らんだむ書籍館


表紙

目 次

 凡 例
 初版序 (石河幹明)

 幼少の時

 長崎遊学

 大阪修行

 緒方の塾風

 大阪を去て江戸に行く

 始めて亜米利加に渡る

 欧羅巴各国に行く

 攘夷論

 再度米国行

 王政維新

 暗殺の心配

 雑記

 一身一家経済の由来

 品行家風

 老余の半生

 解題 (小泉信三)
 後記
 年譜
 人名書名索引
岩波文庫
福沢諭吉 改訂版・福翁自伝」


 昭和29 (1954) 年6月、岩波書店 。
 「改訂版」としての刊行日付であり、岩波文庫本としての初版刊行は、昭和12(1937)年である。
 文庫版、紙装。 本文 340頁。


 福沢諭吉(天保5(1835)~明治34(1901))は、幕末~明治期の思想家、教育者。
 幕末期に3度 欧米に渡り、その見聞を生かして、「西洋事情」(慶応5年)、「学問ノスヽメ」(明治5~9年)、「文明論之概略」(明治8年)などの啓蒙書を著作、刊行。 これらの書は いずれも、新時代の方向を示すにふさわしい 平易で明解な文章で書かれていたため、広く普及した。
 また 明治6年、福沢は、森有礼、中村正直、加藤弘之、西 周、津田真道、西村茂樹らの啓蒙思想家と明六社を組織し、その機関誌「明六雑誌」を通じて、これらの人々と、日本社会の近代化を推進するための議論を展開した。
 各員 その独自の著書もあって、それぞれ時代を牽引したのであったが、牽引力の最も大であったのは 福沢の著書・文章であろう。
 ところが、漢学者の論調が主流を占めていた当時、学生や教養人の間では 福沢の文は低俗と見なされ、漢学の素養を示した 中村正直や西周などの文の方が尊重されたようである。 福沢に漢学の素養が乏しかったわけではなく、それを極力表面に出さず 平易に徹したのは、むしろ工夫の結果だったのであるが。

 「福翁自伝」は、福沢が 晩年 速記者に口述して筆記させ、その筆記に手を入れて完成させたものである。 それまでの著書と同様、平易・明解な記述に徹していることは、言うまでもない。

 「内容の一部紹介」としては、最初の章「幼少の時」と、最後の章「老余の半生」、それぞれの 一部分を掲げることとする。 いずれも、福沢の漢学の教養・見識を示すものである。
 「幼少の時」には、十四・十五歳の頃 漢籍を学び、『左伝』を愛読したことが述べられている。 『左伝』(『春秋左氏伝』の略)は 中国・周代のうち春秋時代(紀元前7~4世紀)についての歴史書で、史実を道徳的格言のように記述しているので、福沢少年はその表現を好んだのであろう。 また、出身地の豊前中津・奥平藩の周辺においては、頼山陽・広瀬淡窓など当時人気の文人よりも 亀井南冥・昭陽父子のような実証的学者が重んじられていたという 状況が説明されている。 南冥は、逆境にあった晩年にも 『左伝』の注釈書(「春秋左伝考義」)作成に努力していたが、福沢はそうしたことも承知していて、このような評価を記述したのかもしれない。
  「老余の半生」の文中には、高致な漢詩(七言絶句)一首が示されている。 本書中には、折りにふれて詠んだ七言絶句 四首が載せられているのであるが、この最後の章に置かれたものが 最も出来栄えが良いように思われる。 散歩の行程のみを内容とした結句を 何か感慨の語に替えれば、円熟の心境を示した名詩になりそうだが、単なる即事・偶成に止めたところが、福沢らしいところである。



本文の一部紹介




        

幼少の時



 …
 藩の風で 幼少の時から論語を読むとか 大学を読む位の事は遣(や)らぬことはないけれども、奨励する者とては一人もない。 殊に 誰だつて本を読むことのすきな子供はない。 私一人 本が嫌ひと云ふこともなからう。 天下の子供みな嫌ひだらう。 私は甚だ嫌ひであつたから やすんでばかり居て 何もしない。 手習もしなければ 本も読まない。 根ッから何もせずに居た所が、十四か十五になつて見ると、近処に知て居る者 皆な本を読で居るのに、自分独り読まぬと云ふのは 外聞が悪いとか恥かしいとか思たのでせう。 夫(そ)れから 自分で本当に読む気になつて、田舎の塾へ行始ゆきはじめました。 どうも 十四五になつて始めて学ぶのだから 甚だきまりが悪い。 外の者は 詩経しきやうを読むの 書経しよきやうを読むのと云ふのに、私は孟子の素読そどくをすると云ふ次第である。 所が 茲(ここ)に奇な事は、其塾で蒙求もうぎうとか孟子とか論語とかの会読講義をすると云ふことになると、私は天稟、少し文才があつたのか知らん、能く其の意味をして、朝の素読に教へて呉れた人と、昼からになつて蒙求などの会読をすれば、必ず私が其先生に勝つ。 先生は文字を読む許りで 其意味は受取の悪い書生だから、之を相手に会読の勝敗なら 訳はない。 其中、塾も二度か三度かえた事があるが、最も多く漢書(漢籍)を習たのは、白石しらいしと云ふ先生 →〔原注〕である。 〔原注〕白石常人、照山と号す。(文化12年~明治16年)
 其処に四五年ばかり通学して漢書(漢籍)を学び、其意味を解すことは何の苦労もなく 存外早く上達しました。 白石の塾に居て 漢書は如何なるものを読だかと申すと、経書を専らにして 論語孟子は勿論、すべて経義の研究を努め、殊に先生が好きと見えて 詩経に書経と云ふものは本当に講義をして貰て 善く読みました。 ソレカラ 蒙求、世説せせつ左伝さでん戦国策せんごくさく老子らうし荘子さうし、と云ふやうなものも 能く講義を聞き、其先きは 私独りの勉強、歴史は 史記を始め 前後漢書ぜんごかんじよ晋書しんしよ五代史ごだいし元明史略げんみんしりやくと云ふやうなものも読み、殊に私は左伝が得意で、大概の書生は 左伝十五巻の内 三四巻で仕舞ふのを、私は全部通読、凡そ十一度び読返して、面白い処は暗記して居た。 夫(そ)れで 一ト通り漢学者の前座ぐらゐになつて居たが、一体の学流は 亀井風かめゐふう(福岡藩儒の亀井南冥(1743~1814)、昭陽(1773~1814) 父子の学統を言うと思われる。学識・人格ともに優れ、九州一円に影響力を有していた。この後に名の出る広瀬淡窓もこの門流である。)で、私の先生は亀井が大信心で、余り詩を作ることなどは教へずに 寧ろ冷笑して居た。 広瀬淡窓などの事は、彼奴あいつ発句師ほつくし、俳諧師で、詩の題さへ出来ない、書くことになると漢文が書けぬ、何でもない奴だ と云て居られました。 先生が爾(そ)う云へば 門弟子も亦爾う云ふ気になるのが不思議だ。 淡窓ばかりではない、頼山陽らいさんやうなども甚だ信じない、誠に目下に見下して居て 「何だ粗末な文章、山陽などの書いたものが文章と云はれるなら 誰でも文章の出来ぬ者はあるまい。 仮令たとひ舌足らずでどもつた所が 意味は通ずると云ふやうなものだ」 なんて大造な剣幕で、先生から爾う教込まれたから、私共も山陽外史の事をば軽く見て居りました。 白石先生ばかりではない、私の父が又 その通りで、父が大阪に居るとき 山陽先生は京都に居り、是非交際しなければならぬ筈であるに 一寸とも付合はぬ。 野田笛浦のだ てきほと云ふ人が父の親友で、野田先生はどんな人か知らない。 けれども 山陽を疎外して笛浦を親しむと云へば、笛浦先生は浮気でない学者と云ふやうな意味でしたが、筑前の亀井先生なども朱子学を取らずに経義に一説を立てたと云ふから、其流れを汲む人々は 何だか山陽流を面白く思はぬのでせう。





        

老余の半生



 …
 私の摂生は 明治三年三十七歳大病の時から一面目を改め、書生時代の乱暴無茶苦茶、殊に十年間鯨飲の悪習を廃して、今日に至るまで 前後凡そ四十年になりますが、此四十年の間にも 初期は文事勉強の余暇を偸(ぬす)んで運動摂生したものが、次第に老却するに従ひ 今は摂生を本務にして其余暇に文を勉めることにしました。 いまでも よひは早く寝て朝早く起き、食事前に一里半ばかり、芝の三光から麻布古川辺の野外を少年生徒と共に散歩して、午後になれば 居合を抜いたり米を搗(つ)いたり、一時間を費やして、晩の食事もチヤント 規則のやうにして、雨が降ても雪が降ても 年中一日も欠かしたことはない。 去年の晩秋 戯れに

   一點寒鐘聲遠傳   一点の寒鐘 声 遠く伝ふ
   半輪殘月影猶鮮   半輪の残月 影 猶(なお)鮮やかなり
   草鞋竹策侵秋曉   草鞋(わらじ) 竹策(つえ) 秋暁を侵し
   歩自三光渡古川   歩して 三光より古川を渡る

なんて 詩を作りましたが、此運動摂生が何時いつまで続くことやら、自分で自分の体質の強弱、根気の有無を見て居ます。 回顧すれば 六十何年、人生既往を想へば恍として夢の如しとは 毎度聞く所であるが、私の夢は 至極変化の多い 賑かな夢でした。
 旧小藩の小士族、窮窟な小さい箱の中に詰込まれて、藩政の楊枝を以て重箱の隅をほじくる 其楊枝の先きに掛つた少年が、ヒヨイト 外に飛出して 故郷を見捨るのみか、生来教育された漢学流の教をも打遣うつちやて 西洋学の門に入り、以前に変つた書を読み、以前に変つた人に交はり、自由自在に運動して、二度も三度も外国に往来すれば 考は段々広くなつて、旧藩は扨(さて)置き 日本が狭く見えるやうになつて来たのは、何と賑かな事で 大きな変化ではあるまいか。 或は 其間に艱難辛苦など述立てれば 大造のやうだが、咽元のどもと通れば熱さ忘れると云ふ其通りで、艱難辛苦も過ぎて仕舞へば何ともない。 貧乏は苦しいに違ひないが、其貧乏が過ぎ去つた後で昔の貧苦を想出して 何が苦しいか、却て面白いくらゐだから、私は洋学を修めて、其後 ドウヤラ 斯うやら人に不義理をせず 頭を下げぬやうにして、衣食さへ出来れば大願成就と思て居た処に、又 図らずも王政維新、いよいよ日本国を開て 本当の開国となつたのは難有い。 幕府時代に私の著はした西洋事情なんぞ、出版の時の考には、天下にコンナ ものを読む人が有るか無いか 夫れも分らず、仮令(たと)ひ読んだからとて 之を日本の実際に試みるなんて 固(もと)より思ひも寄らぬことで、一口に申せば 西洋の小説夢物語の戯作げさくくらゐにみづから認めて居たものが、世間に流行して 実際の役に立つのみか、新政府の勇気は西洋事情のたぐひでない、一段も二段も先きに進んで 思切つた事を断行して、アベコベ に著述者を驚かす程のことも 折々見えるから、ソコデ 私も亦 以前の大願成就に安んじて居られない。 コリヤ 面白い、此勢に乗じて 更に大に西洋文明の空気を吹込み、全国の人心を根底から転覆して、絶遠の東洋に一新文明圏を開き、東に日本、西に英国と、相対しておくれを取らぬやうになられまいものでもないと、茲に第二の誓願を起して、扨 身に叶う仕事は 三寸の舌、一本の筆より外に何もないから、身体の健康を頼みにして専ら塾務を務め、又 筆を弄(もてあそ)び、種々様々の事を書き散らしたのが西洋事情以後の著訳です。 一方には 大勢の学生を教育し、又 演説などして所思を伝へ、又一方には 著書翻訳、随分忙しい事でしたが、是れも 所謂万分一を勉める気でせう。 所で 顧みて世の中を見れば 堪へ難いことも多いやうだが、一国全体の大勢は 改進々歩の一方で、次第々々に上進して、数年の後 その形に顕はれたるは、日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有いとも 云ひやうがない。 命あればこそ コンナ 事を見聞するのだ、さきに死んだ同志の朋友が不幸だ、アヽ 見せて遣(や)りたいと、毎度 私は泣きました。 実を申せば 日清戦争何でもない。 唯是れ 日本の外交の序開じよひらきでこそあれ、ソレホド 喜ぶ訳もないが、其時の情に迫まれば 夢中にならずに居られない。 凡そ コンナ 訳けで、其原因は何処に在るかと云へば、新日本の文明富強は すべて 先人遺伝の功徳に由来し、吾々共は 丁度都合の宜い時代に生れて 祖先の賜を唯貰ふたやうなものに違ひはないが、兎に角に 自分の願に掛けて居た其願が、天の恵、祖先の余徳に由て 首尾能く叶ふたことなれば、私の為めには第二の大願成就と云はねばならぬ。
 左れば私は 自身の既往を顧みれば 遺憾なきのみか愉快な事ばかりであるが、扨 人間の慾には際限のないもので、不平を云はすれば マダマダ 幾らもある。 外国交際又は内国の憲法政治などに就て 其れ是れと云ふ議論は 政治家の事として差置き、私の生涯の中に出来でかして見たいと思ふ所は、全国男女の気品を次第々々に高尚に導いて 真実文明の名に愧(はず)かしくないやうにする事と、仏法にても耶蘇教にても宜しい、之を引き立てて多数の民心をやはらげるやうにする事と、大に金を投じて 有形無形、高尚なる学理を研究させるやうにする事と、凡そ此三条です。 人は 老しても無病なる限りは 唯安閑としては居られず、私も 今の通りに健全なる間は 身に叶ふ丈けの力を尽す積です。




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