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表 紙


始皇帝其他  ―秦漢の人物―

 秦の始皇帝  
 李斯     
 項羽     
 漢の高祖   
 張良     
 韓信     
 文帝     
 武帝     
 衛青・霊去病 


日本叢書
加藤 繁 「始皇帝其他」


 昭和21 (1946) 年 3月 発行、 生活社。 B6版。 本文 31頁。


 この「日本叢書」は、戦時中から発刊されていたらしく、巻末には本書を含む既刊43冊の一覧が掲載されており、そのあとに、既刊書をはるかに上回る80冊近い近刊予告リストが続いている。 「題未定」となっているものも多く、作れば売れた時代の旺盛な出版事情が示されている。

 叢書の各冊とも同程度の分量と思われるが、本書の場合は 本文わずか31頁、ペラペラの小冊子である。

 本書の著者・加藤繁(明治13(1880)~昭和21(1946))は、東京大学文学部出身の東洋史学者、文学博士。 中国経済史の開拓者で、著書に、「支那古田制の研究」(京都法学会刊)、「唐宋時代に於ける金銀の研究」(東洋文庫刊)などがある。
 本書刊行の年に没しているので、本書が最後の著書であろう。

 内容は右の目次のとおりで、表紙には示されていないが「秦漢の人物」という副題が付され、10人の人物が取り上げられている。
 秦の始皇帝の時から漢の武帝の時までの主要人物について略説しているわけであるが、これら個々の人物誌を通読することによって、この時代(約170年間)の概観が得られるので、人物主体の通史というべきものになっている。

 各人物の行実は、大業を成し遂げ、あるいは時代を代表する役割を果たしたところの資質に焦点を当て、簡潔明解に記述している。

 秦の始皇帝については、年少にして秦王となるも、肉親や臣下を信頼することができず、自己の力のみを確信して勢力を拡大したこと、韓非の法家思想を統治原理として中央集権の大帝国を実現させたが、その法家思想の過信が死後の帝国崩壊を招いたことなどが、述べられている。
 「天下の民衆は支那国土の統一を望んで居たに相違ないが、同時に休養をも待望した。 始皇帝は統一を与へたけれども休養は与へなかつた。 彼はその飽くなき事業欲に任せ、卓絶せる精力に任せて新帝国内外の経営に突進した。 … 限り無き不平怨恨の念が満天下に浸潤し、始皇帝崩じ二世継ぐに及んで爆発し、収拾し難きに至つたのは決して偶然ではあるまい。」

 李斯は、始皇帝の丞相となり、郡県制、思想統制(焚書坑儒)、文字統一(小篆の制定)、度量衡の統一などの事業を推進し、秦の国家体制の確立に貢献した人物として知られている。
 しかし著者は、大人物でも人格者でもなかったとして、次のように総括している。
 「始皇帝の生存中には、李斯は言聴かれ謀用ひられ、秦の丞相として飛ぶ鳥も落さんばかりの勢であつた。 彼の議論は常に明快を極め、光彩陸離として満庭を圧した。 然るに始皇帝の崩ずるや、彼は一の宦者趙高に圧迫せられ、心ならずも遺詔を矯めて少子胡亥を立て、長子扶蘇・将軍蒙恬等を殺した。 ついで全く実権を奪はれ、趙高が諸皇族を殺すをも坐視する外なく、さうして彼自らも遂に刑死するに至つたのである。 … 彼は畢竟緻密な頭脳の持主で、議論に長じ、計画に巧に、云はば大なる事務官のやうなものであつたらう。 さうして唯だそれだけで、一死君国に報ゆる底の大誠意も大勇気もなかつたのである。」

 項羽は、軍事的天才として描かれている。
 兵を起こした後、秦軍を相手に連戦戦勝して遂にこれを滅ぼすまでは、その才能がいかんなく発揮された。 しかも、彼の外貌は戦場において既に敵を圧倒し、眼を瞋らせて怒声を発するや、対する者たちまち畏怖して逃げ去ったと。 ために麾下の将士らは勇気百倊し、果敢な突撃を行なったのである。
 しかし彼は、沈着冷静さや政治家としての能力を欠いていたので、天下を賭けた劉邦との争いで破れるに至った。
 「彼は非凡なる直覚力、異常なる勇気、強烈なる感情、かういふ持つて生れた精神力に依つて動くだけで、学問にも他人の言葉にも耳を傾けなかつた。 従つて感情の激発した時、これを抑制すべき何物をも持合せなかつた。 … 彼はその天分を善悪とも十分に発揮して、成功もし失敗もしたのである。 されば失敗と雖も彼に於いては必しも憾むところではなかつたであらう。」

 項羽との争いに勝利して天下を統一し、漢王朝を創始した劉邦漢の高祖)は、一布衣より身を起こし、前後8年にしてこの偉業を達成したのであった。
 著者は、布衣より起って帝業をなした者は、革命の国である中国の歴史においても一二に過ぎないとして、劉邦がこれをなしえた理由を3つ挙げている。 (1)古い権威が破壊され、実力ある者が地位を得るようになった「時勢」、(2)劉邦が類稀な「巨人」であったこと、(3)多数の将士の「忠誠」。 これらのうち、(2)すなわち劉邦の人格が、特に重視されている。 (3)の忠誠も、この人格の反映であるからである。
 「 … 劉邦は人間味人情味に富み、人を引付けると共に、一面図抜けた度胸気位が備はつて居て群雄を呑むの概があり、不撓不屈の勇気があり、人を知るの明があり、大体を把握する力があつたのである。 彼にも勿論種々の欠点があつたけれども、しかしこれだけの長所があれば不世出の英雄で、帝王の器ではないか。 彼が風雲に乗じて帝位に登つたのは決して偶然ではあるまい。」

 劉邦を支えて忠誠を尽くした人物のうち、異彩を放っているのは張良である。
 彼は、六国の一つ・韓の重臣の家柄であったので、その国が秦に滅ぼされたのを怨んで復讐を企て、大胆にも博浪沙で巡幸中の始皇帝を狙撃したが、失敗した。
 始皇帝の没後、兵を挙げてからは、劉邦の配下に属して活躍、一時これを離れたこともあったが、復帰し、遂に臣下となった。 劉邦もまた、彼を重んじて、厚遇した。
 しかし張良は、漢の世が定まるや、「願はくは人間の事を棄て、赤松子(仙人の名)に従ひ遊ばんのみ」として、辞去・隠棲した。
 「彼は絶大の智者で、頭のよいことに於いて、当時の群雄中彼に比肩するもののなかつたことは、高祖の批評 「策を帷帳の中に運(めぐ)らし、勝を千里の外に決するは吾れ子房に如かず」 といふに依つても窺はれるが、人品の玲瓏高潔、私欲を超脱した点に於いても、当代の第一人であつたのである。」

 高祖(劉邦)の重臣の中で、項羽に匹敵する軍事の天才は、韓信であった。
 彼が劉邦に属したのは秦の滅亡後で、従ってその活躍は項羽との抗争においてである。 この抗争で、はじめ劣勢であった劉邦が徐々に挽回し得たのは、韓信が軍を北方に展開し、項羽側の諸勢力を撃破し、支配地域を拡大したからであった。 韓信は、垓下の決戦においても軍を主導して項羽を衝き、劉邦に勝利を得さしめた。
 漢王朝において、韓信もはじめは功績にふさわしい地位を与えられたが、やがて讒言によって貶められ、さらに高祖の留守中に、謀反の名で呂后のために捕らえらて殺された。 実力があり過ぎたために、危険人物視されたのであるという。
 「 … 彼自ら喝破した如く、狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵めらるゝに外ならなかつたであらう。 … 彼は当時輩出した人材の中、特に傑出した輪郭の人物で、若し劉邦が居なかつたならば、皇帝候補の第一に挙げられるべき人であつたと思はれる。」

 本書で取り上げている人物の選定は、概ね常識的で、この時代を扱った書物や文章に繰り返し現われる者がほとんどである。
 その中で、文帝のみはやや異色で、通常はあまり論述されることがないが、著者は高い評価を与えている。
 文帝は、高祖の中子(長子と末子の間の子、実際は四男)で、呂后およびその一族による乱政の後、高祖以来の重臣らの要請を受けて三代皇帝の位に就いた。
 文帝は、種々の改革を行なったが、特に農を尊んで親耕の儀式を創始し、農民を救済するため田租を廃止した。 代わりに、穀物を国に紊めた場合、その石高に応じて爵位を与える、売爵の制度を導入した。 一方、身辺の費用を節約して、財政の圧縮に努めた。
 「文帝ほど民を愛し民力の休養に努力した君主は、彼以前には無く、以後にも殆んど無かつたであらう。 堯舜は儒家伝説上の人物であるが、若し支那の歴史に実在の堯舜があつたとすれば、それには先づ文帝を指摘しなければなるまい。」

 武帝は、治世が長く、その事業は極めて豊富・多彩である。
 このため著者は、文武の才を示すエピソードを挙げるとともに、業績としては対匈奴政策を述べるにとどめている。
 武の方のエピソードとは、少年時代(といっても即位後のことであるが)、姉の夫・平陽侯の名を借りて近習と微行し、五日間にもわたって狩猟を行なったこと。 文については、儒教の教育を受けて育ち、その政治理論に興味を持って、賢良文学の士と議論を行なったことなど。
 「帝は二十歳前後にして、儒家の理論にも表現にも相当深い興味と理解とを持ったので、騎射を好み猛獣を手打ちにすると同時に、一面、頗る学問好きであつたのである。」
 そして、匈奴に対しては、それまでの懐柔策を廃し、中央アジアに移動した月氏との提携を含む、積極な対抗策を展開したことが述べられている。

 武帝の章では、対匈奴政策の転換を図ったことが述べられているが、その成果にはふれていない。
 匈奴を攻撃・掃討し、これを弱体化させたことは、最終章「衛青・霊去病」において、これら二人の将軍の武勲として記述されている。
 この最終章は、今回の「一部紹介」として、全文を掲げることにしよう。



本文の一部紹介


       衛青・霊去病


 武帝は、匈奴・西域・朝鮮・南粤等、東西南北に兵を用ひたが、その中最も大がかりなのは匈奴に対する戦争であつた。 匈奴征伐に従事した将師の代表的なものとしては、衛青と霊去病とを挙げねばならぬ。

 衛青は、皇后衛子夫の弟である。 衛子夫は武帝の姉平陽公主の婢衛媼の次女で、初め平陽侯(公主の夫曹壽)の家の歌女うたひめであつたが、武帝に幸せられて後宮に入り、三女二男を生んで遂に皇后となつた。 衛青は、初には、衛媼の夫であつた父鄭季に従つて羊を牧し、ついで平陽侯に事へてその家騎となり、姉に繋がる縁で召されて侍中となり、太中大夫となり、元光五年(紀元前130年)には車騎将軍に拝せられて匈奴を撃つた。 これが初陣で、この後塞を出でて匈奴を撃つこと前後七回、元朔元年(紀元前128年)には河南(陜西の北方、オルドス地方)の地を略し、首虜二千三百級、畜百余万を獲、功を以つて長平侯に封ぜられた。 同五年(紀元前124年)には匈奴の右賢王を走らせ、首虜万五千級を獲、大将軍に拝せられ、諸将軍皆な兵を以つてこれに属することとせられた。 元狩四年(紀元前119年)には衛青と驃騎将軍霊去病と各五万騎を率ゐ、数十万の歩兵を後続せしめつつ、東西よりゴビ砂漠を渡つて進撃したが、西よりした衛青は単于の大軍に遭遇し、日暮れんとして大風起り、砂礫面を撃ち、両軍眼相見るを得ざる間に於いて激戦を交へ、左右両翼を縦(放)つて単于を包囲し、大にこれを破り、単于は身を以つて免れ、部下の将卒と相失すること十余日、将卒等は別に王を選んで立てて単于と為さんとするに至つた。 これが漢の対匈奴征伐戦の絶頂で、同時に衛青奮戦の最高潮であつた。

 霊去病は衛子夫の姉少児の子で、衛青の甥であつた。 彼も初め侍中となり、ついで大将軍に従つて戦に臨み、軽騎八百を以つて本隊を離れて敵に肉薄し、首虜二千余級を獲、功に依つて冠軍侯に封ぜられた。 時に元朔六年(紀元前123年)で、去病は二十前後の少年に過ぎなかつた。 ついで驃騎将軍に拝せられ、頻りに匈奴を撃ち、好んで難局に当つて能く勝を制し、天子の信寵を一身に集めた。 その、元狩中河西の地を略し、匈奴の渾邪王を降し、又た休屠王祭天の金人を得たことは、最も人口に膾炙して居る。 元狩四年(紀元前119年)の大征伐の際は、初め単于東に在りと見られた為め彼は命ぜられて東より進んだが、実は西に在つたので、これと会戦し得なかつた。 しかし右賢王を破つて首虜七万余級といふ大戦果を挙げた。
 史記の衛将軍驃騎列伝に、
 驃騎将軍 人と為り、言少くして泄らさず、気有つて敢て任ず、天子嘗つて之に孫呉の兵法を教へんと欲す。 対へて曰く、方略如何と顧みるのみと。 古の兵法を学ぶに至らず。 (中略) 其の軍に従ふや、天子、太官を遣し、数十乗を齎さしむ。 既に還りて重車梁肉を余棄す。 而して士に饉うる者有り。 其の塞外に在つて、卒、糧乏しく或は自ら振ふ能はざるも、而も驃騎尚ほ城を穿つて蹴鞠す。 事此の類多し。
とある。 霊去病の一種特異の性格を能く伝へて居るやうである。 項羽は兵法を学び、業半ばにして棄てたが、彼は全く学ばなかつたらしい。 しかしともかくも相類して居ると謂つてよかろう。 彼は無口で、恐らく無愛想で、さうして気侭で、部下が糧食の欠乏に困しんで居ても、自分は太官(朝廷の御台所)のご馳走に飽き、蹴鞠に興じたやうである。 即ち驕児のやうな人物であつたが、項羽と同様、戦争の而天才で、いくさにかけては他人の追随を聴(許)さゞる卓越した手腕を持つて居り、それが為め部下の将士も彼に心朊し、彼の命令を守って奮戦したのであらう。 衛青に就いては、列伝に「大将軍仁善退譲、和柔を以つて自ら上に媚ぶ」と云つて居る。 この人は寛仁大度で、謙遜で、将に将たる器で、大将軍の任を辱めなかつたものと思はれる。

 衛青も霊去病も女寵に因縁して用ゐられ、しかもその身分は極めて卑賤であつたに拘らず、二人とも優れた将材であつたのは奇とすべきである。




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