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表 紙 |
始皇帝其他
―秦漢の人物―
秦の始皇帝 李斯 項羽 漢の高祖 張良 韓信 文帝 武帝 衛青・霊去病 |
本文の一部紹介 |
衛青・霊去病
武帝は、匈奴・西域・朝鮮・南粤等、東西南北に兵を用ひたが、その中最も大がかりなのは匈奴に対する戦争であつた。 匈奴征伐に従事した将師の代表的なものとしては、衛青と霊去病とを挙げねばならぬ。
衛青は、皇后衛子夫の弟である。 衛子夫は武帝の姉平陽公主の婢衛媼の次女で、初め平陽侯(公主の夫曹壽)の家の歌女であつたが、武帝に幸せられて後宮に入り、三女二男を生んで遂に皇后となつた。 衛青は、初には、衛媼の夫であつた父鄭季に従つて羊を牧し、ついで平陽侯に事へてその家騎となり、姉に繋がる縁で召されて侍中となり、太中大夫となり、元光五年(紀元前130年)には車騎将軍に拝せられて匈奴を撃つた。 これが初陣で、この後塞を出でて匈奴を撃つこと前後七回、元朔元年(紀元前128年)には河南(陜西の北方、オルドス地方)の地を略し、首虜二千三百級、畜百余万を獲、功を以つて長平侯に封ぜられた。 同五年(紀元前124年)には匈奴の右賢王を走らせ、首虜万五千級を獲、大将軍に拝せられ、諸将軍皆な兵を以つてこれに属することとせられた。 元狩四年(紀元前119年)には衛青と驃騎将軍霊去病と各五万騎を率ゐ、数十万の歩兵を後続せしめつつ、東西よりゴビ砂漠を渡つて進撃したが、西よりした衛青は単于の大軍に遭遇し、日暮れんとして大風起り、砂礫面を撃ち、両軍眼相見るを得ざる間に於いて激戦を交へ、左右両翼を縦(放)つて単于を包囲し、大にこれを破り、単于は身を以つて免れ、部下の将卒と相失すること十余日、将卒等は別に王を選んで立てて単于と為さんとするに至つた。 これが漢の対匈奴征伐戦の絶頂で、同時に衛青奮戦の最高潮であつた。
霊去病は衛子夫の姉少児の子で、衛青の甥であつた。 彼も初め侍中となり、ついで大将軍に従つて戦に臨み、軽騎八百を以つて本隊を離れて敵に肉薄し、首虜二千余級を獲、功に依つて冠軍侯に封ぜられた。 時に元朔六年(紀元前123年)で、去病は二十前後の少年に過ぎなかつた。 ついで驃騎将軍に拝せられ、頻りに匈奴を撃ち、好んで難局に当つて能く勝を制し、天子の信寵を一身に集めた。 その、元狩中河西の地を略し、匈奴の渾邪王を降し、又た休屠王祭天の金人を得たことは、最も人口に膾炙して居る。 元狩四年(紀元前119年)の大征伐の際は、初め単于東に在りと見られた為め彼は命ぜられて東より進んだが、実は西に在つたので、これと会戦し得なかつた。 しかし右賢王を破つて首虜七万余級といふ大戦果を挙げた。
史記の衛将軍驃騎列伝に、驃騎将軍 人と為り、言少くして泄らさず、気有つて敢て任ず、天子嘗つて之に孫呉の兵法を教へんと欲す。 対へて曰く、方略如何と顧みるのみと。 古の兵法を学ぶに至らず。 (中略) 其の軍に従ふや、天子、太官を遣し、数十乗を齎さしむ。 既に還りて重車梁肉を余棄す。 而して士に饉うる者有り。 其の塞外に在つて、卒、糧乏しく或は自ら振ふ能はざるも、而も驃騎尚ほ城を穿つて蹴鞠す。 事此の類多し。とある。 霊去病の一種特異の性格を能く伝へて居るやうである。 項羽は兵法を学び、業半ばにして棄てたが、彼は全く学ばなかつたらしい。 しかしともかくも相類して居ると謂つてよかろう。 彼は無口で、恐らく無愛想で、さうして気侭で、部下が糧食の欠乏に困しんで居ても、自分は太官(朝廷の御台所)のご馳走に飽き、蹴鞠に興じたやうである。 即ち驕児のやうな人物であつたが、項羽と同様、戦争の而天才で、いくさにかけては他人の追随を聴(許)さゞる卓越した手腕を持つて居り、それが為め部下の将士も彼に心朊し、彼の命令を守って奮戦したのであらう。 衛青に就いては、列伝に「大将軍仁善退譲、和柔を以つて自ら上に媚ぶ」と云つて居る。 この人は寛仁大度で、謙遜で、将に将たる器で、大将軍の任を辱めなかつたものと思はれる。
衛青も霊去病も女寵に因縁して用ゐられ、しかもその身分は極めて卑賤であつたに拘らず、二人とも優れた将材であつたのは奇とすべきである。
終