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表紙 |
目 次
拾遺愚草 上 (百首歌) 拾遺愚草 中 拾遺愚草 下 (部類歌) 員外雑歌 来田本奥書 定家年譜 (佐佐木信綱・編) 定家歌集付言 藤原定家歌集 目次 (上記よりも細分化。) |
内容の一部紹介 |
定家の 漢語を用いた 歌
楼 の 上 の あ き の の ぞ み は 月 の ほ ど 春 は 千 里 の 日 ぐ ら し の そ ら (「員外雑歌・詠四十七首和歌」、248頁) 「楼」とは、仏閣の上層部を言うのであろう。 そこからの眺望は、秋は もっぱら月を愛でるのみであるが、春は千里一望の景を終日堪能できる、というのである。
龍 門 の た き に ふ り こ し 雪 ば か り 雨 に ま が ひ て ち る さ く ら か な (同上、同頁)
「龍門の滝」は、当時から各所にあったらしいが、そのいずれでも よいであろう。 特殊な気象の状態を歌っているので、そのまま受容するのみ。
る り(瑠璃) の 地 に 夏 の い ろ を ば か へ て け り 山 の み ど り を う つ す 池 水 (同上、同頁)
「るり(瑠璃)」とは、広義には 透明な玉(ギョク)の類を言い、狭義には そのうちの青色または紺色のものをいう。 ここでは、その狭義を受けた青色(色そのもの)の意味で用いられている。 池の水が まず 一面の青(るりの地)で、そこに 夏らしい 周囲の山の緑が映り込んでいる、というのである。
ら い し(櫑子) お か む た ゞ 秋 萩 の 一 枝 も ほ と け の た ね は 結 ぶ と ぞ 聞 く (同上、249頁)
「櫑子」は、受皿の下に支持部(台部)を設けて 全体を高くした容器。 仏前に供えた秋萩のために 櫑子を置くということは、萩も生命あるものとして 貴く扱うべきである(ことに気付いた)、ということか。
ろ く や を ん(鹿野苑) て ら す 朝 日 に 雪 き え て は る の ひ か り も ま づ や 導 く (同上、251頁)
「鹿野苑」は、釈迦が悟りを開いた後、初めて説法した所。 定家は、一面の雪が朝日に照らされて すぅーと消えてゆく光景を目にして、釈迦の新鮮な説法に人々がたちまち感化されていった様子を、感じ取ったのであろう。
り ち(律) の 歌 に 琴 の 音 あ へ る 夕 ま ぐ れ 片 糸 な び く に は(庭) の あ を や ぎ (同上、252頁)
「律の歌」とは、平安時代に流行した歌謡「催馬楽(さいばら)」のうち、「律」の旋律で演奏される歌曲。 (これに対して「呂」の旋律で演奏される歌曲があった。) ここは、誰かが 律の歌を口ずさんだところ、他の人が琴の伴奏を加えたのが、とてもよくマッチした、というのである。 ところが、庭には 縒り合せぬ糸(片糸)のような青柳が風にそよいでいる というのである。 これは、どういうことなのであろうか。
る て ん(流転) す る み つ(三つ) の さ か ひ(境) に 似 た る か な 惜 み し 春 も 別 れ ぬ る 夏 (同上、同頁)
「三つの境」とは、「過去・現在・未来」の いわゆる「三世」の境界 のことであろう。 春を惜しんでいる間に、いつの間にか夏になっている、そんな季節の変化が 三世の転移を実感させるのである。
れ い(鈴) の 声 鐘 の ひ ゞ き も 秋 な が ら い ほ り(庵) も 寺 も な つ ふ か く し て (同上、253頁)
「鈴」と「鐘」とは、下の句の「庵」と「寺」に対応する仏具である。 仏道にある人々には、暦に従った秋の行事があって、これらを用いるのであるが、自然界はまだ夏の盛りで、あたり一面 濃い緑に蔽われているのである。
羅 の 表 紙 ひ も の 玉 ゆ らとあ き か ぜ は 天 の 河 原 に く も や ま く ら む (同上、同頁)
この歌については、文庫本原文に「ときかぜ」とある語を、「あきかぜ」に訂正した。 『古今集』(巻四)中の歌「あきかぜのふきにしひより ひさかたのあまのかわらに たたぬひはなし」(よみ人知らず)を踏まえていると思われ、「ときかぜ」なる語は、歌語(歌ことば)としてはもちろん、当時の日常語としても存在しなかったと考えられるからである。
「羅の表紙」云々は、『源氏物語・賢木』の「玉の軸、羅の表紙 …」あたりからの連想であろうか。 ただし、『源氏』における「玉」は 経巻の軸材の玉(ギョク)のことであるが、「玉ゆら」の語(「かすかに」の意)に懸けたのであろう。 上の句の地上の景では、身近な書物の表紙や紐を ほんの少し揺るがす程度の風に秋の気配を感じる、と言うのであるが、下の句の天上の景では、既に雲を捲くような季節の変化が生じているのでないかと 想像している。
れ ん(輦) よ(寄) す る 雲 井 の は し の 秋 の 月 こ ゝ ろ 高 く も す み の ぼ る か な (「員外雑歌・建久七年」、258頁)
この建久七年(1856年)の秋、定家は 有力者の藤原良経から、この人の近作の歌を示されて、歌の各文字(31字)を頭に据えた歌(つまり31首)を作るよう依頼され、無論 これに応じた。 これは そのうちの「れ」に対する歌である。 「れん寄する…」と、やや突飛な歌い出しではあるが、さすがに 特殊な場面での優雅な雰囲気を表現している。 輦は 天皇の乗物であるから、何か催事の場に、天皇(当時は後鳥羽天皇)が 到着した光景。 ちょうど 天空には、その高貴さを反映したかのような、澄んだ月があった。
ら ん せ い(乱世) の 花 の に し き の お も か げ に い ほ り か な し き 秋 の 村 雨 (同上、同頁)
上記「れん寄する…」の歌とともに作られた、「ら」に対する歌である。 11年前(文治元、1185年)の平家滅亡、4年前(建久三、1192年)の源頼朝の征夷大将軍就任などを経て、新秩序が形成されつつあった時期であるが、戦乱の跡が残り、復興がままならぬ施設等も多く、乱世の記憶は なお生々しかったのであろう。 そして、壇の浦で入水したものの 源氏方に救い上げられた建礼門院は、この建久七年からさらに17年後の 建保元年まで生き永らえたようであるから、同様に詫び住まいで余生を送っていた人々は 少なくなかったのである。
り う た ん(竜胆、りんどう) の 花 の 色 こ そ さ き そ む れ な べ て の 秋 は 浅 茅 生 の さ と (「員外雑歌・建久三年」、260頁)
一面 枯草の原の中に、りんどうの青い色が 目につく。 漢字を使わずに「りうたん」としたのは、文字の上からも 際立たせようとしたのであろう。
輪 廻(りんね) し て た ま た ま う(享) く る 人 の 世 に な ほ 秋 の 夜 の 月 ぞ す く な き (同上、261頁)
輪廻という観念を、当時の人々は どれほど信じていたのであろうか。 この歌では、下の句(の内容)に対する 上の句(の内容)が いかにも大げさで、諧謔を弄しているようにみえるから、少なくとも定家は、現在の我々と同様の感覚であったように思われる。
瑠 璃(るり) の 水 に し き の 林 い ろ い ろ に こ ゝ ろ う き 立 つ 秋 の や ま 川 (「同上、262頁)
瑠璃は、前出。 ここでは、錦の林 を映し込んでいる。
堂 た て し 岸 の か ひ あ る 藤 波 の な び き て と も に お も ひ や る か な (「員外雑歌・十五首和歌」、同頁)
「堂」は、前出の「楼」に対して 人の住居(おそらく二階建ての家屋)を言うと思われる。 「かひある」が判りにくいが、当時の俗語的な言い方で「ふつうより少し良い」という意味のようである。 岸辺の やや目につく藤は、こちらの視線に反応するかのように、風にゆれ動いている。 藤のそうした様子が見てとれるのは、こちらが堂に居るためで、「堂たてし」の語が利いている。 有力者が二階建ての家屋を建築するようになったのは、鎌倉時代あたりからで、この歌もそうした傾向を示すものであろう。
れ き 山(歴山) の 裾 野 の を 田(小田) の あ き 風 や な び き し 人 の は じ め な り け む (「員外雑歌・大将殿」、263頁)
「歴山」は、古代中国の帝王・舜が耕作したという山。 「小田」は、歌ことばで、単に「田」と言うに同じ。 舜は、愚鈍な親・邪悪な弟のいる家庭で育ったが、帝・堯に用いられ、その後を承けて帝位に就くや、天下みな これに服した。 作者は、最初に服したのは、若き日の歴山に吹いていた風であろう という。 やや突飛な発想であるが、秋風の爽やかさが 古代の聖天子を想起させたのであろう。
歴 劫(リャッコウ) の 弘 誓(グセイ) の う み に ふ ね わ た せ 生 命 の な み は ふ ゆ あ ら く と も (「拾遺愚草 下・釈教」、227頁)
「歴劫」は、仏や菩薩になるための長期間にわたる修行。 「弘誓」は、その仏や菩薩が衆生を救おうとする誓いで、「弘誓の海」は その誓いが広大であることを言う。 ともに、「妙法蓮華経」(略して「法華経」)に説くところ。 定家は、(「歴劫」も「弘誓」も単純に「の」でつないで)両者を一緒くたにし、仏教をいたずらに深遠なものたらしめんとする これらの語の虚飾を衝き、船を渡して一刻も早く衆生を救済すればよいではないか、と言う。 旧来の仏教が沈滞・形式化したのを見て、鎌倉新仏教が興起しつつあった。 その素地を見る思いがする。
む な し さ を 三 世(サンゼ) の 仏 の は ゝ な ら ば こ ゝ ろ の 闇 を 空 に は る け よ (同上、同頁)
「釈教」(「仏教」の意)の総題のもと、この歌には「心経」(すなわち「般若心経」)の題が付されている。 「般若心経」は 「空」(何も無い状態)を主題とした経典であるが、その「空」を、定家はまず 国語の「むなしさ」に置き換えてしまっている。 次の「三世の仏のはゝ(母)」なる語は、「般若心経」とは関係なく、後代の仏教者が編み出した概念(内容説明は略す)で、それをここに持ち出しているため、さらに奇妙な議論となっている。 「空」に関しては曲解と言うべきであるが、主張するところは かえって健全である。 (「はるけよ」は、「開けよ」、「解き放てよ」の意。)
消 え せ ず な 鶴 の 林 の け ぶ り に も 残 る ひ か り の つ ゆ の か た み は (同上、228頁)
「鶴の林」とは、釈迦が入滅した 沙羅双樹の林の別称たる「鶴林」(カクリン)のこと。 釈迦は 入滅後 荼毘に付されたが、その煙がまだ漂っている中に 光輝くものがある、とされているのは、 釈迦の遺骨たる「仏舎利」である。 「仏舎利」は、 帰依した人々に広く配分され、それぞれが後代に大切に受け継がれた とされている。 (唐僧・鑑真の将来品にも ガラス製容器に納められた「仏舎利」があり、唐招提寺に伝えられている。) この歌には、「舎利讃歎の心」という題が付されている。
心 う き 里 と し(知) り に し こ ひ(恋) な れ ば 輪 廻 の か す み い ま や 晴 る ら む (同上、同頁)
「大伴坂上郎女」という題の歌。 大伴坂上郎女は、女流万葉歌人としては 歌数・質ともに第一位の人である。 この定家の歌は、彼女の特定の作品の内容を問題にしているように思われるが、筆者には不明。 また 彼女には、3人の男性との結婚歴があり、「輪廻」云々はそれを踏まえているのかもしれないが、死別の結果であって、ここに歌われているような事柄は、妥当しないように思われる。 才能豊かな人であったことは確かで、作品の豊富な内容から、定家がいろいろな状況を想像したのであろうか。
も ろ 人 の む す ぶ ち ぎ り を 忘 る な よ か め 井 の 水 に 劫(ゴウ) は へ(経) ぬ と も (同上、229頁)
これは「掬亀井水言志(亀井の水をすくいて志を言う)」と題した歌。 「亀井の水」は、大阪の四天王寺に現存する 亀井堂の井水のことであろう。 古くから名水として知られ、人々は種々の願いを込めながら掬ったのであろうが、井(井戸)に呼びかけるような「忘るなよ」の語が わざとらしい。 ただし、「劫は経ぬとも」という表現は、当時としては 新鮮であったと思われる。
終