らんだむ書籍館


扉  および  背表紙


目 次

序  (石村 貞一)

神功皇后 (頼 襄)
稚郎子 (安積 信)
億計王 (安積 信)
眉輪王 (安積 信)
仁賢天皇 (阪井 華)
「大化之政」 (安積 信)
吉備真備 (安積 信、斎藤 馨)
「延暦遷都」 (安積 信)
和気清麻呂 (頼 襄、斎藤 馨、安積 信)
中臣鎌足 (斎藤 馨、阪井 華)
菅原道真(斎藤馨、大槻清崇、頼襄、安積信)
藤原保則 (斎藤 馨、頼 襄)
三善清行 (頼 襄、安積 信)
藤原秀郷 (斎藤 馨)
源頼義 (松本 衡)
源義家 (斎藤 馨)
源義光 (斎藤 馨)
藤原基経 (頼 襄)
藤原実資 (頼 襄)
藤原義清 (頼 襄)
「保元政治」 (安積 信)
藤原光頼 (頼 襄)
源頼政 (斎藤 馨)
藤原通憲 (斎藤 馨)
平清盛 (阪井 華)
平重盛 (安積 信、斎藤 馨)
藤原兼実 (頼 襄)
平知盛 (斎藤 馨)
木曾義仲 (斎藤 馨)
源頼朝(青山延光、頼襄、安積信、斎藤馨)
平政子 (斎藤 馨)
源義経 (阪井 華、斎藤 馨、安積 信)
大江広元 (斎藤 馨、頼 襄)
梶原景時 (阪井 華)
北條時政 (斎藤 馨)
北條義時 (頼 襄、塩谷 世弘)
北條泰時 (斎藤 馨)
北條貞時 (斎藤 馨)
北條時宗 (頼 襄)
畠山重忠 (斎藤 馨)
和田義盛 (斎藤 馨)
青砥藤綱 (斎藤 馨)
「元弘建武」 (安積 信)
護良親王 (頼 襄、安積 信)
藤原藤房 (安積 信、斎藤 馨)
新田義貞 (安積 信)
北畠親房 (安積 信、岡田 僑)
楠木正儀 (頼 襄)
足利尊氏 (頼 襄、木下 業広、安積 信)
足利義満 (安積 信)
足利義政 (頼 襄、安積 信)
細川頼之 (安積 信)
北條早雲 (青山延光)
北條氏康 (安積 信)
北條氏政 (安積 信)
大内義弘 (岡田 僑)
今川義元 (岡田 僑)
毛利元就 (青山延光)
上杉謙信 (青山延光)
武田信玄 (青山延光)
浅井長政 (岡田 僑)
織田右府 (青山延光、頼 襄、安積 信)
豊臣太閤 (青山延光、安積 信)
最上義光 (岡田 僑)
蒲生氏郷 (青山延光、岡田 僑、牧 輗)
佐々成政 (青山延光)
小早川隆景 (青山延光)
長曾我部氏 (岡田 僑)
山中幸盛 (岡田 僑)
里見実尭 (岡田 僑)
加藤清正 (青山延光)
加藤嘉明 (青山延光)
黒田如水 (青山延光)
前田利家 (青山延光)
島津龍伯 (岡田 僑)
伊達政宗 (岡田 僑、青山延光)
宇喜多秀家 (岡田 僑)
後藤基次 (岡田 僑)

 《付録》
読菅右府伝 (斎藤 謙)
書静女緒環歌後 (斎藤 謙)
楠公賛 (安井 衡)
吊今川義元文 (斎藤 謙)
題豊公裂封冊図 (安井 衡)
加藤公像賛(塩谷 世弘)

石村 貞一・纂輯
「皇朝名家史論」


 明治11(1878)年、東京府・吉川半七/坂上半七 刊行。
 洋装(背革クロース装)、縦13cm、横10cm。


 本書は、活版印刷および洋式製本の技術が実用化された、印刷・出版近代化過程における 初期の書物である。
 本木昌造が活版印刷術を完成させたのが 明治3(1870)年、イギリス人製本教師が印書局(現在の印刷局)に招聘されたのが 明治6(1873)年、とされている。 このあたりの時期を実用化のスタートとして、従来の木版印刷・線装(糸綴じ)本とのせめぎ合いが 展開されていったものであろう。
 エポックを画したものとして、現在の大日本印刷の前身・秀英舎(明治9年創業)の印刷になる「改正西国立志編」の出版(明治10年)が 知られており、この書の爆発的な売れ行きが 活版印刷・洋式製本の興隆を決定づけたようである。
 本書「皇朝名家史論」が刊行されたのは、このすぐ翌年である。「改正西国立志編」の約半分のサイズであるが、背のバンドの具合なども似ており、同種の技術が用いられているように思われる。 「西国立志編」とはおよそ対照的な 漢文・国史の分野の書籍にまでこうした技術が適用されたということは、まさに、新しい印刷・製本事業が軌道に乗ったことを示すものであろう。
 実物は、さすがに表紙の縁が擦り切れたりしているが、造本はしっかりしている。短時日のうちに新しい技術をマスターし、量産化させた職人達の努力が偲ばれる。

 本書の内容は、徳川時代後期の漢学者による史論109篇を対象の時代順に編次するとともに、史論に準ずる文章6篇を附録としたものである。対象の時代は、古代から豊臣時代までである。
 ここに史論とは、客観的な史実の叙述を離れて、筆者個人の立場からこれに加えた評論である。
 編者・石村貞一が下に示す序文の中で「司馬遷・班固の史書より、歴世の史籍にはみな論断がある」と述べているように、まず『史記』や『漢書』にその萌芽が見られる。『史記』は「太史公曰く」で始まる部分、『漢書』は「賛に曰く」で始まる部分がそれで、前者が感情移入的であるのに対して後者は冷静であるという違いはあるが、それぞれ人物およびその行動を評論している。
 こうした評論は、やがて独立した文章や著書として作成されるようになり、石村が続けて言うように、「後世における史伝を評論するの書は、ますます精密かつ厳格なもの」となっていった。
 史論とはこういうものであるが、大体において、歴史上の人物を論じたものである。歴史(書)が時代の変遷を抽象的に述べるようになったのは最近のことで、かつてはぬきんでた大人物の行動の連鎖が歴史であった。史論すなわち人物論であるのは、当然のことといえよう。
 徳川期の漢学者たちも、中国のスタイルに倣ってわが国の史論を書いた。したがって、右の目次から わかるように、本書の場合も その大部分が人物論である。

 なお、編者の石村貞一は、ほとんど知られていない人である。
 長沢規矩也・監修、長沢孝三・編『漢文学者総覧』(昭和54(1979)年刊)には、 「石村桐陰 名:貞、通称:貞一、字:子剛、生地:長門、没年:明治中」 とあるが、没年さえ不明というところ、結局は埋もれてしまった人のようである。

 目次は、頼山陽の「神功皇后論」から始まっているが、目次だけで14頁にも及んでいるので、右には、構成を圧縮・簡略化することで、内容の全体を示した。

 「本文の一部紹介」としては、編者・石村貞一「皇朝名家史論 序」と、岡田僑の「宇喜多秀家論」を、訓読文により掲げることとする。(一部、文意の通じ難い個所があるが。)
 石村の序文は、上述したように 史論というものの一般的解説や編集趣旨を述べているが、本書が新規の印刷・製本方式に依っていることについては、一言もふれていない。 これは、出版元の方で決定したことだったからでは なかろうか。
 岡田の宇喜多秀家論は 短文で、見開きにちょうど全体が収まり、活字の具合を示すのに適しているので、選定した。 父の宇喜多直家の事蹟も含めて論じられているが、父子共に策謀に長け、信義に欠けた行ないの多い、いかにも戦乱期を巧みに生き抜けた武将である。 秀家は、父親の悪行の結果であり、しかも信長・秀吉によって征討されようとしながら、情勢が幸いして安堵された領地を相続した。 いわば原罪を背負っていたわけで、そこに悲劇の根源がある。 秀吉に忠誠を尽くしてその信頼を得たが、他の諸将のように距離を置くことができなかった。 このため、朝鮮の役では完全に振り回された。関ヶ原での敗北は、彼の当然行きつく先であったのである。


本文の一部紹介





皇朝名家史論 序


 史の論断を有するは、猶(なほ) 経の注脚を有するが如し。 注は、以て隠微を明らかにし、論は、以て疑似を辨(わ)く。 則ち、人物の淑慝(よしあし)、政治の得失、観るに随(したが)って弁識すべし。何ぞ必ずしも識者の指南を待たんや。 然(しか)る後、読者の心目 開きて、経に注 無く、史に論 無きも、理の隠微・事の疑似(を弁識する)に至る。 則(すなわ)ち、茫然として遽(すみやか)に其の要領を得るの難きこと有るは、是れ史論の已むを得ざる所以なり。 故に、遷固の史(司馬遷の『史記』、班固の『漢書』)より歴世の史籍にては、皆 論断有り。 而(しこう)して、後世 史伝を評論する書は、益(ますます)精にして 益(ますます)厳となれり。 皆、読者をして 隠微・疑似の間に惑を莫(な)くし、邪正・淑慝の分(区別)を明らかにせしむる所以なり。 然(しか)れども、各家の論断は、甲の是を乙は非とし、各(おのおの)所見を異にす。 而(しこう)して、題に就きて之を類記せるものの 未だ有らざるは、豈(あ)に 芸苑の一大欠事に非ざるや。 余、近世諸家の文集を読む毎に、篇章の時世人物に係わるものは、文の工拙を論ぜず、一切を抄して之を録し、積みて五冊と為す。 名づけて、皇朝名家史論と曰(い)う。 区区の選たるに 豈に敢て名家の史論 此れに尽くと謂うや。 然し、読史者の心目を開き、芸苑の欠事を補うに、或は庶幾(ちか)きか。 文に評点を加えざるは、僭妄を避けたるなり。
 明治十一年第一月元始祭日 東京麹街僑居  長門 后学  石村 貞一





宇喜多秀家論      岡田 僑




 宇喜多直家、女婿にして、欺きて婦翁(妻の父)を殺す。 遂には、其の君を弑し、其の国を奪う。 黠詐(わるがしこい)にして残酷、曾て禽獣も為さざる所なり。 而(しこう)して 直家の 忍(むご)くも之を為したるは、蓋(けだ)し、其の主・浦上氏の赤松氏を滅ぼし 以て国を奪いしに 倣(なら)いたるならん。 織田信長の、豊臣秀吉をして播備(播磨と備前)を伐するに及び、先ず此の輩を誅して大義を天下に示さんとするも、中国の幷(併合)に急にして、其の罪を問う暇(いとま)あらず。 秀吉は 信長の旨を受け、其の降(降伏)を納(い)れ、以て 毛利氏を図る。 いわゆる「春秋に義戦なし」にして、同じく相済を欲せしなり。
 秀家は、直家の残酷の後を受け、坐して(そのまま)其の封を受く。 其の惴惴たる(恐れてびくびくする)により、自から謙抑して諌を納れたるなり。 猶お その終を令されざるを恐る。 而(しかる)に、況(ます)ます 驕恣(おごりたかぶる)にして、小人(つまらぬ人物)を寵したれば、功臣は怨みて反す。 亡 無きを欲するを得んや。(滅びないことがありえようか。)  世 或は謂(い)う、秀家の終始豊臣氏に負(そむ)かざりしは、仕えて忠なる所と謂うべしと。 ああ、豊臣氏の末路にして計を失すること、朝鮮の役に若(し)くものは無し。 仮令(たとい) 秀家の力にて諌止する能(あた)わざるも、何ぞ忍んで其の議に賛せしや。 既に其の議に賛したれば、自(おのずか)ら 将帥の任を受く。 而して 之を統御する能わず。  諸将は功を争いて 相い鬩(せめ)ぎ、軍に成功 無し。 海内(日本国内)を再び騒然たらしめ、怨みは 豊臣氏に帰す。 国に忠たるは、固(もとも)と 此(かく)の如きか。  庚子の役(1600年、関ヶ原の戦い)に一敗して 国は亡び、(秀家は) 窮島(遠い島)に竄謫(ザンタク、追放) され、僅かに残喘(死にぎわの息、すなわち余命) を延ばしたるは、此(これら=上述) の故を以てするに非ざるを得ず。




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