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「東西美術の関係」 目次



  三宅雪嶺先生の十年忌に際し遺稿発刊の言葉
(野依秀市)


  動物界の通観

  歴史の外

  歴史の初め

  東西の不分離

  東西の分離

  書と彫刻 (上、中、下)

  書画と彫刻絵画 (上、中、下)

  東画と西画 (一 ~ 二十一)

  絵画及音楽 (上、中、下)

  東楽と西楽 (一 ~ 十三)

  音楽及詩

  東詩と西詩 (一 ~ 十三) 十一

  実用の美術 (上、下)


三宅雄二郎 「東西美術の関係」

 昭和30(1955)年11月、 実業之世界社。
 A5版。 本文311頁。 クロース装、 函入り。


 三宅雄二郎(万延元(1860)~昭和20(1945)、号:雪嶺。以下「雪嶺」という。)は、明治から昭和初期までの長期間にわたって活動した思想家。 まず明治中期に、当時の極端な欧化的傾向に対抗して、国粋主義を唱えたことで知られる。 しかし、その後はむしろ、依拠する東洋哲学を世界的な視野のもとで客観的に評価する立場をとり、独自の社会哲学の樹立をめざした。
 雪嶺は、明治16(1883)年に東京帝国大学文学部哲学科を卒業、以後の数年間は同大学の編輯所等に在籍したが、明治21(1888)年以降は自由な立場の言論人として終始した。 すなわち、同年に同志とともに政教社を設立して「日本人」を創刊したのを皮切りに、「亜細亜」、「日本及日本人」、「我感」等の雑誌を次々に発刊・主宰した。 これらの雑誌に、多くの記事・論説を発表したが、時事評論の類も多く、その面からみるとジャーナリストである。

 本書「東西美術の関係」は、もと 雑誌「日本及日本人」の 明治41(1908)年11月1日号より 同44(1911)年6月15日号まで、64回にわたって連載されたものである。 この連載記事が、44年後の昭和30(1955)年にようやく一書を成すに至ったわけである。
 連載時の各回分がそれぞれ一篇としてのまとまりを有していたので、この書はその64篇から成っており、各篇の内容は右の目次に示されるとおりである。 この目次から、書名における「美術」とは今日の「芸術」の意味であることが 理解されよう。 書、彫刻、絵画、音楽、詩と、芸術の各分野について、東洋と西洋が対比されて論じられ、比較芸術論ともいうべき議論が展開されている。
 最初の篇が「動物界の通観」であるのは、唐突な印象を与えるが、芸術に対する哲学的な考察から始めているわけである。 芸術は、人類の発生・進化と共にあったもので、芸術に対する感覚も、動物としての感覚の延長上にある、というような趣旨が述べられている。 以下「歴史の初め」までの三篇は、序論を構成している。
 続く各論部分での、それぞれの芸術分野に関する記述はきわめて具体的で、その具体的に挙げた事実について逐一論評がある。 ただし、個々の論評から、全体につながる思索の筋道を見いだすことは困難で、開陳される膨大な知識の列なりに幻惑されるばかりである。 このように、煙に巻かれたような感じになるところが、本書の醍醐味なのかもしれない。 とにかく、次々に繰り出される知識の該博さには驚かされ、唖然とさせられる。 もし、本書を現在の読書人のために注解しようとすれば、本文に数倍する説明記述が必要となろう。

 巻頭に、野依秀市の「遺稿発刊の言葉」という文が置かれているが、野依は 本書出版元の実業之世界社の社主である。 雪嶺が自分の尊敬措く能わざる存在であることを述べ、主要な著作を紹介しているが、文は雑駁で、本書を読むうえで参考となる点は少ない。 しかし、本書が成ったのは、この人の情熱によるのである。

 本書についてどのような論評がなされているか、あまり承知していないが、柳田泉「哲人・三宅雪嶺先生」(昭和30年刊)における本書の解説(約10頁)が丁寧・的確で、これを凌駕するものはないのではなかろうか。
 この柳田の解説に比して、上掲の紹介は いかにも貧弱であるが、あえて柳田をなぞることはしなかった。


 「本文の一部紹介」としては、(一)~(十三)の十三章にわたって縦横に論述されている「東詩と西詩」の節の (十一)章を掲げる。
 ここでの「詩」とは、歌謡や劇詩・戯曲などに及ぶ かなり広範な概念なのであるが、それを東西で対比させて、比較文学的に論じている。
 雪嶺は、この節の(十)章で、室町期に成立した 能楽(謡曲)は 中国の元曲の影響の下で成立したものであることを述べている。 このことは 江戸中期の学者・新井白石、荻生徂徠等が指摘したところで、既に定説化していると言ってよいであろう。(⇒ 森槐南 「作詩法講話」最終部分) したがって、雪嶺の説明も断定的である。
 そして雪嶺は、この(十一)章では さらに進んで、江戸期に成立した歌曲の 浄瑠璃も、明および清時代の中国の歌曲の影響の下で成立したものであることを 述べている。 浄瑠璃は はじめ、操り人形と組み合わされ、「人形浄瑠璃」という舞台劇として人気を博した。 次に、役者の演じる芝居と組み合わされて、「歌舞伎芝居」という 大がかりな舞台劇として、一層の人気を博するに至った。 雪嶺は、これら人形浄瑠璃および歌舞伎芝居に関し、その構成要素たる 歌曲・操り人形・芝居のそれぞれについて、明・清の文化の影響下で成立したことを、具体的に説明しているのである。 このため、本書全体における 東洋―西洋の対比 という視座からは離れる観があるが、部分的に 西洋の話題も織り込んでいる。
 なお、本書は 誤植が大変多いように思われるが、この紹介では、文脈からみて誤りであることが明白な個所にのみ 訂正を施した。



本文の一部紹介 : 東詩と西詩 (十一)


 近松門左衛門の経歴は頗る明白を欠き、何処に如何に学習せしかの知られざるが、其の硯の蓋に「事取凡近而義発勧懲」と書せしは、『笠翁伝記』(後出の「李笠翁」の伝記であろう)の序に 「昔人之作伝奇也事取凡近而云々」といふに出でしとの説あり。 真に然(しか)らんには 其の支那の書を読むの機敏なりしに驚かざる能はず、笠翁(李笠翁 (1610~1680)、名は漁。清代初期の劇作家)は略ぼ同時代にして、同時代の書の舶来せしも、之を読むは容易の事とすべからず。 されど 近松が国姓爺合戦(中国・明代末期の政変に材を採った浄瑠璃)を作りしは、台湾の事変より約三十年後の事、而して其の十数ヶ月打続け、古今の大当りなりしは、他にも事情あるにせよ、鄭成功(前出「国姓爺合戦」の主人公)の事蹟が広く知れ渡り、熱烈なる同情を以て迎へられしに因らずとせず。 当時 支那の事情は相応に早く知れしなるべく、其れほど交通あれば 新作の書類も続々到着すべき筈、近松が好んで之を読みしこと、強ち創造(想像?)し難からず。 随て 足利時代の謡曲及び能が元の影響を被りしが如く、徳川時代の浄瑠璃及び芝居が明清の影響を被りたりと考ふるの自然なるべけれど、其の如何なる順序に於てせしやの確かむべき無し。 支那の書を読む者は既に多く、支那の事を記載し引用するの普通なりしも、支那の劇及び劇場に関し、何程の知識ありしやは明かならず。 世に公けにするは、経史等に関する者にして、院本(演劇の脚本)の類は、たとへ詠むとも、之を窃かにせり。 徂徠(荻生徂徠、1666~1728) は 博識治聞を以て称せられ、而して五十歳にて百数十年前の李王の書に接し、天の霊寵なりとて古文辞を唱へり。 明末清初に就て何の知りし所あるや、疑はし。 門下には風流才子の多かりしも、如何に李翁を認めしにや。 新井白石(1657~1725) は 博覧に於て此に優るとも劣らず、凡そ当時知り得べき事にして知らざる無かりしとすべく、俳優考に於て謡曲と元曲との関係を言へりしは、元曲に注意し及びしなるが、元曲にて止まり、其後の事を省けり。 一説として、隋に康衢戯といひ、唐に梨園楽といひ、宋に華林戯といひ、元に昇平楽といへりしをを挙げ、其他 種々元代までの事を述べ、而して 明及び清に就て言ふ所無し。 是(これ) 劇を以て風俗を紊(みだ)すと為し、之を詳かにするを欲せざりしに非ず、既に論じて元に及びながら、次で明清に入らざりしは、明清の劇を知るの困難なりしならん。 白石にして然れば、余は推して知るべし、清初の書は如何に元禄頃に読まれしか。

 寛政二年(1790年)刊行の唐土奇譚(中国の演劇を紹介した書。著者は、畠中頼母(戯号・動脈先生))に、清の劇を伝ふる所あり、李笠翁が康熙二十六年(1687年)の春、北京百花坊の戯場に 千字文西湖柳といふ外題にて歌舞伎芝居せしは清朝第一の流行狂言なりし事 支那にて芝居を演場とも戯場とも枸欄とも戯台ともいひ、小芝居を小枸欄といひ、我が宮芝居の如くなる事。 人形芝居を傀儡棚といひ、舞台を戯棚といひ、楽屋を戯房といひ、楽屋入口を儡門口といひ、桟敷を戯棚といふ事。 官人などの坐す桟敷を青龍頭といひ、欄干に龍虎の彫物青漆塗せる事。 狂言を引戯とも演戯とも戯齣とも雑劇とも戯文ともいふ事。 身振を介とも科ともいふ事。 顔見世を艶段といひ、二の替を二艶段といひ、稽古も花穽といふ事。 根本正本を院本とも 燄段ともいひ、一段二段も一齣二齣といひ、唄うたひを念といひ、幕引を啓科学といひ、役者を戯子とも梨園弟子とも、総じて 此等を俳優家といふ事。 流行狂言は、唐にて 演記長恨歌、烈女降黄龍、晋宜成道記、煬帝白花鈴、粉墻梨花院、女状元春桃記、宋にて 三国一夜談、王子端捲簾記、四坐山偸酒牡丹香、花香千字文、三蔵法師不抽関、金にて 西廂記、講家求記、水酒梅花爨、元にて 琵琶記、水滸千字文、蘇武和番曲、明にて 截紅閙浴堂記、長慶春夢談、賞花燈、汴京十様錦、范増覇王曲、楊太真恋鱉なりし事、 尚ほ 李笠翁の千字文西湖柳の俳優の名を挙げ、我が芝居に少しも異ならざる由を記せり。 寛政二年は 康熙二十六年より百十三年後(正しくは「103年後」)、事新しく百年前の事を記するは 如何はしく(いかがわしく)感ぜらるれど、寛政二年上梓とあるは、其の以前の述作に係り、或は 幾十年も前より伝はりしを書き留めしに非ずと限らず。 兎もかく 寛政以前に 支那の劇と日本の劇と相ひ類似せるの知られにき。

 足利時代の能が 元の劇に類せしが如く、徳川時代の芝居が清の劇に類せしは、其の因由に就て二個の疑問あり、 即ち 元の劇が清の劇に変ぜしと同様に能が芝居に変ぜしか、又は 元の劇が能に影響せしと同様に清の劇が芝居に影響せるか、其間に決する無きを得ず。 何事も変遷に一定の順序あるも、足利より徳川に及ぶと、元より明に及ぶと、社会の状態に大なる差違あるに、独り劇の変遷の相ひ類するが如きあるべきか、若し其の有るべきに非ずんば、転じて影響に考へ及ばざる能はざれど、問題其れ自らに疑ひなきを得ず。 謡曲の元曲に類し、元に負ひし所あるの確実なるも、徳川の芝居が清の劇と如何に相ひ類せるかは、更に究察するを要す。 支那には 劇に関する語の屢々(しばしば)変じ、今日にても尚ほ一定するに至らず。 語の定まらざるを以て 劇風の定まらざるを推断し得ざるも、芝居に影響せしと仮定すべき明末清初の劇は 現代の清の劇と大差なきや否や、曲ならば現に伝はれるの多く、之を読みて知るべけれど、劇場及び俳優の事は頗る知り難く、幾分を知るとも、以て概括するに躊躇せざる能はず。 元曲の謡曲に影響せしほど、清の劇は徳川の芝居に影響せず、或は全く影響せざりしと謂ふべきも、若し影響せしならば、何の点に於てなるか、清の劇の明白を加へざる間、之を知るべくも無く、明白を加ふるも類似を以て直ちに影響に帰すべきに非ず、類似を以て影響に帰するが為め、間々 大なる誤謬に陥ることあり、而も何の関係の知られずして 意外に影響を被れるあるをも考へざるばからず。 徳川の初期、博識を以て称せらるる学者が明末清初の事を知らず、或は李笠翁の名を知らざりしも、其の故を以て 笠翁の書の早く到来し、之を読みし者あるを否定するを得ず。 著名なる学者、特に儒とし立つ者こそ、経史を主にし、小説院本に眼を触れざれ、無名の学者にして之を読み、適宜に応用せし無きを保せず。 近松が何の書を読みしかの明かならざれど、学者の読む所を読まず、其の読まざる所を読みたらんも測られず、何辺に影響ありて、何辺に影響なきかは、之を判定すること頗る難たし。

 箏の平調子が欧州の音階に似たるとて、八橋検校(江戸初期の箏曲家。箏曲の演奏を高度化。)が肥前にて蘭人より得たるとの説あるが、其の然るを保証し得ざると共に、其の然らざるを決定すべからず。 竹田出雲が江戸にて操り人形の製作法を知り、之を近松の浄瑠璃に応用し、大に繁昌を致しゝは 事実の明白なるも、其の操り人形の製作法は 何様の物なりしか。 操り人形は古より之有り、クグツマハシとて之を業とせしあり。 豊臣の代、引田が浄瑠璃に和して人形を舞はし、後陽成帝の召に応じて之を演ぜしが為、淡路 掾を授けられしかば、竹田が人形を朝廷に献じて 出雲掾を授けられたりとて、何の不思議なけれど、操り人形といひ カラクリ人形といふは、何等かクグツと区別すべき必要の起りしに非ざるか。 貞丈雑記(江戸中期の考証学者・伊勢貞丈 (1717~1784) の随筆)に、佪儡はくゞつとよみて人形の事なり、歌をうたひ人形をまはす者なり とあり、佪儡はくぐつとよみて人形の事なりと註解せしは、貞丈の頃に佪儡の語の広く行はれず、漸く行はれ初めしを示すも、遊女に佪儡といふ名ありしを考ふれば、最早や世俗の語と為りしをも察すべし。 早くより佪儡といふ語の用ゐられしも、学者の用語たるに過ぎざりしに、貞丈の頃は何程か適用し、其後 傀儡師は何処にも解せらるゝ普通の語と為れり。 如何にして 斯く傀儡の語が行はるゝに至りしかは、充分なる説明を得ざれど、新たに支那の傀儡の入り込み、前のクグツ若くは操り人形より機関の精巧なるの認められしならざるか。 貞丈は近松の国姓爺の成りし頃に生れし者、而して故さら佪儡の人形なるを言へりしは、傀儡の入り込みて未だ年代を経ず、近松の浄瑠璃に活気を添へし竹田が輸入傀儡を視て工夫を積み、直接に輸入品を視ずとも、輸入品に象りし者(=模造品)に接して 発明せし所あるを示さゞるか。 竹田の頃に傀儡の輸入され、機関の精巧なるを認められ、傀儡の名に於て他と区別せられしも、或る一小部分に行はれしに、傀儡の語の広く行はるゝに至りたるべし。 軽業の新芸、籠脱の新芸等、延宝年中 長崎より大阪に来りて演じ始めたれば、新傀儡も其頃に到来せりとして可ならん。

 支那は傀儡の製作に長じ、穽糸刻木巧如神、無限機関在此身、粧粉腰肢渾窈窕、周旋體態更清新、悲歓却有多般假、離合全無半点真、昏惑幾多浮蕩子、捐金翫賞笑歎頻 とあるは 文字通りに解すべからざるも、其の秀でしあるを推すに足る。 日本は工芸に於て支那に優りし者、例せば 刀の如き 弓の如きあるも、之に劣りしもあり、複雑なる機関を具ふるは 多く之に劣り、従来のクグツは新たに到来せし傀儡に比し難し。 されど 支那に使用せし複雑なる機関は、概ね西域と同じく使用し、支那に特別なりとするを得ず。 弩(ド、いしゆみ。ばねじかけで矢や石を発射する。)は 弓として機関の複雑なるが、決して支那に限らず、広く西域に行はれぬ。 此と均しく、傀儡の精巧なるあるも、支那にて工夫せしか、又は他より入り来りしか、疑ひを免れず。 日本にクグツあり、支那の傀儡の幾回も入り込み、間々之を参考したらんも、傀儡の名を用ゐるまで優れるを思はざりしならん。 元曲の入り込みて謡曲に影響せし程なれば、若し当時 傀儡の精巧なるあらんか、能と共に大に行はるべきに、元禄頃まで さる形跡なきは、単に浄瑠璃の之を助くる無かりしに非ず、精巧の度に於て 後に於て見るが如くならざりしとすべし。 而も 詩文若くは考証は兎も角、器械製作に於て 元代の後に何等かの進歩ありたるか、明に及び、前に無かりし器械の行はれたるは、大抵欧洲人の輸入せし所に係からざるか。 傀儡は何(いずれ)の地にも有り、埃及(エジプト)の古塚より手足節々組み合はしたるの掘り出だされたれば、支那に精巧なるあるの怪むに足らざれど、明末に欧洲の傀儡の入り込み、之を参考して 更に精巧を加へしが如きあらざるか。 支那の傀儡及び影戯は 欧洲に知られ、欧洲にて影戯をオムブル・シノイゼと呼べるが、劇の復興せし頃より、伊国にフアントチニ、仏国にマリオネッツ、英国にモーションスとて、人形芝居の行はれ、演劇を憎みし清教徒さへ之を許容し、ジョンソンは以てシェークスピヤ劇を演ずるに足るとし、ジョルジ・サンドは自宅に其の舞台を設け、ゲーテも其の軽んずべからざるを言ひ、後ち衰へたれど、十九世紀の末、リビエール 之 を開演し 巴里人の興味を促せり。 俳優の劇に対抗し得ざるも、相応に表情するに堪ふ。 十六七世紀の製作は十九世紀に若かざるも、当時 他の貿易品と共に東洋に送り出だされ、明末の傀儡は其の機関を使用せし者と考ふるの 順当ならずとせず。 固より機械の改作は瑣細なる点に多く、傀儡を改めしとて従来の者と大に違ひしと謂ふ可らざるも、日本に入りて支那語のまゝに呼び習はす丈けの事ありたるべし。

 日本には 人形芝居と歌舞伎芝居と共に行はれ、歌舞伎役者に倣(なら)ひて人形を造り、人形に倣て歌舞伎役者の舞踊し、後ち歌舞伎の漸次人形を圧倒するに及びしが、操り人形は遂に廃せられず、往々浄瑠璃に欠くべからずとせらる。 今は最早や 役者が人形を視て悟るが如き無く、時に人形の真似するも 規定の型に則るに過ぎざれど、支那より傀儡の到来せし頃、其の支那の劇を伝ふるの媒介となりしを考ふべし。 支那の院本は読みて解すべきも、其の劇は彼地に到らざれば観るべからず、商人の支那に赴きしあるも、劇の改善を思ひ立ちて渡海する者あるべくも無く、百聞一見に若かずといふを事実にするを得ざりしが、此際 幾許か之を事実にし得たるは傀儡なるべく、之が為めに気付きし所の少からざらん。 芝居には 従来の舞曲及び能の加はりし外、新たに加はれるあり、荒ら事は、傀儡にて支那の劇より得たるべく、六法(人形浄瑠璃や歌舞伎芝居における、勇壮さを誇張した所作・演出)の如き 如何にも支那人らし。 傀儡にて了解し、図書にて了解し、人に聞て了解し、寛政以前に 日本の劇の支那の劇と同じきを明言するあらしめしが、本来芝居の掛員は 支那を標準とすること儒者の如く甚だしからず、倣(なら)ふべきを倣ふも、強て倣ふに勉めず、漸く設備の整ひし後、更に倣はんとせず、又 倣ふべきの無かりしならん。 能の元に則りて整備せしが如く、芝居も 初めこそ支那を参考したれ、後ち次第に進善し、之を凌駕するに及べり。 劇場の建築は 城及び寺院に劣るの遠かりしも、俳優は天才と養成とに待つ丈け、時として頗る巧妙なりしあり。 明治にも 大に称すべき無かりしに非ず。 今は 劇場の進みて俳優の進まず、俳優は或る点に於て進歩せる観あれど、寸退尺進を望むべく、総じて 劇は支那よりも進みたり。





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