らんだむ書籍館


    表紙カバー

目 次 (項目構成を示すのみ)


一年有半 (生前の遺稿)
 第一 (45項、七月十一日脱稿)
 第二 (62項、七月十八日脱稿)
 第三 (55項、八月三日脱稿)
 付録 (28項)

続一年有半 (無神無霊魂)
 第一章 総論 (10項)
 第二章 再論 (18項)
 第三章 結論 ( 1項)

〔付録〕 理学鉤玄
 第一巻 (14章)
 第二巻 ( 7章)
 第三巻 ( 9章)


中江 篤助
「正続・一年有半」


 大正 6 (1917) 年 12 月、博文館。
 縦 17.7 cm、横 10.3 cm。 背クロス・紙装。 本文 434 頁。


 本書 「正続・一年有半」は、明治期の民権思想家 中江篤介(弘化 4 (1847) ~ 明治 34 (1901)、号:兆民。 以下、兆民という)の、最晩年の著書 「一年有半」「続一年有半」 とを、縮小印刷により合冊としたものである。

 兆民は、明治 4 (1871) ~ 7 (1874)年、フランスに留学し、その啓蒙思想に接したことから、自由民権運動の理論家として活躍したが、実業への関心もあって徹しきれず、その行動には曲折が多かった。

 明治 34 (1901)年 3 月、その実業関係の用件で 大阪を訪れた兆民は、そこで病に倒れ、医師から喉頭ガンと診断され、余命は 一年半 との見通しを告げられた。 兆民は 当時 54 歳、なお意気盛んであり、自覚症状からの覚悟はあったものの、「余命一年半」は やはり深刻な数字であった。
 しかし、筆まめで 議論好きの兆民は、この厳しい自己の状況説明から始め、そういう状況だからこそ 敢て表明・議論せねばならぬ問題などを、次々と論述していった。
 その原稿が3本ほど完成したところで、兆民は 信頼していた弟子・幸徳秋水を東京から呼び寄せ、自分の瞑目後に 一書にまとめて刊行するよう依頼した。
 秋水は もちろんこれを引受けたが、直ちの刊行(すなわち生前の刊行)を勧めて、兆民に同意させた。 秋水はさらに 新聞等に発表済みの兆民の論説 28 篇を「付録」として加え、 明治 34 年 9 月に 「一年有半(副題:生前の遺稿)(初版)として博文館から刊行した。 (これが、右の「目次」の 最初の部分で、「第一」~「第三」、「付録」 の 4 部門からなっている。)
 著者の急迫した状況についての叙述を含むこの書は、果たして大きな反響を呼び、刊行まもなく 4 版を重ねるに至った。 (… 当時 同様に死を間近に意識していた正岡子規が、「一年有半」に関して、自分の方が悲惨な状態にあるとか、兆民は美というものが分かっていないから 自分より劣っている、などと 一方的に対抗心を燃やしている(「仰臥漫録」)のも、その成功が妬ましかったからであろう。)
 秋水は「第四版小引」を付し、「江湖の愛読 此の如きは 近来の罕(まれ)なる所、洵(まこ)とに心に歓喜するに足るべし。但だ此歓喜は、能く彼悲傷の万一をだも慰するを得べき乎」 と記したが、著者・兆民にかなりの満足を与えたばかりでなく、著述の継続への意欲を生じさせた。
 この間に、兆民は東京の自宅に帰り、主治医の交代もあったが、新たな医師から「二ヶ月余りは大丈夫」との見解も示された。 兆民は、異常な熱心さで続編の執筆に取りかかり、秋水によれば 「九月十三日から初めて(ママ) 僅かに十日ばかりで、二十二三日には 早や完結を告げて居た」 という。 そして 翌 10 月には、前著と同じ博文館から 「続一年有半(副題:無神無霊魂)として刊行された。 初めに告げられた「余命一年半」内の時点であり、危険な状況は変っていないので、この書名とされたのである。 (右の目次の第二部分。)
 ところが この「続一年有半」は、自由闊達な「一年有半」とは 打って変わって、漢語を多用した 固い論文調になっている。 これは、兆民が、これまでの自己の著作を総括するような 本格的な理論書を目ざした結果であろう。 「無神無霊魂」という副題も 本来の科学的唯物論の立場を示したもので、そのため 関係の深い旧著「理学鉤玄」(明治16年刊)を付録としているわけである。(右の目次の第三部分。) 兆民は、この「続一年有半」の刊行の翌々月、すなわち 明治34年12月に亡くなったが、自分の意図した著書を目にすることができ、本望だったであろう。
 そして 本書は、16年後の大正6(1917)年、冒頭に述べたように これら「一年有半」と「続一年有半」を併せ 合本として刊行されたものである。

 「本文の一部紹介」は、文章として 今なお生命ある「一年有半」(「第一」 ~ 「第三」)に限定し、特に兆民らしい 文藻豊かな項を選んで、掲げることとする。 「第一」 ~ 「第三」 内の各項(項目)は、原書では 頭に丸印(〇)を付すことで区分されているのであるが、その各項の欄外には 内容の特徴を示す眉批(兆民自身の評語)が必ず一つ付与されており、それが目次にも表示されている。 ここでの紹介においては、丸印の後に その眉批を見出しとして掲げることとする。



本文の一部紹介



        

一年有半

        

第一

〇 一年半の来由
 明治三十四年三月二十二日 東京出発、翌二十三日 大阪に着したり。 二三友人 停車場に来り迎へ、余が顔を熟視し 大に驚きて、余が或は直に卒倒せざるやと迄に思ひたると、旅館に着したる後に言へり。 宜(うべ)なり 余は 去年十一月より頻に咳嗽を患ひ、当時 咽喉専門の医の診断には、普通の喉頭加答児(カタル → catarrh , 炎症)なる旨に付き、爾来 打棄置きたるに 喉頭漸く疫痛を覚へ、飲食共に半減せる中、夜汽車にて来りしが故に、斯くは疲労を現したるなる可し。 然れども 此時 余は矢張 慢性喉頭加答児 位に考へて打捨置き、四月 紀州和歌の浦に赴き遊ぶこと四五日、然るに此時より ソロソロ 呼吸微促を覚へ、喉痛 依然たるを以て、余の素人と雖(いえど)も 少く気を使ひ、或は世に所謂 癌腫なる者に非ざる耶(や)と。 因て 行李匆々(急いで旅支度をすること) 大阪に帰へり、耳鼻咽喉専門医 堀内某の診断を請へり。 医 例に依り 光線を利用して、仔細検査して 曰く、是れ切開を要すと。 余 是に於て 果して癌腫なりと察し、答て曰く、然らば 請ふ 一身を托して 切開を施されんことを(と)。 既にして 余の友人 余の請によりて手術の証人たるを諾せし者、書面を余の留守許に発し 詳細の事を告げり。 妻 弥々(いよいよ) 大に驚き 倉皇(あわただしく)出発して 下阪し来り、余の投宿せる 中の島・小塚に至れり。 既にして 衆皆 癌腫切開の極めて危険にして、九死中一生無し、寧ろ維持策を取るに如かざるを謂ひ、余を尼(とど)めて已まず。 余 固より好みて死を速にせんと欲するに非ず。 一息の存する 必ず為す可き有り、亦 楽む可き有るを知るが故に、癌腫切開の方は思ひ止まれり。 而して 堀内も敢て強ひず。 矢張 危険と考へたりと見ゆ。

〇 寿命の豊年
 余 一日 堀内を訪ひ、予め 諱(い)むこと無く明言し呉れんことを請ひ、因て是より愈々臨終に至る迄 猶ほ幾何日月有る可きを問ふ。 即ち 此間に為す可き事と 又 楽む可き事と有るが故に、一日たりとも多く利用せんと欲するが故に、斯く問ふて 今後の心得を為さんと思へり。 堀内医は 極めて無害の長者なり。 沈思二三分にして 極めて言ひ悪くさうに 曰く、一年半、善く養生すれば二年を保す可しと。 余曰く 余は高々五六ヶ月ならんと思ひしに、一年とは 余の為めには 寿命の豊年なりと。 此書 題して 一年有半と曰ふは 是れが為め也。

〇 一年半は悠久也
 一年半、諸君は 短促なりと曰はん、余は 極て悠久なりと曰ふ。 若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり。 夫れ 生時限り有りて 死後限り無し、限り有るを以て限り無きに比す 短には非ざる也。 始より無き也。 若し 為す有りて 且つ楽むに於ては、一年半 是れ優に利用するに足らずや。 嗚呼 所謂一年半も 無也、五十年百年も 無也。 即ち 我儕は是れ、虚無海上一虚舟。



        

第二

〇 小山久之助君
 七月十三日 故五代友厚君の遺子某女(*)、東京より 小山久之助君(**)の書翰を齎(もたら)して来り、且つ 面会を乞ふ。 余 声全く嗄(サ、かれる)し 談話すること能はずと雖も、小山の書簡を見れば、仏蘭西学に従事し 余に面せんと欲すること 茲に久しき旨に付き、之を座に引き、強ひて声を絞りて 一二 語を交へたり。 小山も亦 頸頭塊物を発したりと伝聞し、五七日前 書を裁して之を問へり。 今 其書中に曰く、淋巴(リンパ、lymph node)腫にて橋本医伯の治術を受け、少しく快に赴けりと。 滔々 今日の濁流中に在て、之子(このひと、小山久之助のこと)の如きは 純粋愛すべき者、希くは 余の疾の如く不治症に非ざることを。
* 五代友厚の次女・藍子(1876~1965)と思われる。後に鉱山学を学んで 父の関係した三重県の鉱山の経営に携わったといわれるが、この時点(25歳)では、フランス関係の学問を志向していて、先覚者・兆民の助言を得るために 面会を希望したのであろう。
** 小山久之助(1859~1901)は、政治家(民権活動家)で、幸徳秋水と並ぶ 兆民の高弟であった。 小山もこの時 病床にあり、上記・五代藍子の齎した書翰では 「少しく快に赴」くと 好転を伝えていたが、まもなく急変したようで、兆民に2か月先んじて死去した。

〇 露伴、紅葉、逊遙、鴎外
 近日文学、露伴、紅葉、逊遙、鴎外、(*) 皆 佳なり。 蓋(けだ)し 露伴 雄渾 高華に意有りて、即ち 徂徠の所謂 峨眉天外雪中看(**) は、正に之人 野心の嚮応(キョウオウ、ひびきあう)する所ならん。 紅葉は 百錘千練、玲瓏明塋、十二分に透徹せずんば休まざるの概あり。 逊遙は 極めて自然に近し。 其 縦横揮洒、一に東坡の所謂 行く可き所に行き、止まる可き所に止まるものに似たり。 若 夫れ鴎外は 温醇にして 絶て鋒を露(あら)はさざる、蓋し其人 或は斯くの如き耶(か)
* この4名の文学者中、露伴・鴎外とは、兆民は 自らが明治23年10月に開催した会合(宴会)で同席している。 それにも係わらず、鴎外については面識が無いような書き方をしているが、上記会合で兆民は泥酔し 奇行を演じたりしたので、忘却したのであろう。 (岩波版「中江兆民全集」第12巻および別巻 参照。)
** 引用による比喩という関係がややこしいが、要するに、露伴の作風は 気宇壮大で 他にぬきん出ていると、評価しているようである。


〇 翻訳は 思軒と涙香
 翻訳は 故森田思軒 最も佳なり。 蓋し 学 漢洋を兼て、而して殊に漢学根底有る者、之人一人也。 故に善く文字を駆使して 左右皆宜し。 之れに亜(つぎ)て 涙香(黒岩涙香)の小説 頗る観る可し。 余 涙香の訳せし所の原書、一も曾て読みたること無し。 思ふに是れ 痛く節略を加へたるものなる可し。 而して 絶て痕跡を見(あら)はさず。 其 裁緝(全体を調和させること)の巧は 又 恐らくは他人の及ぶ所に非ず。



        

第三

〇 書筺中の旧知
 四五日前、寓(やど)の主人 大上君の室に至り、晤話(ゴワ、くつろいだ会話)の末 偶然 君の書筺を胠(ひ)らき、真山民詩鈔と唐宋八家選本とを見る。 余 大に喜び、恰(あたか)も 天涯万里の客舎に知友に逢ひたらんが如く、直に主人に乞ふて借覧し、大に文思を養ふことを得たり。 是より 余が楽事 又一箇を増し来り、先づ真山民(宋代の詩人)の詩より始めり。 惟(おも)ふに 余の此の書を繙(ひもと)きしは 十七八歳の時なりし歟と思ふ。 其記憶に存せしは 「絡緯数声山月寒」の一什にして、餘は皆忘れて 今始て読むが如し。 故に 興味 滋々多し。 記性の弱なるも亦 時として益ありと謂ふべし。

〇 真山民の詩
 山民の詩 声調 極めて佳にして、立意は新奇を尚びて、所謂 他人の牙後に落ちざる者。 是れ 最も尚ぶべし。 詩にもせよ、和歌俳句にもせよ、古人の意を踏襲して、纔(わずか)に字句の表を変じたる者は、一誦 人をして厭気を発せしむ。 然れども 和漢滔々 大卒(おおむね) 皆是れ也。

〇 文人の苦心 唯此一事
 余 常に以為(おもえ)らく、漢詩文は 宋以後は観るに足らず、詮ずる所 古人の焼直しに過ぎず、故に余は 宋以後の詩文は 一読して後 復た反顧せず。 夫れ 文人の苦心は、古人の後に生れ、古人開拓の田地の外、別に播種し、別に刈穫せんと欲する所の処(ママ)に存す。 韓退之の所謂 務去陳言戞々乎其難哉とは 正に此謂ひなり。 若し古人の田地に種穫せば 是れ剽盗のみ。 李白、杜甫、韓柳の徒 何ぞ曾て古人を襲はん。 独り漢文学 然るに非ず、英のシエクスピールや、ミルトンや、仏のパスカルや、コルネイユや、皆 別に機軸を出さざる莫し。 然らずんば 何の尊ぶ可きことか 之れ有らん。

〇 高青邱
 山民 立意の斬新の外、大に意を声調に用ゐたるものゝ如し。 故に其詩 他の宋人に比すれば 大に唐人に肖似する所有り。 後世 高青邱(明代の詩人)、蓋し山民の此等の処より悟入したるに似たりと、編者・近藤南州(*)の言 誠に善し。 青邱の詩 正に立意斬新にして、声調は則ち 往々唐賢に迫れり。 是 模擬に非ずして 自然の肖似なり。 尚(とうと)ぶべき所以(ゆえん)也。
* 名は元粋、明治期の漢学者。本項での この記述で、兆民が借覧したのは、この近藤南州が編集し 評語を付した「真山民詩集」(明治28年初版)であることが判明する。 集中の「牧児歌」という詩に、南州は「青邱の詩は、これら真山民の詩より脱化し来るに似たり」との評語を付している。

〇 漢詩革新の一法
 余 仏のコルネイユ(Pierre Corneille,1606~1684)のシード(Le Cid,1936)、シンナー(Sinna,1642)、ラシンヌ(Racine,1639~1699)のアタリー(Athallie,1691)、イフイジエニー(Iphigenie,1694)、近時 ユゴー(Victor-Marie Hugo,1702~1885)の諸作を読みて、以為(おもえ)らく 漢詩に於ても亦 此種の作を規撫して之を出すときは、大に人 耳目を新にするを得ん。 但 此時に在て 字句の雅醇なるを得ること 極めて難かる可し。 槐南(森槐南、1863~1911)、寧斎(野口寧斎、1867~1905)、種竹(本田種竹、1862~1907)の諸子(*)と謀らんと欲せしも 竟(つい)に果さず、此等大家の筆を以て 変化を図るときは、其功 必ず大に 観る可き者有らん。
* これら3人のうち 槐南と寧斎は、前掲の注記で述べた 明治23年の会合の同席者である。その会合はそもそも 兆民が重視していた文学者を集めたもののようであるから、これらの人々を高く評価する姿勢は 変わっていないわけである。

〇 槐南先生の詩学
 槐南先生の詩学は、独り我邦詩人のみならず、彼土作家と雖も 恐らくは以て尚(くわ)ふること莫(な)かる可し。 其作は 余多く目を経ずして 凡そ読誦したる者は皆佳なり。 先生の作 啻(ただ)に其立意措語 好(よ)きのみならず、題と副(そ)ふの一事 極めて其意を用ゆる所なりと見ゆ。 且つ 槐南、寧斎、諸子に尚(ねが)ふ所は、他の我邦人の如く 間接に材料を 佩文韻府(漢字熟語を末尾の韻によって配列した、作詩用辞書)の如き機械より取り出し来るに非ずして、直に之を我が腹中の筺笥より取出し来るものゝ如し。






「らんだむ書籍館 ホーム」 に戻る。