らんだむ書籍館

表紙


目 次

 〔図版〕
 故 息軒安井先生 (肖像画)
 安井息軒先生碑銘
 蒙古碑
 多胡城碑

 読書余適序   黄 遵憲
        (小野鵞堂 書)

 読書余適 (巻之上、巻之下)

 睡余漫稿

肖像

碑銘

黄遵憲の「読書余適序」



安井息軒 「読書余適・睡余漫稿」

 明治33(1900)年11月。
 発売元 : 成章堂。
 活版印刷、線装、1冊。 縦 23.3 cm、横 15.7 cm。 本文 53 葉。


 安井息軒(寛政11(1799)~明治9(1876))は、幕末~明治初期の儒学者。  日向・飫肥藩の藩儒から、昌平黌の教授になった。  「管子纂詁」、「左伝輯釈」、「論語集説」、「息軒文鈔」などの著書がある。

 本書は、安井家に蔵されていた息軒の遺稿を、遺族と門弟達が協力して 逝去から24年後に出版したもので、「読書余適」は天保13(1842)年に東北地方を旅行したときの日記、「睡余漫稿」:は詩稿である。
 このうち「読書余適」には、清国の官吏(外交官)で、学者・詩人として著名な黄遵憲(1848~1905)の序文が付されている。
 遺稿を出版するということは、故人の業績を改めて世に知らしめる意図があるから、この書の初めには、図版として 息軒の肖像画や碑文が添えられている。
 また、これらに併せて、旅行日記中の記事に関係した図版(蒙古碑と多賀城碑の拓本)も掲げられている。
 これら図版や序文も なかなか興味深いものなので、なるべく丁寧に紹介していくこととしたい。


図 版 : 安井息軒の肖像



 「故息軒安井先生」というタイトルが付されているのみで、いつごろ誰によって描かれたかの説明はないが、この肖像画はよく真を写していると思われる。
 森鴎外の小説「安井夫人」(大正2(1913)年発表)の冒頭に、「不男(ぶおとこ)」として具体的に描写されているとおりの容貌だからである。
 「安井夫人」は、息軒の夫人・佐代の生涯を描いた作品である。 佐代は、「岡の小町」と呼ばれる評判の美人であったが、16歳のとき、自ら進んで「不男」の息軒の許に嫁いできた。
 息軒の伝記(若山甲蔵著「安井息軒先生」、大正2年刊)を読んでそのことを知った鴎外は、はなはだ稀有のこととして、佐代に興味を覚え、この作品を書いたらしい。 美しい人に憧れ、これを愛することは、男女ともに自然な感情である。 同様に、醜い者を厭うのも自然な感情で、これらは古今東西にわたる真理のようなもの(?)である。 この真理にいささか反する事実を発見したことが、鴎外の執筆動機となったのではないだろうか。
 鴎外は、息軒を選択した佐代に何が成就したのかを 見究めたかったのであろう。 しかし、息軒の経歴の間に垣間見える佐代の姿は、夫に連れ添って質素な生活を送ったというだけのものであった。 また、息軒が78歳まで生きたのに対し、佐代が51歳で亡くなったという事実は、献身の労が過大であったことを窺わせる。 かくて鴎外は、佐代の生涯が充実したものであったと確信することはできず、「安井夫人」の終わり近くに、次のような漠とした記述を置かざるをえなかった。
 「お佐代さんは必ずや未来に何物かを望んでゐたゞらう。そして瞑目するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれてゐて、或は自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。其望の対象をば、或は何物ともしかと弁識してゐなかったのではあるまいか。」

 息軒その人にとっては、お佐代さんという美しい妻を得たことは、非常に大きな意味のあることだったに違いない。
 息軒とて、本来、容貌についてのコンプレックスがあったはずで、それを払拭して 自信のある行動を取り得たのは、この幸運に負うところが大きかったと思われる。 息軒は自覚していなかったのかもしれないが。


図 版 : 安井息軒先生碑銘



 明治11(1878)年に 墓側に立てられた碑の拓本を、縮小して掲げている。

 碑は、中国の神道碑の形式に則った、立派なものである。
 上部には、「篆額」と呼ばれる部分があり、篆書体で「安井息軒先生碑銘」と横書きされている。 これを書したのは、清国高官の応宝時という人で、この人は「管子纂詁」にも序文を書いている。  篆額の下には、碑の本文(碑文)がギッシリと刻まれている。 文章を作成したのは川田剛(号・甕江、1830~1896)、清書したのは日下部東作(号・鳴鶴、1838~1922)である。 それぞれ、漢詩文、書道の分野で、明治を代表する存在であった。  文は、息軒が 塩谷宕陰、芳野金陵とともに昌平黌の教授に選任されたこと、すなわち息軒の生涯における最も輝かしい履歴の記述から始まっている。 三人の中で、息軒は最も年長であり、最も学問が深く、議論・文章においては最も円熟していた。 多事多端で幕府が衰亡に向かう折、息軒は当路の人にいろいろ献策したが用いられなかった。 このため、白河の代官に任命されたものの、老齢を理由に辞し、以後は専ら著述に従事することとなり、その名は遠く海外に聞こえるに至った。 … ここに、その学識・人格を称揚するための前置きとして、
 「先生、長(せたけ)は六尺に満たず、貌(かお)は寝(みにく)きも…」 の語がある。 息軒という人物について述べるうえで、やはり逸することのできない特徴であったのだろう。 文にはまた、息軒が死の三日前にこの川田剛を病床に招き、墓誌銘の執筆を依頼したことが記されている。
 そのあとの、全体の真ん中より少し後ろの方から、
「先生、諱は衡、字は仲平、号は息軒。 先世は出羽の人にして、…」
という書き出しで、新たな文節が始まっている。 この後半部分が、通常の碑文のスタイルなのである。 つまり、それまでの前半は、川田剛が息軒の付託に応えて、特別に構成した部分といえよう。 佐代のことは、この後半部分に「川添氏を娶る」と簡単に出てくるだけで、名前も記されていない。 こういう碑文は、中国の男尊女卑の伝統も受け継いでいるのである。
 この碑は、東京・駒込の養源寺にある 息軒の墓域に現存している。
 このあとに続けて、蒙古碑と多賀城碑の拓本が掲げられているが、蒙古碑の方のみ、本文紹介のところで示すこととする。


黄遵憲の 「読書余適序」



 まず 碩学の手になるものは余考雑説といえども尊ぶべき旨を述べていて、その一般論が 依頼に応じての作成であることの表明であるように感じさせる。
 いささか注目されるのは、次の記述であろう。
 「余、未だ東海を渡らざるに、既に安井息軒先生の名を聞けり。江戸に来るに逮ぶも、先生没して既に二年にして、相見ゆるに及ばざりき。余、其の著作を読むに、体(構想)大にして思(考察)精しく、我が朝の諸老の風有りて、日本第一の儒者なりと信ず。物茂卿(荻生徂徠)・頼子成(山陽)の輩は、恐らくは比数するに足らざるなり。」
 ずいぶん高く評価したものであるが、かなりお世辞が含まれているようである。
 黄遵憲は、詩人としては中国古典詩(我々のいわゆる漢詩)の棹尾を飾る人で、その作品を集成した詩集「人境盧詩草」のほかに、日本に関する様々な事項を七言絶句で詠み、自注(解説文)をつけた「日本雑事詩」というユニークな詩集がある。 この中に、日本の漢学者の文章についての詩がある。
 「徂徠より外に山陽あり、余子の文章もまた場をほしいままにす。…」
 さきほどの荻生徂徠と頼山陽を代表に挙げて、日本の漢学者の実力を高く評価しているわけである。 自注の方には余子(その他の人々)の名がたくさん挙げられているが、とくに優れているとされるのは、塩谷宕陰・安井息軒・斎藤拙堂・古賀精里の4人である。 これが本来の評価と考えられるから、この序文で息軒を「日本第一の儒者」としたのは、特別サービスであろう。
 終わりの方では、この序文を書くに至ったいきさつが記されている。 すなわち、息軒の門人の松本豊多という人が、自ら書写した「読書余適」:の写本を黄遵憲に示し、序文を求めたのである。(このことは後述の「例言三則」にも記されている。)
 序文を執筆したのは光緒7年、すなわち明治14年(1881年)で、黄遵憲の来日4年目の年、また本書刊行の19年前である。
 この黄遵憲の生涯や業績をきわめて適確に紹介したものとして、増田渉の「黄遵憲について」(『中国文学史研究』 昭和42(1967)年刊、所収)があるが、この増田の文は、黄遵憲が来日中に交遊関係をもった人々の中に 誤って安井息軒を数え入れている。
 なお、黄遵憲の序文を清書したのは 小野鵞堂(1862~1922)で、この人も高名な書家である。

 この序文のあとに「外孫・朝康」という人による「例言三則」という文章があり、本書の刊行に至った経緯などが記されている。  朝康とは、息軒の長女・須磨子の子の小太郎(1858~1938)のことで、中村氏であったが、飫肥藩に属する安井家を継いで安井小太郎となった人である。 漢学者としていくつかの学校で教鞭をとり、後には東京大学文学部教授となった。
 鴎外は、「安井夫人」の原稿をこの人に見せ、事実の誤りを訂正したという。


「読書余適」





 「読書余適」は、天保13(1842)年の7月2日から8月23日までの52日間にわたって、東北地方を旅行したときの日記である。
 ただし、旅行中に記したままのものではなく、後に整理を加えたものであろう。 歴史的な考証などが行き届いていて、その時々に書き上げたものとは到底考えられない部分があるからである。
 はじめに、「はしがき」とでもいうべき短文が置かれ、その冒頭に明の学者・謝肇淛の語が引かれている。
 「未だ曽て見ざるの書を読み、未だ曽て到らざるの山水を歴れば、至宝を獲、異味を嘗むるが如し。 一段の奇快、以て人に語り難し。」
 これは『五雑組』中の語であるが、息軒の思いにぴったりだったのであろう。 息軒は、「是れ、先ず我が心を獲たり」と言い、続けて旅行の動機を次のように述べている。
 「予、西鄙に生長し、山水は其の素なり。 居を都に移してより五年、足跡は未だ嘗て郊門を出ずることなし。 未見の書はほぼ一斑を窺ふも、湫隘(土地が低く 湿気が多い)の巷は目に寸碧無く、籠鳥、恋雲の想ひの無きこと能はず。 …」
 息軒は、この旅行を「塩松の遊」と称している。 塩松とは、塩釜と松島(のあたり一帯)を言うので、これを第一の目的地と考えていたらしい。
 この旅行には、旧友の河添原泉という人が同行することになった。 この人は、息軒が初めて江戸に出て 古賀侗庵の塾に入門したときの同学で、以来交際を続けていたのである。
 息軒の旅行経路をその宿泊地で示せば、次のとおりである。

江戸 → 糟壁 (埼玉県春日部市) → 諸川 (茨城県三和町) → 加美川 (栃木県上三川町) → 宇都宮
 → 日光 (2泊) → 今市 → 高原 (栃木県藤原町) → 糸沢 (福島県田島町) → 大内 (福島県会津本郷町)
 → 会津 (福島県会津若松市)(2泊) → 柳津 (福島県柳津町) → 会津 (2泊) → 猪苗代
 → 繋 (山形県米沢市綱木) → 米沢 (2泊)  → 新硎 (山形県白鷹町荒砥) → 大沼 (山形県朝日町)
 → 山形 → 川崎 (宮城県川崎町) → 仙台 (3泊) → 松島 (宮城県松島町) → 小野 (宮城県鳴瀬町)
 → 柳津 (宮城県豊里町) → 賀沢 (岩手県花泉町金沢?) → 一関 → 古川 → 仙台
 → 坂下 (宮城県丸森町) → 中村 (福島県相馬市) → 小高(福島県小高町) → 大江 (福島県浪江町?)(2泊)
 → 富岡 (福島県富岡町) → 平 (福島県いわき市) → 平潟 (茨城県北茨城市) → 田口 (茨城県高萩市?)
 → 額田 (茨城県那珂町) → 鉾田 (茨城県鉾田町) → 島波(茨城県麻生町島並) → 土浦 (2泊)
 → 筑波 (茨城県つくば市) → 下妻 → 結城 → 粕壁 (埼玉県春日部市) → 江戸


 簡単にいうと、日光から中央の山岳部を通って会津、米沢、山形と進み、山形から右に転じて仙台に行き、そこから主目的である「塩松の遊」:をなした。 さらに北の一関に進んで、最北は平泉の中尊寺である。 仙台に戻ってからは、太平洋側の道を通って帰路に着くが、途中いろいろ遊覧を試みており、とくに水戸を通過してからは左右への迂回が多い。 このため、土浦から水戸街道のコースをとらず、往きに通った粕壁(春日部)まで戻ってから、江戸に入っている。

婦人有り、来り揖(おじぎ)して 騎を勧む。
馬いづこに在りやと問へば、曰く、松原に
(まぐさかう)と。
馬卒は誰なりや、曰く、妾(わたし)なりと。
笑ふて之を許す。 騎するに及べば、馬また
牝なり。 覚えず一哄せり。 …
 息軒は、健脚だったようである。
 出発間もない第二日目は、久しぶりの遠歩きで足にきたようで、諸川(茨城県三和町)の手前1里半ばかりを馬に乗っているが、翌日には快復した。 以後馬に乗ったのは、宇都宮から日光への途中、女性の馬子に勧められたときだけである。 この女性の純朴さにひかれたのであろう。 駕籠は、全く利用していない。
 地図上で照合すると、直線距離で20km以上歩いている日が多い。 高原(栃木県藤原町)から山王峠を通って糸沢(福島県田島町)に抜けるところや、猪苗代から桧原峠を通って米沢側に抜けるところ(それぞれ30km位)など、山道の連続でさぞかしキツかったろうと思われる。(今のハイカーのような装備もなかったわけであるから。) しかし、我々のように足腰の痛みや疲労を訴えることもなく、翌日も平然と歩き続けている。 つまり、全行程をほとんど自分の足で歩きとおしたのである。

 この旅行の目的は遊覧であるから、息軒はもちろん、名勝や史跡を訪ね、そのことを楽しんでいる。 しかし、それだけでなく、通過するにすぎない地についても、地理・産業・藩風などを実にしっかりと観察している。 また、とくに史跡については、かなりの考察を加えていて、息軒は国史にも造詣の深かったことがわかる。 ところどころで、旧知の人々との交流などもあった。 これらの記述が渾然一体となっているのが、この旅行記の魅力であろう。

江戸川流域を行く
* 溝渠と水運

 糟壁宿を出て関宿の方向に向かう息軒の目に入ったのは、田園地帯を縦横に走る溝渠や、茅葺き屋根の上を白帆が動いている光景である。
 息軒は、ここ下総が水に恵まれた米作地帯であり、また利根川と江戸川が結ばれた舟運の要めの地であることを実感したのであった。
 そこで彼は、既に有している知識を総合して、この地域についての人文地理学的な記述を試みている。
 駅(糟壁)を出て右折し、路を小潭に取る。 総(上総・下総)は沢国(水の豊かな地)なり。 溝渠縦横にして、灌漑の利、天下に甲たり。 地勢は武(武蔵国)と別なるも、今の割は武に隷し、理勢は固より宜し。 然るに、古人の分州の意は、講ぜざるべからず。 行くこと三里ばかり、忽ち白幢の茅屋上を行くを見る。 諦視すれば則ち帆なり。 堤に登りて、小鎮を得。 鎮外は則ち江戸江(江戸川)にして、利根江(利根川)を分派し、南流十余里、下総の嶴(オウ、山あいの平地)に入る。 流れは特に深く、運船の九百石を装するもの有り。 総常二毛、及び奥福島以南、信鳥井嶺以東は、みな此に漕し、南、行徳に至り、剥運(荷分け)して江戸に達す。 …
会津で旧友と逢い、
温泉に遊ぶ

 会津(会津若松)の宿に着いた息軒は、昌平黌で同窓の堀士遜という人に手紙を出し、到着を知らせた。 堀士遜は翌日の昼頃にやってきて、温泉に行こうと誘ってくれた。 記事から察するに、いま東山温泉の「滝の湯」と呼ばれている所のようである。
 温泉に入ってさっぱりしたところで、小宴となった。 堀士遜は、藩の公事奉行という役職についており、充実した仕事振りに見えた。 それで息軒は、ちょっと先を越されたように感じたらしい。
… 泉(温泉)は城東一里に在りて、緇渓、之を帯ぶ。 瀑有り、高さ二丈余なり。 一渓奔抛し、数十匹の練(ねりぎぬ)を掛けたる如し。 浴室はまさに其の上にありて、臥して全幅を観る。 故に、瀑を臥観(伏見の滝)と名づけ、泉を瀑湯(滝の湯)と名づく。 此の日、熱きこと甚しきも、一浴して楼に倚れば、渓声樹を震せ、山籟時に来りて、涼しきこと深秋の如し。 士遜、齎すところの行厨(べんとう)を開き、吟觴自適す。 既に月は東山に上り、水煙は空に浮びて、身心一洗す。 因りて憶ふ、士遜と茗黌(昌平黌)に遊びしときを。 志気、まさに盛んに、眼は一世を空とし、誓ひて人の為す能はざる所を為さんとす。 指を屈すれば、巳に一章(19年)に近し。 予はなほ書生たり、頽然として自ら放(ほしいまま)にす。 士遜は累擢されて公事奉行となり、力を職する所に陳ぶ。 自ら云ふ、この春、圄(牢獄)の空たること六十日、藩祖而来、始て之を致すと。 窮達、途は異ると雖も、同じく半老たり。 士遜は巳にニ毛(しらがまじり)を見、予もまた禿げて鶖(はげこう)の如し。 疇昔を追話して、爽然自失たり。 蓋し、予の志、此に至りて、復た一折す。 …
米沢の藩校
(興譲館)

 米沢では、藩の人たちに案内されて藩校(興譲館)を見学した。 この訪問は、充実したひとときであったに違いない。
 息軒は、米沢に入った前日の日記に、天保7~8(1836~7)年の飢饉で東北地方には数万人の死者が出たが、会津・米沢の2藩には1人の餓死者もなかったこと、とくに米沢は豊かで、政治のあり方がこの結果をもたらしたものであることを述べている。 このため、堅実な米沢藩政の基礎を作った上杉鷹山に特別な敬意を抱いていたようである。
 ここでも、鷹山が師の細井平洲を郊外に出迎え、歩行して導いたという有名なエピソードが述べられている。 この日に藩の人たちからも聞かされたのであろうが、その前から聞き知っていたような書きぶりである。
 この見学で息軒が特に注目したのは、米沢藩が所有する宋版の漢書であった。 彼は宋版漢書が中国にも残っていないことを知っていたので、この書の重要性をただちに確認した。 他にも、同様に重要な書籍がありそうだったが、宴会への出席を促されたので、詳しく見ることができなかった。 さぞ残念なことだったであろう。 遠来の人に対して、その人の目的が満たされるように対応するよりも、饗応の方が優先するのは今日でもよくあることである。
 この宋版の漢書(および史記、後漢書)は、今は国宝に指定され、国立歴史民俗博物館の所蔵となっている。
 ただし、直江兼続が文禄の役(壬辰の役)の際にこれらの書を獲たとしているのは誤りで、これら漢書など三種の宋版の史書は足利義満の時代から京都に存在していたことが明らかになっており、兼続は文禄の役に従軍する以前に南化玄興という禅僧から譲られたのである。
… 橋本伯恭・飯田世坦(米沢藩の藩士であろう)来り、申牌(午後4時頃)、導いて国黌(藩校)を観す。 廟堂、寮、塾、尽く具はる。 其の大聖殿の匾(扁額)は、即はち鷹山公(上杉治憲、1751~1822)の書する所なり。 昔人、其の人を思はば、其の樹を敬す。 況や手沢をや。 公、学を好み、尤も師儒を敬重す。 其の師・紀徳民(細井平洲、1728~1801)、嘗て米沢に来る。 公、鹵簿(行列)して之を郊に迎ふ。 曰く、「今日、先生の為に前駆す」と。 騶(御者)に従ひて屏去し、歩みて之を導き、且つ行き、且つ顧み、以て子城に至る。 観る者、堵(かきね)の如し。 皆、公の尊きを忘れ、平洲の道を以て自ら重んずるを嘆ず。 其の政績に至りては、府朝之を賞し、輿人之を誦す。 今また逸事を摘せるは、其の治の自ら有るの見はるを云ふなり。 既にして一小室に入れば、教授・坂千丈の輩、来会せり。 古本漢書を観るに、模印精明、注家尽く具はり、葉毎に欄後に篇名を著す。 其の紙は堅靭にして、簾紋無く、朱紙にて之を装す。 乃ち、宋板の佳なるものなり。 之を聞くに、文禄中、其の大夫(家老)直江氏(直江兼続、1560~1619)、勇にして学を好み、藤惺窩(藤原惺窩、1561~1619)ら諸人と交はる。 壬辰の役(1592年の朝鮮出兵)に、慨然として其の徒に語りて曰く、「我が師(軍隊)独り鮮奴の髯首を芟(と)るを喜ぶ。 これ何ぞ用いる所ぞ。 我れ将に至宝を攫り、以て万世に幸せんとす」と。 書数筐を取りて帰る。 直江氏亡び、其の書は公に帰す。 即ち此の本なり。 其の装は、蓋し直江氏の改むる所と云ふ。 宋板の漢書は、彼(中国)の中にては既に亡ぶ。 予の聞く所を以てすれば、漢書の善本は、宇宙間にただ是の書有るのみ。 信(まこと)に、万世の儒者の幸なり。 また左伝・史記等有り。 亦、直江氏の齎し帰る所なり。 時に諸子、宴を輪王寺に設け、督促頗る急なれば、皆、詳を致すに及ばず。 因て念ふ、他日、数月の暇を獲て、山井鼎(校勘学者、1690~1728)の「考文」(「七経孟子考文」)の例に倣ひ、精対して一書を為さば、亦、芸林の一勝事ならんと。 乃ち之を千丈に謀るに、千丈は唯唯たり。 寺に至れば、則ち暮ぬ。 僧は雪庭と曰ひ、善く飲む。 勝景無しと雖も、地は頗る幽静なり。 弦月は山を離れて楼壁に横射し、風涼しく談は清し。 亦、此の遊の罕に遇う所なり。
蒙古碑
 仙台に着いて3日目、いよいよ息軒は「塩松の遊」のために塩釜に向かうのであるが、その途中、燕沢という所にある「蒙古碑」に立ち寄っている。

 この碑は、仙台市宮城野区燕沢の善応寺に現存するようである。 息軒は「後人に質す」と述べているが、今では里末清俊が何人なのかが明らかになっているのであろうか。
 燕沢から東に1里のところには、有名な多賀城碑がある。 息軒はここも訪れており、碑の建てられた当時の情勢などについて更に詳しい考察を行なっている。(ここでの紹介は省略。)
…  碑文四行有り、曰く、「夫以人直宜従道。人正益挙教。云刈丘断囟砥弔亡魂。元前死次後殞矣。 弘安第五天。玄黙敦祥。仲秋二十日。彼岸後。里末清俊謹拝。」と。
 字は省画多く、篆籀雑出(篆文や籀文など 各種の字体が入り混じっている)す。 土人(土地の人)、之を蒙古碑と謂(い)ふ。 史を按ずるに、元の世祖・忽必烈(フビライ、1215~1294)、巳に海西を蕩平し、狡(わるがしこ)くも東境を闢(ひら)かんとす。 しばしば我を修聘するも、報ぜず。 文永十一年(1274年)冬、元人、辺を寇すも、撃ちて之を却く。 既に我が俗の浮屠教(仏教)を信ずるを諜知し、禅僧を来問せしむるも、終に要領を得る能はず。 弘安四年(1281年)、忽必烈、其の将・范文虎等を遣はし、大挙して筑紫を侵す。 神風簸蕩し、賊軍覆没す。 我が兵、機に乗じて奮撃し、大いに之を平戸島に敗る。 捕獲三万人なるも、于閭・莫青・呉万五の三人を赦し、遣帰す。 碑の建つるは、其の明年に在りて、明らかに其の敗を弔したるなり。 然るに、我が其の間を覚るを恐る。 故に、其の辞を模糊とし、その字を闕略し、また之を僻遠の地に置く。 其の志は憫むべく、其の情は憎むべし。 鎌倉円覚寺の開祖は、仏光(無学祖元(1226~1286)の禅師号)と曰ひ、胡僧なり。 世、伝へてこの碑の戒師となす。 知らず、云ふところの里末清俊は其の徒弟なるか、または仏光の俗姓の里末なるか、因りて之を追記せるは 禍を避け且つ其の志を寓するかを。 文献足らず、書して後人に質(ただ)す。
飢饉の惨状
 息軒は、多賀城碑を訪れたあと塩釜に至り、そこから舟に乗って松島を遊覧した。 その夜はそのまま松島に泊り、翌日は瑞巌寺を見物した。 これで、念願の「塩松の遊」を果たしたので、そのまま次の目的地の一関へと向かった。  街道に出た息軒を驚かせたのは、立ち並んだ卒塔婆であった。 これは申酉(天保7・8年、1836・1837年)の飢饉の死者を弔ったもので、飢饉は この時、すなわち息軒がこの地に来たとき(天保13年、1842年)より5-6年前に起ったことである。 … 山後より下りて、復た官道に出で、鳴瀬河に沿ふて東す。 巨なる木塔多し。 高きこと丈余にして、面に仏語を書す。 尾に云ふ、「申酉(天保7・8年、1836・1837年)に餓死す」と。 一老父を見、之に問ふて曰く、「餓死のさま如何」と。 額を蹙(しか)め、答へて曰く 「此より津頭(港)に至るは只三町のみなるに、一日に倒れ 尸(しかばね)となるもの三十五に至る。 其の存する者も、気息淹々たり。 是に於て、比の村、議を建て、五大穴を穿ち、之を叢埋す。 穴する者、二百五十人、皆良民なり」と。 嗚呼、悸(キ、胸がつぶれる)なるかな。 …
中村(相馬)藩の改革者
 大江の宿(原文は大江駅)というのがどこなのか確認できなかったが、前泊地の小高(福島県小高町)から半日行程のところなので、現在の福島県浪江町のあたりであろうか。  ここにちょうど昼頃に到着した息軒は、そのまま富沢という家に入った。  まもなく2人の訪問者があったが、そのうちの西不棄という人は、会津の堀士達と同じく、昌平黌の同学であった。 西は、はじめ藩の侍読という職であったが、やがて本郷の宰(代官)となった。 本郷は、藩領を七つに分けた地域(相馬の七郷)のうち、最も貧しく、また他藩と境を接しているため、統治しにくい所とされていた。
 しかし西は、藩主の知遇に感じてその復興を決意し、身を挺して開墾や社倉(飢饉に備えた穀物備蓄倉庫)の創設などを進めてきたのであった。  なお、相馬の七郷には本郷というところはないので、先ほどの大江とともに、息軒の聞き違いではないかと考えられる。
 翌日は雨となったので、西不棄が再び訪ねてきた。 そこで息軒は、かねて聞いていた文政年間に行なわれたという藩政改革について質問した。 その質問に答えて、西が詳細に話した内容が、右に掲げた記事である。
 文中で太公と呼ばれている人は、11代藩主・相馬益胤(1796~1845。在位は 1813~1835)と考えられる。 その藩主就任直後の改革ならば、(文政ではなく)文化年間のことでなければならない。 文化14年に行なわれた藩政改革がそれではないかと考えられるが、筆者のささやかな調査では、その推進者としての佐藤弘の名を見出すことはできなかった。 あるいは、その事跡は埋没してしまったのかもしれない。
 しかし、西不棄自身も改革の実行者であったことを考えれば、その語るところは知音の言として確実なものであり、今日に伝えられた貴重な証言であるといえよう。
 九日。 雨。 不棄 来る。 文政中の改制の事を問ふ。 不棄 曰く、
『四十年前、我が国(中村藩)の府庫、漸く空し。 佐藤弘なる者 有り。 世禄四百石にして、亜大夫(次席家老)と為り、深く之を患ふ。 上書して十八策を献ずるに、事は指斥(特定の人を名指しで排斥する)に渉る。 先君及び先大夫(前代、つまり当時の藩主と家老)、皆 大いに怒り、官禄を削奪し、別に一口俸を給す。 門人・故旧は皆憤り、贈遺して相尋ね、一令の出る毎に挙げて以て得失を質す。 弘、輙ち云ふ、「彼皆撰択されて吏と為り、心を尽して国に奉ず。 即ひ疵政有るも、外人の能く及ぶ所に非ず。 之を問ふは何ぞや」と。 固く問ふも、応ぜず。 衆、漸く之を薄く(軽んじる)し、謂ひて才尽くると為し、復た聞き問はず。 弘、益ます窮し、殆ど自活する能はず。 乃ち 日に富商・豪農に造(至)りて、其の子に課し、及び瑣役(こまごまとした仕事)を供せんことを請ひ、以て其の口を糊し、毫も怨色無し。 此の如くして二十年、而して国用は益ます屈し、上下手を束ねたり。 時に、太公、年十八、始て国に就く。 慨然として侍臣に語りて曰く、「我が家は、封を源幕府(鎌倉幕府)に受けてより茲に六百余年、戦争も亦多かりき。 然るに、未だ嘗て危急今日の如きは有らず。 いま予、辱けなくも国統を承く。 之を反(元に戻す)して引かざれば、以て先君と地下に見ゆる無し。 群臣の為す所を視るに、亦た大過無し。 然るに、其の勢、駸駸として止まざるは、時宜と相入れざるのひと無きを得んか。 儻(若)し、廃黜(免職)されて仕えざる者有らば、其の人、或は用ふべし。 汝等、試みに之を挙げよ」と。 或るひと、答ふるに弘を以てし、備(つぶさ)に前事を述ぶ。 公曰く、「十八策は安くに在りや。 速かに査し、之に上げよ」と。 公、立ちて之を待ち、且つ読み且つ歎ず。 曰く、「才有ること此の如きひとに、枉(曲)て貶黜(免職処分)を加へしは、国の窮する所以なり」と。 族人をして、之を召す。 時に弘、一富商の為に歩障(障子のことか)を糊す。 族人、馬に鞭して至る。 曰く、「君召さる」と。 糊刷を倒まに持ち、顧て之に謂ひて曰く、「是れ、我を以て大夫と為さんとするならん。 委任すること専らならずんば、決して出る能はず。 吾子(あなた)、為に復せよ」と。 族人は愕然たり。 然れども、其の諌むべからざるを知り、已むを得ずして公に白(もう)す。 公 曰く、「固よりなり。 今日より後、事は大小と無く、一に弘に聴かん」と。 族人、往きて告ぐ。 乃ち、起ちて事を視る。 時に、年は七十なり。 言路(意見を述べるみち)を開き、冗官を省き、徭役を減じ、贓吏(わいろを取る役人)を黜(しりぞ)け、而して妄費を除く。 衣食は必ず土物とし、田の荒廃したるは民の墾開するに任せ、十年征(課税)せず。 居ること三十日、遂に江戸に往き、邸政を一新す。 皆、成法(改革手法)有り。 乃ち、之を人に授けて帰る。 政を為すこと三年、国政ほぼ振ふ。 而して、弘は適に(まさに。その時ちょうど)病没せり。 其の将に没せんとするや、太公、日に之を視る。 言ふ所は皆国家の重事にして、其の労働の病を害するを慮る。 至れば則ち障を隔てて坐し、呼吸の緩急を察して帰る。 既に没するや、将に其の葬を送らんとす。 群臣、可とせず、乃ち予め葬期を告ぐ。 故に、他に適(往)くと為し、葬と郊に会し、一慟して別る。 其の敬重せらること、此の如し。 亦た、君臣一時の遇なり。』 と。
漁港の風景
 常陸の平潟は、漁商の300戸ほどが、入江に臨んで立ち並んだ町であった。 息軒は、最も景色がよさそうな宿を選び、南向きの部屋をとった。
 この部屋からの眺めの叙述は 実に美しい文章で、読む者も心が暢びる思いがする。
… 既にして月は右に出づ。 則ち東北の面なり。 山巒(山並み)は朦朧とし、烟波は蒼茫たり。 漁火・商燈は波と盈縮す。 欄に凭りて哦(詩歌を吟詠)し、暢然として自適す。 復た、身の千里の外に在るを知らざるなり。 …
 十三日。 早に起きて障を排すれば、紅暾(朝日)、海に躍る。 近浦・遠嶠(遠くの山)、臥せるが如く、立つが如し。 丹霞の羂(まとわ)る所、暁鴉 乱れ点ず。 又、漁舟・閑鴎有りて、烟波渺茫の間に沈浮出没す。 少(すこし)くして、紅は消え、白 敷(ひろが)り、灝気(清らかな気) 頓に滅して、復た陰(くも)れり。 …
帰着
 8月23日、息軒は無事に 江戸・麻布の自宅に帰り着いた。
 その4日前に、妻のお佐代さんは男児を出産していた。 初めての男の子だったので、息軒は七言絶句2首にその喜びを表わした。 そこで、この旅行記は終わっている。
… 家に帰れば、内人、十九日を以て男を挙ぐ。 予、今年四十四にして、始めて是の慶に当る。 酒を酌みて自ら賀し、ニ絶を口占す(口ずさむ)。 曰く、

  広きには江湖有り、峻しきには山有り。
  草鞋・菅笠 即ち仙寰。
  人生 若し箇の中に酔はずんば、
  縦(たと)え封侯に至るも、また等閑(凡流)ならん。

  呱呱(嬰児の泣き声)を聴きて、只自ら憐れむ。
  痴情 早くも巳に他年を算す。
  春風 是より一百度。
  傚ふ莫れ、乃翁の鳥を聞きて眠るを。





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