らんだむ書籍館 |
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扉 | 背表紙 |
目 次
尼 (グスタアフ・ヰイド) 薔薇 (グスタアフ・ヰイド) (以上二篇 スカンジナビア) クサンチス (アルベエル・サマン)橋の下 (フレデリック・ブテエ) 田舎 (マルセル・プレヲオ) 復讐 (アンリ・ド・レニエエ) 不可説 (アンリ・ド・レニエエ) 猿 (ジユウル・クラルテエ) 一疋の犬が二疋になる話 (マルセル・ベルジエエ) 聖ニコラウスの夜 (カミイユ・ルモンニエエ) (以上八篇 仏蘭西) 防火栓 (ゲオルヒ・ヒルシユフエルド)己の葬 (ハンス・ハインツ・エエルス) 刺絡 (カルル・ハンス・ストロオブル) (以上三篇 独逸) アンドレアス・タアマイエルが遺書(アルツウル・シユニツツレル)正体 (カルル・フオルミユルレル) 祭日 (ライネル・マリア・リルケ) 老人 (ライネル・マリア・リルケ) 駈落 (ライネル・マリア・リルケ) 破落戸の昇天 (フランツ・モルナル) 辻馬車 (フランツ・モルナル) 最終の午後 (フランツ・モルナル) 襟 (オシツプ・ヂユムツフ) (以上九篇 墺太利) パアテル・セルギウス (レオ・トルストイ)樺太脱獄記 (コロレンコ) 鱷 (ドストエウスキイ) センツアマニ (マムシム・ゴルキイ) 板ばさみ (オイゲン・チリコフ) 笑 (アルチバシエフ) 死 (アルチバシエフ) フロルスと賊と (クスミン) 馬丁 (アレクセイ・トルストイ) (以上九篇 露西亜) うづしほ (エドガア・アルラン・ポオ)病院横丁の殺人犯 (エドガア・アルラン・ポオ) 十三時 (エドガア・アルラン・ポオ) (以上三篇 亜米利加) |
本文の一部紹介 |
老人( (R.M.Rilke.))
ペエテル・ニコラスは 七十五になつて、いろんな事を忘れてしまつた。 昔の悲しかつた事や嬉しかつた事、それから 週、月、年と云ふやうなものは もう知らない。 只 日と云ふもの丈は ぼんやり知つてゐる。 目は 弱つてゐる。 又 日にまし弱つて行く。 それで 日の入りが ぼやけた朱色に見え、日の出が褪( めた桃色に見えるが、兎に角 その交代して繰り返されて行くことが分かる。 そして 此 交代は 大体から言へば うるさい。 だから それを気に掛けるのは、馬鹿げた、無用な努力だと感ずる。 春だの夏だのの価) ( は もう分からない。 いつだつて寒がつてゐる。 さうでないことは、只 稀にちよいとの間 ある丈である。 その暖い心持は 暖炉のお蔭でも、太陽のお蔭でも、そんな事はどうでも好い。 只 太陽の方が 暖炉より 余程廉価だと丈は 心得てゐる。 だから毎日 日のさす所へとこころざして、市の公園へ 跛) ( を引きながら往つて、菩提樹の下のベンチに腰を掛ける。 席も極) ( まつてゐて、貧院から来る ペピイとクリストフとの 二人の老人の間である。)
この毎日 左右に来る二人の老人は、ペエテルよりも年上である。 ペエテルは 腰を掛けてしまふと、一声うなつて、それから腮( で辞儀をする。 右の人も左の人も、辞儀が伝染したやうに、器械的に頷) ( く。 それからペエテルは 杖を砂の上に立てて、曲がつた握りの上に両手を置く。)
暫く立つてから ペエテルは更にその両手の上に、鬚( を綺麗に剃つた腮) ( を載せて、左にゐるペピイの方を見る。 目に出来る丈の努力をさせて見ると、ペピイの赤い頭が、だぶだぶした項) ( の上に、力なく載つてゐて、次第に色が褪めて行くやうに見える。 幅広に生えてゐる、白くなつた八字鬚は 根の処がもうきたない黄色になつてゐる。 このペピイは 前屈みに腰を掛けて、両肘を両膝の上に衝) ( いてゐて、指を組み合せた両手の間から、時々 砂の上へ痰を吐く。 もう両脚の間に 小さい沼が出来てゐる。 ペピイは 生涯 大酒を飲み通したので、その飲んだ丈の酒の利息を 痰唾にして、毎日大地に払ひ戻すのかと思はれる。)
ペエテルは ペピイの体に異状の無いのを見届けた上、手の甲に載せた腮をずらせて、半分右へ向く。 丁度 クリストフは手鼻をかんだ処で、そのとばしりが 地の透くやうになつた上衣に掛かつてゐるのを、丁寧にゴチック形の指で弾( いてゐる。 クリストフは 想像の出来ぬ程 衰弱してゐる。 ペエテルもまだ偶) ( には 物を不思議がることがあるので、一体この痩せ細つたクリストフが どうして生涯のうちに体のどこかを折つてしまはずに、無事で通つたかと不思議がるのである。 ペエテルの観察した所では、このクリストフと云ふ男は ひよろ長い枯木のやうなもので、それが頸) ( と足首との二個所で 丈夫な杙) ( に縛り付けてあるのである。 併しクリストフは 自分の身体にかなり満足してゐる。 そして 此瞬間に げつぷを一つした。 これは 中心で満足してゐる印とも 胃の悪い印とも 見ることが出来る。 それと同時にクリストフは 歯の無い口で 絶えず何かを噛んでゐる。 上下の唇は 此運動に磨り耗) ( らされて 薄くなつてゐるかと思はれる。 又 推察を逞) ( くして見れば、此男は胃に力が無くなつて、『時間』も消化することが出来にくいので、その一分一分を 精一ぱい熟) ( く咬み砕いてゐるかとも思はれる。)
ペエテルは腮をずらせ 戻して正面を向いて、汁の垂( る目を芝生の緑に注いだ。 そこには夏服を着た子供が、強い光線の反射のやうに、止所) ( なしに 緑の叢) ( の前を飛び上がつたり 又落ちたりしてゐる。 それが うるさくてならない。 ペエテルは 眠りはしない。 痩せたクリストフが 刈株のやうな腮鬚) ( を領) ( でこすりながら、ゆつくり何やらを咬んでゐる音と、ペピイが がつがつと痰を吐きながら、折々 余り近くに寄つて来た子供や犬を叱る声とを 聞いてゐる。 道の遠い所で砂利を掻いてゐる熊手の音も、側を歩く人の足音も、近い所で時計が十二時を打つ音も聞える。 ペエテルはもう数へはしない。 数へ切れぬ程 沢山打てば 十二時で午) ( だと云ふことを知つてゐる。 最後の時計の音と同時に、可愛らしい声が耳元で囁く。 「おぢいさん、お午) ( 。」)
ペエテルは 杖に力を入れて起ち上がつて、片手を 十( になる小娘の 明るい色をした髪の上にそつと置く。 小娘は此時 極) ( まつて、自分の髪の中から 枯葉の引つ掛かつたやうな手を摘み出して それにキスをする。 おぢいさんは 左へ一遍と右へ一遍と 辞儀をする。 左でも右でも 器械的に辞儀の真似をする。 そして ペピイとクリストフとはいつも おぢいさんと小さい娘との後影が 木立の向うに隠れるのを見送る。)
どうかすると ペエテルの腰を掛けてゐた跡に、娘の手から飜( れ落ちた草花が 二三本落ちてゐることがある。 そんな時は 痩せたクリストフが ゴチツク形の指をおそるおそる差し伸べて拾つて、帰り途) ( に それを大切な珍しい物のやうに手に持つてゐる。 赤い頭のペピイは それを馬鹿らしく思ふらしく 痰を吐いて見せる。 クリストフは 腹の中で恥かしがる。)
併し 貧院に戻り着くと、ペピイが先に部屋に這入つて、偶然の様に コツプに水を入れて 窓の縁に置く。 そして 一番暗い隅に腰を掛けて、クリストフが拾つて来た花をそれに挿すのを 見てゐる。
終
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