らんだむ書籍館


表紙

目 次

  第 一
  第 二
  第 三  円銀引替並通用の事情
       神奈川横浜の議論
       輸出入貿易 米麦 棹銅
  第 四  露国使節の渡来
       横浜にて露国海軍士官の暗殺
       外国掛御老中
       幕府の渡米使節
  第 五  井伊大老の不人望
       井伊大老の横死
       洋学者流の擯斥
       外国人の地位危険
  第 六  外交困難の状況
       ヒュースケン氏の暗殺、堀部正の自殺
  第 七  米国公使書記官殺害の葛藤
       高輪東禅寺英国公使館の夜襲
       両港両都開市延期請求の因由
  第 八  幕府三使が欧州へ向て発遣
       幕使の延期談判及び日魯経界論
  第 九  唐太経界談判の結果
       幕使の帰路
  第 十  水野筑州の談話
  第十一  生麦償金の一条
  第十二  生麦一件の落着
       小笠原図書頭上京一件
  第十三  横須賀製鉄所設立の由来
       理事官の英仏使命
  第十四  横須賀造船所設立の処理
  第十五  帰朝より大政返上までの間
  第十六  大政返上後の江戸
       前将軍家御着の大坂城
  第十七  大坂城中の状況
  第十八  大坂城立退
       海路東帰
       江戸城中の評議
  第十九  主戦論者の妄念並に上野戦争
       幕臣が身を処したる結局


  新聞紙実歴  (目次略)

  解 説           (柳田 泉)


改造文庫
福地源一郎 「懐往事談 〔付〕新聞紙実歴


 昭和16 (1941) 年6月、改造社 。
 文庫版、紙装。 本文 232頁。


 この「改造文庫」も、昭和2(1927)年創刊の「岩波文庫」に追随して、昭和4(1929)年に 発刊された文庫本である。 さすがに それなりの充実を図ってきたようで、12年後刊行の本書の巻末に添えられた「改造文庫分類目録」は 10頁に及び、約500点を掲げている。

 福地源一郎(天保12(1841)~明治39(1906)、号:桜痴)は、徳川末期には 外国方(外国奉行配下)の幕臣として国事に奔走し、明治維新後は 新聞発行者、文筆家(歌舞伎脚本や小説など)として活躍した 人物である。
 本書「懐往事談」は、福地が 壮年を やや過ぎた時期に執筆した 回顧録である。
 まず、明治25(1892)年11月から26年(1893)12月にわたって 雑誌『国民之友』に連載された後、明治27(1894)年に 民友社から単行本として出版された。
 これまでに数種の復刻本が 出されているが、この「改造文庫」本が最初のものであり、また文庫版としては これが唯一のもののようである。

 本書が、通常の回顧録とやや異なるのは、時間的範囲を、徳川幕府から明治新政府へと政権が移行した 激動の時期(安政6(1859)年~明治元(1868)年の約9年間)に限定した上で、その時期に生起した事件に関し、自らが具体的にどう関わったか について、かなり詳細に記述していることである。
 福地は、文章が巧みであるのみか、新聞記者志向の人らしい 現場描写の能力に優れているので、各場面の記述が的確で、臨場感がある。 反面、次々に語を繰り出して センテンスが異常に長くなりがちなのが、欠点であろう。
 なお、「第十六 大政返上後の江戸」の章には、3個所ほど 何かを憚ったらしい 点線(……)による伏せ字があるが、何を憚ったのか不明である。


 「内容の一部紹介」としては、右の「目次」中の、
第十八 (大坂城立退、海路東帰、江戸城中の評議)
第十九 (主戦論者の妄念並に上野戦争、幕臣が身を処したる結局)
の各章を掲げる。
 上記したように、センテンスが異常に長い部分があるが、句読点の追加などの小修正で、対処した。



内容の一部紹介




        

第十八

     大坂城立退き

 内閣は寂として 一個の人影だに無し。 扨(さて)こそ 松平太郎(外国方の組頭)が既に御立退と相成たりと報知せるは 実説にてありけれ。 いざ去らば 御錠口の辺まで推参して其虚実を慥(たしか)めんと云ひければ、西吉十郎(成度)(外国方における福地の同僚)は余を制して 否々御錠口近く推参せんは其恐あり、先づ御辺(あなた)は詰所に戻りて、一同 立騒がぬ様に鎮め置きたまへ、僕は 御目付部屋(監察局)へ罷越し 実否を備(つぶ)さに承合せ(確認・保証させ)て参るべしと云ひければ、余もにもと其の意に従ひ、御用部屋(内閣)の外にて西に別れ、外国方の詰所に立帰り、調役並(ならびに)定役・同心・書物方等が頻(しきり)に騒擾せるを取鎮め居たるに、西は程なく戻り来りて 一同に対(むか)ひ、深き思召すあらせられて 上(将軍・徳川慶喜)には当大坂城御立退となり、御東帰 遊ばされたり。 尤も当城は尾張殿に預けられ 御留守居役・御目付・其他とも 役々夫々に仰付られたり。 此儀 唯今御目付より慥に承り及びたり。 従つて外国方の儀は 奉行衆既に御供して東帰の上は 我々共一同は当城に残り止まるに及ばず、是より東帰の都合を 我々相談の上にて御達し申すべし。 其分に心得られよと厳然と申達し、事実を隠蔽する事も無く、又 毫(すこし)も狼藉の状なかりしは 余が西の挙動に感服したる所なりき。 是よりして 西は余を招き、両人にて奉行の詰所に入て見たれば、公用書類は取乱し 誰が護身の為にとて携へたりけん拳銃も 其まゝ座隅に取残してありけり。 (是は、東帰後に聞けば 奉行某の品なりしとの事ゆえ、原主に返し与へたり。) 猶 笑止なりしは、何やらん四角なる風呂敷包ありしを 開いて見れば、鴨の切身に青菜と切餅とを夥しく入れたる雑煮の用意にてありけり。 扨は 奉行の一人が今夜の料にとて 旅店より取寄たる品にてあるべし。 好々 吾等賜はつて久振の御馳走に与からんと 打笑ながら同心をして鍋を捜させたるに、果して 鍋もしたぢも用意して下部屋にありければ、一同 寄集つて且つ煮 かつ食ひたり。 其の時 西は 余に向ひ 御辺は是より如何せらるゝ所存なりやと問ひたれば、余は さればなり 是より僕は紀州路に掛り 陸路 東帰の所存なりと答へたるに、西は否々それは上策に非ず、今や陸軍の敗兵みな紀州に赴かんこと必定なれば、其混雑は想像するに余(あまり)あるべし。 幸なる哉 柴田日向守は、兵庫奉行として現に彼地にあり。 彼人は外国奉行兼帯なれば、吾等一同が進退も 彼人の指揮に従はんこと当然なり。 其上に兵庫は 開港場なれば、此内乱の今日に当りても 自から中立の状勢を占むべき歟。 此議は如何と申されたり。 余は 深く其言の理あるに朊し、何様なにさま 貴説その理あり 速に同意すべしと答へたれば、然らば其事に定むべしとて 一同に口達して 其処置に及べり。 先づ 元締(会計役)を呼び、外国方御用意金は現に何程ありやと尋ねたるに、御勘定所へ還納すべき分とも合せて 四百六十余両ありとの事なりければ、西を初め十一人の者が 高下の別なく銘々弐拾五両づゝ拝借の事に定め、組頭宛の証書を認(したた)めて、是を配当して肌付金と為し、其余の弐百余両は御用意金として元締に所持せしめ、夫(それ)よりして書類を尽く取出し、斯(かか)る時に臨みて書付を取残し置くは第一の恥辱なりとて、西は余と与(とも)に 都(すべ)て一々に検閲し、無用の書類は都て引裂て焼捨させ、緊要の書類は葛籠文庫及び用箱に蔵め、同心三人に是を背負て従はしむる事となし、次に定役一人を八軒屋(淀川の船着き場。周辺に8軒の旅宿が存在したという。)に遣はし、急に川口まで降るべき伝馬船を一艘用意せしめたるに、曉に及びて 此船の支度は宜しき旨を告げたり。 然らば 各々当城を退出して 一旦銘々の旅宿に立帰り、宿料其外等の支払を残り無く償却し、明荷・両掛等の如き手荷物に至るまで残らず担がせ、九時までに八軒屋へ参着すべしと達して、正月七日の朝六時半頃に打連れ 蕭然として大坂城を出でたりき。 此時敗兵は 既に城内に帰り、御玄関より御座敷に渉りては 会桑(会津・桑𝪭藩)および諸隊の幕兵みな屯集して 更に秩序も無く、まして中の口(文武諸役人の昇降口)の如き 雑人体のものが草鞋の儘にて昇降なし、其混雑は一方ならず。 桜の御門を出たる時に 陸軍の一隊は(何隊なりしや其隊𝪭を忘れたり) 是より紀州路に赴くべしとて、敗余の残兵を整列して猶 儼然その軍紀を紊(みだ)さゞりしは 此際に於て尤も諸人の目を驚したる所なりき。 大手(大手門)を出る手前にて 天満なる東照宮の別当の僧が御神体の神輿を舁(かつ)がせ、自らは衣の袖に襟を掛け 長刀を杖に突くて 御城に入るに出会ひたれば、一同は下座して拝み奉りたりき。 (此ご神体は其後如何なりしや、蓋(けだ)し 九日の炎上に焼亡し玉ひしなるべし。) 斯て余は 頴川俊三(福地の下役)を牽て今橋町の旅宿に立戻りたるに、市中には戦争の風聞こそ聞えたれ、敗軍の模様も前将軍家大坂御立退の事も 未だ知れざりと見えて、極めて穏にして平日の如くなりければ、余等は旅宿にて心静に七草粥を喫し 湯浴して後に、荷物を取付け人足を命じて担がせ、九時前に八軒屋に赴き、一同伝馬船に打乗りて淀川を下り、午後二時頃に川口に着したりき。


     海路東帰の事

 此の所にて 兵庫へ急行の押送船を捜させたるに、同心は直に一艘の船を約して連れ来れり。 此の船頭は、戦争中とて 兵庫までの船賃 拾五両を需(もと)めたり。 非常の高値を貪るとは知つたれども 外に詮すべなければ、之を雇入るゝと定め、扨 直に出船すべしと命じたるに、其時 西風烈しく吹たれば 迚(とて)も出船叶ひ難き由を申す。 依て 一行の荷物を其船に移し 定役同心三人に其の船の番をなさしめ、其余の者は 其の近所なる市兵衛新田の鴻池市兵衛の別荘に投じたり。 (此の鴻市は 外国方及び御勘定方の用達なりき。) 此の所にて食事を調理させて 其夜は此に一宿したりけるに、夜に入りて遙に東南の方面に当り 一面の火光を望み 既に敵兵 大坂城に押寄て放火したる歟と思ひたるに、後に聞けば 伏見辺の火災なりと云へり。 明れば正月八日 この日も西風烈しく、船頭共は出帆なり難き由を申したれば、終日この市兵衛新田に在りて 風待をなしたり。 余は 西が諫め止むるを聞かず 属僚一人を従へて、大坂城内の状況如何と思ひ 市中に打上つたるに、市中は左まで打騒げる様子は見えざりしかども、敗兵の右往左往せるを時々見掛けたり。 内船場に入りて見たれば 漸々騒擾の色を益し、大手前は敗兵の集散出入にて大に殺気だちたれば、属官の止むるに任せて 其所より引返し、午後三時頃に再び市兵衛新田に立戻りにき。 斯て夜に入り 風少し静まりたれば、船頭を促して川口を船出なし、兵庫に向ひたれども 海上は猶 荒かりけり。
 翌九日の十時過に 船は恙なく神戸の浜辺に着したり。 一行は上陸して 浜辺の旅店に投じ、午餐を命じ 休息したり。 西は 調役並を従がえて直に兵庫に赴きたりけるが、暫くして帰り来り 大嘆息して、兵庫奉行所に居りて見たれば、奉行組頭を初として 諸役人一同が官軍の来襲を怕れ、奉行所及び税関を米国領事に預け、俄に英船を雇入れて 唯今江戸へ逃帰らんとの支度最中にて周章狼狽を極め、我等が申條は誰一人として耳を傾けて聴ものも無し、斯と知りたらば 福地の説に従ひて大坂より陸路直に紀州路に赴くべかりしものを、扨ても江戸育の幕吏が打揃ての気概なさよと、且は悔み且は憤りて語つたり。 余は是を聴くよりも直に 其座を立ちて此家を出で 浜辺に赴き、兵庫の御奉行様が御乗込の異船はどの船にてあるぞと 其辺に繋ぎたる小船の水手等に問しめたるに、それぞ彼蒸気船にて候へと答へて 一隻の汽船を指し示したり。 乃ち座に復り、余等一行は既に東帰の便船を得たり、愚存に任ぜられなば 其策を建つべしと云ひたれば、西も此の場に臨みては兎角の異議は申さず との答なり。 然らば疾々用意せられよ、余が策は云々なりと発議し、夫より荷物を尽く小船に積込ませて、英国汽船の方へ漕付かせたり。 此汽船は 「オーサカ」 と号せる螺機の商船にして、即ち兵庫奉行の一行が雇入れたる船なれば、余は船に上りて船長に面会し、兵庫奉行の属官が船中部屋割其他の用意の為に先着したるなりと告げ、手荷物を船中に入れさせ 二三室を卜して寝所と定め、船中にて休息したりけるに、午後四時頃に至り 兵庫奉行柴田日向守は 組頭・森山多吉郎、調役・竹中次兵衛 及び其の外の役々を引従へて乗船したり。 (前島密氏も当時 前島萊助 とて、其一行中なりき。) 余は 柴田に対ひて、私共 御便船相願ひ奉ると簡単に挨拶して 済ませたり。 斯くて錨を揚る頃に至り(午後五時頃)、大坂の方に当り 黒煙大に立ちて 火焔頗る熾なるを見て、扨てこそ大坂の御城は最早 官軍の為に一炬に付せられたりと思ひ、首を俛れて望見するを得ざりき。 (此大坂城の放火は、諸説紛紛たり。官軍の方にては 徳川兵が無慙にも自から火を放ちたりと云ひ、又た 旧幕人は先着の長州兵が放火したるなりと云ひ、今日まで誰が為したる悪行とも知れず、或は 無頼の人足等が混雑に紛れて城中に入り窃盗を働き其痕跡を掩はんが為に放火したるなりとも云へり、余はその孰れなるやを知らず。) 斯て 十二日に横浜に着港し、夫より上陸して、一行みな江戸に帰着したり。 畢竟 西氏が落着たる取計に由て 余等は危急の中に在りて安全を得たるなり。


     江戸城中の評議

 前将軍家(この時点では、徳川慶喜の将軍辞任は 正式には承認されていないが、事実によって このように記したのである。)は 十二日の夜 御東帰ありて、御浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園(東京都中央区)内に かつて存在した 徳川将軍家の別邸)よりご上陸にて 御帰城あらせ玉へり。 翌十三日より 文武の諸士高下を問はず出仕して、詰掛け詰掛け 和戦の議論 囂囂たり。 但し 御前評議は 固より余が如き身分の者が推参し得べきにあらず。 尤も 諸閣老は交る交る大広間に出で、諸士の意見を聞るべしとの事なれば、余が知れる輩は此の時なりと先を争ひて罷出て、各々所存を申演たれども、余は既に大坂にて手懲りしたれば、其無益なるを察して、役所にのみ居て 所存申演には一度も罷出ざりしなり。 水野痴雲(筑後守)は、当時隠居の身分なれども 毎日登城して戦論を主張したりけるが、十七日の黄昏に至り、外国方の役所に来りて余を呼出し、先づ天下は泰平と定まつたれば 是より倶に退出して、今夜は祝杯を挙んと思ふは如何にと申たり。 此の方正厳格の人が 稀(めず)らしき事を申さるゝもの哉とは思ひたれども、其意に任せ 相伴ひて退出し、帰路 神田佐久間町の中村屋と云へる割烹店に入りて 晩餐を命じ、其座にて水野は 今日の御前評議に於て 愈々悔悟謝罪あらせ玉ふべしと仰出されたれば 余は復(また)出仕の要務なし。 台慮已にかく定らせ玉へる上は、徒に戦論を主張し或は私に兵を集めて戦はんなど云ふは 不策なるべし。 故に余は 近日 采邑(私有地)多摩川の辺に身を退くべし。 但し 御辺(あなた)は、戦なり和なり 随意に致されよ。 と語り、打萎れて涙を流し、別を告られたり。 (痴雲は 此後 程も無く、多摩川辺に隠遁し、病に罹りて憤死したりき。) 是れ 即ち 幕議の非戦に決したるの当日にてありき。
 然れども余は 初より主戦説の一人にてありければ、引渡事務を担当するを屑(いさぎよし)とせずして、猶も同志の群衆と共に 囂囂たる中に、或は相率ゐて脱走する者もあり、或は 勝安房守は降朊論の主張者なれば暗殺すべしと叫ぶ者もありて 人心益々 昂激し、幾(ほとん)ど全幅の感情にのみ左右されて、道理は自他の耳に入らざる程の有様にてありき。 其中に二月も央(なかば)に及びたれば、官軍東下の報 頻に聞えたるに由り、余は奉行の差図に従ひ 二月廿日頃に杉浦愛蔵と共に横浜に赴き、専ら外人の間の所説如何を聞きて 日々之を江戸に報道し、其為に三月上旬まで 同所に滞留したりき。 此間とても猶 主戦説を持して止まず、或は 近々米国より廻航すべき我注文の軍艦を 海上沖に待受て請取るべしと同志に語られては 是を行はんと試み、或は 仏国に款を通じて其調停の干渉を乞ひ 其言聴かれざる時は 仏国の兵力を借りて幕府に応接せしめん事を望み、口に任せて説き廻りたりしが、今日より回顧すれば、実に 国家と云へる観念は、我等が胸中には微塵も無く、更に将来の利害禍福を察するに遑なかりしは、慄然として我ながら身の毛も戦立つ程にてありき。 幸に 吾輩の計画は着々実行せらるゝ事を得ずして 皆 画餅と成つたりければ、余は三月十日と云ふに 田辺太一と共に江戸に帰つたりき。


        

第十九

     主戦論者の妄念 並に 上野戦争

 国家と云へる観念も 国体と云へる分別も、実に 余が胸中には無かりしなり。 其頃は 既に聊か洋書も読みて、平生は 万国公法がどうで御座るの 外国交際が斯様で御座るの 国家は云々 独立は斯々などと、読囓り 聴囓りにて 随分 生利なまぎきなる説を吐て 人を驚かし、以て自から喜びたりしも、今や 己れ自から身を其境界に置に際しては 全く無学無識と成りて、後患が如何であらうが 将来が何と成らうが、更に貪着するに遑なく、只管 徳川氏をして此幕府を失はしむるが残念なりと云ふの一点に心を奪れたり。 故に 或は仏国に税関を抵当として外債を起して軍資に充て 援兵を乞ふべしと云へば 直に同意し、米国より廻航の軍艦を海上にて欺きて受取るべしと云へば 異議なく左袒し、横浜の居留地を外国人に永代売渡にして軍用金を調達すべしと云へば 是以て𝪭策なりと賛成したるが如き、今日より回顧すれば、何にして余は斯まで愚蒙にてありし乎と、自から怪しまるゝ程にてありき。 然れども 是は敢て余一人のみに非ず。 当時 幕府の為に主戦説を唱たる輩は 皆 同様の考にて、到底 日暮れ途遠し 倒行して逆施せざるを得ずと云へるが 当時の決心たりしこと、争ふ可からざるの事実なり。 否々然らず 我は云々の分別にてありしなどと云ふ輩ありとも、余は敢て之を信ずること能はざるなり。 現に謝罪降伏説に心朊せざるを以て 前将軍家の御事をも悪ざまに怨み奉りて、扨も扨も悔悟謝罪恭順謹慎とは 何事ぞ。 余りに気概なき御振舞かな。 徳川家の社稷に対して、実に不孝の汚𝪭を取らせ玉ふ御方にては御座しますぞと評し参らせ 是に従事したる勝・大久保の人々をも国賊の如くに罵り、彼奸物 宜しく天誅を加ふべしと迄に揚言し、其罪状を稿するに筆を執たる人までも 同じく節義を失へる小人の如くに憎みたるは、皆 主戦論者一体の説にして、余の如きも 即ち妄言を吐きたるに相違なしと雖も、是れ啻(ただ)に 感情に動かされて正義の道を踏外したるにあらず。 父祖以来世伝の武士教育が 即ち事に当りて此心を起こさしめたる者なれば、当時 己れ自からは 我こそ正道を履むの士なりと、誰も彼も信じたりしに外ならざりけり。
 斯(かか)る中に 三月も過ぎて四月に至れば 江戸城は官軍へ引渡と成り、前将軍家は更に上野を出させ玉ひて 遠く水戸に渡らせられ、勇気ある輩は 伝習兵隊・歩兵隊其外を率ゐて、思ひ思ひに東西及び近国に脱走して諸所に戦ひ、彰義隊は上野に籠りて 何れも徳川家の命令を遵奉せず、事々物々 皆非にして、江戸は恰も乱麻の如く見えたりけり。 中にも上野の戦争は 当時 余が目撃したる所なれば、其概要を云はんに、余は其前より下谷二長町の賜邸に住居したりけるに、朝廷に帰順せざる幕臣の向は 其邸宅を召上らるべき旨に聞えたれば、見す見す彼の金裂きんぎれ(金裂とは、当時官軍が其標識の為に各々戎朊の肩に錦の小裂を付けたるを以て、江戸市中にては之を金裂と異𝪭したり。) 我が邸宅を奪ひ取られんは 胸糞むねくそ 悪き限りなりと思ひたれば、之を他人に売渡し 四月下旬より更に池の端に借宅して居たりき。 然かるに 上野に屯集の諸隊は勇気勃々として、頻りに敵愾の志を懐きたれども、朝夕その所為を傍観せしに 軍隊に規律なく 攻守に戦略なきが如くに見えたれば、余は当時 江湖新聞と代せる新聞を刊行して居たるに付き、少しく其事を論じたるに、忽に彼隊の怒に触れ、脅かされて 謝罪状を書せられたるに至れり。 是より沈黙して 其所為を見たりける中に、官軍は愈々明日を以て上野を攻めらるべしとの報知は、五月十四日 余が友人より来たりて、以て 余に其乱を避けん事を勧められたり。 然とも余は 多分彰義隊は 防戦の非策を行はずして 今夜の中に上野を退散すべし、官軍も亦 上野攻は其虚声を張て彼輩を恐喝する者なるべしと憶測したるを以て、立退の用意も為さず 平日の如くして居たりけるに、五月十五日の朝に至り 砲声は余が一家の夢を驚したれば、扨こそと愕きて 倉皇急に 砲弾の間を潜り、妻子を伴ひて危難を免れたりき。 事 平ぎての後に 其夜帰宅して見たりければ、四壁 所々に鉛弾の痕を止めたり。 然るに 此 僅に一日の戦争の為に、江戸の勢は 依然一変して、幕府の為に、復(また) なすべきの地なきを示したりき。


     幕臣が身を処したる結局

 斯て其後 徳川家には 駿遠参(駿河、遠江、参河) にて 七十万石を賜はつて 其 血食を存せしめらるゝ事に成たれば、幕臣の去就に関して、実に言ふに忍びざる程の 情なき状態を顕はしたり。 是より先き 幕府は命令を其旗本家人に出して云く、幕府既に政権を返上の上は 其の臣下にて朝廷の王臣たらんと望むものは願出よ とて、実に 其王臣と成らん事を勧め諭したれば、五畿東海中国等の如きに知行所を有せる輩は 其所領を安堵せんが為に 王臣と成つたる者も多かりけれ。 然れども、俸禄を廩米(俸給として支給される米)に仰げる輩 および 東国に領地ある輩には、一人の 王臣を願ひたる者も無かりき。 此れ全く各自が 知行に就て 専ら其去就を決したるが極意(本意)なれば、王臣に成たればとて 敢て徳川家に背きたるにもあらず、又 王臣たるを否めばとて 敢て徳川家に無二の忠心を懐くと云ふに非ざりしかども、当時 世間にては 此王臣と成つたる旗本をば 恰も敵国に降りたる失節の臣の如くに罵り、其面に唾せんとの思を為して之を擯斥したりければ、彼の新王臣輩は 江戸に居住するを面恥かしく思ひて、或は采地に去るものもあり、又は 京都に赴くもありて、然らざるは 江戸に在りても 外へ出でずして其の跡を屏(ひそ)めたるは 可笑かりき。
 扨 徳川家は 七十万石の諸侯と成ては、復(また) 従前の如く許多(あまた)の旗本・家人を扶持し得ざるを以て、其事を予(あらかじめ) 示し、彼 臣下が暇を請ひて 農工商に帰せん事を望みたり。 是に於てか彼輩は 御暇を請ふて帰農・帰商するか 但しは駿河へ御共するか、二者其一を択ばざるの場合に迫つたり。 若し 後世よりして当時幕府の進退を論ぜば、此時に暇を請ふて臣籍を去たる輩は 皆不忠者にて、駿遠に御伴したる輩は尽く忠臣の様に思ふべきが、其実際を見れば 是亦 敢て然るに非ず。 詰り 性質 怜悧にて所謂目先の早き輩は、駿河に赴きたりとて 糊口に足る程の禄を受る次第には至らざるべし、憗(なまじ)ひに御伴して主家に難渋を掛け、我身も生活に苦まんよりは、早く御暇を願ひて農工商に帰するに若かずと、見切みきりを付たるより、御暇を願ひたるに外ならざるなり。 然るに 此御暇を願ひたる許多の幕臣中にて 妻子を率て遠く旧采邑に赴くか 或は田畑山林を買求めて帰農したるは、千分の一に出でずして、其他は 都(すべ)て、江戸に現住しながら 直に商人と化したる者ばかりなりき。 是ぞ即ち 士族商法の先鞭にて、一として見るに足るべき者なく、甚だしきは 我家の玄関を直ちに店と為して 所持の什器を陳列し、以て骨董道具商と成るものあり。 更に又 甚だしきは、昨日までは殿様奥様と諸人に尊敬せられたる 門閥の紈袴者流が、世間に体面あるを顧みずして、或は料理屋と成り 或は汁粉・天麩羅・茶漬の店に居宅を変じ、妻子と共に客を迎へ 叩首して 以て賎商の姿態に倣ふ。 夫(それ)も 朝夕の活計に差支るの故を以て 一生懸命に従事せしならば 情に於て尚恕すべき所もあれども、其 十中の三四は、未だ夫程(それほど)の困窮にも陥らず、相応の資財を所持しながら 面白半分に流行につれ 是を以て快事の如くに思ひ、揚々得色あるに至りては、実に憎みても亦 余ありき。 更に一層 廉恥を知らざる輩に至りては、或は狭斜(花柳街)に身を投じて遊女屋となり、引手茶屋となれるもあり。 又は 章台(繁華街)の傍に家を移して、芸者屋となれるものもあり。 是 実に沙汰の限 幕臣の面汚つらよごしとは 此輩の事なりと、少しく気節ある者は、切歯して之を怒つたりしたり。 余が如きも 其切歯連中なりけるが、猶 その実況を視察せんとて、一日 山の手より下谷に掛て 朝より夕に至るまで 足に任せて巡り見たるに、其 体裁所業の奇々妙々なりしは、腹が立つ中に可笑もありて、果は 怒気消散して棒腹に堪えへざるに畢(おわ)りたりき。
 扨又 駿河へ御伴の連中は、真に君家の御先途を見届け奉らんと思ひ込たるは、是亦 十中の一二にて、其余は大抵 一身前途の方向も定まらざれば、駿河に赴きたらば 何とか仕法の付くべきかと、空恃そらだのみを目的にしたる輩のみぞ 多かりける。 尤も 其中には 武士は食はねど鷹楊枝と云へる古諺を墨守したる 古武士風の儕輩も無きに非ざりしと雖も、要するに彼の帰商連中が駿河に御供する者は、皆 腰抜なりと嘲りたる妄評は、全く其の実なきにも非ざりき。 然らば則ち 王臣と成たるも、帰商したるも、御供したるも、其心事を論ずれば、彼これより善きは 或場合に於ては是を見たりと雖も、畢竟 その間の多く優劣あるを知らず。 何れも 気の毒の次第にぞありける。
 徳川家にては、駿河御供の多きに困り果たりと見えて、移住するは勝手なれども、此方よりして命じたる者の外は 扶持方を給すること能はずと触達したるより、御供連中の内には往々見合と回心したる輩もありしかど、夫にても猶 御供いたし度(たく)と 請へるもの多くありて、是を無禄移住とは𝪭付られたり。 何れも 鳥の雌雄 弁じ難き儕輩にてありき。 斯の如く 幕臣は、(一)脱走、(二)王臣、(三)帰農、(四)駿河移住 の四派に分裂して、各々その欲する所に就きたる中に、余は 新聞紙刊行の事より 一時 縛に就きて獄に繋がれ、其後 許されて家に帰りたるに、程も無く 朝廷より徴されたるを、病を以て辞し奉りたりければ、少しく 曰付いはくつきの姿と成りて そぞろに暇も請はれず、又 暇をも出し難き地位と成たれば、其十月に至りて 妻子を横浜に潜ませ、一人にて駿河に赴き 旅宿に寓して 其状況を実視したるに、誰も彼も累々乎として 喪家の狗の如き様子に見え、憫むべきの態のみ。 其中に 東京なる静岡藩邸より厳に余が帰京を促し来りければ、藩庁は 恰も罪囚を逐ふが如くに 余を遇して 出発を迫りたり。 乃ち東京に帰りて 更に微辟を謝し、其後 藩邸に乞ふに御暇の事を以てしたれども、邸吏は彼是と辞を左右に托して許さざりければ、余は 其待遇の不平なるを憤り、御暇申受の届を差出たる儘にて、其結局を問はず、直に身を市井の間に投じて、浅草に寓居したりき。 是れ 余が幕府に於ける最終の結末なりき。
 此余(このほか) 余が幕府に在りける間に、親しく接近したる 幕末の三傑 水野筑後守・岩瀬肥後守・小栗上野介 を初として、川路・掘・筒井・森山 等の諸𝪭士に関して、猶 追懐せる事の多けれども、そは他日 幕末史稿を編するの時に於て叙述する事として、余が往事を懐へる談は、暫く此に筆を絶つ。



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