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表 紙




「歴史地理」 源実朝号  の目次


   ◎ 口 絵
 源実朝書状二通 (京都勧修寺門跡及高野山蔵)
 源実朝木像 (京都大通寺及神奈川県東秦野村金剛寺安置)
 鶴岡八幡宮 及 実朝首塚(神奈川県東秦野村金剛寺)

   ◎ 実朝論
 源実朝の生涯 ………………………… 文学士・大森金五郎
 政治家としての源実朝 ……………… 文学博士・三浦周行
 歌人としての源実朝 …………………… 文学士・武島羽衣
 源実朝の宗教信仰及び渡宋の計画 ……………… 鷲尾順敬
 劇の主人公としての実朝 ………… 文学博士・松本彦次郎
 源実朝年譜

   ◎ 論 説
 国境の要素 ………………………… 文学博士・坪井九馬三
 備前藩に於ける填海墾田 ……………… 農学士・橋村 博
 久具都(傀儡子)名義考 ………………………… 安藤正次
 延喜式の杜撰 ………………………… 文学博士・喜田貞吉
 漢代の思想と陰陽五行説(中) ……… 文学士・圀下大慧
 ファーヘヴン町と中浜万次郎(承前完)…文学士・斎藤文蔵

   ◎ 彙 報
 勅定の六国史成らんとす ○李太王殿下の薨去 ○帝国憲法
 史論の欠陥 ○大学教授停年と在野学会の活動 ○前独逸皇
 帝ウィルヘルム二世退位の勅書 ○故文学博士吉田東伊氏記
 念碑建設 ○国史談話会記事 ○本会第百十二回例会記事
 ○〔時事雑爼〕長崎市史資料編纂計画 ○並河誠所の墓誌発
 見 ○育王山より送れる黄金仏の分析研究 ○滋賀県に宝塔
 発見 ○大阪府下の石棺と埴輪の発掘 ○探検家ステファン
 ソン氏に賞牌授与 ○〔新刊紹介〕史蹟めぐり(大類伸著)
 ○〔最近歴史地理学界図書及論題〕

   ◎ 会 報
 大正七年度後半期決算報告 ○例会 ○会員動静 ○会費領
 収報告等


「歴史地理」 源実朝号

 第33巻 第3号。 大正8 (1919) 年 3月。
 発行所 : 日本歴史地理学会、 発売元 : 仁友社出版部。
 縦22 cm、横15cm。 本文 126頁。


 「歴史地理」は、喜田貞吉を中心として結成された日本歴史地理研究会(その後、日本歴史氏地理学会と改称)から、明治32(1899)年10月に発刊された、歴史と歴史地理の雑誌である。
 喜田貞吉(明治4(1871)年~昭和14(1939)年)は、その3年前の明治29(1896) 年に東京帝国大学・国史科を卒業したばかりの新進気鋭の歴史学者で、当時は文部省図書審査官であった。 その後は、東京帝国大学と京都帝国大学の講師、京都帝国大学教授、東北帝国大学講師などを歴任しているが、歴史地理学会の中心人物として、本誌には常に多くの論文を載せている。

 この第33巻第3号が源実朝号となった理由は、本文冒頭の「源実朝第七百年祭記念」という記載に示されている。
 実朝が鶴岡八幡宮への拝賀の際、甥の公暁に殺されたのは、承久元(1219)年のことであるから、この大正8(1919)年はちょうど没後700年に当ったわけである。
 さらに、冒頭論文の「源実朝の生涯」(大森金五郎)にも、次のような前置きがあって、その趣旨を表わしている。
 源実朝は有意の資を懐きながら、不慮の事から早世されたのは甚だ惜しむべき事である。 彼をして五十年六十年の齢を保たしめたならば、鎌倉時代史も余程変つたかと思はれる。 今年は公が薨去後七百年に相当するので、鎌倉で法会が営まれるさうであるから、此機会に於て公の事蹟に関する所感を記さうとする。

 源実朝号を構成する特集論文は、右の目次の「◎実朝論」の部分に示される6篇である。

 大森金五郎「源実朝の生涯」は、「実朝の幼時」、「実朝の嗣立」、「実朝の人物」、「歌道と実朝」、「実朝の渡宋の計画」、「実朝の官位競望」、「頼家の遺子と北条政子」、「実朝の最期」という9つの小題(テーマ)による構成で、叙述されている。 これら小題の設定が適切で、実朝の生涯がよく特徴づけられている。 文も平易で、読みやすい。

 三浦周行「政治家としての源実朝」は、政治家としての特異な資質に関する「物の哀れを知る人」を導入部として、「特色ある政策」(頼朝の先例尊重、社寺の崇敬、御家人に対する政策、社会政策)と「尊皇主義」について述べ、「実朝の功過」を論じている。

 武島羽衣「歌人としての源実朝」は、実朝の歌について、前期のものは古今集・新古今集の模倣にすぎなかったが、後期(22歳以降)のものは万葉集を学んで清新・雄渾なものに展開したことを、具体的に述べている。

 鷲尾順敬「源実朝の宗教信仰及び渡宋の計画」は、頼朝以来の鎌倉幕府の敬神崇仏の傾向、その中で実朝は特に仏教への信仰が強く、その信仰心が宋人・陳和卿の勧誘を契機に渡宋計画を具体化させたこと、などを述べている。

 松本彦次郎「劇の主人公としての実朝」は、実朝の悲劇性に焦点を当て、その拠ってきたるゆえんや、実朝その人の内面を考察している。

 「源実朝年譜」は、本文標題に「其の時代の重要事項をも採録せり」とカッコ書きが添えられているとおりの内容構成で、月日まで入った、かなり詳しい年譜である。 主として「吾妻鏡」から記事を抽出して作成したようで、そのために筆者名が表示されていないのであろう。

 後続の頁に挿入された編集者の「お断り」という短文によれば、以上の6篇の他に、芳賀矢一と黒板勝美の論文が予定されていたが、「止み難き事情の為め四月号に載する」こととなったという。
 最終頁の「四月以下予告」中にある「文学史上の源実朝」(芳賀矢一)と「時代の犠牲者源実朝」(黒板勝美)が、それらの予定論文であるらしい。

 「◎ 論説」部分の6篇が通常論文で、はじめの2篇「国境の要素」と「備前藩に於ける填海墾田」が、本誌がその特徴として包含する歴史地理分野の論文ということになろう。
 6篇はいずれも、読ませる内容を持つ好論文であるが、中でも刺激的なものは、喜田貞吉「延喜式の杜撰」である。
 延喜式は、平安初期の諸制度の内容を記した勅撰の書で、古代研究の基本史料であるが、喜田は、その記述に杜撰が多いことを具体的に指摘し、十分吟味して利用すべきことを述べている。 しかも喜田は、こうした杜撰が生じたのは、腐敗した当時の官吏の怠慢の結果であるとして、そのことも別史料から実証している。 これらの指摘は実に手厳しく、歴史学界随一の論客の面目躍如たるものがある。 延喜式の編纂に携わった官吏たちも、千年後の学者からその仕事ぶりを糾弾され、地下で周章狼狽したことであろう。


 今回の「一部紹介」には、大森金五郎「源実朝の生涯」のうち、「実朝の人物」と「実朝の渡宋の計画」の2章を掲げることにする。
 「渡宋の計画」については、鷲尾順敬の専論があるわけだが、この大森の文の方が分かり易く書かれている。
 大森の文も、句読点の用い方が独特で、不自然に感じられる個所があるが(特に「実朝の人物」の第二段落)、原文のままとした。


本文の一部紹介 : 大森金五郎 「源実朝の生涯」

     実朝の人物

 実朝は資性温厚で貴公子の風があり、文学的趣味を有して居た事は、前に陳べた通りである。 襲職の翌年(1204年)即ち十三歳の時に結婚問題が起り、はたからは足利義兼の女を勧めた、義兼は北条氏と姻親があつたからであらう、されども実朝の気に染まなかつたと見えて、京都の公家坊門信清の女を迎へられる事となつた。 之を以ても実朝が早くから、京都趣味を憧憬して居た事が想像せられるであらう。 夫人の父信清は、後鳥羽上皇の御母七條院の弟で、其女子達は、上皇や順徳天皇に幸せられ、皇子女を生み奉つて居るやうな訳であるから、此婚姻は武家と朝廷とを近しい間柄にしたのである。 加之実朝は和歌や蹴鞠を好んで居たのに、後鳥羽上皇も亦た蹴鞠を好ませられ、和歌にも御堪能であらせられたから、その点は嗜好が相似寄つて居たと云ふべきである。 和歌の師匠であつた藤原定家は、嘗て実朝の請により、和歌文書や秘蔵の万葉集を贈つた事がある、又建保三年(1215年)六月には、院御所に於て四十五番の歌合があつたに付き、其のち後鳥羽上皇の御内勅に依り、坊門忠信(実朝の夫人の兄)が同歌合を一巻写取つて、実朝に贈つた事などもある。 右様な訳で、当時年若い実朝は愈々京都を憧憬する事になつたものと見える。 北条義時は或時、実朝が余りに文芸に耽り、武道を疎にするのを見て之を諌め、小御所の小庭に於て御家人をして弓術を演ぜしめて、之を観覧に供し、大江広元と共に、実朝に勧むるに武芸の事を以てした事もある。

 然らば実朝は文学にのみ耽り、政治に就いては全く無頓着であつたかと云ふと、決してさうではない、政治上に就いても、一廉(ひとかど)の見識を有して居たやうに思はれる、一二の例を挙げれば、嘗て相模川(今の馬入川)の橋が朽損した時、広元や義時等は一種の御幣かづきをして、此橋の再興を拒んだ、それは先年此橋が落成して供養を行ふ際、頼朝は之に参列したが、帰途落馬し夫が基で薨去された、又彼の橋を修造した稲毛重成も、天寿を全うしなかつた、どうもあの橋には不吉が附いて居るやうであるから、再造せぬ方がよからう、橋を造らぬでも船渡にすれば、人馬の煩はあるまいと言つて、此事を実朝に伺つた所が、当時実朝は二十一二歳の頃であつたが、之を聞いて、夫はいけない、父頼朝の薨去は、武家の権柄を執ること二十年、官位を極めてから後の事、又重成は己の不義に依つて誅戮を蒙むるに至つたので、何もあの橋に不吉がある訳ではないから、再造せよと言つた事などがある、是等を見ても一廉の見識があると言ふべきである。 又寿福寺の僧行勇は、予て実朝が尊信して居た者であるが、屡々人の依頼を受けて、種々俗事に関係するので、実朝は僧侶の身としてあるまじきことだと、之を訓戒した事がある、兎も角も英発の気象を懐いて居たに相違ない、されども当時は母の政子や北条義時等が相談の上で事を行ひ、実朝は成を仰ぐと云ふやうな次第であつたから、猶更ら和歌風流の道に心を入れて居たやうにも思はれる、まして三十歳にも至らずして薨去されたのであるから、其抱負の半をも行ひ得なかつた事であらう。


     実朝の渡宋の計画

 建保四年(1216年)に実朝は渡宋の計画をした事がある。 其動機は何処にあるかと云ふに、之は宋人陳和卿の勧誘に出たのである。 一体陳和卿と云ふは宋の仏工で、其弟仏寿等七人と共に我国に来朝したが、偶々東大寺の大仏が破搊して居たから、重源上人は和卿等に依頼して再び之を鋳造せしめたのである。 所が大層立派に出来上つたので、先年頼朝が東大寺の供養に参列した際大いに之を賞し、和卿に面会したいと言つた。 所が和卿は、頼朝は多くの人命を絶つて、罪業が深いから面会を謝絶するとて辞退した。 そこで頼朝は益々感朊して奥州征伐の際着用した甲冑と鞍などを進物として遣はしたことがあつた。 所が和卿はどう感じたか、当将軍実朝は権化の再誕であるから恩顔を拝したいとて参上したのである。 夫から実朝に対面すると、和卿は三遍礼拝して非常に涕泣した。 稍々あつて和卿が言ふに、貴客は昔し宋朝医王山の長老であつた、其時自分は門弟に列して居たと語り出した。 所が実朝も丁度六年前にさう云ふ夢を見たが、余り馬鹿々々しい事であるから人にも言はなかつた。 然るに今や和卿の申す所が夫に符号して居たので、愈々不思議に思ひ、大層之を信仰された。 所が和卿は追々と実朝に渡宋を勧めた、さうすると実朝も其気になつて、夫では唐船を造れと云ふ事になり、和卿に之を命じた。 扈従の人々六十人の人選も定まつた、北条義時や其弟時房は之を聞いて諌めたけれども聴き容れないで、造船の沙汰に及んだ。

 一体実朝は仏教を中々信仰して居たやうである。 建暦二年(1212年)六月には聖徳太子の聖霊会を持仏堂で行ひ、建保元年(1213年)三月には僧浄遍・源延等を召して法華・浄土両宗の旨趣を談義せしめた事もある、又同月三十日には寿福寺に詣でて行勇律師の法談を聴聞の上、先年結城朝光が献上した本朝大師伝絵に付き、彼の求法入宋の処々に就て銘字の誤を正されたと云ふ事がある。 夫から四年目に渡宋の計画が起つたのであるから、多少支那行の考は此時分から萌して居たやうにも察しられる。 さて陳和卿は其後造船の事に従事し、翌年(1217年)四月十七日に至り、愈々出来して数百人の人夫が召出され、其船を由井浜に浮べようとした。 実朝も親臨し義時なども之を観覧した。 今日の言葉で言へば進水式とでも云ふのであらう、数百人の人夫が和卿の訓説に随ひ、筋力を尽して之を曳いたが、鎌倉の海は遠浅で唐船を入るべき程の所でないから、午尅(正午)から申の斜(午後四時過)に至つても浮出ない、夫で実朝も還つてしまひ、不首尾であつたので、船は其儘砂頭に置いて朽ちてしまつた。 是で折角の渡宋の計画も中止になつたのである。 其後和卿の事はとんと史上に見えないが、子孫は長く日本に住居して居たやうである。 一体陳和卿は如何なる人物かと云ふに、仏工としては良い腕前を有つて居たに相違ないが、性質はどうも感服し難い所がある。 大仏鋳造の際にも日本の鋳物師を嫉み、其鋳型の中に土や瓦を込めたり、仏殿造営の際にも数丈の大きな柱を伐つて、私に唐船を造つたり、自由がましい行があり、且つ貪欲であつたから、東大寺でも排斥されるやうな事であつた。 そこで鎌倉に来て実朝に謁見し、渡宋を勧めて新運命を開かうと企てたのであらう。 実朝としても此際支那に遊んで見聞を広め、政治の資に供するやうな事があつたならば、結構な事であつたらうと思はれるのに、此事の中止に及んだのは惜しむべき事である、是から三年目に非命の最期を遂げられる事となるのである。




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