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表紙カバー |
目 次
序 説 翁の生れた時代と其の環境 天下は武家政治の清算期 紀州藩の改革と徴兵令の実施 本 伝 南方家は代々庄屋役を勤む 自ら毘沙門天の申子と称す 小学校時代の三事業 中学時代と母の感化 大学予備門時代 在米時代の数奇なる生活 在英学名昂揚時代 一、断食して読書する苦学 二、苦学を征服した翁の心境 三、龍動学会の懸賞論文に当選 四、革命家孫逸仙を救ひ出す 五、名物フロックコートの由来 六、在英時代の翁の学績 七、角屋先生と綽名さる 八、英女王より研究費を賜る 九、在外十五年にして帰国す 田辺町学業大成時代 一、生家の退転と熊野三山の跋渉 二、田辺町を永住の地と定む 三、孫文来市すれども翁に会はず 四、睡眠四時間と粗衣粗食の実行 五、世界の四大蒐集家となる 六、粘菌検鏡の苦心と翁の悲壮の態度 七、翁の強記博覧と民俗学的考証 八、神社併合問題と翁の下獄事件 九、翁の向学心は世界を光被す 一〇、南方研究所設立と三十六年振りの上京 一一、綿の神に就いての考証 一二、聖上御進講の光栄を担ふ 一三、翁の偉大なる学績と超人的の書簡 一四、翁の晩年と其の臨終 逸 話 人間としての翁の風格 一、翁の為人と其の性格 二、翁は国体明徴論者の先駆者 三、翁の学生時代を偲ぶ二三の物語 四、翁がヘコマサレタ話 五、翁の為に水火を辞せぬ三百人 六、土宜管長に鼻汁かます 七、翁の博士無用論 八、国学院大学の不講演事件 九、蟹の研究で床屋に教へを乞ふ 一〇、リスター女史の震災見舞金 一一、紀州名産「革井紙衣」と翁の研究 一二、翁の面会嫌ひと非妥協性 一三、葬礼に代人を造り自宅で御詠歌 一四、山本提督に安藤蜜柑の伝達 一五、翁の雅懐と其の作物 付 録 神社合併反対意見 自殺に就いて 紀州田辺の生物 |
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御進講当日の南方翁 |
本文の一部紹介 |
聖上御進講の光栄を担ふ
昭和四年五月、畏くも聖上陛下には、商工業の中心なる阪神地方の発展を御視察のため、且つは大島、八丈両島へも行幸仰せ出され、同月二十八日 横須賀軍港より軍艦那智に召されて御出発あり、両島御視察の上、今度は軍艦長門に御坐乗あり、在和歌山県の京大瀬戸臨海研究所へ行幸あらせられた。
和歌山県にては、正和二年 (鎌倉期) に後宇多天皇の御参詣ありしより以来、聖上の行幸を仰ぐは実に六百四十年振りの盛事とて、八十五万の県民は此の光栄ある日を待ち奉りしに、六月一日、御召艦は聊かの恙もなく田辺湾に御安着あらせられしが、予て宮内省より県当局を 経て南方翁に対し、当日、御前に於いて椊物の御講義申上ぐべしとの御沙汰ありしを以て、翁は斎戒沐浴して、此の光栄を担うたのであるが、翁は此の日の感激を、同夜、往訪の大阪毎日新聞記者に、左の如く謹話した。
此の光栄の日、吾輩は正午過ぎ田辺を発し、御用船に便乗した。 飯尾公寿氏 (和歌山県水産試験所長) に迎へられ、船を神島の西方に止めて、聖上の御出を待つてゐたが、ふと見ると早や間近に小さな御坐船に召された
陛下の御姿を拝したので 、謹んで頭を下げて御迎へ申上げると、畏くも陛下には、中打帽を右手にお取り遊ばされて、いと御丁重な御挨拶を賜つて、恐懼 身に余る光栄に感激した。 神島の周囲を南から北へ、次で西から一周した時、メガホンで上陸の知らせがあつたので島に上陸すると、陛下におかせられても御上陸遊ばされ、険しい道なき道を御わけになり、林中へつか~ と御歩みを運ばされて粘菌を御熱心にさがし給うたが、何分、雨天のことで御着衣さへ濡れぞぼつて居させられることゝて
御好みの粘菌はなか~ 御探しになるのが御困難にあらせられた。 ついで畠島で約四十五分御上陸遊ばされて居る間に吾輩は、中島濤三氏 (田辺中学教諭) の随行で御召艦長門に向つた。 丁重な扱ひを受けて、ふと見るとロンドンに居た時代の旧友 加藤寛治 (海軍大将) が居る。 約四十分も待つて居ると、陛下が長門に御帰艦あらせ給うたので、吾輩は立派な御部屋に案内された。 時に丁度五時半頃だつた。 時間が少ないので成るべく早口に先づ
尾端にエビが付いて居て、紫色の光を発し、龍が玉を抱く姿で泳ぐ 「ウガ」 を天覧に供して御説明申上げ、第二にグアレクタクバナといふ地衣 (苔の類) を御見せ申した。 これは吾輩が廿四歳の時、西インド玖馬島で発見したもので、東洋人が外国で発見した最初のものである事を申上げると、有難くも陛下の御面には嘉賞の御気色を拝し、非常に感激に打たれた事であつた。 第三には私が廿五歳のとき、米国南部フロリダ河と
西印度諸島を廻つて採集した菌類数千種のうち、若干を綴ぢた厚さ二寸位の標本帖一冊を恐る~ 御前に捧げた。 これは四十年前にアメリカの地で、米人の気の付かぬ種類の物も沢山あつて、かつてアメリカ人から買戻しに来たが、昔、薩摩人が英国と戦て獲つた碇を英国へ返し、後人に笑はれた例も御座いますから、私は断然これを外国に売りませんと申上げると、陛下にはいと御満足にお笑ひになつた。 第四は和歌山県日高郡川上村山林で、零下二度の山奥で、昨年十月十八日から本年一月四日まで、約八十日間籠つて、その間九十六町の山道をソリで、四十五分で辷り落ちたやうな危険を冒して採集した菌類、約三百廿種を天覧に供した。 第五には海に棲む珍しい蜘蛛を、それは二十七年前に此の近海で発見した。 外国でも珍しいものだが、私では研究が出来ないから、宮城内御研究所で研究おさせ下さいと献上したが
非常にお喜びの御模様だつた。 第六にはやどかりの珍種で、琉球や小笠原へ行くと、海に生れて後海を離れて丘にあがり、昼は山へ登り樹に昇るものが、本州では瀬戸鉛山のみにある。 それを生きたまゝの親二匹と小さいアルコール漬のもの八匹を献上申上げた。 第七には日本海の粘菌二百種ほど献上申上げるつもりで、一週間ほど前から寝食を忘れて整理につとめたが、海の蜘蛛捕りに往つて風邪を引いたので、出来上つたもの百十種ほど献上申上げ、御嘉紊の光栄に浴し、約二十五分間にして御暇を乞ひましたところ、御傍よりモウ五分ほど御進講申上ぐるやうにと、有難き御沙汰を拝し、日本の粘菌はどの辺に多いかなどと、御熱心なる御下問を拝し、たゞ~ 無上の光栄に感激しつゝ御召艦を辞したのであります (六月三日付 大阪毎日新聞) 。
此の事たるや実に聖代の盛事であつて、無位無官の草莽の臣が、天顔に咫尺し奉つて、御進講申上げるとは、我国三千年の歴史に於いて曾て見聞かざる処、独り翁の栄誉にとゞまらず、洽く学界の栄誉として、百世に伝ふべきことである。 そして、翁の此の光栄と感激とを書き綴つた手記、及び陪席せる加藤大将の礼状も並存して居るので、多少とも重複する点もあるが、次に抄出して永き記念とする。
此日、県庁の不注意により、種々困らされた筈だつたが、幸ひにも大なる過失なしに、二十五分と限られたものが、一時間近くも進講し得たるは、全く聖恩に惟れ由る事と感佩して還つた。 四日四晩も眠らず、漸く其の朝二時間ばかり標本を調べながら仮睡したかと思ふばかり故、進講申上げた詞の外は一切覚えぬが、その後ち加藤軍令部長の下さつた書状を拝見して、当日、大なる過ち無かつたと、やゝ安堵の思ひをした次第である。
猶ほ右(上)の加藤軍令部長より、翁に寄せた礼状は概ね左(下)の如きである。
(前略) 往日は 久しぶりにて拝姿、相変らず 神気満身の御風格にて、
御研究に超越被遊 感動致し候、今後も(ママ)度々貴下之御噂宮中に出で、
皆々景慕し居られ候、小生も今一度貴地に遊び、大自然の美と幽とを味ひ、
且つ 奔放不羈なる大人と快談の幸を得たく、切望罷り在り候 (下略)
昭和四年十二月五日
加 藤 寛 治
南 方 大 人 梧下
斯くて、翌 昭和五年六月一日の一周年を期し、神島行幸記念碑が建てられ、翁が感激に身を震はせつゝ詠じた、
一枝も心して吹け 沖つ風
わが天皇の めでましゝ森ぞ
の一首を彫りつけ、和歌山県知事 友部泉蔵 以下多数の官民が集り、華々しき除幕式が挙行された。 松籟永へに神韻の歌を奏てゝ此の碑を祝福すべく、紀南に寄する黒潮の香は、高く久しく翁の栄光を称へるであらう。
*〔その後のこと〕
33年後の昭和37年5月、昭和天皇は 南紀巡幸の際、白浜の宿から神島を眺めて 当時を懐かしがられ、
雨にけぶる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ
と詠じられたという。
因(ちなみ)に李王垠殿下 昭和八年十月八日、白浜温泉に御成りあり、上山別邸に御一泊の際、翁は 同邸にて殿下に蘭に就いて御講義申上げ、同十年八月廿二日には、久邇宮多嘉王殿下、妃静子殿下、同若宮殿下に御講義申上げたことは 既載の如くである。
終