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表紙

目 次

 拾遺愚草 上 (百首歌)

 拾遺愚草 中

 拾遺愚草 下 (部類歌)

 員外雑歌

 来田本奥書

 定家年譜 (佐佐木信綱・編)

 定家歌集付言

 藤原定家歌集 目次 (上記よりも細分化。)

岩波文庫
佐佐木信綱・校訂 「藤原定家歌集」


 昭和24 (1949) 年9月、第5版、岩波書店 。
 (昭和6年5月 初版)
 文庫版、紙装。 本文 357頁。


 藤原定家(ふじわらのさだいえ、応保2(1162)~仁治2(1241):名は、「テイカ」とも読む。)は、平安時代末期~鎌倉時代初期の歌人。
 本書は、定家の歌集『拾遺愚草』の全てを収録したもので、全歌集と言い得るものである。 『拾遺愚草』は、「上巻」(1500首)、「中巻」(525首)、「下巻」(832首)、「員外」(972首)、の4部分からなり、合計:3829首の歌を収めるが、贈答・唱和の場合の相手方の歌をも含んでいるので、定家自身の歌数は 3653首である。 なお、これら歌数に関しては、本書には「上巻」の歌数が記されているのみであるため、いま、他書から補って、全体像を示した。
 定家の全歌集であるということの他に、本書の特徴としては、① 勅撰集に採録された歌には、その勅撰集の略称が注記されていること、および ② かなり詳細な「定家年譜」が付されていること、が挙げられる。 ② については、それまで知られていた経歴が整理されている上に、有名な定家の漢文日記『明月記』から 関連事項が摘録されている。 ただし、漢文に返り点が付与されているのみであるから、読みこなせる読者は少ないであろう。
 こうした特徴はあるものの、編集は かなり雑駁・不親切で、良心的な「岩波文庫」らしからぬものである。 全体の目次が最後に置かれていて、最初の頁には「拾遺愚草上」、すなわち上記 4部分のうちの一番目の部分のみの目次が示されていて、極めて紛らわしいのであるが、後続の3部分についての目次は無く、本文のみが無造作に連続している。 最終部の全体目次(「藤原定家歌集目次」)に至って、初めて 構成の全容が理解できるわけである。 しかも、全体目次の前に置かれた「定家歌集付言」(これが通常の「解説」に当る文章であるが。)には、「拾遺愚草」が定家歌集の名であることの説明は全く無いのであるから、その無神経さに驚かざるをえない。 また、上記「付言」には、本書の底本として 宇治山田市(現在の三重県伊勢市)の来田新明という人の蔵本(「来田本」)を用いたことが記され、本文の最終部分には その底本の奥書が示されているのであるが、その奥書の注記では「木田本」となっている。 これも、不注意による誤りと考えられる。

 本文の内容に移ろう。 この『拾遺愚草』は、4部分とも、100首とか50首の単位でまとめられた、いくつかの小部分に分かたれ、それぞれに小題が付されており、上・中巻の場合は さらに制作年(月)も付記されている。 「上巻」の場合、
 「初学百首 養和元年四月
 「二見浦百首 文治二年
 「皇后宮大輔百首 文治三年春
  ・・・・
という具合である。 これらは もともと、巻子本または冊子本の形にまとめられた「近作集」とも言うべきもので、その都度、権門の人などに提示あるいは贈呈されたと考えられる。 定家は、このような形で、作品自体を適時に人に示して、作歌能力の高さをアピールしていたのである。
 第4部分の「員外雑歌」には、遊戯的に作られた作品群が多い。 例えば、「伊呂波四十七首」というのは、いわゆる「いろは」47文字の一つ一つを歌の頭に据えた47首の作品群である。 最初の3首(つまり「いろは」の部分)を示せば、次のとおりである。
     いつしかとかすめる空の気色かな たゞ夜の程の春のあけぼの
     楼の上のあきののぞみは月のほど 春は千里の日ぐらしのそら
     春来ても谷のこほりはまだ解けず さは思ひわく鳥の音もがな
 この例示部分には 春の歌のみが並んでいるが、全体としては、春10首、夏10首、秋10首、冬10首、恋7首という、バランスのとれた 巧みな構成となっている。 紹介はこれのみに止めるが、「員外雑歌」の諸篇中には 他にも同趣向のものがある。 これらは、他人に示すために制作した意図が鮮明で、趣向そのものが 創作の動機としては不純であるから、当時といえども 感心する人ばかりでは無かったであろう。

 上に例示した「いろは」3首の中の「ろ」の歌、
     楼の上のあきののぞみは月のほど 春は千里の日ぐらしのそら
は、「楼」が漢語のまま(漢字の音と意味で)使用されていて、清新に感じられる。 このような、漢語 そのままの使用は、「員外雑歌」および「拾遺愚草 下」の一部分に見られ、まるで近代短歌の如く感じられるものもある。 数は少ないが、定家の歌の一特徴である。

 「内容の一部紹介」としては、これら漢語使用の歌を抽出し、解説を加えながら 表示する。
 表示順は、作歌時期の前後(推定)により、「員外雑歌」所収のものを先にし、「拾遺愚草 下」所収のものを後に する。 (「員外雑歌」内では、作歌時期に多少の前後があるが、掲載順による。)



内容の一部紹介




        

定家の 漢語を用いた 歌



      の 上 の あ き の の ぞ み は 月 の ほ ど 春 は 千 里 の 日 ぐ ら し の そ ら   (「員外雑歌・詠四十七首和歌」、248頁)  「楼」とは、仏閣の上層部を言うのであろう。 そこからの眺望は、秋は もっぱら月を愛でるのみであるが、春は千里一望の景を終日堪能できる、というのである。

     龍 門 の た き に ふ り こ し 雪 ば か り 雨 に ま が ひ て ち る さ く ら か な        (同上、同頁)
 「龍門の滝」は、当時から各所にあったらしいが、そのいずれでも よいであろう。 特殊な気象の状態を歌っているので、そのまま受容するのみ。

     る り(瑠璃) の 地 に 夏 の い ろ を ば か へ て け り 山 の み ど り を う つ す 池 水        (同上、同頁)
 「るり(瑠璃)」とは、広義には 透明な玉(ギョク)の類を言い、狭義には そのうちの青色または紺色のものをいう。 ここでは、その狭義を受けた青色(色そのもの)の意味で用いられている。 池の水が まず 一面の青(るりの地)で、そこに 夏らしい 周囲の山の緑が映り込んでいる、というのである。

     ら い し(櫑子) お か む た ゞ 秋 萩 の 一 枝 も ほ と け の た ね は 結 ぶ と ぞ 聞 く        (同上、249頁)
 「櫑子」は、受皿の下に支持部(台部)を設けて 全体を高くした容器。 仏前に供えた秋萩のために 櫑子を置くということは、萩も生命あるものとして 貴く扱うべきである(ことに気付いた)、ということか。

     ろ く や を ん
(鹿野苑) て ら す 朝 日 に 雪 き え て は る の ひ か り も ま づ や 導 く        (同上、251頁)
 「鹿野苑」は、釈迦が悟りを開いた後、初めて説法した所。 定家は、一面の雪が朝日に照らされて すぅーと消えてゆく光景を目にして、釈迦の新鮮な説法に人々がたちまち感化されていった様子を、感じ取ったのであろう。

     り ち(律) の 歌 に 琴 の 音 あ へ る 夕 ま ぐ れ 片 糸 な び く に は(庭) の あ を や ぎ        (同上、252頁)
 「律の歌」とは、平安時代に流行した歌謡「催馬楽(さいばら)」のうち、「律」の旋律で演奏される歌曲。 (これに対して「呂」の旋律で演奏される歌曲があった。) ここは、誰かが 律の歌を口ずさんだところ、他の人が琴の伴奏を加えたのが、とてもよくマッチした、というのである。 ところが、庭には 縒り合せぬ糸(片糸)のような青柳が風にそよいでいる というのである。 これは、どういうことなのであろうか。

     る て ん(流転) す る み つ(三つ) の さ か ひ(境) に 似 た る か な 惜 み し 春 も 別 れ ぬ る 夏       (同上、同頁)
 「三つの境」とは、「過去・現在・未来」の いわゆる「三世」の境界 のことであろう。 春を惜しんでいる間に、いつの間にか夏になっている、そんな季節の変化が 三世の転移を実感させるのである。

     れ い(鈴) の 声 鐘 の ひ ゞ き も 秋 な が ら い ほ り(庵) も 寺 も な つ ふ か く し て        (同上、253頁)
 「鈴」と「鐘」とは、下の句の「庵」と「寺」に対応する仏具である。 仏道にある人々には、暦に従った秋の行事があって、これらを用いるのであるが、自然界はまだ夏の盛りで、あたり一面 濃い緑に蔽われているのである。

      の 表 紙 ひ も の 玉 ゆ ら  あ き か ぜ は 天 の 河 原 に く も や ま く ら む       (同上、同頁)
 この歌については、文庫本原文に「ときかぜ」とある語を、「あきかぜ」に訂正した。 『古今集』(巻四)中の歌「あきかぜのふきにしひより ひさかたのあまのかわらに たたぬひはなし」(よみ人知らず)を踏まえていると思われ、「ときかぜ」なる語は、歌語(歌ことば)としてはもちろん、当時の日常語としても存在しなかったと考えられるからである。
 「羅の表紙」云々は、『源氏物語・賢木』の「玉の軸、羅の表紙 …」あたりからの連想であろうか。 ただし、『源氏』における「玉」は 経巻の軸材の玉(ギョク)のことであるが、「玉ゆら」の語(「かすかに」の意)に懸けたのであろう。 上の句の地上の景では、身近な書物の表紙や紐を ほんの少し揺るがす程度の風に秋の気配を感じる、と言うのであるが、下の句の天上の景では、既に雲を捲くような季節の変化が生じているのでないかと 想像している。

     れ ん(輦)(寄) す る 雲 井 の は し の 秋 の 月 こ ゝ ろ 高 く も す み の ぼ る か な  (「員外雑歌・建久七年」、258頁)
 この建久七年(1856年)の秋、定家は 有力者の藤原良経から、この人の近作の歌を示されて、歌の各文字(31字)を頭に据えた歌(つまり31首)を作るよう依頼され、無論 これに応じた。 これは そのうちの「れ」に対する歌である。 「れん寄する…」と、やや突飛な歌い出しではあるが、さすがに 特殊な場面での優雅な雰囲気を表現している。 輦は 天皇の乗物であるから、何か催事の場に、天皇(当時は後鳥羽天皇)が 到着した光景。 ちょうど 天空には、その高貴さを反映したかのような、澄んだ月があった。

     ら ん せ い(乱世) の 花 の に し き の お も か げ に い ほ り か な し き 秋 の 村 雨      (同上、同頁)
 上記「れん寄する…」の歌とともに作られた、「ら」に対する歌である。 11年前(文治元、1185年)の平家滅亡、4年前(建久三、1192年)の源頼朝の征夷大将軍就任などを経て、新秩序が形成されつつあった時期であるが、戦乱の跡が残り、復興がままならぬ施設等も多く、乱世の記憶は なお生々しかったのであろう。 そして、壇の浦で入水したものの 源氏方に救い上げられた建礼門院は、この建久七年からさらに17年後の 建保元年まで生き永らえたようであるから、同様に詫び住まいで余生を送っていた人々は 少なくなかったのである。

     り う た ん(竜胆、りんどう) の 花 の 色 こ そ さ き そ む れ な べ て の 秋 は 浅 茅 生 の さ と (「員外雑歌・建久三年」、260頁)
 一面 枯草の原の中に、りんどうの青い色が 目につく。 漢字を使わずに「りうたん」としたのは、文字の上からも 際立たせようとしたのであろう。

     輪 廻(りんね) し て た ま た ま う(享) く る 人 の 世 に な ほ 秋 の 夜 の 月 ぞ す く な き      (同上、261頁)
 輪廻という観念を、当時の人々は どれほど信じていたのであろうか。 この歌では、下の句(の内容)に対する 上の句(の内容)が いかにも大げさで、諧謔を弄しているようにみえるから、少なくとも定家は、現在の我々と同様の感覚であったように思われる。

     瑠 璃(るり) の 水 に し き の 林 い ろ い ろ に こ ゝ ろ う き 立 つ 秋 の や ま 川     (「同上、262頁)
 瑠璃は、前出。 ここでは、錦の林 を映し込んでいる。

      た て し 岸 の か ひ あ る 藤 波 の な び き て と も に お も ひ や る か な        (「員外雑歌・十五首和歌」、同頁)
 「堂」は、前出の「楼」に対して 人の住居(おそらく二階建ての家屋)を言うと思われる。 「かひある」が判りにくいが、当時の俗語的な言い方で「ふつうより少し良い」という意味のようである。 岸辺の やや目につく藤は、こちらの視線に反応するかのように、風にゆれ動いている。 藤のそうした様子が見てとれるのは、こちらが堂に居るためで、「堂たてし」の語が利いている。 有力者が二階建ての家屋を建築するようになったのは、鎌倉時代あたりからで、この歌もそうした傾向を示すものであろう。

     れ き 山(歴山) の 裾 野 の を 田(小田) の あ き 風 や な び き し 人 の は じ め な り け む   (「員外雑歌・大将殿」、263頁)
 「歴山」は、古代中国の帝王・舜が耕作したという山。 「小田」は、歌ことばで、単に「田」と言うに同じ。 舜は、愚鈍な親・邪悪な弟のいる家庭で育ったが、帝・堯に用いられ、その後を承けて帝位に就くや、天下みな これに服した。 作者は、最初に服したのは、若き日の歴山に吹いていた風であろう という。 やや突飛な発想であるが、秋風の爽やかさが 古代の聖天子を想起させたのであろう。

     歴 劫(リャッコウ)弘 誓(グセイ) の う み に ふ ね わ た せ 生 命しやうじ の な み は ふ ゆ あ ら く と も (「拾遺愚草 下・釈教」、227頁)
 「歴劫」は、仏や菩薩になるための長期間にわたる修行。 「弘誓」は、その仏や菩薩が衆生を救おうとする誓いで、「弘誓の海」は その誓いが広大であることを言う。 ともに、「妙法蓮華経」(略して「法華経」)に説くところ。 定家は、(「歴劫」も「弘誓」も単純に「の」でつないで)両者を一緒くたにし、仏教をいたずらに深遠なものたらしめんとする これらの語の虚飾を衝き、船を渡して一刻も早く衆生を救済すればよいではないか、と言う。 旧来の仏教が沈滞・形式化したのを見て、鎌倉新仏教が興起しつつあった。 その素地を見る思いがする。

     む な し さ を 三 世(サンゼ) の 仏 の は ゝ な ら ば こ ゝ ろ の 闇 を 空 に は る け よ    (同上、同頁)
 「釈教」(「仏教」の意)の総題のもと、この歌には「心経」(すなわち「般若心経」)の題が付されている。 「般若心経」は 「空」(何も無い状態)を主題とした経典であるが、その「空」を、定家はまず 国語の「むなしさ」に置き換えてしまっている。 次の「三世の仏のはゝ(母)」なる語は、「般若心経」とは関係なく、後代の仏教者が編み出した概念(内容説明は略す)で、それをここに持ち出しているため、さらに奇妙な議論となっている。 「空」に関しては曲解と言うべきであるが、主張するところは かえって健全である。 (「はるけよ」は、「開けよ」、「解き放てよ」の意。)

     消 え せ ず な 鶴 の 林 の け ぶ り に も 残 る ひ か り の つ ゆ の か た み は    (同上、228頁)
 「鶴の林」とは、釈迦が入滅した 沙羅双樹の林の別称たる「鶴林」(カクリン)のこと。 釈迦は 入滅後 荼毘に付されたが、その煙がまだ漂っている中に 光輝くものがある、とされているのは、 釈迦の遺骨たる「仏舎利」である。 「仏舎利」は、 帰依した人々に広く配分され、それぞれが後代に大切に受け継がれた とされている。 (唐僧・鑑真の将来品にも ガラス製容器に納められた「仏舎利」があり、唐招提寺に伝えられている。) この歌には、「舎利讃歎の心」という題が付されている。

     心 う き 里 と し(知) り に し こ ひ(恋) な れ ば 輪 廻 の か す み い ま や 晴 る ら む    (同上、同頁)
 「大伴坂上郎女」という題の歌。 大伴坂上郎女は、女流万葉歌人としては 歌数・質ともに第一位の人である。 この定家の歌は、彼女の特定の作品の内容を問題にしているように思われるが、筆者には不明。 また 彼女には、3人の男性との結婚歴があり、「輪廻」云々はそれを踏まえているのかもしれないが、死別の結果であって、ここに歌われているような事柄は、妥当しないように思われる。 才能豊かな人であったことは確かで、作品の豊富な内容から、定家がいろいろな状況を想像したのであろうか。

     も ろ 人 の む す ぶ ち ぎ り を 忘 る な よ か め 井 の 水 に (ゴウ) は へ(経) ぬ と も    (同上、229頁)
 これは「掬亀井水言志(亀井の水をすくいて志を言う)」と題した歌。 「亀井の水」は、大阪の四天王寺に現存する 亀井堂の井水のことであろう。 古くから名水として知られ、人々は種々の願いを込めながら掬ったのであろうが、井(井戸)に呼びかけるような「忘るなよ」の語が わざとらしい。 ただし、「劫は経ぬとも」という表現は、当時としては 新鮮であったと思われる。






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