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表紙

第一頁

目 次


   磐渓大槻先生墓表
   江村石合先生墓碣銘
   常山山寺先生碑
   佐藤李山君墓銘
   尾崎楠亭君之碑
   角田桜岳墓銘
   小野東洋君墓銘
   菅野真道卿手書
   関口黙斎君之碑
   川路敬斎君碑
   高崎親広君墓銘
   林研海墓銘
   木城母飯田孺人墓銘
   海内不染居士之碑
   田嶋梅陵君墓銘
   大佛無角君墓碣銘
   萱水杉浦墓碣銘
   毅軒望月先生墓碣銘
   竹外杉先生碑
   故鯖江侍従下総守間部公墓銘
   近藤李邦君寿蔵碑銘
   雛田清墓碑
   三井錦江翁碑
   戸塚春山先生墓銘
   秋坪箕作君墓銘
   小林細次君墓銘
   大川笠原先生墓碣銘
   松永省耕君墓銘墓碣銘
   西沢昭敬翁筆塚銘並序墓碣銘
   原寧静君墓銘墓碣銘
   加藤舊斎君碑銘
   翠堂藤川君記念碑

   附
   自叙千字文


近代先哲碑文集 第卅二
「敬宇中村先生碑文集」


 昭和48(1973)年1月、 夢硯堂。
 縦 20.2 cm、横14.8cm、本文 45葉、線装。


 「近代先哲碑文集」 は、市井の漢学者・亀山聿三(室号:夢硯堂)が、独力で編輯、刊行した 我が国 近代碑文の集成である。 第一集の「管茶山・頼杏坪 集」(昭和38年(1963年)刊)から 第四十一集の「貫名海屋集」(昭和50年(1975年)刊)まで、12年間にわたって継続された刊行事業であった。
 四十一に及ぶ各冊は、碑文の作者毎に編集されている。(複数の作者が 1冊にまとめられている場合もある。) 作者は、人を顕彰する碑文(漢文の特殊な文体)を作成し得る専門家、すなわち、その時代一流の漢学者や これと実質的に重なる 漢詩文専門の文人である。
 編集は 当然 亀山自身によるものであろうが、驚くべきは これら 41 冊すべての本文・題簽・扉が 手書を版下として制作されていて、この手書も 亀山自身によるものと考えられることである。 丁寧な筆跡から、この刊行事業への情熱が 伝わってくるようである。

 ここに取り上げるのは、この「近代先哲碑文集」 の第三十二集として、幕末・明治期に活躍した文学者・中村正直(号:敬宇、天保3(1832)~明治24(1891))の作になる碑文を集成した、「敬宇中村先生碑文集」である。 右の目次に示される、32名の人物についての碑文が 収録されている。

 「本文の一部紹介」 としては、目次中の 「林研海墓銘」 を 訓読により 示すこととする。
 林研海(名は紀、弘化元(1844)年~明治15(1882)年))は、幕末・明治期に 西洋医学を本格的に導入・実践した 先覚者の一人であるが、少壮にして生涯を終えたため、広くその名を挙げるに至らなかった人である。



本文の一部紹介





林研海墓銘



きみいみな、号は 研海。 さきの宮内権大侍医・洞海君(林洞海、1813~1895、維新前は幕府の奥医師。)の長男なり。 弘化元年甲辰(1844年)六月十六日、江戸・両国の薬研堀に生る。 幼名は、紀太郎。 年 十三にして、塩谷宕陰しおのや とういん(漢学者、1809~1867)の塾に入り、漢籍を学ぶ。 聡頴・強記にして、勤勉なること 衆を超え、奇童の称 有り。 十八、長崎に赴き、和蘭(オランダ)の医博士 朋百(ポンペ、Pompe van Meerdervoort,1829~1908)に就き 医を学ぶ。 十九、和蘭に遊学す。 帆船に乗りて発するに、或は 暗礁に触れて毀搊し、或は 諸島に漂着して万死に一生を得、或は 薪水食糧に苦しみ、困苦の備え 至れり。 喜望峰の北(「南」の誤り)を廻り、一百六十二日の久しきを経て、始めて和蘭に達するを得たり。 先ず 来丁(ライデン、Leiden)大学校に入り、海軍医学校に転じて 医学を専修す。 進益 甚だ速く、彼の邦の人 歎服せざる無し。 学ぶこと五年、遂に其の業を成す。 明治元年戊辰(1868年) 内国に変有り。 六月、仏国の郵船に乗りて帰る。 徳川氏の静岡に移住するに会し、君は 静岡病院頭とる。 四年(1871年)八月、陸軍一等軍医正にぬきんぜられ、正六位に叙せらる。 六年(1873年)五月、陸軍軍医監に任じ、従五位に叙せらる。 是の歳 和蘭の 亜丁の役(→後掲[参考]の第1段落を参照)に、従軍して術を試みよ との命 有り。 蛮煙瘴霧の地に在りて、治療に尽力、殆ど五たび月を閲し、病にいて帰る。 後、和蘭の国王、君に贈るに 賞牌を以てす。 八年(1875年)、陸軍本病院副長。 十年(1877年)、西薩の役(西南戦争)に 征討軍団軍医部長と為る。 事 定まり、勲三等に叙せらる。 既にして 軍医総監に進み、正五位に叙せられ、本部長と為る。 十五年(1882年)、兼ねて宮内省に伺候す。 二品熾仁たるひと親王(皇族の有栖川宮、1835~1895)の露国(ロシア)に赴くに、君は 随従の命をこうむる。 六月、横浜を発し、伊大利(イタリー)よぎりて、国帝に謁し、賜うに 勲章を以てす。(注:有栖川宮がロシアに向けて出発したのは、皇帝・アレキサンドル3世の即位式に参列するためであったが、その式典が延期されたため、欧州各国への親善訪問に切り替えられた。) 巴里パリに着したるに、君は 宿痾をふたたび発し、八月三十日 没す。 享年 三十有九。 嗚呼 かなしいかな。 君、眉目明秀にして、面には光沢 有り。 性は 恢廓精敏にして、義を重んじ、艱難を避けず。 其の没するを聞く者、惋惜せざるし。 特旨にて 金若干を賜う。 栄と謂うべし。 洞海君 余に銘を作ることを嘱す。 余 敢て辞せず、涙をふるい、之が為に銘していわく。

   おさなり 志を立て かつ暇遑いとまあらず
   山海を跋渉して しばしば戎行(海外での活動)に列す
   一心 職に尽し、三軍 為に強し。
   命数はみじかしえども、事業はとこしえなり。



参 考

 上掲の碑文以外に 林研海を顕彰した伝記の類は 無いように思われるが、その生涯・業績について 学術的に考察した論文としては、
    高橋慎司 「林研海の生涯」(早稲田大学大学院教育学研究科紀要・別冊 11号-2、2004年3月)
が 存在する。 時代の動きに重ね合せる形で その生涯を正確に整理・再現し、その特徴的な生き方や業績を浮かび上がらせている。 特に、オランダ留学から帰国して 最初の実務に就いた駿府病院頭時代の 病院運営や、陸軍軍医に移籍してからの軍医体制整備 等の活動が、かなり具体的に記述されている。 また、上掲碑文では どのような事実か判然としない「亜丁の役」についても、「林研海は、欧州行きの途中で 6月には、スマトラの亜丁(アチェー)の野戦病院でオランダ軍に従軍し、住民や兵隊の脚気病や軍陣医学・軍陣衛生に関する資料とするため実地検分を試み、実況を報告した。」 との 的確な説明がある。

 研海は、少壮にして、軍医としては最高位の「軍医総監」に昇進した。 このときの部下で 「軍医監」として研海を補佐した 石黒忠悳(弘化2(1845)~昭和16(1941))は、「他に対して随分 傲岸な態度の人」であったと述べ、また、「洋行が熱心」であったとも述べている。(『懐旧九十年』、岩波文庫)
 「傲岸」は、資質が衆に擢んでた人にありがちな、態度・性格であろう。 「洋行」も、発展的な志向を示しているように思われ、上記「亜丁の役」や 最後の渡航となったロシア訪問は、いずれも、軍の方針というよりは、研海自身の希望・働きかけに基づいて 設定・実現されたように考えられる。

 明治15年(1882)8月の 林研海パリ客死の報は、直ちに国内関係先に伝達されたであろうが、併せて 欧州在留の関係者にも伝達されたようである。 当時 ロンドンに留学していた 南條文雄(なんじょう・ぶんゆう、仏教学者、嘉永2(1849)~昭和2(1927))は、その報を受けて 「林研海 国手(優れた医師の意)を哭す、金尾藍田の詩韻に次す」の詩(七言律詩)を賦している。 やはり同地に滞在していたらしい 金尾藍田という人が 先に悼詩を作ったので、その脚韻を用いている。(南條文雄『航西詩稿』、明治26年(1893)刊、所収) 技巧的な詩で、特に結句が不自然に感じられるが、林研海の死が 同胞から深く哀悼されたことを示すものとして、以下に掲げる。
    ようやく巴里にいたりて 一旬 過ぎ
    薄暮 驚きて聞く 薤露カイロの歌(葬式の歌)
    塞上 秋 寒く 断雁(群から離れた雁)を悲しませ
    池頭 風 急に 枯れたるはすをそよがす
    方書(医学の書) 万巻 精研 熟し
    薬石(医療技術) 当年 鍛錬 多し
    今や 医の国手をうしな
    くの如く 陛下の赤児たるは 何ぞや






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