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表 紙
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国府犀東 編
「乙丑柳光雅会集」
大正14(1925)年 制作。(推定)
縦:23.5 cm、横:13 cm。 墨書の石版印刷。 大和綴じ。 21 葉。
大正14年(1925年、干支は乙丑)10月30日の夕、時の内務大臣・若槻礼次郎は、その詩友を東京・両国の料亭「柳光亭」に招いて、詩会を催した。 この冊子は、この詩会の作品をまとめたものである。
後掲する国府犀東の引(はしがき)によれば、前年の同時期にも、場所も同じ柳光亭で 詩会が開かれたようで(同様の冊子が作成されたと思われる)、本書の書名に「乙丑」が冠せられているのは、それに続くものであることを明示したのであろう。
若槻礼次郎(慶応2(1866)年~昭和24(1949)年、号:克堂)は、このあと2度(大正15年1月と、昭和5年11月)にわたって首相に就任しているが、主として政党(憲政党)基盤の脆弱さにより、その内閣はいずれも短命に終ったので、歴代首相の中では印象の薄い人である。
彼の業績としてよく知られているのは、これら両次の若槻内閣の間に成立した浜口内閣のとき(昭和5(1930)年)、ロンドン会議に首席全権として出席し、米・英との間の海軍軍縮条約を成立させたことであろう。
彼の前身は 大蔵官僚で、日本の発展に伴なう財政規模の拡大に対応して、制度の整備・充実や資金の導入・確保などに力を注いだ。 大正元(1912)年末に成立した第3次桂内閣で、大蔵大臣に就任。 その後、大隈内閣でも大蔵大臣をつとめた。
大正13(1924)年成立の加藤内閣では、はじめて内務大臣に就任したが、このときに懸案の普通選挙法を成立させた。 ただし、後の運用で悪名高い治安維持法もほぼ同時に成立したので、内相としての若槻には功罪半ばするというような評価があるようだ。 乙丑の詩会が開かれたのは、これらの法案成立が一段落した時期である。
首相退任後の後半生は、いわゆる重臣として御前会議などでの国政の諮問に預かる立場であったが、軍部の力が増していく中で、彼は終始、戦争の拡大に反対する立場を貫いた。
全体としてみれば、平和を信条とする、誠実で現実的な政治家であった、といえよう。
若槻が漢詩を始めたのは、その自伝「古風庵回顧録」(1950年初刊)によれば、明治44(1911)年8月、第2次桂内閣(明治41年~)の総辞職とともに大蔵次官の職を辞して、しばらく「浪人」となったときである。 近所に住んでいた漢詩人の大江敬香(1859~1916)から勧められたのが、きっかけであったという。 もっとも、少年時代に通った漢学塾で、すでに作詩の知識は身につけていたらしい。
そして、この自伝には、「八十歳を超えた今日、…へぼの詩を楽しむことは、今も続けている」とある。
しかし、彼が 時にこのような詩会を催して、同好の士との交流を楽しんでいたことは、あまり知られていないのではなかろうか。
乙丑の詩会の出席(招待)者は、以下に作品の掲載順で示す16名である。 (氏名の後の〔 〕内は、雅号。)
松浦 厚 〔鸞洲〕- 肥前・平戸の最後の藩主・松浦詮の子。 伯爵。
阪本釤之助〔蘋園〕- 官吏、政治家。 少年期、森春濤に漢詩文を学ぶ。 内務省官吏となり、のち福井県知事、鹿児島県知事、名古屋市長等を歴任。 貴族院で若槻の同僚議員であった。 永井荷風の叔父。
上山満之進〔蔗庵〕
勝島仙之介〔仙坡〕 安政5(1858)~昭和6(1931)- 獣医学者。 東京帝国大学教授。 「家畜内科学」の著がある。
小室 貞 〔翠雲〕 明治7(1874)~昭和20(1945)- 日本画家、南画家。 田崎草雲に学び、主に日本美術協会に拠って活動。 文展審査員。 帝国美術院会員。
大倉喜七郎〔聴松〕 明治15(1882)~昭和38(1963)- 実業家。 大倉財閥の祖・大倉喜八郎の子。 ホテルオークラなどを設立。 男爵。
平井 参 〔魯堂〕 安政5(1858)~昭和20(1945)- 漢学者。 「戦国策講義」、「新式初学作詩法」の著がある。
建部遯吾 〔水城〕 明治4(1871)~昭和20(1945)- 社会学者。 東京帝国大学教授。 「社会学序説」、「社会理学」、「世界列国の大勢」など多数の著書がある。 当時は、衆議院議員でもあった。
大津淳一郎〔鈴山〕
木本房太郎〔滴翠〕
中川吉郎 〔黄山〕
大江武男 〔香峰〕 - 大江敬香の親族であろうか。 (敬香は、この9年前に亡くなっている。)
喜多貞吉 〔橘園〕
村上寿夫 〔琴屋〕
牧野 茂 〔鉄篴〕
国府種徳 〔犀東〕 明治6(1873)~昭和25(1950)- 漢学者。 内務省嘱託。 「文天祥」の著がある。
最後の国府犀東という人が、この冊子の編者である。 おそらく、この詩会の幹事役であったと思われる。
国府犀東の引(はしがき)は、この詩会の全体の様子を大変よく伝えている。
今茲(今年)十月三十日の夕、恰(あたか)も 陰暦九月十三夜に値り、克堂・若槻内相、前年の佳例に趁(従)ひて、筵を二州橋(両国橋)畔の柳光亭に設け、雅友十六賢を招きて、観月の宴を開く。
顧念すれば、斯の月や、漢土の未だ賞せざる所にして、諸(これ)を前後赤壁賦中に賞する所に較ぶるに、正に両者の中間に在りて別に地歩を占め、敢て坡老(宋の蘇軾。『前赤壁賦』および『後赤壁賦』の作者)の余唾を拾はず。 蓋し、我が朝の期月を賞するは、夙に昌泰の御宇に寛平法皇(宇多法皇)の賜宸に昉(初)まれり。 蓋し、其の盈(み)ちんとして未だ極まらずして虧(欠)くるに至ると、其の秋正に高気にして未だ寒からずの良辰に当るを取りしなり。
斯の夕、暮雲四散して一天澄清、皓月空に当り、金波江に満ち、昨秋の月無く唯だ雨有るのみなりしに似ず。 檐を開きて月を邀(迎)へ、室を換へて箋を擘(分)け、且つ、既に韻を分け字を探りて坐定まるの時、柏梁体連句も亦た半ば告成(完成)す。 矯首(頭を上げる)して顧望すれば、天には嫦娥(月に住む仙女)有り、席には 婷娉(美人)有りて、両々迭(互)に嬋娟(美しさ)を争ふ。 酒先ず巡り、硯随ひて到り、繊手(女性の手)杯を侑(薦)むるに、兼て箋を進む。 酒三行すれば、連句も亦た三匝(巡)して、興 正に旺んなり。
賓中、翠雲画伯有り、命じて二曲の金屏(金屏風)を横展せしめ、吟席の一方に蹲踞す。 興に乗じて揮灑し、歘忽(たちまち)竹を描くに、酔墨淋漓として枝葉軒翦(ひらひら舞う)たり。 紅裙(女性)、背に従ひ、画伯の双袂を牽(ひ)きて之を戒め、且つ其の姿勢を扶く。 描成り、坐を挙げて驚嗟す。 内相、乃ち起ち、題するに「名月清風属酔人」の一句を以てす。 字々踔躍(すぐれて勢いがある)して、墨痕漆よりも濃し。 佳人の、為に双袂を戒むること、前次に殊ならず。 衆賓環視し、眸は悉く此に萃(あつ)まる。 題 了(を)はるや、一座嘆賞し、覚えず拍手する者有るに至る。 蓋し、他(彼)の肯綮に中る(ピタリときまっている)を以てなり。
逸興は遄飛(速やかに進む)し、献酬は倊殷す、況や、月の天に中たり、影の江心に在りて、顥気(白く見える天)迥然(遠く澄みわたっている)たるに於けるをや。 空に微風無く、水に細漣有りて、放開の四簷、触意寒からず。 觴政(詩会における飲酒のルール)普く行はれ、詩令遍く布く。 翰墨の角遂は更に精采を加へ、寸罅の一惰を容るる無し(ひといき入れる暇もない)。 忙中に閒を索めんと欲して、閒裏に却て忙を獲るも、皆亦た敢て怪しまず。 句を煆する(生気あらしめる)者は淵黙(寡黙)にして、其の貌は塑像の如く、管(筆)を援(執)る者は俊爽にして、其の勢は逸禽の如く、一静一動、交錯して趣を成す。
月、三更に近づけば、賓半ば散じ、詩興益ます蔗境(佳境)に入る。 内相、二三子を顧て曰く、「夜は未だ闌(たけなは)ならずして、月は愈いよ明らかなり。盍(なん)ぞ更に太白を泛べ(酒を飲む)ざるや」と。 然るに、是の時、鸞洲伯爵と翠雲画伯は前後して皆辞去し、今復た好敵手無し。 是を以て、内相も亦た遂に割愛し、相促して帰途に就く。 将に去らんとして、尚且つ曰く、「此の良夜をいかんせん」と。 蓋し、此の歎は、真に胸臆より出でしならん。
既に、月有り、酒有り、殽(さかな)有りて、佳賓を迎へ、佳媛を聘(招)く。 詩客有り、画客有りて、画趣は詩情を併せ、風流韻事、兼ねざる無し。 髯蘇(蘇軾)の後赤壁に於て歎を発せしが如きに至るも(先ほど発せられた「此の良夜をいかんせん」の語が、『後赤壁賦』中の句であることをいう。)、声は同じくして、意は異なれり。 翅に(単に)天淵(大きなへだたり)の差の然る有るのみならず、用意の存する所、此に在りて彼に在らざるは寧ぞや。 楽しみの未だ央(尽き)ずして還るは、何ぞ其れ、勇なるかな。 月の未だ傾かずして撤するは、何ぞ其れ、智なるかな。 此を待つ有るを知りて去るは、何ぞ其れ、仁なるかな。 今、此の三者を兼ぬるは、君子足るを知るの至意にして、間然たる所(問題点)無きに庶幾(近)し。
斯の夕、主賓倶に唐賢の詩韻を用ひ、相 賡和(酬和)する有り。 其の原作には、一に、趙嘏(晩唐の詩人)の『江楼感旧』の詩を取る。 曰く、
独上江楼思渺然 独り江楼に上れば 思ひ渺然たり
月光如水水如天 月光は水の如く 水は天の如し
同来望月人何処 同(共)に来りて月を望みし人は 何処ぞ
風景依稀似去年 風景は依稀(ぼんやり)として 去年に似たり
一に、賈至(盛唐の詩人)の『泛洞庭(洞庭湖にうかぶ)』の詩を取る。 曰く、
楓岸紛々落葉多 楓岸 紛々として 落葉多し
洞庭秋水晩来浪 洞庭の秋水 晩来 波だつ
乗興軽舟無近遠 興に乗じ 軽舟 近遠無し
白雲名月弔湘娥 白雲 名月 湘娥(湘江の女神)を弔す
大正乙丑之歳陽月(十月)晦日(末日) 犀東 国府種徳 識(しる)す。
詩会の作品の最初の部分は、趙嘏の『江楼感旧』および賈至の『泛洞庭』の韻を用いた詩である。
七言絶句の場合は、起句・転句・結句で押韻するので、それぞれの句の句末の字を同じにするのである。 『江楼感旧』は【先】の韻で、句末の字はこの韻に属する「然」「天」「年」である。 『泛洞庭』は【歌】の韻で、句末の字は「多」「波」「娥」である。
はじめに、会主・若槻克堂の、『江楼感旧』『泛洞庭』それぞれの韻による2作品を示そう。
酒後凭欄意豁然 酒後 欄に凭れば 意 豁然
長橋無影月中天 長橋 影無く 月は天に中る
不妨唱和達明旦 妨げず 唱和して 明旦に達するを
雅会相逢又一年 雅会 相逢ふ 又た一年
亭小何妨月色多 亭 小にして 何ぞ妨げん 月色の多きを
江寒況尚湧金波 江 寒く 況や尚ほ金波の湧くをや
可無酔墨題佳句 酔墨にて題する佳句 無かるべく
侑酒名姝似素娥 酒を侑むる名姝(美人)は
素娥(仙女。嫦娥に同じ)に似たり
このあとの他の人々の作品には、この克堂の詩に引きづられたのか、似たり寄ったりのものが多い。
そこで、表現や題材にいくらか新鮮味のある3首のみを、示すことにする。
はじめは、大倉聴松の詩。
一橋楊柳惹情多 一橋の楊柳 惹情 多し
点々紅燈瑟々波 点々たる紅燈 瑟々たる波
少女十三何所願 少女十三 何の願ふ所ぞ
背人欄角拝嫦娥 人に背きて 欄角に嫦娥を拝す
次は、大津鈴山の詩。
伝聞天府鶴齢多 伝へ聞く 天府には鶴齢多しと
攀月無梯影印波 月に攀るに梯無く 影の波に印せるのみ
搗薬辛労未曾厭 薬を搗くの辛労 未だ曾て厭はず
願挑玉兎伴姮娥 願はくは 玉兎に挑みて 姮娥(仙女。嫦娥・素娥に同じ)を伴はん
最後は、中川黄山の詩。
話到当時易黯然 話の当時に到れば 黯然(暗い気持ち)たり易し
乾坤震動火焦天 乾坤 震動し 火は天を焦せり
街衢又見繁華好 街衢 又た見る 繁華の好きを
興復帝都知幾年 帝都の興復するは 知んぬ幾年ぞ
この黄山の詩のみが、2年前の関東大震災にふれている。 東京はまだ復興の過程にあり、あちこちに震災の傷跡が残っていたはずである。
なお、この詩会に参加できなかった船越光之丞〔夷川〕、山口宗義〔松陵〕、渡辺寛一郎〔桃蹊〕の3名は、後から作品を寄せたようで、この部分にはこれらの人々の詩も付載されている。
分韻とは、詩会に参加した人の間で韻字を分け、各人は自分に割り振られた韻を用いて作詩することをいう。 韻字を分けるのは、おそらく抽籤によって無作為に行なうのである。
ここには、若槻克堂以下、全員の作品を掲げることにする。 (ここにも、同工異曲の作品が多いのであるが。)
ただし、大倉聴松の作品だけは見当たらない。
また、勝島仙坡は、3首作っているが、最初の1首のみをとる。
『柳光雅集席上分韻得【簫】』 若槻克堂
占得清光満碧霄 占め得たり 清光 満碧の霄(そら)
不須江上盪蘭橈 須(もち)ひず 江上 蘭橈(美しい「かい《)を盪(うごか)すを
無端動我吟心去 端無くも 我が吟心を動かせるは
有客中流吹玉簫 客の 中流に玉簫を吹く有ればなり
『同 得【微】』 松浦鸞洲
長江十里暮雲飛 長江十里 暮雲 飛び
楊柳含風払石磯 楊柳 風を含んで 石磯を払ふ
明月有情侵綺席 明月 情有りて 綺席を侵し
杯中波漾影依々 杯中の波漾に 影 依々たり
『同 得【佳】』 阪本蘋園
珠簾影動美人釵 珠簾 影は動かす 美人の釵
近水楼台夜景佳 水に近き楼台 夜景 佳し
如許月明須尽酔 もし 月明に 須く酔を尽さば
軽烟淡粉説秦淮 軽烟 淡粉 秦淮(運河沿いの歓楽街)を説かん
『同 得【刪】』 上山蔗庵
清風明月是仙寰 清風 明月 是れ仙寰
緑酒紅燈自解顔 緑酒 紅燈 自ら顔を解く
好有倪黄来入坐 好し 倪黄(元代の画家・倪雲林と黄公望)の来りて坐に入ること有りとも
酔余援筆写江山 酔余に筆を援りて 江山を写さん
『同 得【江】』 小室翠雲
柳影揺々入綺窓 柳影 揺々として 綺窓に入り
佳媛雅客共傾缸 佳媛 雅客 共に 缸を傾く
如斯清興人知否 斯くの如き清興 人 知るや否や
月白風清十里江 月 白く 風 清らかなり 十里の江
『同 得【塩】』 勝島仙坡
月痕如水夜光添 月痕 水の如く 夜 光を添へ
玉露金風秋満簾 玉露 金風 秋は簾に満つ
天有素娥坐紅妓 天に素娥有りて 坐には紅妓
不妨詩思入香匳 妨げず 詩思の香匳(女性を題材にした詩)に入るを
『同 得【灰】』 平井魯堂
天霽雲収大月開 天 霽れ 雲 収まりて 大月 開く
良宵重上好楼台 良宵 重ねて上る 好楼台
風光如此真堪賞 風光 此の如きは 真に賞するに堪ゆ
唯憾吾無倚馬才 唯だ憾む 吾に倚馬の才(卓越した文才)の無きを
『同 得【東】』 村上琴屋
召集名賢雅宴同 召集の名賢 雅宴を同じくし
尊前詩句玉玲瓏 尊前の詩句 玉玲瓏
年々賞月十三夜 年々 月を賞す 十三夜
清世風流属相公 清世の風流は 相公に属す
『同 得【文】』 建部水城
風冷江楼既夕曛 風 冷えて 江楼 既に 夕曛(夕陽)
月昇碧落絶繊塵 月 昇り 碧落 繊塵 絶ゆ
不関世上紛々事 関はらず 世上紛々の事
会友良宵細品文 会友 良宵 細品の文
『同 得【豪】』 大津鈴山
難奈坊間穀価高 難じて 坊間 穀価の高きを奈んせん
商量時事悉徒労 時事を商量するも 悉く徒労
十三夜月纔遺世 十三夜の月 纔に世に遺る
自笑酔余談独豪 自ら笑ひ 酔余に談じて 独り豪なり
『同 得【蒸】』 中川黄山
涵影飛鴻秋水澄 影を涵し 鴻 飛んで 秋水 澄み
一天皎々玉輪昇 一天 皎々として 玉輪 昇る
苦吟声裡美人舞 苦吟の声裡 美人 舞ひ
誰倚江楼十二層 誰か倚る 江楼の十二層
『同 得【麻】』 木本滴翠
今宵陪宴墨江涯 今宵 宴に陪す 墨江の涯
雨歇江楼弄月華 雨 歇んで 江楼 月華を弄す
霜満軍営詩句在 霜 軍営に満ちて 詩句 在り
三更過雁美人家 三更 雁は過る 美人の家
『同 得【虞】』 喜多橘園
垂楊払水々涵蘆 垂楊 水を払ひ 水は蘆を涵す
綺閣風燈影有無 綺閣の風燈 影 有りや無きや
暮靄看収江月上 暮靄 看収す 江月の上るを
金波一道玉龍趨 金波一道 玉龍 趨る
『同 得【冬】』 大江香峰
二州楼閣碧雲重 二州の楼閣 碧雲に重なり
楊柳依稀秋色濃 楊柳 依稀として 秋色 濃し
月照江心波穆々 月は江心を照して 波 穆々
疎鐘数杵出金龍 疎鐘数杵 金龍に出づ
『同 得【侵】』 牧野鉄篴
柳光亭枕柳橋潯 柳光亭は 柳橋の潯(ふち)に枕(臨)む
明月団円露気深 明月 団円として 露気 深し
今夕叨陪名士席 今夕 叨陪す 名士の席
酔中詩句互酬吟 酔中 詩句 互に酬吟す
『同 得【覃】』 国府犀東
水榭同邀月十三 水榭 同じく月の十三を邀へ
金波瀲灔柳橋南 金波 瀲灔たり 柳橋の南
釵光従綺席辺動 釵の光は綺席従り 辺りを動かし
絵出墨江秋色酣 絵き出づ 墨江 秋色 酣なり
柏梁体連句とは、七言の句を列ねていくもので、句ごとに韻をふむ。
前掲の国府犀東の引によれば、この連句が最初に行なわれたようである。
おそらく、出席者全員が揃うまでの間、来会した人から作っていったものであろう。 そして、その作成は三巡したようで、完成した作品3首(其一~其三)が掲げられている。
各作品は、18句からなっているが、それは作者が18人だからである。 会主・若槻克堂と賓客16人の他に、水香女史という人が加わった18人である。 水香女史とは、詩筵に侍した女性の1人であろうか。 (小室翠雲や若槻克堂の揮毫を援けた人かもしれない。) しかし、おそらくはその人に仮託して、詩人達の誰かが代作したのであろう。
その3首のうち、最初の1首(其一)のみを示すことにする。 韻には、【青】が用いられている。
同人観月江上亭 (克堂) 同人 月を観る 江上の亭
簾波揺曳秋冷々 (蘋園) 簾波 揺曳して 秋冷々
詩歌欲趁古典型 (仙坡) 詩歌 趁はんと欲す 古典の型
独倚欄角懐湘霊 (翠雲) 独り欄角に倚りて 湘霊を懐ふ
脱尽心丹与汗青 (水城) 脱し尽す 心丹と汗青
金波浮出美人舲 (鸞洲) 金波 浮出す美人の舲(ふね)
衆人皆酔我独醒 (魯堂) 衆人 皆酔ひ 我れ独り醒む
月明柳影払紗櫺 (聴松) 月 明らかに 柳影は紗櫺(うすぎぬを張ったまど)を払ふ
誰揮酔筆題金屏 (滴翠) 誰か 酔筆を揮て 金屏に題せしや
樽前来伴幾娉婷 (黄山) 樽前に来伴す 幾たりの娉婷(美人)
簾外舟過魚気腥 (橘園) 簾外に舟過り 魚気 腥し
点々漁火小于星 (香峰) 点々たる漁火は 星よりも小なり
菊酒杯中好忘形 (蔗庵) 菊酒の杯中 忘形(人と自分との区別を忘れた境地)を好み
当筵呉児憐寧馨 (水香女史) 当筵の呉児(ふつうの娘) 寧馨(すぐれた若者)を憐む
一曲竹枝停杯聴 (琴屋) 一曲の竹枝(歌) 杯を停めて聴く
賞月柳亭此再経 (鉄篴) 柳亭に月を賞すること 此に再びす
隔岸燈火疑流蛍 (鈴山) 岸を隔つ燈火 流蛍かと疑ふ
忘帰倚尽白鴎汀 (犀東) 帰るを忘れ 倚り尽す 白鴎の汀
全体に、句と句の連関がやや希薄で、何となくバラバラの印象を受ける。
水香女史の句は、自分のような取り柄のない者でも、こういう席に侍して高雅な雰囲気に浸ることができるのは有り難いことである。 かえって、皆から注目されるような優れた才能を有する人は、このような機会に恵まれないことであろう、ということか。 先行する句ともうまく照応しているが、こんな気の利いた句を作れるのは、まさに「寧馨」でなければならない。
終
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