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表紙カバー (このカバー絵は、文庫の各書に共通。) |
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目 次
百科文庫 芭蕉翁絵詞伝序 (露伴道人) 解 題 (幸田露伴) 芭蕉翁絵詞伝 絵 (三十三面) 詞書 跋 (蝶夢 幻阿弥陀仏) |
本文の一部紹介 |
百科文庫 芭蕉翁絵詞伝序
蝶夢の芭蕉翁絵詞伝は 韻趣を以て優る。 蓋し 蝶夢 既に芭蕉の俳諧を尚び、又 其 人となりを愛し 而して後に 此篇有り。 芭蕉の詞章、人物、もと韻趣を以て勝る。 伝の おのづからにして韻趣を以て勝るも、亦 当に然るべきなり。 而して 蝶夢もまた 世俗猥薄の俳諧者流にあらず。 風流薀藉、韻趣を以て勝るの人たり。 此の人にして 此の伝を選す。 今に於て 人の芭蕉を忘るゝ能はず、又 蝶夢を忘るゝ能はざるも 宜なりといふべし。 芭蕉 もと西行に私淑す。 西行僊去の後 世に西行絵詞伝あり。 西行と其伝とも 韻趣を以て勝る。 芭蕉は 其心 西行を追ひ、此篇は其体 彼伝に倣ふ。 韻趣的々 流れて尽きざるもの有る也。
昭和十三年九月 露伴道人
解 題
芭蕉翁絵詞伝三巻は、蝶夢、これが文を撰し、至信(画家・狩野至信)、これが画を作して 成れるものなり。 文情飄逸、画意瀟洒、共に能く蕉翁を伝ふるに足るの故を以て、世の蕉翁を景慕するもの、清談の余、雅談の末、説いて 蝶夢が絵詞伝に及ぼさゞること無し。 蓋し 蝶夢が蕉翁を尊崇するの情の真なる、意の誠なる、発して其の筆端に溢れ、楮表に満つるあるに因らずんば あらざるなり。 其の絵詞伝を撰するに至れる始末の如きは、蝶夢自ら之を記して 巻末に付せり。 読者 就いて覧て、其の存心敦厚のところを知り、併せて 絵詞伝の世に称せらるゝ所以を知るべし。
蝶夢は 蓋し 塵外の人(俗世間を離れた、すなわち 仏門に入った人)。 京都寺町 帰白院の住職なりきといふ。 寛政四年(1792年)十二月二十四日、享年六十四にて没しぬといへば、享保の末に当りて生れしなるべし。 蝶夢は其の俳号にして、幻阿弥陀仏は其の仏名なり。 庵を五升庵といひ、また 泊庵といふ。 帰白院を退きて後は 洛東岡崎に住し、俳諧に遊んで 悠々吟哦 世を卒りぬとなり。 芭蕉翁を追慕渇仰するの情 極めて深く、かつて粟津の義仲寺なる 芭蕉堂の頽破せるを再建し、又 石山の幻住庵を守りしこともありきといふ。 此等の事 皆 蕉翁を思ふの余に出でざる無し。 其の人となり 想ふべきなり。
蝶夢が幻住庵を守れる折の事なりき。 まづ頼む椎の木もあり夏木立 といふ蕉翁の句によまれたる椎の木の、あるじは代り 庵は古びたれど、猶 幾歳の霜に堪へ 雪に耐へてありけるが、さすがに生滅のことわり是非無くて、あはれ老木も 日の光り露の恵みを受くる命数尽きて、遂に敢無くも枯れ果てければ、かつては 我が翁の慈愊のまなじりかゝり、風雅のたゝへごとさへ得たる樹を、よしや非情のものなればとて、草木成仏の金句もあるに、如何で やみやみと炉中の煙りとして、芽ぐまぬむかしのすがたに還らしむるに忍びんや、とて これをもて俳席の用に供ふる文台を作り、時の俳宗 蓼太に贈りきといふ。 この一事 以て 如何ばかり蝶夢が蕉翁をおもふ心の厚かりしかを知るに足れり。 この文台は 今猶 雪中庵に伝はりて雀志氏が許に儼存すれば、此の事は 決して捕風捉影の談にあらず。 蝶夢が人となりも よろこぶべきかな。
蝶夢が著はすところ、芭蕉翁絵詞伝を外にして、墨直、松島道記、宰府紀行、時雨会集、芳野冬之記、養老滝記、遠江記 等 およそ十七八部ありといふ。 好事の士 捜索して 之を読むべき也。
冨山房主人 蝶夢の芭蕉翁絵詞伝を新刊するに当り、これを書して 以て題す。
明治癸卯一月 幸田露伴
芭蕉翁絵詞伝 (絵、詞書)
絵三
徒然なる折にや、笠をはり給ふ詞に、
秋風淋しき折々、竹取の工( に習ひ、妙観が)
刀をかりて、自ら竹を割り、竹を削り、笠作( り)
の翁( と名乗る。 朝に紙を重ね、 夕部) ( に干して、)
また重ね重ねて、渋といふ物をもて、色をさはし、
廿日( 過ぐる程に、やゝ出できにけり。 其の形) ( 、)
裏の方にまきいれ、外様( に吹) ( かへり、荷葉) ( の半) ( )
開くるに似て、をかしき姿なり。 西行法師が
富士見笠か、東坡居士( 居士が雪見笠か、宮城野)
の露に供つれねば、呉天( の雪に杖をやひかん。)
霰( にさそひ、時雨) ( に傾) ( け、漫) ( にめでゝ、殊に)
興ず。 興のうちにして、俄に、感ずる事あり。
再び、宗祇の時雨ならでも、仮の宿りに袂を濡( し)
て、笠の裏に書き付け侍る。
世にふるも さらに宗祇( の 宿りかな) 絵五
江戸(*)を出で、海道を上り給ひけるに、富士河の
辺( にて、三つばかりの捨子の、泣くあり。 此の)
河の早瀬にかけて、浮世の波を凌( ぐに堪へず、露)
ばかりの命 待つ間と、捨ておきけん、小萩がもと
の秋の風、今宵( や散らん、明日や萎) ( れんと、袂よ)
り、食ふべき物 投げて通るに、
猿( をきく人 捨子) ( に 秋の風いかに)
いかにぞや、汝、父に憎まれたるか、母に疎ま
れたるか、父は、汝を憎むにあらじ、母は、汝を
疎むにあらじ、只、これ、天にして、汝が性の
拙きをなけ。
(*)原注:貞享元年(1684年)八月より二年四月にわたり
京に至りてかへる「甲子吟行(野ざらし紀行)」;あり、この
辺の文 これに依つて書いてある。絵八
雪の、いと面白う降りける夕、おなじ心なる人の、
集りて、遊びけるに、もとより、貧しき菴( なれば、)
人々、薪かひに行くあれば、酒買ひに行くもあり。
米かひに ゆきの袋や 投頭巾( ) 絵二六
四条河原の納涼 ( を見て、書き連ね給ひけるは、)
夕月夜( の頃より、有明) ( 過ぐる迄、川中に床) ( をなら)
べて、夜すがら、酒飲み、物 食ひ遊ぶ、女は、帯
の結目 厳( めしく、男は、羽織 長う着なして、法師)
老人、共に交り、桶屋 かぢやの弟子ら迄、暇( えが)
ほに罵る。 流石に 都の景色なるべし。
河風や うすかき着たる 夕涼( ) 絵三一
三十日の夜より、泄痢 ( といふ病に、いと強く悩み)
給ひて、物 宣ふ力なく、手足、氷れる如くなり給ふ
と聞くより、京よりは、去来、太刀もとりあへず
馳せ下り、大津よりは、木節( 、 薬嚢) ( を肘にかけて、)
かち(徒歩)より来つき、丈草を始め 正秀( 、乙州)
が輩( 迄、聞くに従ひて難波に下り、 病の床に、)
いたはり 仕へ奉る。 元より、心神の煩ひなければ、
不浄( を憚りて、人を近くも招き給はず。 十月五日)
の朝より、南の御堂( の前、静なる所にうつし参らす。)
愚按、この家、花屋仁右衛門といふが別屋にて、今にあり。
(↑ 蝶夢の追記)
八日の夜ふけて、側に居ける、呑舟といふ男( を)
召して、硯にすみする音のしけるを、如何ならんと、
人々 いぶかり思うに、
旅に病みて 夢は枯野( をかけめぐる)
終