らんだむ書籍館 |
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第一頁 |
目 次
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本文の一部紹介 |
林研海墓銘
君、諱( は 紀) ( 、号は 研海。 前) ( 宮内権大侍医・洞海君(林洞海、1813~1895、維新前は幕府の奥医師。)の長男なり。 弘化元年甲辰(1844年)六月十六日、江戸・両国の薬研堀に生る。 幼名は、紀太郎。 年 十三にして、塩谷宕陰) ( (漢学者、1809~1867)の塾に入り、漢籍を学ぶ。 聡頴・強記にして、勤勉なること 衆を超え、奇童の称 有り。 十八、長崎に赴き、和蘭(オランダ)の医博士 朋百(ポンペ、Pompe van Meerdervoort,1829~1908)に就き 医を学ぶ。 十九、和蘭に遊学す。 帆船に乗りて発するに、或は 暗礁に触れて毀搊し、或は 諸島に漂着して万死に一生を得、或は 薪水食糧に苦しみ、困苦の備え 至れり。 喜望峰の北(「南」の誤り)を廻り、一百六十二日の久しきを経て、始めて和蘭に達するを得たり。 先ず 来丁(ライデン、Leiden)大学校に入り、海軍医学校に転じて 医学を専修す。 進益 甚だ速く、彼の邦の人 歎服せざる無し。 学ぶこと五年、遂に其の業を成す。 明治元年戊辰(1868年) 内国に変有り。 六月、仏国の郵船に乗りて帰る。 徳川氏の静岡に移住するに会し、君は 静岡病院頭と為) ( る。 四年(1871年)八月、陸軍一等軍医正に擢) ( ぜられ、正六位に叙せらる。 六年(1873年)五月、陸軍軍医監に任じ、従五位に叙せらる。 是の歳 和蘭の 亜丁の役(→後掲[参考]の第1段落を参照)に、従軍して術を試みよ との命 有り。 蛮煙瘴霧の地に在りて、治療に尽力、殆ど五たび月を閲し、病に遘) ( いて帰る。 後、和蘭の国王、君に贈るに 賞牌を以てす。 八年(1875年)、陸軍本病院副長。 十年(1877年)、西薩の役(西南戦争)に 征討軍団軍医部長と為る。 事 定まり、勲三等に叙せらる。 既にして 軍医総監に進み、正五位に叙せられ、本部長と為る。 十五年(1882年)、兼ねて宮内省に伺候す。 二品熾仁) ( 親王(皇族の有栖川宮、1835~1895)の露国(ロシア)に赴くに、君は 随従の命を蒙) ( る。 六月、横浜を発し、伊大利(イタリー)に過) ( りて、国帝に謁し、賜うに 勲章を以てす。(注:有栖川宮がロシアに向けて出発したのは、皇帝・アレキサンドル3世の即位式に参列するためであったが、その式典が延期されたため、欧州各国への親善訪問に切り替えられた。) 巴里) ( に着したるに、君は 宿痾を復) ( び発し、八月三十日 没す。 享年 三十有九。 嗚呼 哀) ( いかな。 君、眉目明秀にして、面には光沢 有り。 性は 恢廓精敏にして、義を重んじ、艱難を避けず。 其の没するを聞く者、惋惜せざる莫) ( し。 特旨にて 金若干を賜う。 栄と謂うべし。 洞海君 余に銘を作ることを嘱す。 余 敢て辞せず、涙を払) ( い、之が為に銘して曰) ( く。)
幼( き自) ( り 志を立て 曾) ( て 暇遑) ( あらず)
山海を跋渉して 屡( 戎行(海外での活動)に列す)
一心 職に尽し、三軍 為に強し。
命数は短( と謂) ( えども、事業は長) ( なり。)
参 考
上掲の碑文以外に 林研海を顕彰した伝記の類は 無いように思われるが、その生涯・業績について 学術的に考察した論文としては、
高橋慎司 「林研海の生涯」(早稲田大学大学院教育学研究科紀要・別冊 11号-2、2004年3月)
が 存在する。 時代の動きに重ね合せる形で その生涯を正確に整理・再現し、その特徴的な生き方や業績を浮かび上がらせている。 特に、オランダ留学から帰国して 最初の実務に就いた駿府病院頭時代の 病院運営や、陸軍軍医に移籍してからの軍医体制整備 等の活動が、かなり具体的に記述されている。 また、上掲碑文では どのような事実か判然としない「亜丁の役」についても、「林研海は、欧州行きの途中で 6月には、スマトラの亜丁(アチェー)の野戦病院でオランダ軍に従軍し、住民や兵隊の脚気病や軍陣医学・軍陣衛生に関する資料とするため実地検分を試み、実況を報告した。」 との 的確な説明がある。
研海は、少壮にして、軍医としては最高位の「軍医総監」に昇進した。 このときの部下で 「軍医監」として研海を補佐した 石黒忠悳(弘化2(1845)~昭和16(1941))は、「他に対して随分 傲岸な態度の人」であったと述べ、また、「洋行が熱心」であったとも述べている。(『懐旧九十年』、岩波文庫)
「傲岸」は、資質が衆に擢んでた人にありがちな、態度・性格であろう。 「洋行」も、発展的な志向を示しているように思われ、上記「亜丁の役」や 最後の渡航となったロシア訪問は、いずれも、軍の方針というよりは、研海自身の希望・働きかけに基づいて 設定・実現されたように考えられる。
明治15年(1882)8月の 林研海パリ客死の報は、直ちに国内関係先に伝達されたであろうが、併せて 欧州在留の関係者にも伝達されたようである。 当時 ロンドンに留学していた 南條文雄(なんじょう・ぶんゆう、仏教学者、嘉永2(1849)~昭和2(1927))は、その報を受けて 「林研海 国手(優れた医師の意)を哭す、金尾藍田の詩韻に次す」の詩(七言律詩)を賦している。 やはり同地に滞在していたらしい 金尾藍田という人が 先に悼詩を作ったので、その脚韻を用いている。(南條文雄『航西詩稿』、明治26年(1893)刊、所収) 技巧的な詩で、特に結句が不自然に感じられるが、林研海の死が 同胞から深く哀悼されたことを示すものとして、以下に掲げる。
纔( く巴里に臻) ( りて 一旬 過ぎ)
薄暮 驚きて聞く 薤露( の歌(葬式の歌))
塞上 秋 寒く 断雁(群から離れた雁)を悲しませ
池頭 風 急に 枯れたる荷( をそよがす)
方書(医学の書) 万巻 精研 熟し
薬石(医療技術) 当年 鍛錬 多し
今や 医の国手を亡( い)
斯( くの如く 陛下の赤児たるは 何ぞや)
終