らんだむ書籍館


表紙




目 次


 鴎外と社会思想          小泉 信三
 鴎外の理念            成瀬 正勝
 鴎外の歴史小説          斎藤 茂吉
 鴎外の伝記・考証         滝田 貞治
 日露戦争文献としての「歌日記」  佐藤 春夫
 文芸評論家鴎外          河上徹太郎
 森先生の人と業と         木下杢太郎
 鴎外の教養と諷刺性        亀井勝一郎
 鴎外 その文体及び表現美      日夏耿之介
 鴎外博士の漢文学に就いて     浜野知三郎
 戯曲家としての鴎外先生      久保田万太郎

 鴎外研究文献総攬         滝田 貞治

 鴎外全集をよむ          永井 荷風
 鴎外に就て            安倊 能成
 回想記              森 潤三郎
 森於菟に             小金井喜美子
 細い葉蔭への愛情         森 茉莉
 回想               小堀 杏奴
 鴎外先生を懐ふ          飯島 茂
 鴎外先生を追憶して        吉田 増蔵
 鴎外博士の思出          佐佐木信綱


「文学」 第四巻第六号

 昭和11 (1936) 年6月、 岩波書店。
 菊版、紙装。 本文 252頁。


 「文学」 は、岩波書店が 昭和8(1933)年に創刊した、月刊の文学研究誌である。 戦争末期・戦後の 昭和20(1945)年 1月号~9月号 が休刊となったほかは、継続刊行されてきたが、平成2(1990)年 に季刊、同12(2000)年に隔月刊となり、同28(2016)年の11・12月号を以て廃刊となった。 80年あまりにわたって、文学研究の中心誌であった。

 本号は、森鴎外(文久2(1862)~大正11(1922))の没後15年を記念した 特集号である。
 右の目次に示されるように 21名の人々の文章で構成されているが、中ほどの 滝田貞治「鴎外研究文献総攬」(小活字による文献リスト)を境目として、前半は作品論を主体とした研究論文、後半は随想・人物論、という 色分けになっている。
 (滝田の「総攬」は、綿密な調査・編集に成るもので、鴎外研究のための重要な文献集である。)

 本文紹介としては、
 前半の研究論文中の、斎藤茂吉 「鴎外の歴史小説」
 後半の随想・人物論中の、森潤三郎 「回想記」 、および 吉田増蔵 「鴎外先生を追憶して」
の、それぞれの一部分を 掲げることとする。

 斎藤茂吉(明治15(1882)~昭和28(1953))の 「鴎外の歴史小説」は、「一」~「八」の見出しを付した 8章で構成されているが、そのうちの「五」の、さらに一部分を掲げる。 この部分では、大正3年(1914年)発表の「安井夫人」が取り上げられている。 「安井夫人」とは、儒学者・安井息軒(寛政11(1799)~明治9(1876)、名は衡、字は仲平。)の妻・佐代子のことで、佐代子は、鴎外に注目されるほどの、主体的な生き方をした女性である。 なお、 当書籍館では 既に、 安井息軒「読書余適・睡余漫稿」 (1900年刊) の紹介において、息軒その人に関する説明とともに、息軒と佐代子の結婚のいきさつ、特に鴎外がこの「安井夫人」という作品を執筆する動機となった 特異な事情についてふれた。 斎藤茂吉は、その特異点を含めて、鴎外が依拠した資料を確認し、原文との対比で 作品における表現上の工夫も明らかにし、「無限の味ひがある」としている。

 森潤三郎(明治12(1879)~昭和19(1944))は 鴎外の弟で、このとき既に、「鴎外 森林太郎」という 伝記・回想・書誌を兼ねた、かなり充実した単行書を出している(昭和9年7月刊)。 「回想記」は、この単行書の内容と大きく重複しないように配慮して 記述しているようであるが、重複する事項の場合でも、より細部に及んでいて 興味深い点が多い。 ここには、幸田露伴との絶交について記した部分を掲げる。
 鴎外と露伴が絶交するに至ったことは よく知られているので、鴎外の小倉赴任(明治32年6月)直前に露伴が改まった形で訪問・挨拶したという、この潤三郎の記述は、その最後の会見場面のように見なされそうであるが、そうではない。 この記述は、潤三郎の錯誤(勘違い)によると思われる。 鴎外は 小倉赴任の翌年(明治33年)3月に一時帰京しているが、日記(小倉日記)によれば、この帰京時には、露伴と一緒に歌舞伎座で観劇したり、賀古鶴所を加えた三人で浅草で飲酒したりと、親交が維持されている。 (鴎外ー露伴の絶交は、私見では、明治41(1908)年のことである。 これについては、別途 説明することとしたい。)

 吉田増蔵(慶応2(1866)~昭和16(1941))は、鴎外が官途の最終に「帝室博物館総長兼図書頭」に至ったとき、図書寮で鴎外の企図のもとに「帝諡考」、「元号考」の編輯に当り、鴎外が病身となってからは その自宅に寄寓して、口述筆記・書類整理などの助手的業務にも携わった人である。 「鴎外先生を追憶して」は、他人からの伝聞を含んでいて 既に知られた部分も多いが、その中で注目されるのは、鴎外がこの人に蔵書を贈与する旨の遺言状を作成した、という事実であろう。 贈与の範囲が 説文に関する書、あるいは漢籍に限定されたのか、明確でないが、長年愛用した書は、身近で 手堅く、献身的な仕事をしてくれた人に托したいと 考えた結果ならば、「蔵書すべて」とも解し得る。



本文の一部紹介




鴎外の歴史小説

斎藤 茂吉   空白

     

 それから、「安井夫人」(大正三年四月、太陽)があり、「魚玄機」(大正四年七月、中央公論)があり、「ぢいさんばあさん」(大正四年九月、新小説)がある。 安井息軒先生夫人 佐代子は、美人で聡明な女であつた。 そして一生 質素な醜い息軒に仕へて この世を去つた。
 お佐代さんは 夫に仕へて労苦を辞せなかつた。 そして その報酬には何物をも要求しなかつた。 啻(ただ)に朊飾の粗に甘んじたばかりでは無い。 立派な第宅に居りたいとも云はず、結構な調度を使ひたいとも云はず、旨い物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかつた。
お佐代さんが 奢侈を解せぬ程 おろかであつたとは、誰も信ずることが出来ない。 また 物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹であつたとは、誰も信ずることが出来ない。 お佐代さんには 慥かに尋常で無い望があつて、その前には 一切の物が 塵芥ちりあくたの如く いやしくなつてゐたのであらう。
 お佐代さんは 何を望んだか。 世間の賢い人は をつとの栄達を望んだと云つてしまふだらふ。 これを書くわたくしも それを否定することは出来ない。 併し 若し 商人が資本を卸し 財利うぃ謀るやうに、お佐代さんが労苦と忍耐を夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなつたと云ふなら、わたくしは不敏にして それに同意することが出来ない。
 お佐代さんは 必ずや 未来に何物かを望んでゐただらう。 そして瞑目するまで 美しい目の視線は、遠い遠い所に注がれてゐて、或は 自分の死を不幸と感ずる余裕をも有すせなかつたのではあるまいか。 その望の対象をば、或は 何物とも しかと弁識べんしきしてゐなかつたのではあるまいか。
 これが、作者が小説の中に挿入した 批判の言葉であつた。 古来 世の聖賢は、尊むべき女人の特質について いろいろと勘定して、教を垂れて居るが、さういふ特質を具足した実在の女人として、鴎外はこの、「安井夫人」を世に示した。 そして この小説の付録として載せた、「事実」は、極めて簡単なもので、また、若山甲蔵氏の「安井息軒先生」があつて、それを材料とせられたにせよ、小説になつて見ると、いかに現実界の事柄として活躍して来るかが分かるので、小説、特に歴史小説の有難味が 遺憾なく此処にあらはれてゐるのである。 例へば、黒木孫右衛門の話は、「日向纂記」には、 飫肥外浦の漁人に 黒木孫右衛門と云ふ者あり、言語容貌、愚なるが如くなれども、頗る滑稽にして、能く人の意を邀へ、意表に出る話も多かりき。 且つ 物産の事に精きを以て、天保の中頃、権要の人に用ひられ、徒士席を賜ふに至れり、 其初めて安井息軒翁に見(まみ)えし時、従容として申しけるは、先生の 内君ごないしつさまは学問し玉へるか、翁 何心なく 未だ学びたることなし と答へらる。 孫右衛門 聞て、さても賢夫人なる哉 と称美す。 翁 如何なれば左は云ふぞ と問はる。 孫右衛門 申しけるは、今 先生の御容貌を窺ひ見るに、長 五尺に過ず、殊に痘痕面に満て 甚だ醜し、然るに 内君少も厭ふ心なく、先生の徳を慕ふて、身を託し玉へるは、中々 尋常婦人の能く及ぶ所には候はず。 其れ故 其は、先生のがくよりは、内君の学がまされりと思ふなりと、翁も手を拍つて 大に笑はれける とあるのを、小説には 次の如く書かれてゐる。
 お佐代さんは 形振なりふり に構はず 働いてゐる。 それでも 「岡の小町」と云はれた昔のおもかげは どこやらにある。 此頃 黒木孫右衛門と云ふ男が 仲平に逢ひに来た。 もと 飫肥外浦の漁師であつたが、 物産学ぶつさんがくに精しいため、わざわざ召し出されて 徒士かちになつたのである。 お佐代さんが 茶を酌んで出して置いて、勝手に下がつたのを見て 狡猾なやうな、滑稽なやうな 顔をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
 「先生。 只今のは 御新造でござりますか。」
 「さやう。 妻で。」 恬然として 仲平は答へた。
 「はあ。 御新造様は学問をなされましたか。」
 「いいや。 学問と云ふほどの事は してをりませぬ。」
 「して見ますと、御新造様の方が 先生の学問以上の御見識でござりますな。」
 「なぜ。」
 「でも あれ程の美人でお出でになつて、先生の夫人におなりなされた所を見ますと。」
 仲平は 覚えず失笑しつせうした。 そして 孫右衛門の無遠慮なやうな世辞せじを面白がつて、得意の笊碁ざるごの相手をさせて 帰した。
 かう書いてある。 現代は 小説の技巧も益々発達して、会話の書き方なども、もつと自然で旨くなつたやうであるが、私などは、日向纂話と、この小説とを較べて 感朊したものである。 佐代子夫人は 五十一歳で 文久二年正月四日(天野小太郎書翰には 三日に作る。)に死んだが、天野小太郎から谷干城にやつた書翰に その時を報じて、「息軒先生御機嫌克候得共、御新造正月三日後遠行、残念千万、夫故 先生も兼ての気魂といへども、少々御屈撓(気落ちして、元気がなくなる)に相見候。 乍併(さりながら)、管子纂詁(息軒が著した、中国古典「管子」の注釈書)も相調(あいととのい)、追付(おっつけ)御一板(出版)にも相成可申喜申候」とある。 息軒の「少々御屈撓」は おもしろい。 この息軒の態度を想像しつゝ、「そして瞑目するまで 美しい目の視線は、遠い遠い所に注がれてゐて、或は 自分の死を不幸と感ずる余裕をも 有せなかつたのではあるまいか。」といふ文章を読むと 無限の味ひがあるのである。
 …



回想記

森 潤三郎   空白


     二 往来した人々

 …
 幸田露伴さんは その頃 谷中天王寺の銀杏横町に居られて、或年など大晦日に来て夜通し話し、翌日の元旦に 兄からちよつとばかり金を貰つて 飄然と旅行に出られたやうなこともあつた。 幸田さんは家へ来ると 「おい森君」と外から呼ばつて 二階に上つて来て話すと云ふやうな訳で、最も親しくしてゐた。 「目不酔草」(「めざまし草」。鴎外が明治29年に創刊した文芸評論誌。)になつてからは、合評の為に 森田思軒、依田学海、饗庭篁村、佐佐木信綱、高浜虚子の諸氏、その他色々の方が来られたが、最も心易かつたのが 幸田さんであつた。 明治三十二年 兄が小倉へ赴任する時、家に 羽織袴でやつて来て 口上を述べたので、兄が吃驚して 「どうしたんだ」と言ふと、「いや、これからは斯うでなければいかぬ」と言つて帰つて行つたが、それからすつかりと縁が切れて、家にも来ないやうになつた。 兄も 「あれだけは 了簡が分らない」と言つて居た。
 …







鴎外先生を追憶して

吉田 増蔵   空白


 …
 或る日の午後 私が役所退けより 先生の千駄木の宅を訪問したことがある。 其の時 通された室は観潮楼下の薄闇い細長い間で 片側の壁は全く書棚で隠れ、書棚にはぎつしり漢籍が詰まつて居た。 室の中央に可愛い小さな机一つを置き 其上には読みさしの書一巻あるのみで、先生は役所帰りの儘 粗末な背広朊もまだ脱がないで、座布団の上にチコナンと坐つて居られ、微笑を以て私を迎へられた其の姿は 今も思出での一に残つてゐる。 顧ふに先生は 其の以前数十年を通して 斯く帰宅せらるると直に読書に耽けり、夜も更くるまで 読書を唯一の趣味とせられたのであらう。 其の学問の深博なる 怪むに足らないのである。 先生が晩年 考証学に興味を持つに至つたのは 狩谷棭斎が漢学の造詣を以て国学古典の考証に従事したのに刺激されたものではないかと思ふ。 先生晩年の述作たる帝諡考及び元号考は、考証に関する先生著撰の嚆矢であつた。 先生既に明晰の頭脳を有し 更に万巻の書を擁せらる。 之に仮すに寿を以てしたならば 棭斎以上の業績を遺さるゝこと 蓋し難事に非らざるべしと思ふ。 先生 既に指を考証に染め、之れに関連して説文研究の必要を感ぜられたりと見え、説文に関する著書も多少購求せられて居つた。 私が博物館の館長室で会見のをり、先生は 今日は君の説文の話を聴かうと言はれ、朝の九時頃より午後の三時過ぎまで、午餐時間の三十分を除き 殆んど五時間余ぶつ通しに私の説文(「説文解字」。中国・後漢の許慎が著した漢字の字義・字形の解説書で、漢字研究の基本資料。)に関する新説を 些(いささか)の退屈の気色もなく熱心に興味を以て聴かれたのである。
 先生は 学芸に関することとなれば 一の長所ある人には誰彼の区別なく何人に対しても其の所説を傾聴せらるゝので、所謂 泰山は土壌を譲らず河海は細流を択ばず、自づと其の大を加へ其の深きを加ふるのである。 而して先生は 独り己の学問を愈々深博ならしめむと努力せらるゝのみならず、進みて人の学問をも成就せしめむとするの心が極めて熾烈であつた。 先生は 私が漢学界に於ては無名の一学究であるのに 私の実際を最も善く認識せられ 又 深く私に同情せられ、其の病没せらるゝ数日前に 自ら筆を執ることが出来ないので、夫人に口授して書かしめられた 私に対しての遺言状がある。 私は先生の没後に其の遺書を一見して 先生の高誼を感謝した。 遺書中には 和漢の漢籍数千巻の書目の大概を挙げ、終りに 此の書籍は余が死したらば 之を吉田増蔵君に贈るべし。 吉田君の外 善く之を用ふるものなし云云の旨が記されてあつた。 先生の此の 善く用ふるものなしといはれた大なる期待に対し、私は深く感激して 先生識人の明を傷くることなからむことを 心窃かに誓つたのである。 遺書の寄贈は 之を辞退することとなつたが、先生の期待は 何とか之に副ひたいと毎日祈念してゐた。 所が 昭和七年 即ち先生の没後十年にして 幸にも此の志を果す時機が到来したのである。 それは 宮内省外務省其他 各方面に渉る諸賢の後援に藉り、外務省対支文化事業部の助成金を仰ぎ、五年間の継続事業として、書原百五十巻の撰述に着手することが出来たのである。 是れ偏に 各方面諸賢の直接間接の庇護を辱くせるに頼るものとはいふものゝ、抑又 先生の霊が、冥冥の中に在つて、事 此に至るの機縁を作られたのであらうと 私は信ずるのである。 ーー 若し此の事が先生の在世中であつたなら 先生は如何に喜んで下さることであらう。





「らんだむ書籍館 ホーム」 に戻る。