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本文の一部紹介 |
ドナウ源流行
五
手提かばんを持って、僕は Schutze という旅館を尋ねて行った。 そうすると、こういう辺土の旅舎( であるのに、まだ宵の口のような気分が漂うていた。 僕は部屋を極) ( め、それから料理二品ばかりと麦酒) ( とを 部屋に用意しておくように命じて 外に出た。 出口から少し行ったところから戻って来て、ドナウがどの辺を流れているか尋ねると、帳場の若者はこう答えた。 流) ( は直ぐ近くにある。 これは Brigach) ( 川 である。 この流をしばらく下ると Brege) ( 川 がこれに合する。 ドナウはそこから始まる というのであった。 早口でいわれたのだが、前に地図で調べて置いたので、若者のいうことがほぼ分かった。 若者は 出口のところまで来て、流の方を指) ( してくれた。)
なるほど 川は直ぐ近くを流れていた。 僕は そこの石橋を渡らずに 右手に折れて、川に沿うて行った。 明月の光は 少し蒼味( を帯びて、その辺を隈) ( なく照らしているが、流は特に一いろに光って見えている。 それは 瀬の波から反射してくるのではなく、豊富な急流の面からくる反射であった。 川沿の道は林の中に入って、川はしばらく寂しいところをながれた。 うすら寒いので、僕は外套) ( の襟) ( を立て、両の隠しに 堅くにぎった拳) ( を入れて歩いて行った。 深い林が迫って来たかとおもうと、水禽) ( が二つばかり 水面から飛び立った。 僕は驚いたが 刹那) ( に気を取直して、こんなことでは いかぬ。 何の鳥だろう。 今ごろ飛んだりするのは と思った。 もし僕が Zigeuner) ( (原注:ジプシー)であったら、こんな時にどうするだろうなどとも おもった。 もうこのあたりの道は、人の往反が全く絶えている。)
… <中略> …
林が尽きて 月が見えたかとおもうと、また急に流の面が光り出した。 向うが開けて、平野のようになっている。 月光の涯( は 煙っているようである。 僕はちょっと立ち止まったが、「ドナウもこれぐらい細くなれば もう沢山だ」と思った。 そして 其処) ( の汀) ( のうえに尻をついていると、幽) ( かに水の香) ( がしている。 佐賀県の山中にいた時に嗅) ( いだ あの水の香と同じだと僕はおもった。 たまに 水が音を立てたりした。 これは 岸のところに出来る渦の音であった。)
もうよほど遅いかも知れんと思って、やおら立ちかけて、平野の向うを見ていると、また 僧 霊仙( のことが 意識をかすめた。 業房(留学先大学の研究室)に入ってやっている為事) ( が なかなか片付かずに難儀した時、僕はたまたま「霊仙大徳の死」を思って 自ら慰めたのであった。 霊仙は、興福寺の僧で、延暦) ( 二十二、三年(803〜804)ごろ 最澄) ( 、空海) ( と共に 入唐) ( した。 あるいは もっと早く宝亀) ( 年中(770〜780)だという考証もある。 そして 永く向うにいた。 長安醴泉寺僧内供奉翻経大徳) ( として崇) ( められたが、のち、五台山に入って修道中、人のために殺されたというのであった。 慈覚大師(最澄の弟子・円仁(794〜864))の『入唐求法) ( 巡礼記』に 「大暦霊境寺に到り、老宿に向いて霊仙三蔵の亡処を問う。 乃ち云う、霊仙三蔵は、先曾には多く銭勲蘭若及び七仏教戒院に在りしが、後に此の寺に来たる。 浴室院に住せしが、人に薬殺せられ、毒に中) ( りて亡過す。 弟子等の埋殯せしも、未だ何処かを知らず。」 こう書いてある。 最澄は 延暦二十四年(805)に帰朝して、八ヶ月余しか向うにいぬ。 空海は 大同元年(806)十月に帰朝して、二ヶ年足らず向うにいたに過ぎぬ。 けれども 最澄の 道邃) ( ・順暁) ( ・行満) ( などにおける関係、経典疏注すべて二百三十部四百六十巻その他を将来したこと。 比叡山天台宗開祖となったこと。 空海の 恵和) ( ・牟尼室利) ( ・曇貞) ( などにおける関係、最澄よりももっと沢山 書物) ( を持って帰ったこと。 高野山真言宗開祖となったこと。 この二人に較) ( べると 霊仙の一生は 奈何) ( にも寂しい。)
伝教も弘法も 共に尊むべき人である。 けれども 遙々( ここに留学生となって来ている僕の身には、余り楽々と光明に輝) ( いた二人の径路と、その求法) ( の為方) ( とが、先ず先ず 為にはならなかったといって好い。 僕は、当時の「還学生) ( 」の名より「留学生」の名を好んだごとく、「在外研究員」の名を厭) ( うて、自ら「留学生」といっていたのであった。 僕はみずから寂しい時には 霊仙の寂しい一生を思ったのは、こういう機縁に本づいていた。 僕は 歩き出してからも、ちょっと霊仙のことを思ったが、この頃は 霊仙のことにも おのずから馴) ( れて、感激の度も薄らいで来ておった。)
僕は 月光に由縁ふかい東洋詩人の感傷から離れて、大股( に歩いた。 しかし旅舎に帰って来た時は もう遠) ( に夜半を過ぎていた。 僕は 自分の部屋に行って 料理を食べながら麦酒) ( を飲んでいると、「籠) ( っている」感じで 気持が好い。 ことに 段々と澄徹の境を離れるところに いかにも安気) ( があった。)
参 考
僧・霊仙に関しては、大正期に 妻木直良、松本文三郎、高楠順次郎等の仏教学者による論文が 相次いで発表されている。 茂吉はそれらのいずれかを読んで、心に留めていたのであろう。
円仁の『入唐求法巡礼行記』中の記述を主な拠り所にすると、霊仙の人物像はどうしても悲劇的になってしまうが、その後 それを修正する研究成果も出ているようである。 以下には、中国の学者・賀昌群の小論文「古代中日文化交流史話二則」(1965年 中華書局刊『中華文史論叢・第六輯』所収)中の所論を紹介してみよう。 賀昌群は、(1)霊仙が仏教典翻訳(梵文→漢文)の「訳場」で重要な役割を果していたこと、(2)霊仙に心服していた弟子が 逝去を悼んで捧げた詩(七言絶句1首)とその序文の内容から見て、「毒殺」は誤伝と考えられること、を述べている。
(1)について。 唐の元和年間(806〜820年)に翻訳された『大乗本生心地観経』中に、翻訳に関与した僧6名の2番目(「筆受並びに訳語」を担当)として、霊仙の名が記録されている。 すなわち 霊仙は、後世にその名の残る活躍をしていたのである。
(2)について。 霊仙の弟子とは、渤海国の素貞という僧である。 霊仙の許をかなりの期間 離れて、再び五台山霊境寺に戻ってみると(828年)、霊仙は既に6年前に逝去していた。 そこで前記の悼詩と序文を捧げたのである。 これら詩・序は、板に書して壁に掲げられていたので、更に12年後にここを訪れた円仁は それを写しとって、「巡礼行記」に入れたのである。 円仁はここで、「薬殺」云々の話も聞いたので、両者をそのまま記録しているが、近代の賀昌群は、「薬殺」の方は「伝聞失誤」と断じている。
〔追記〕
霊仙の 仏教典翻訳(梵文→漢文)の「訳場」参加に関しては、同一の事実が 我が国の学者・石田幹之助の論考「中国の古写経」(『石田幹之助著作集・3』,1986年刊 所収)中にも述べられている。
終