らんだむ書籍館


表紙
福原麟太郎、山岸徳平・共編
研究社 国語新辞典」


 昭和33 (1958) 年 9月 第7版、 研究社辞書部。
 (昭和 27 (1952) 年 4月、初版)
 縦 16.6 cm、横 9.6 cm。 クロース装。 本文 1751 頁。


 日本の国語辞典を代表する 岩波書店の「広辞苑」は、「百科事典を兼ねた」ことを 特徴の一つにしているが、かつて存在した 本書「研究社 国語新辞典」も、「広辞苑」よりもはるかに小形でありながら、やはり百科事典的性格を備えており、しかも読物として楽しめるよう 更なる工夫がなされていた。

 また 本書は、通常の国語辞典と異なり、見出し語はローマ字で表記され、したがってアルファベット順に並べられている。 また、見出し語の各意味ごとに英訳が付されている。 さらに、見出し語を含む格言・俚諺・成句などにも、英訳が付されている。 つまり、和英辞典としても利用できるという 特徴もある。

 … このような一般的解説を続けていくと、ありきたりの書誌になってしまうので、まず、読物としての 興趣に富んだ部分から具体的に紹介していこう。

 「猿蟹合戦」という見出し語がある。 意味としてまず、「わが国の国民的童話の一。」という記述があり、その後に物語の梗概が説明されていて、誰もが知っているストーリィが巧みに要約されている。 「…蟹の子は怒つて石臼・杵・蜂・栗とはかつて仇を討つ」などとあるのを読んでいると、昔見た絵本の、猿の上に石臼がデンと載った絵などが浮かんでくる。 意味の説明には、160字ほどが費やされている。 英訳は、「(The Story of) the Battle between a Monkey and Crabs 」となっている。
 ついでに、「一寸法師」や「花咲じじい」、「桃太郎」がどのように説明されているのか当たってみると、これらは見出し語に選ばれていない。 こういうところが、本書の編集者ないし執筆者の 恣意的なところである。

 筆者が見い出した中で 最も長文(17行)の説明がなされている見出し語は、「轆轤(rokuro)」である。 轆轤は、回転機構を有する各種の道具や装置であるが、種々な用途や機能を統一的に説明することが困難なため、次の1~5の見出しを付した代表的な道具(装置)について、個々に説明する形をとっている。 1.挽物(ヒキモノ)細工に用いる簡単な旋盤(センバン)、2.円形の陶器を形造る台、3.車井戸の上にかけて 釣瓶(ツルベ)を上下させるのに用いる滑車、4.重い物を引っぱり、又は持ち揚げるのに用いる車地(シャチ)、5.からかさの骨を集めている臼状の具。 …身近に存在して「轆轤」と呼ばれているものを説明するには、このように羅列するより他になかったのであろう。 英訳も、1~5 毎になされている。

 「轆轤」に次いで 長文(15行)の説明がなされている見出し語は、「末法思想」であろうか。 釈迦入寂後の一千年 → 正法時、その後の一千年 → 像法時、その後の一万年 → 末法時、という教理から末法思想の意味を説明し、後半は わが国の平安中期~南北朝時代の末法思想についての 思想史的解説となっている。 英訳は、「idea of degeneration of man 」である。
 「ルネッサンス」[Renaissance]と、「時計」[clock]の説明も、同じくらい長い。 「時計」の場合は、その定義、機械時計に至る技術史、機械時計の原理・構成が述べられ、種類(懐中時計、腕時計、置時計、…)に及んでいる。 本書の執筆当時においては、機械時計が時計の最終的な姿であったわけである。
 「三角関数」[trigonometrical function]の説明も長くなっているが、数学的な定義とともに、正弦・余弦・正切・余切・正割・余割の6種の関数の、英語の読み(カタカナ)と原語を列挙した結果である。
 「慶応義塾大学」[Keio University]の場合は、福沢諭吉による創設から、大正九年に総合大学となるまでの歴史を中心に、早稲田大学と並ぶ私学の雄であることが説明され、さらに「近年一部は神奈川県の日吉村に移つた」ことまでが記されている。 ちなみに、早稲田大学の方は、見出し語に選ばれていない。(「早稲田」「早稲田派」はあるが。)

 「襲(かさね)の色目」[combination of colours in dress]という、かなり特殊な語が、見出し語になっている。 平安時代の装束の着用に関係した語であるため、説明も、必然的に詳細・丁寧である。 平安文学に親しんでいる人などには、参考になる知識であろう。
 「寛政の三奇人」[the three strange characters of the Kansei era]も、出会ったことのない語で、見出し語としては特殊であると思うが、「寛政年間に出た、三人の、時流にぬきんでた奇行の士」で、高山彦九郎・蒲生君平・林子平のことであるという。
 「吐月峯」[bamboo ash-pot]は、「煙草盆の灰吹き」のことで、「静岡県安倍郡の吐月峯に産する竹で製したものが最も広く用いられ」るところから、この名があると。
 「八幡の藪知らず」[maze]は、「はいつたら最後、道が分からず、出られないところのこと」で、「千葉県安倍郡八幡町の八幡社の小やぶ」に因むいわれが説明されている。 【追記】 高木貞治『数学小景』(岩波現代文庫)の「迷路」の部分に、「八幡不知、あるいは、やはたしらずの藪、と言っても、若い読者には、意味が通じないかも知れない」 と出ている。
 「闘球盤」[cockamarroo]も、初めて目にする語である。 「室内遊戯の道具」と言うが、かつて流行したことがあるのだろうか。 盤の寸法・形状と競技の仕方が具体的に説明されていて、この執筆者は 遊んだことがあるようである。
 特殊な語とは言えないかもしれないが、「回転基金」[revolving fund]の場合は、もっぱら1948年に設定された「輸出入回転基金」の主旨と機能が、具体的な金額を挙げて説明されており、当時の時事用語というべきものであろう。
 同様の語に、「傾斜生産」[priority production]がある。 重要産業に資材や資金を集中させた生産形式のことで、「東大の有沢広己教授が用い始めた語」であるという。 これも、当時の経済政策におけるキーワードの一つだったのであろう。

 このような特殊な語ではない場合、つまり一般的な見出し語についても、ユニークな説明がなされていることが多い。
 「天文学的数字」[astronomical fugures]は、今でもよく用いられる語である。 「…天文学上の数字は、われわれの日常生活で経験する数字とは段違いに巨大であることから、われわれの想像を絶した、巨大な数量の意味に転用する」という説明で ほぼ充分と思われるが、さらに次の興味深い説明が続いている。 「第一次世界大戦の後、ドイツに課せられた賠償金が、132,000,000,000マークに決定した時に流行し始めた語。」 (マークとはマルクであろう。 見出し語にも金額単位としてのマークはなく、「マルク」[mark]については、「ドイツの貨幣単位。もとは、わが四十八銭ばかりに相当していた」という説明がある。)
 この例のように、語の成立に関する説明が特徴的で、「ポートワイン」[port wine]の場合は、この商品の一般的説明の後に、「ポルトガルの港オポルトから積み出したからこの名が出た」と、名の由来が説明されている。
 「ポチ」[doggie]の場合も、「犬によくつける名。従つて子犬の通称ともなる」という一般的説明に、「プチ(petit,小さい)というフランス語から来たともいう」と、語源の説明が続いている。
 さらに、「金沢」については、「1. 石川県の県庁の所在地」と、「2. 神奈川県の横浜と横須賀の中間にある町」との同名の2地について、それぞれの名所等に関する説明がなされているのであるが、後者については さらに、「本来は『かね沢』であつたが明治以後今の称呼となつた」という、実にご丁寧な説明が付加されている。

 丁寧で具体的な説明が行なわれているのは、当然ながら執筆者にその主題に関する関心・知識があって、蘊蓄が傾けられている場合が多いようである。 例えば、民俗学分野など。
 「河童」[river monster]については、その形状や生態・習性などを、民間伝承を集約してイメージ豊かに表現している。
 「左義長」[bonfire(made of New Year decorations)]では、昔の宮中での儀式と、民間の行事(とんど焼き)とを統一的に解説している。
 「白鳥処女説話」[swan-maiden-type myth]の場合は、歌劇「ローエングリン」や わが国の「羽衣伝説」を総合した説話類型についての、比較民話学的解説となっており、 「金比羅」[Kumbhira]についての、「インドの神で、薬師の十二神将の一。 鰐を神格化したものともいう」という説明部分にも、民俗学的視点が示されている。
 「タブー」[taboo,tabu]については、ポリネシヤ語の原義が説明されている。
 また、「片仮名」[Japanese syllabary]「撥音便」[‘n’sound assimilation]「乎古止点」[construing mark for Chinese classics]「形容動詞」[adjectival verb]「字音仮名遣い」[pronouncing orthography]「湯桶読み」[translation sound reading (of Chinese ideographs)]「さ行変格活用」[sa-line anomalous conjugation]「反語」[irony, rhetorical question] などの国語学関係の語について、具体的で解りやすい教科書的説明がなされているのは、執筆者の得意な専門分野であるからであろう。
 さらに、「野球」[baseball]「バッター・ボックス」[batter-box]「フォア・ボール」[four balls]「外野手」[outfielder]「本塁打」[home run]「カーブ」[curve]「スラッガー」[slugger]「ストライク」[strike]「盗塁」[stealing a base]「野手選択」[fielder's choice] など、野球に関する語も多く、ルールを踏まえた説明になっている。 戦後の野球人気の高まりを反映しているようである。

 本書の「はしがき」で、英語辞典などで行なわれているような、一つの言葉に含まれている意味を細かく分類することに、意を用いたことが記されている。 そのことは確かにかなり徹底していて、本書の特徴をなしている。
 ( 前述したように、英訳は、その一つ一つの意味に対して付与されているのである。)
 分類の具体例を、名詞の「手」について、示してみよう。 次に掲げるように、15 の意味に分類されている。
 (1)人の身体の、左右の肩から長く出ている部分。上肢。[arm] (2)手首よりも先の部分。[hand] (3)働く人。ひとで。[hand] (4)筆蹟。文字。[hand] (5)器物の手で握る部分。[handle] (6)方法。手段。[means] (7)相手を攻めたり、陥れる、はかりごと。術。[trick] (8)うでまえ。技倆(酒などにも)。[skill] (9)トランプ・花札の遊びで、手に持っている札。[hand] (10)種類。[kind] (11)方面。[direction] (12)手数。[trouble] (13)処理・支配する力。[control] (14)かかりあい。関係。[connection] (15)きず。負傷。[injury]
 ちなみに、「目・眼」は 17、「口」は 15 の意味に分類されている。
 動詞の例として、「打・(撃・撲・拍・搏)つ」をみると、次の16 に分類されている。
 (1)たゝく。ぶつ。[strike] (2)うちつける。[knock] (3)打ち鳴らす。[strike] (4)(感情・心などを)つき動かす。[strike] (5)ぶっぱなす。発射する。[fire] (6)打ちこむ。[drive in] (7)斬り落す。[cut off] (8)撒く。[sprinkle] (9)組む。編む。[braid] (10)碁・博奕をする。[play] (11)耕す。[till] (12)鍛えて作る。[temper] (13)打ちのばして作る。[make by kneading] (14)興行する。[run] (15)投げる。[cast] (16)わたす。[pay]
 これら「手」「打つ」とも、実際には、意味ごとに用例が示されていて、差異が理解しやすくなっている。

 こうして本書は、「 見出し語 → (分類された)意味用例 」 の形式で記述されているのであるが、この用例の他に、格言・俚諺・成句の類(以下 成句)がかなり豊富に加えられていて、これがまた一大特徴となっている。
 上記の「手」の例でみると、意味(1)「人の身体の、左右の肩から長く出ている部分。上肢。」に対応した用例として、「手を振つて歩く」が掲げられており、さらにこの意味に対応した成句として、「手が長い」、「手取り足取り」、「手を拱(こまぬ)く」、「手の舞ひ足の踏む所を知らず」の4つが掲げられている。 そして、これら4つの成句のそれぞれについて、意味と英訳が示されている。 ( 「手取り足取り」「手を拱く」については、それぞれ2つの意味があるので、a,bに分けてそれが説明され、対応する英訳が示されている。)
 この部分を、一覧形式に整理して示せば、次のとおりである。

 〈見出し語〉 「手」 → 〈意味の分類〉 1. → 〈意味〉 人の身体の、左右の肩から長く出ている部分。上肢。 〈英訳〉arm
                             
 〈成句〉 「手が長い」 → 〈意味〉 盗みをするくせがある。 〈英訳〉 be kleptomaniac
 〈成句〉 「手取り足取り」 → a. 〈意味〉 大勢かかつて、一人の人の手や足をとりおさえるさま。
                      〈英訳〉 a number of persons trying to capture a person
                 → b. 〈意味〉 珍客などを、下にも置かぬほどに、非常に大事にもてなすさま。
                      〈英訳〉 treat a person with great hospitality
 〈成句〉 「手を拱く」 → a. 〈意味〉 うで組みをする。  〈英訳〉 fold one's arms
              → b. 〈意味〉 手出しをしないで、ただ見ているさま。  〈英訳〉 sit back and look on
 〈成句〉 「手の舞ひ足の踏む所を知らず」 → 〈意味〉 非常に喜んで、思わず知らず踊り上がる意。欣喜雀躍する。
                              〈英訳〉 so joyful as to start dancing in spite of oneself

 成句英訳の関係は、我々の親しんでいる句がどのように英訳されるかを示しているわけで、非常に参考になる。
 さらにランダムに選んだ例を掲げてみよう。 (成句中のアンダーライン部分が見出し語である。)
 江戸紫に京鹿子」 → Edo purple and Kyoto dapple
 「人生意気に感ず」 → Heart is won by heart.
 の上にも三年」 → Perseverance wins.
 一将功成つて万骨枯る」 → A general's glory, soldiers' tombs.
 いざ鎌倉」 → in an emergency
 佳人薄命」 → Beauty and fortune are often bad friends.
 禍福は糾(あざな)へる縄の如し」 → Good and evil are next-door neighbors.
 破れて山河あり」 → The Country is ruined and its scenery remains.
 弘法も筆の誤り」 → Even Homer sometimes nods.
 諸行無常」 → All is vanity.
 天網恢々、疎にして漏らさず」 → Heaven's vengeans is slow but sure.
 孤ならず必ず隣あり」 → Virtue never lacks company.
 より団子」 → Bread is better than the song of birds.
 負けるが勝ち」 → He stoops to conquer.
 孟母三遷の教え」 → Mencius's mother changing her dwelling place three times (so that her boy be brought up in good environment.)
 羊頭を懸けて狗肉を売る」 → To cry wine, and sell vinegar.

 これまで、本書のいくつかの特徴を挙げてきたが、これらは、その後に出現した辞典には、かなり採用されていることであろう。
 他にはあまり見られないと考えられるものに、脚注がある。
 まず一つ例をあげると、「花詞(はなことば)[flower language]という見出し語がある。 意味は、「種々の花に、その特質に基づいて象徴的意味を含ませたもの」である。 見出し語のところに「*」マークがあるので、脚注を見ると、「ばら(純潔な愛)・月桂樹(光栄)・さくら(大和心)・オリーブ(平和)…」という具合に、12種類の花についてその花詞が示されている。
 この脚注こそ、本書を読物たらしめている、最大の特徴ではなかろうか。
 さらに、具体例を挙げてみよう。
 「天地歌(あめつちうた)[flower language]は、「平安時代に行われた、子供の手習の歌」である。 脚注に、歌の全体が示され、四十八の仮名を並べたもので、いろは歌に先行する歌であることが解説されている。
 「ボイコット」[boycott]では、本文で通常の意味が説明され、脚注では、「アイルランドの農場管理者 Captain Boycott が、小作人から、そういう目に会ったので、この名が起つた」と解説されている。 名の起りについては、前記した「ポートワイン」などのように、本文の意味説明の中でふれている例もあるので、脚注での記述の基準はかなり曖昧である。
 「ガーター勲章」[the Garter]は、「英国の最高勲章」であるが、脚注では、1344年の舞踏会における国王エドワード三世とソールズベリ伯爵夫人との逸事にもとづく、勲章制定の由来が解説されている。
 「ごたつく」は、「1.もめる[be in trouble]、2.混雑する[be in disorder]」であるが、脚注には、「鎌倉の円覚寺の僧に兀旦(ごつたん)という人があり、会議などの時、この人がいるとまとまらなかつた由。それから出たともいう」とある。 兀旦のような人物は今なお健在で、筆者も 何人かの兀旦を思い浮かべることができる。
 「オン・ザ・マーク」[on the mark]も、かつてはよく用いられた語であるらしい。 「「出発点につけ」の意。競争を始める時、スターターがかける号令」とあり、脚注には、「第二次世界大戦の頃から「位置について」と言うことになつた」とある。 そうすると、戦争中の英語制限の前は、国内の競技においても「オン・ザ・マーク」と言っていたのであろう。
 最後に、学術的解説とも言うべき脚注を取り上げると、中国の古典『大学』にある「致知格物」の語から出た「致知」は、「心の悟りを窮めること」[spiritual enlightenment]であるが、朱子学と陽明学とで見解を異にする。 脚注では、両者の説(朱子:「四書の注」、王陽明:『伝習録』)が かなり的確に対比・解説されている。 最も長文の脚注であるので、特に ここに掲げることとする。
chichi
 この「致知格物」の語については、昔からその解釈に異論が多い。 朱子は 四書の註に、格を至るとして、「知を致すは物に至るに在り」と読み、知、即ち 良心的思慮判断は、物に至ることによつて得られる。 故に 事物の理を窮めつくすべしというのである。 そこには 心と物とを分けて二元的に扱い、格物を致知の手段方法として居る。 王陽明は 伝習録に、格を正すとして「知を致すは 物を正すに在り」と読み、天下には心の外に理も物も事もないと 一元的に説き、心が発動して意(心ばせ)となつた時、善悪正邪を生ずる。 その時 不善邪悪を正して、本心 即ち良知にかえるのを格物と言う。 故に 致知即ち格物であり、格物即ち致知であつて、本心を正すことに外ならない。 一方が他の手段ではない。 是が両者の相違である。

 最後に、上述したように、国語辞典としてきわめて特徴のある本書が、改訂を重ねてロングセラーとなることなく、いわば実験的な書で終ってしまった理由を考えてみる。

 理由の一つは、見出し語の選定および説明の繁簡が恣意的で、語間のつりあいがとれていないことである。
 特殊な語が見出し語になっていて、そのユニークな説明が読物的特徴を生み出している反面、より汎用的・一般的な語が漏れていたり、説明が簡略すぎたりしていて、失望を感じることが多い。 その例はいくらでも挙げることができるが、ここでは見出し語における日本人の人名について例証してみよう。 私が抽出した、古代からの人名は、次のとおりである。
日本武尊、野見宿禰、神功皇后、聖徳太子、山部赤人、山上憶良、空海(別に弘法〔大師〕も)、在原業平、紀貫之、藤原道長、紫式部、藤原俊成、藤原定家、弁慶、道元、湛慶、吉田兼好、世阿弥、宗祇、沢庵、柿右衛門、西鶴〔井原西鶴〕、芭蕉〔松尾芭蕉〕、近松門左衛門、去来〔向井去来〕、光琳、竹本義太夫、竹田出雲、柄井川柳、蕪村、小林一茶、蜀山人〔太田南畝〕、二宮尊徳、馬琴〔滝沢馬琴〕、香川景樹、頼山陽、明治天皇、福沢諭吉、夏目漱石、国木田独歩
 一見して、偏りの著しいこと、著名な大人物の抜けが多いこと、並称される一方が落ちていること、などに気付くであろう。 紫式部や吉田兼好があって清少納言がないわけであるが、実は「清女(せいじょ)」という見出し語があって、そこに「清少納言のこと」とあるのだから、なかなか念が入っている。 「湛慶」の場合も、「鎌倉時代のすぐれた彫刻師。運慶の子。」とあって、その運慶がないのであるから、何をか言わんやである。 こうした傾向は、見出し語の全体に共通しているとみてよいであろう。

 理由の二番目は、漢字表記が混乱していることである。
 本書の巻末の「附録」中には、「音訓びき当用漢字表」が載っている。 「当用漢字表」は、政府が 昭和21年(1946年)に公布したもので、周知のように、多くの漢字について簡略化された新字体が採用されている。 ところが、本書はこの「当用漢字表」に全面的に則っていないのである。 則らないなら則らないで、従来の旧字体のままでいくならば、それも一つの見識であるが、新字体の漢字と旧字体の漢字が混在しているのであるから、奇妙このうえない。 例示すれば、次のとおりである。
 新字体 → 円、絵、覚、学、経、実、図、…
 旧字体 → 價、樂、敎、國、眞、神、藥、…
 この結果、熟語では「眞実」「神経」のような混用表記になっている。
 表記の拠りどころとなる国語辞典としては、失格であろう。

 理由の三は、科学技術や国際情勢に関する記載が、時代に即応していないことである。
 科学技術における例としては、「エーテル」が健在で、「光・輻射熱・電気・磁気等の伝播を媒介する超感覚的微小物で、宇宙間の至る所に存在すると考えられるもの」と説明されている。 エーテルを否定した(アインシュタインの)「相対性原理」も見出し語に採られているのであるが、単なる新学説として扱っているようである。
 国際情勢について言えば、中華人民共和国の成立(1949年10月)は 本書初版の発行の2年半ほど前のことであるが、記載に反映されておらず、見出し語は「中華民国」のみで、しかも「支那現代の国号」と説明されている。
 これらは、先行の参考書を利用した編集・記述方法や、長期にわたる植字作業などに起因するであろうが、こうしたアナクロニズムが本書を短命に終わらせたところも大きいと思われる。




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