学問の根拠を作らねばならぬと云ふことです。 私はK君の問に対して 断じて日本人に可能だと云つて置きました。 唯 力にのみ依頼して居れば きつとだめになります。 此の事は 高坂、木村、西谷、鈴木等 諸君に御伝へ置き下さい。 私は もはや老骨 何時とも知らぬ身の上ですが、唯 これを念として
4
努力して居ります。 今、宗教論を書いて居ります。 (先日 数学論を沢瀉に送つて置きました。 できるだけ書き残します。)
唯 残念なことには、先日 神田の精興社が 二十五日に焼けて、第六論文集は 丁度校正がすんだ所で焼けてしまひました。 「思想」も そこから出してゐましたので、「生命論」も もう一寸と 出る見込もないかと存じます。  何とかして 今 書いて居たものを 後に残して置きたいと存じますが。 大拙(西田の終生の友人・鈴木大拙。)は 今度 「日本的霊性」(大東出版社)といふものを書きました。 大変 面白いと存じます。
5
例の論文集補遺 もう五六冊位あつたら 送つて下さい。
上田の妻 私の長女(上田弥生。前月(2月14日)、49歳で急逝。)が 突然死亡して 私もがつかりいたしました。 胆嚢炎とかいふ病気にて、色々の心痛苦労のため 心臓が弱つてゐたため、ほんの一日位の病気にて絶命いたしました由。 近年は殊に親切に 孝行を尽しくれましたのに、いかにも懐しくおもひ、老年に 云ひ様のない淋しさと悲哀に 沈み居ります。 私もだんだん老衰し行く様です。 何卒御大切に。 皆々によろしく。
 三月十一日 西田。
 高山君。 君も、こちらへ出て来る如きこともなきか。






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