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「迴瀾集・第十編」 目次


 滝桜記           佐藤 精明
 海岳集後序         平井  参
 仰高録序          平井  参
 左右修竹居記        石崎 政氿
 紀俳優岩井半四郎事     石崎 政氿
 佐藤双峯先生九十寿序    岡  次郎
 和気公画像賛        岡  次郎
 石川文荘先生七十寿序    井上高太郎
 駒田侗翁哀辞        井上高太郎
 頼君墓碣銘         高 於兎三
 陸軍歩兵大尉大賀君墓表   高 於兎三
 送落合東郭還郷序      古城 貞吉
 華陰文章序         古城 貞吉
 書篁村先生手簡後      石川二三造
 井上寅軒先生七十寿序    西脇 玉峯
 遊法泉寺記         赤塚 善助
 先考晩拙先生画像記     平松 得一
 中江兆民伝         安藤栄之助
 書壬癸集後         近藤潤治郎
 送駒田侗斉先生序      加藤梅四郎
 有智子内親王小伝      沢田 総清
 書四部叢刊広韻後      斎伯  守
 記張徳麟事         藤野 岩友
 書景印送了庵和尚序後    鈴木由次郎

  右(上)二十四篇は、社員の為(つく)る所にして、
  編次(編集)一切は、総(すべ)て 前例に準じたり。
   昭和十一年十二月 編者 記す。

「迴瀾集」 第十編

 昭和12(1937)年2月 発行。
 活字印刷、線装、1冊。 縦 23 cm、横 13 cm。 本文 23葉。
 編輯・発行者 : 加藤 梅四郎。


 「迴瀾集」は、漢詩文を本領とする文学者の結社「迴瀾社」が、定期的(年1回)に発行していた 作品集である。
 昭和12年度発行の この第十編には、18人の作者による 24篇の文章が掲載されている。

 「一部紹介」 としては、次の 3篇の全文を、訓読により掲げることとする。
 佐藤 精明(双峯) 「滝桜記」
「滝桜」は、福島県三春町に現存する名木であるが、その花の見事さが国内に広く知られるようになったのは 江戸時代後期のことで、この文は その知られるに至った経緯を記している。
 作者の佐藤については、本集中の「佐藤双峯先生九十寿序」(岡 次郎)に その業績等が述べられているが、主として教職にあった人のようである。

 近藤 潤治郎(膠堂) 「壬癸集の後に書す」
 「壬癸集」は、中国の古典学者・王国維(号:観堂、1877~1927)が 青年時代に刊行した詩集である。 近藤は この書を個人的に入手し、そこに王国維が自ら書入れて誤植を訂正しているのを見い出し、親しみを感じて(その書の巻末に)この文を書き加えたのである。

 沢田 総清(東皋) 「有智子内親王小伝」
 有智子内親王(807~847)は、52代・嵯峨天皇(在位:809~823)の皇女で、聡明であったため、幼くして賀茂神社の斎院(神をまつる祭主)という特殊な地位におかれた。 やがて、宮廷での詩賦の行事等で その文学的才能を発揮し、人々の注目を集めた。 平安朝女流文学の先駆者的存在であるが、漢詩文のジャンルでの活躍であったので、現在ではあまり知られていない。
 こういう人物を取り上げるのも、この分野の専門家ならでは のことであろう。




本文の一部紹介






滝桜記(たきざくらのき)     双峯  佐藤 精明

 磐城(いわき) 田村郡 中郷村 滝里は、三春城の東南 一里に在り。 老桜 有り。 幹の長さは、六丈三尺。 囲(周囲)は、三丈四尺。 輪囷離奇(ねじれ、まがりくねる)し、枝葉繁茂して、樹齢は凡そ六七百年。 其の滝桜と称せらるるは、地名(滝里)に因(ちな)めり。 花の時、之を遠望すれば、万蕊(すべての花)(ひと)しく開きて 白雲の靉靆たる(さかんに わきあがる)が如く、之を近くに観れば、綴珠(珠玉を縦横につなぎ合せて 布のようにしたもの)の玉の如し。 風姿優艶、清香馥郁として、名状すべからず。
 昔時 三春藩士の草川次栄、京師(京都)に遊び(滞在し)、滝桜の老大(年をへて立派なこと)を語るに、一時に喧伝し、遂に 光格帝(119代・光格天皇、在位:1779~1817)の聖聴に達す。 帝 曰く、「是れ、天下の奇木なり」と。 乃(すなわ)ち 詔(みことのり)して、之(草川次栄の語ったこと)を録せしむ。 是(ここ)に於いて、搢紳(公卿などの宮廷関係者であろう) 相い競うて国雅(和歌)を詠じ 以て之を献ず。 次栄 大いに喜びて謄写し、携えて帰る。 藩の大夫(幹部)の安倍季春も亦(また) 風流韻事を好む。 而して 其の寡単(歌数の少ないこと)を憾み、更に広く名士の詠(和歌)を募り、編輯して一巻と為し、工(画工)に命じて其の桜を画(えが)かせ、又 昌平黌儒官の河田興(号:迪斎、1805~1859)に属(依頼)して 其の顛末を叙せしむ。
 昭和十年十月、内務省は指定して 此の桜を天然記念物と為す。
 老桜は、依然として 花を著(つ)け、芬(かおり)も芳(かんば)し。 其の奇は、千載を以て伝ふべし。
 九十翁 佐藤精明 撰(つく)る。







書壬癸集後(壬癸集の後に書す)     双峯  近藤 潤治郎

 王観堂は、弱年(若い頃) 東京物理学校(現在の東京理科大学)に遊び(留学し)、中道にして疾(やまい)を得て、国に回(かえ)る。 北京に寓居し、多く 乙部の書(歴史書)を読み、又 英法・哲学の説に耽る。 辛亥の変(1911年(辛亥の年)、中国に中華民国が成立し、それまでの清朝は崩壊、皇帝が退位した政変。いわゆる「辛亥革命」)の起るに迨(およ)び、羅叔言(ふつう 羅振玉の名で知られる 古典・古代史学者。1866~1940)に従いて 我が邦に亡命す。 尽(ことごと)く 前学を棄て、専(もっぱ)ら経史を治む。 而して治学の法は、一に高郵の王氏(王念孫 1744~1832、実証的な訓詁学者)に仿(なら)う。 丙辰(1916年)の春、上海に帰り、専ら考古の学に力(つと)む。 敦煌、殷墟等の出土文字は、皆 其の攷験(研究)を経たり。 卓識・篤論は 能く前人未発の詣(ところ)を発(ひら)き、燦然・著明たり。 学者の多くは、之を規撫(規模=てほん か?)とす。 惜しむらくは、丁卯(1927年)の夏、自ら昆明湖(北京の頤和園内の池)に沈む。 時に、年 五十有一。
 斯の編(「壬癸集のこと)は、壬子・癸亥の間(1912~1923年)に作る所の 「頤和園詞」以下の古今体詩二十首を集め、日本の古活字を用いて排印(印刷)せり。行間に 墨書にて魯魚(誤り)を訂正す。 手沢(故人のあと)、喜ぶべし。 二十年前、余は 「頤和園詞」を「芸文」(京都大学関係者による京都文学会が発行していた雑誌)誌中に読み、始めて其の名を識りき。 今 重ねて其の詩を読むに、猶 再び故人に逢うが如し。 而して 世変 亟(すみやか)なれば、頤和園 亦 問うべからず。 則ち 観堂の「懐沙」(中国・戦国時代の楚の屈原が、世の乱れを憂えて汨羅江に身を投じた際に 作った詩)を賦したるも 亦 宜(うべ)なるかな。







有智子内親王 小伝     東皋  沢田 総清

 有智子(うちし)内親王は、嵯峨天皇の第八皇女なり。 母は 交野(かたの)女王 と曰う。 弘仁元(810)年、年 甫(わずか)四歳にして 賀茂の斎院となる。 斎院の設けは、嵯峨(嵯峨天皇)の之(これ、賀茂の斎院)と平城(平城上皇)の之(これ、伊勢神宮の斎王)とは 友ならざれども、以て先霊に祈るを以て せしなり。
 内親王は、文藻(文才) 有りて、史漢(史記や漢書)に通ず。 十四(823)年二月、天皇 斎院に幸(行幸)し、文人をして 韻を探り 春日山荘の詩を賦せしむ。 内親王は、「塘」「光」「行」「蒼」を得たり。 則ち

   寂寂幽莊水樹裏   寂寂たる幽莊 水樹の裏(うち)
   仙輿一降一池   仙輿 一(ひと)たび降る 一池塘
   栖林孤鳥識春澤   林に栖む孤鳥は 春澤を識(し)
   隱澗寒花見日   澗(たに)に隱るる寒花は 日光を見る
   泉聲近報初雷響   泉聲 近く報じて 初雷響き
   山色高晴暮雨   山色 高く晴れて 暮雨行く
   從此更知恩顧渥   此より更に知る 恩顧の渥(あつ)きを
   生涯何以答穹   生涯 何を以てか穹蒼(あおぞら。天皇にたとえる。)に答えん

 時に 年 十七なり。 天皇 嘆賞し、三品(さんぽん。皇族としての位で、臣下の正三位・従三位に相当。)を授け、懐(おもい)を書して之に賜うて曰く、「忝(かたじけな)くも文章を以て邦家に著(あらわ)る、永楽を将(も)て 烟霞に負(そむ)くこと莫(な)かれ。 即今 永く幽貞の意を抱き、事 無くして 終(とこしえ)に 須(すべから)く歳華(としつき)を遣(おく)るべし。」と。
 天長八(831)年 斎院を辞し、嵯峨西荘に居す。 仁明天皇(54代、在位:833~850)即位し、承和元(834)年 二品に叙し、伯耆・会見郡の荒廃田百二十町を賜う。 十四(847)年十月二十六日 薨ず。 年 四十一。 薄葬を遺言し、葬使を受けず。
 内親王の 天資貞潔にして、錦心繍腸たるは、古今に罕(まれ)に見る所なり。
 惜しむらくは、其の詩の多く伝わらず、『経国集』に載せるは 僅かに七首にして 豹の一斑に充(あて)らるるのみ。

 沢子(わたくし 沢田)曰く、本朝の閨秀詩人は 甚だ少なしとせず。 而して 慶雲・天長の際(奈良時代から平安初期を通じて、の意か)、内親王は翹楚(才能が衆にすぐれ、見上げられる存在)(た)り。 「山高」「漁家」の諸篇、皆 誦すべし。 当時を顧れば、唐の文明は我が邦に灌注され、嵯峨天皇 上に在り、源弘・源常・源明等(いずれも 嵯峨天皇の皇子、すなわち有智子内親王の兄弟で、源姓を与えられて臣籍に降された) 下に在りて、皇(すめらぎ)の風雅を張れり。 内親王は 其の間に伍し、父子兄弟の薫染の深きは、猶 班氏に曹大家の有るがごとし。(中国・後漢の班彪(3~24)、その子の班固(32~92)、班固の妹・班昭は、いずれも歴史家として活躍した。このうち班昭は宮廷の教育係となり、その面では「曹大家」と呼ばれた。 作者は、有智子内親王の場合もその関係に似ている とする。)
 林鵞峯(1618~1680、江戸時代前期の漢学者)は 「本朝一人一首」を撰して、諸(これ。すなわち有智子内親王. )を 烏孫公主に擬せしが、猶 篤論(充分で、適切な議論)には非(あら)ざるなり。 (中国・前漢の劉細君という女性は、武帝の命で遊牧民族・烏孫の王に嫁がされた(それで烏孫公主と呼ばれる)が、その王が死ぬと、烏孫の習慣で、王の孫と再婚させられ、一層の同情を集めた。作者は、この比擬は適切でない、とする。)




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