らんだむ書籍館


背表紙

目 次


(グスタアフ・ヰイド)
薔薇 (グスタアフ・ヰイド)

(以上二篇 スカンジナビア)

クサンチス (アルベエル・サマン)
橋の下 (フレデリック・ブテエ)
田舎 (マルセル・プレヲオ)
復讐 (アンリ・ド・レニエエ)
不可説 (アンリ・ド・レニエエ)
(ジユウル・クラルテエ)
一疋の犬が二疋になる話 (マルセル・ベルジエエ)
聖ニコラウスの夜 (カミイユ・ルモンニエエ)

(以上八篇 仏蘭西)

防火栓 (ゲオルヒ・ヒルシユフエルド)
己の葬 (ハンス・ハインツ・エエルス)
刺絡 (カルル・ハンス・ストロオブル)

(以上三篇 独逸)

アンドレアス・タアマイエルが遺書(アルツウル・シユニツツレル)
正体 (カルル・フオルミユルレル)
祭日 (ライネル・マリア・リルケ)
老人 (ライネル・マリア・リルケ)
駈落 (ライネル・マリア・リルケ)
破落戸の昇天 (フランツ・モルナル)
辻馬車 (フランツ・モルナル)
最終の午後 (フランツ・モルナル)
(オシツプ・ヂユムツフ)

(以上九篇 墺太利)

パアテル・セルギウス (レオ・トルストイ)
樺太脱獄記 (コロレンコ)
(ドストエウスキイ)
センツアマニ (マムシム・ゴルキイ)
板ばさみ (オイゲン・チリコフ)
(アルチバシエフ)
(アルチバシエフ)
フロルスと賊と (クスミン)
馬丁 (アレクセイ・トルストイ)

(以上九篇 露西亜)

うづしほ (エドガア・アルラン・ポオ)
病院横丁の殺人犯 (エドガア・アルラン・ポオ)
十三時 (エドガア・アルラン・ポオ)

(以上三篇 亜米利加)


森 鴎外・訳
「諸国物語」


 大正4(1915)年 7月 再版、 (大正 4年 1月 初版。)  国民文庫刊行会。
 活版印刷、洋クロス装、菊判( 縦 13 cm、横10 cm )、 本文 942 頁。


 26人の欧米の作家による 34篇の作品の翻訳を収録した、小説選集である。
 目次に見られるように、作家の国別により、「スカンジナビア」(2篇)、「仏蘭西」(8篇)、「独逸」(3篇)、「墺太利」(9篇)、「露西亜」(9篇)、「亜米利加」(3篇) に区分けされている。
 鴎外の弟・森潤三郎の著書 「鴎外・森林太郎」(昭和17年)の記載によれば、1月発行の初版には、これらの他に「白耳義」という区分があり、カミイユ・ルモンニエエ(Camille Lemonnier)の「聖ニコラウスの夜」という作品はここに分類されていたようであるが、この再版では「仏蘭西」に組み込まれている。
 このように、国ごとの作品を集めた形になっているところから、本書を「諸国物語」と名づけたのであろう。 当時としても古風なネーミングであるが、「現代欧米小説選」のような ありきたりを避けて わざと風変りな書名とし、独自性を示したのではなかろうか。

 これら 34篇について、森潤三郎の前掲書や 岩波版「鴎外全集」の後記によって、初出(翻訳の掲載誌を調べてみた。
 初出が最も早いのは、明治41(1908)年1月発行の「明星」に載った アルツウル・シユニツレル(Arthur Schnitzler)の「アンドレアス・タアマイエルが遺書」であるが、これだけは 他の作品の翻訳よりもだいぶ前に発表されていて、しかも この「諸国物語」に先行する翻訳集「現代小品(明治43年10月刊)にも収録されている。
 これ以外のものの中では、明治43(1910)年8月発行の「文芸倶楽部」に載った エドガー・アルラン・ポオ(Edger Allan Poe)の「うづしほ」が最初で、このあとは 各作品の翻訳がほぼ連続して発表されている。 最も遅い(新しい)のは、大正3(1914)年1月発行の「我等」に載った グスタアフ・ヰイド(Gustav Wied)の「尼」である。
 したがって、発表時期で 明治43(1910)年8月から大正3(1914)年1月までの 3年半ほどの期間における翻訳活動の成果が、集約されているといってよいであろう。
 ちなみに 掲載誌は、上記3誌のほか、「東亜の光」、「学生文芸」、「新小説」、「三田文学」、「女子文壇」、「心の花」、「新日本」、「昴」、「帝国文学」、「趣味」と、きわめて多種にわたっている。
 このように 継続してなされた翻訳であるために、文体が統一されていて、通読しやすい。 例えば、一人称で語られる作品が割合に多いのだが、その一人称は だいたい「おれ」で統一されている。
 この時期、鴎外の訳文はますます洗練されて、軽快なものになっていて、今でも ほとんど古さを感じさせない。 例外は、上記の「アンドレアス・タアマイエルが遺書」が文語体になっていることであろうか。 しかし、これは遺書の形をとった作品であり、文語体とすることによって遺書の訴求力・説得力が強められているように思う。 また、いくつかの作品中にある 新聞記事の引用も文語体であるが、これは当時の実情を反映したものであるから、やむをえない。

 「本文の一部紹介」としては、「墺太利」の部にある ライネル・マリア・リルケ「老人」を、掲げることとする。
 この作品は、本書中の最短篇であるが、人生の最終局面にある人々を、さりげないスケッチのような趣で、軽妙に描いている。 ただ、老醜の描写がやや執拗なのが、残念なところである。
 なお、本書は 文章中の漢字全てに「ふりがな」を付す、いわゆる「総ルビ」方式であるが、この紹介においては、「ふりがな」は 必要最小限にとどめた。


本文の一部紹介





老人ろうじん   (R.M.Rilke.)


 ペエテル・ニコラスは 七十五になつて、いろんな事を忘れてしまつた。 昔の悲しかつた事や嬉しかつた事、それから 週、月、年と云ふやうなものは もう知らない。 只 日と云ふもの丈は ぼんやり知つてゐる。 目は 弱つてゐる。 又 日にまし弱つて行く。 それで 日の入りが ぼやけた朱色に見え、日の出がめた桃色に見えるが、兎に角 その交代して繰り返されて行くことが分かる。 そして 此 交代は 大体から言へば うるさい。 だから それを気に掛けるのは、馬鹿げた、無用な努力だと感ずる。 春だの夏だののあたひは もう分からない。 いつだつて寒がつてゐる。 さうでないことは、只 稀にちよいとの間 ある丈である。 その暖い心持は 暖炉のお蔭でも、太陽のお蔭でも、そんな事はどうでも好い。 只 太陽の方が 暖炉より 余程廉価だと丈は 心得てゐる。 だから毎日 日のさす所へとこころざして、市の公園へ びつこを引きながら往つて、菩提樹の下のベンチに腰を掛ける。 席もまつてゐて、貧院から来る ペピイとクリストフとの 二人の老人の間である。
 この毎日 左右に来る二人の老人は、ペエテルよりも年上である。 ペエテルは 腰を掛けてしまふと、一声うなつて、それからあごで辞儀をする。 右の人も左の人も、辞儀が伝染したやうに、器械的にうなづく。 それからペエテルは 杖を砂の上に立てて、曲がつた握りの上に両手を置く。
 暫く立つてから ペエテルは更にその両手の上に、ひげを綺麗に剃つたあごを載せて、左にゐるペピイの方を見る。 目に出来る丈の努力をさせて見ると、ペピイの赤い頭が、だぶだぶしたうなじの上に、力なく載つてゐて、次第に色が褪めて行くやうに見える。 幅広に生えてゐる、白くなつた八字鬚は 根の処がもうきたない黄色になつてゐる。 このペピイは 前屈みに腰を掛けて、両肘を両膝の上にいてゐて、指を組み合せた両手の間から、時々 砂の上へ痰を吐く。 もう両脚の間に 小さい沼が出来てゐる。 ペピイは 生涯 大酒を飲み通したので、その飲んだ丈の酒の利息を 痰唾にして、毎日大地に払ひ戻すのかと思はれる。
 ペエテルは ペピイの体に異状の無いのを見届けた上、手の甲に載せた腮をずらせて、半分右へ向く。 丁度 クリストフは手鼻をかんだ処で、そのとばしりが 地の透くやうになつた上衣に掛かつてゐるのを、丁寧にゴチック形の指ではじいてゐる。 クリストフは 想像の出来ぬ程 衰弱してゐる。 ペエテルもまだたまには 物を不思議がることがあるので、一体この痩せ細つたクリストフが どうして生涯のうちに体のどこかを折つてしまはずに、無事で通つたかと不思議がるのである。 ペエテルの観察した所では、このクリストフと云ふ男は ひよろ長い枯木のやうなもので、それがくびと足首との二個所で 丈夫なくひに縛り付けてあるのである。 併しクリストフは 自分の身体にかなり満足してゐる。 そして 此瞬間に げつぷを一つした。 これは 中心で満足してゐる印とも 胃の悪い印とも 見ることが出来る。 それと同時にクリストフは 歯の無い口で 絶えず何かを噛んでゐる。 上下の唇は 此運動に磨りらされて 薄くなつてゐるかと思はれる。 又 推察をたくましくして見れば、此男は胃に力が無くなつて、『時間』も消化することが出来にくいので、その一分一分を 精一ぱいく咬み砕いてゐるかとも思はれる。
 ペエテルは腮をずらせ 戻して正面を向いて、汁のる目を芝生の緑に注いだ。 そこには夏服を着た子供が、強い光線の反射のやうに、止所とめどなしに 緑のむれの前を飛び上がつたり 又落ちたりしてゐる。 それが うるさくてならない。 ペエテルは 眠りはしない。 痩せたクリストフが 刈株のやうな腮鬚あごひげえりでこすりながら、ゆつくり何やらを咬んでゐる音と、ペピイが がつがつと痰を吐きながら、折々 余り近くに寄つて来た子供や犬を叱る声とを 聞いてゐる。 道の遠い所で砂利を掻いてゐる熊手の音も、側を歩く人の足音も、近い所で時計が十二時を打つ音も聞える。 ペエテルはもう数へはしない。 数へ切れぬ程 沢山打てば 十二時でひるだと云ふことを知つてゐる。 最後の時計の音と同時に、可愛らしい声が耳元で囁く。 「おぢいさん、おひる。」
 ペエテルは 杖に力を入れて起ち上がつて、片手を とうになる小娘の 明るい色をした髪の上にそつと置く。 小娘は此時 まつて、自分の髪の中から 枯葉の引つ掛かつたやうな手を摘み出して それにキスをする。 おぢいさんは 左へ一遍と右へ一遍と 辞儀をする。 左でも右でも 器械的に辞儀の真似をする。 そして ペピイとクリストフとはいつも おぢいさんと小さい娘との後影が 木立の向うに隠れるのを見送る。
 どうかすると ペエテルの腰を掛けてゐた跡に、娘の手からこぼれ落ちた草花が 二三本落ちてゐることがある。 そんな時は 痩せたクリストフが ゴチツク形の指をおそるおそる差し伸べて拾つて、帰りみちに それを大切な珍しい物のやうに手に持つてゐる。 赤い頭のペピイは それを馬鹿らしく思ふらしく 痰を吐いて見せる。 クリストフは 腹の中で恥かしがる。
 併し 貧院に戻り着くと、ペピイが先に部屋に這入つて、偶然の様に コツプに水を入れて 窓の縁に置く。 そして 一番暗い隅に腰を掛けて、クリストフが拾つて来た花をそれに挿すのを 見てゐる。




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