らんだむ書籍館


表 紙



目 次


   念珠集抄
    *
   玉菜ぐるま
   紙幣鶴
   接吻
   ドナウ源流行
   妻
   探卵恵
   リギ山上の一夜
   蕨
   日本媼
    *
   呉秀三先生
   痴人の痴語
   第一高等学校思出断片
   島木赤彦臨終記
   牡雛の記
   長崎追憶
   巌流島
   手帳の記
   鴎外の歴史小説
   三筋町界隈
   兼常氏の花壇評
   続兼常
   颯爽
   一瞬
   鴎外・漱石について寸言
   新仮名づかい
   お通夜


     注
     解説
     初出一覧



岩波文庫
斎藤茂吉 阿川弘之、北 杜夫・編 「斎藤茂吉随筆集」


 昭和61 (1986) 年 10月 第1刷、 岩波書店。 本文 556頁。



 斎藤茂吉 (明治15(1882)〜昭和28(1953)) は、精神科医にして歌人。 各種散文にも優れていた。 その多様な遺文の中から、特に個性的なものを集めた 随筆集である。


 「本文の一部紹介」としては、 「ドナウ源流行」 の一部 を掲げることとする。
 茂吉は、大正10年(1921年)、文部省在外研究員として欧州に留学、ウィーンおよびミュンヘンの大学等で、脳神経細胞に関する実験研究に従事した。 滞在は3年に及んだので、この間 周辺各地を旅行し、西欧文化の諸方面に接した。 ウィーンからミュンヘンに移った後に、ドナウの源流を訪ねた旅は、特に趣の深いものだったようである。
 ドナウは、ウィーンの街を貫流する大河で、その歴史的発展に深く関わっていた。 源流を訪ねることで、そうした諸々のことを総合的に把握しようとしたのであろう。 ミュンヘン東方の小都市・ウルム(Ulm)を経て、ドーナウシェンゲン(Donaueschingen)という駅で 汽車を降りた茂吉は、旅館に部屋をとるや、夜の遅きにもかかわらず 川に向かった。 二つの川が合して 「ドナウ」と呼ばれる一つの川になる、その地点に到達したのである。 川の流れは、明月に照らされていた。
 このとき、この地で、茂吉は 突然、平安時代初め、最澄や空海と同時期に 唐に渡った 僧・霊仙を想起した という。 ヨーロッパ留学は 古代の渡唐に比すべきことであるが、茂吉はここで、最澄・空海のような栄光に包まれずに終わった霊仙に、自らを重ね合せていたようである。



本文の一部紹介

 ドナウ源流行


     

 手提てさげかばんを持って、僕は Schutze という旅館を尋ねて行った。 そうすると、こういう辺土の旅舎やどであるのに、まだ宵の口のような気分が漂うていた。 僕は部屋をめ、それから料理二品ばかりと麦酒ビールとを 部屋に用意しておくように命じて 外に出た。 出口から少し行ったところから戻って来て、ドナウがどの辺を流れているか尋ねると、帳場の若者はこう答えた。 ながれは直ぐ近くにある。 これは Brigachブリガッハ川 である。 この流をしばらく下ると Bregeブレーゲ川 がこれに合する。 ドナウはそこから始まる というのであった。 早口でいわれたのだが、前に地図で調べて置いたので、若者のいうことがほぼ分かった。 若者は 出口のところまで来て、流の方をゆびさしてくれた。
 なるほど 川は直ぐ近くを流れていた。 僕は そこの石橋を渡らずに 右手に折れて、川に沿うて行った。 明月の光は 少し蒼味あおみを帯びて、その辺をくまなく照らしているが、流は特に一いろに光って見えている。 それは 瀬の波から反射してくるのではなく、豊富な急流の面からくる反射であった。 川沿の道は林の中に入って、川はしばらく寂しいところをながれた。 うすら寒いので、僕は外套がいとうえりを立て、両の隠しに 堅くにぎったこぶしを入れて歩いて行った。 深い林が迫って来たかとおもうと、水禽みずとりが二つばかり 水面から飛び立った。 僕は驚いたが 刹那せつなに気を取直して、こんなことでは いかぬ。 何の鳥だろう。 今ごろ飛んだりするのは と思った。 もし僕が Zigeunerチゴイネルホ(原注:ジプシー)であったら、こんな時にどうするだろうなどとも おもった。 もうこのあたりの道は、人の往反が全く絶えている。
 … <中略> …
 林が尽きて 月が見えたかとおもうと、また急に流の面が光り出した。 向うが開けて、平野のようになっている。 月光のはては 煙っているようである。 僕はちょっと立ち止まったが、「ドナウもこれぐらい細くなれば もう沢山だ」と思った。 そして 其処そこなぎさのうえに尻をついていると、かすかに水のがしている。 佐賀県の山中にいた時にいだ あの水の香と同じだと僕はおもった。 たまに 水が音を立てたりした。 これは 岸のところに出来る渦の音であった。
 もうよほど遅いかも知れんと思って、やおら立ちかけて、平野の向うを見ていると、また 僧 霊仙れいせんのことが 意識をかすめた。 業房(留学先大学の研究室)に入ってやっている為事しごとが なかなか片付かずに難儀した時、僕はたまたま「霊仙大徳の死」を思って 自ら慰めたのであった。 霊仙は、興福寺の僧で、延暦えんりゃく二十二、三年(803〜804)ごろ 最澄さいちょう空海くうかいと共に 入唐につとうした。 あるいは もっと早く宝亀ほうき年中(770〜780)だという考証もある。 そして 永く向うにいた。 長安醴泉寺僧内供奉翻経大徳ちょうあんれいせんじそうないぐぶほんきょうだいとくとしてあがめられたが、のち、五台山に入って修道中、人のために殺されたというのであった。 慈覚大師(最澄の弟子・円仁(794〜864))の『入唐求法ぐほう巡礼記』に 「大暦霊境寺に到り、老宿に向いて霊仙三蔵の亡処を問う。 乃ち云う、霊仙三蔵は、先曾には多く銭勲蘭若及び七仏教戒院に在りしが、後に此の寺に来たる。 浴室院に住せしが、人に薬殺せられ、毒にあたりて亡過す。 弟子等の埋殯せしも、未だ何処かを知らず。」 こう書いてある。 最澄は 延暦二十四年(805)に帰朝して、八ヶ月余しか向うにいぬ。 空海は 大同元年(806)十月に帰朝して、二ヶ年足らず向うにいたに過ぎぬ。 けれども 最澄の 道邃どうずい順暁じゅんぎょう行満ぎょうまんなどにおける関係、経典疏注すべて二百三十部四百六十巻その他を将来したこと。 比叡山天台宗開祖となったこと。 空海の 恵和けいか牟尼室利むにしつり曇貞どんじょうなどにおける関係、最澄よりももっと沢山 書物しょもつを持って帰ったこと。 高野山真言宗開祖となったこと。 この二人にくらべると 霊仙の一生は 奈何いかにも寂しい。
 伝教も弘法も 共に尊むべき人である。 けれども 遙々はるばるここに留学生となって来ている僕の身には、余り楽々と光明にかがやいた二人の径路と、その求法ぐほう為方しかたとが、先ず先ず 為にはならなかったといって好い。 僕は、当時の「還学生かんがくせい」の名より「留学生」の名を好んだごとく、「在外研究員」の名をいとうて、自ら「留学生」といっていたのであった。 僕はみずから寂しい時には 霊仙の寂しい一生を思ったのは、こういう機縁に本づいていた。 僕は 歩き出してからも、ちょっと霊仙のことを思ったが、この頃は 霊仙のことにも おのずかられて、感激の度も薄らいで来ておった。
 僕は 月光に由縁ふかい東洋詩人の感傷から離れて、大股おおまたに歩いた。 しかし旅舎に帰って来た時は もうとうに夜半を過ぎていた。 僕は 自分の部屋に行って 料理を食べながら麦酒ビールを飲んでいると、「こもっている」感じで 気持が好い。 ことに 段々と澄徹の境を離れるところに いかにも安気あんきがあった。



参 考


 僧・霊仙に関しては、大正期に 妻木直良、松本文三郎、高楠順次郎等の仏教学者による論文が 相次いで発表されている。 茂吉はそれらのいずれかを読んで、心に留めていたのであろう。
 円仁の『入唐求法巡礼行記』中の記述を主な拠り所にすると、霊仙の人物像はどうしても悲劇的になってしまうが、その後 それを修正する研究成果も出ているようである。 以下には、中国の学者・賀昌群の小論文「古代中日文化交流史話二則」(1965年 中華書局刊『中華文史論叢・第六輯』所収)中の所論を紹介してみよう。 賀昌群は、(1)霊仙が仏教典翻訳(梵文→漢文)の「訳場」で重要な役割を果していたこと、(2)霊仙に心服していた弟子が 逝去を悼んで捧げた詩(七言絶句1首)とその序文の内容から見て、「毒殺」は誤伝と考えられること、を述べている。
 (1)について。 唐の元和年間(806〜820年)に翻訳された『大乗本生心地観経』中に、翻訳に関与した僧6名の2番目(「筆受並びに訳語」を担当)として、霊仙の名が記録されている。 すなわち 霊仙は、後世にその名の残る活躍をしていたのである。
 (2)について。 霊仙の弟子とは、渤海国の素貞という僧である。 霊仙の許をかなりの期間 離れて、再び五台山霊境寺に戻ってみると(828年)、霊仙は既に6年前に逝去していた。 そこで前記の悼詩と序文を捧げたのである。 これら詩・序は、板に書して壁に掲げられていたので、更に12年後にここを訪れた円仁は それを写しとって、「巡礼行記」に入れたのである。 円仁はここで、「薬殺」云々の話も聞いたので、両者をそのまま記録しているが、近代の賀昌群は、「薬殺」の方は「伝聞失誤」と断じている。

〔追記〕
 霊仙の 仏教典翻訳(梵文→漢文)の「訳場」参加に関しては、同一の事実が 我が国の学者・石田幹之助の論考「中国の古写経」(『石田幹之助著作集・3』,1986年刊 所収)中にも述べられている。



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