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表 紙

巻末付記

 入沢先生は 慶応元年正月五日 新潟県南蒲原郡今町に誕生、先考・恭平先生は 長崎に留学された開業医であつた。
 明治九年 独逸より帰朝されたる 叔父・池田謙斎先生の勧めにより 同年上京、翌十年 東京大学医学部に入学、爾来 停年に達して大学を辞さるゝ迄、殆んど五十年近く 赤門生活を続けられたのである。
 明治廿二年 卒業、続いてベルツ氏の助手となり、廿三年 独逸留学、ストラスブルヒ大学及び伯林大学に学び、廿七年 帰朝、翌年 助教授、卅二年 医学博士、卅四年 教授、大正十三年 侍医頭、十四年 停年により大学を退き、侍医頭に専任された。

 大正天皇には 十五年春頃より 御病勢募らせられ、同年夏 葉山へ行幸仰せ出され、十二月 崩御遊ばさるるまで、先生が献身的に奉仕されたることは、国民の等しく感謝して措かざる所である。
 先生は 昭和十三年八月、新潟の赤倉温泉御滞在中より不快となられ、帰京後 東京帝大呉内かに入院されたが、連鎖状球菌に依る敗血症の症状が現れ、遂に脳出血となり、十一月八日、七十四歳を以て逝去されたのである。

 先生の論文には 神経系統、伝染病、糖尿病、医化学、血清学、血液病学等に関する創見が 少からずあり、特に寄生虫病 及 脚気に関しては 医学界が先生に負ふ所 頗る大なるものがある。
 本篇は 先生の専門学術以外の演説文章を蒐集せる『入沢先生の演説と文章』(昭和七年刊)中 「明治十年以降の東大医学部回顧談」の一部を採録せるものにして、紙数の都合上 興趣深き後半の大部分を割愛せざるを得なかつたのが残念である。<後略>


日本叢書
入沢 達吉 「赤門懐古」


 昭和20 (1945) 年10月 発行、 生活社。 B6版。 本文 31頁。


 本書は、終戦直後の刊行であるが、この「日本叢書」は、戦時中から発刊されていたらしく、裏表紙には本書を含む既刊15冊の一覧が掲載されており、そのあとに、近刊予告リスト(6冊)も付されている。
 叢書の各冊とも 同程度の分量と思われるが、本書の場合は 本文わずか31頁、ペラペラの小冊子である。
 目次が無いこともあり、表紙・裏表紙の内側も 本文として使われていて、この時期の厳しさを表わすかのような 簡素な造本である。

 本書の著者・入沢達吉(慶応元(1885)~昭和13(1938))は、医学者。 東京帝国大学教授として、内科学の発展に努めた。 本書は、昭和3年5月、同大学の「医学談話会」で行なった医学部の設立・発展経過に関する講演内容を まとめたものである。 講演は、時間的順序に沿って進められ、要所は抑えられているのであるが、興のおもむくまま 細枝に渉っている部分もある。 目次が設けられていないのは、このためであろう。
 著者の人となり、及び 本書の成り立ちについては、巻末の編集者の付記が 要を尽しているので、目次の代わりに、右に掲げることとする。

 また 「本文の一部紹介」 としては、著者が入学し、寄宿舎に入ったばかりの時期に目にした事柄を回顧した部分を、掲げることとする。 新入生の著者が目にしたのは、エリート意識に満ちた上級生達の 驚くほど 放縦な生活ぶりであった。
 この部分の最後に、これら放縦な学生に金を貸し付ける「岡田元助といふ医学士専門の高利貸」のことが語られているのであるが、森鴎外の読者であれば、それが『雁』に登場する「末造」のモデルであることに気付くであろう。



本文の一部紹介


 私が 初めて大学に入りましたのは 明治十年(1877年)の秋で、其頃は 一年が二学期に分れて居りました。 夏学期と冬学期、是は独逸(ドイツ)の真似で 五月と十一月に試験があります。 十一月が 進級試験であつた。 私は 明治十年十一月、乃ち 西郷隆盛が城山で没落したのが其の年の九月、其翌々月に入学試験を受けて 幸に入学したのであります。 勿論 試験と申しましても 日本外史と、内田正雄と云ふ人の書いた輿地誌略が問題に出ました。 それから 十二月から学期が始まつたのであります。 私は 算へ年(かぞえどし)の十三であつたが、当時本郷弓町に居られた准医学士の山崎元脩と云ふ人の家から 通学して居りましたが、其翌年の明治十一年(1878年)四月に寄宿舎に他の同級生と共に入舎を許されたのであります。 其五月に 島田一郎(陸軍軍人であるが、不平士族の一派として要人暗殺を企てていた)が大久保内務卿(大久保利通)を赤坂の喰違で殺したのでありますが、寄宿舎から生徒が幾人か見に行きました。 私は行きませんでしたが、行つたものゝ話に 何もなかつたが、たゞ少し血があつたと申して居ました。
 我々の寄宿舎は 二階建で三棟ありました。 その一棟は 或時焼けました。 一番奥に食堂があつて、其位置は 丁度 今の薬局の辺から外来診察場及び物理療法の辺までに掛けてありました。 何でも 裏が本郷警察署と垣根一重であつたやうに記憶して居ります。 今の小学校などは まだありませんでした。 此の時分に寄宿舎に入つたと云ふことは、非常に誇とする所でありました。 どう云ふ訳であるか分りませんが、多分 通学生即ち 変則生と区別される為めであつたからと思ひます。 我々一同は 寄宿舎に入つたと云ふことを 非常に喜んだのであります。 同級の渡邊と云ふ 九州から来た生徒が、国へやる手紙の封袋の上に 寄宿生 渡邊彦太郎と書いてやつたのを見て 皆が笑つたことを覚えて居ます。 即ち 寄宿舎に入ると云ふことを 非常に誇りとして居つたのでした。
 常時 二百数十名が寄宿舎に居つたやうに覚えて居りますが、子供(低年齢の学生=下級生に対する戯称であろう)は第一の棟の階下に居りました。 是は後に人から聞いたのですが、何故 一番下の階下に居つたかと云ふと、本科生は夜中 窓から飛出して困るから、子供を入口の棟の一番下に置いたのださうです。 順次 級の上の者が段々奥の方に居りました。 本科生は大抵二階に上げられて居ましたが、第一棟の二階は一番古い人が居たやうでした。 私共の頭の上には 一等本科生、二等本科生、即ち近々卒業すると云ふ人が居つたやうに記憶して居ります。
 斯う云ふ風な順序になつて居る寄宿舎の室は 凡そ七十室位ありました。 一室に四人宛(ずつ)居りましたから、二百人以上居たことは確です。 其当時の寄宿生は 今申しました通り 十三、四歳の少年から、二十五、六歳 若(もし)くは二十八、九歳の卒業期迄の者を収容して居りましたから、中々取締が一様に行きません。 規則には 門限は八時となつて居りましたが、少年だけは 薄暮、、帰舎すべし と書いてありました。 我々は「薄暮連」と云ふ名を貰ひました。 其実 本科生は乱暴であつて、夜間 窓から飛び出して 根津に通ふやうなことが数々ありました。 又 門限などは全く無視して 遅刻、外泊が非常に多かつた。 後で三日分も四日分も纏めて 保証人の印を捺して届書を出せば、それで済むのでした。 本当に保証人の所へ印を貰ひに行つた者もありますけれども、中には 銘々が保証人の認印を造つて持つて居つて、それを勝手に捺して出したと云ふこともありました。
 或時 一学生が 甚(はなはだ) 乱暴者で 放蕩した揚句(あげく)、急に死んだ。 それで 荷物を調べて見たら、皆 売つて仕舞つて何もない。 惟(ただ) 机の引出に 保証人の偽印が一個転がつて居るのを 発見したのでした。 本科生などが余り外泊することが劇(はげ)しいものであるから 懲戒の意味で以て、毎月初めに 寄宿舎の食堂に、前月中の各学生の外泊した数を表にして掲げたことがあります。 是は 随分長い間 続きました。 其中で私の記憶して居るのでは、本科生の長谷川某と云ふものが 一ヶ月に二十五日 外泊して居ました。 是が 大関でした。 是は 幹事(医学部の事務職員のようである)が立案実施したのであるが、近々卒業すれば 直ぐ月給百二十円で地方の病院長になると云ふので 大した勢で、幹事など眼中になかつたのであります。 其頃の百二十円と云ふものは 大変な金でありました。
 其上に 其頃の本科生は皆 大学の小使上りの 岡田元助 と云ふ 医学士専門の高利貸 『癌』と云ふ綽名(あだな)があつた其男から 高利の金を、背負ひ切れない程 借金して居りました。 後に 私の同国の小学校友達が岡田の手代になつて居つたので、其処へ時々遊びに行きました。 さうして 九州から青森まで医学士の貸金連名帳と云ふものがあつて、それを見たことがありますが、頗る振つたものであつて、旅費は先方持で 日本中をグルグル年中催促に廻つて居ります。 後には 私の二、三年上の級位の者迄も 矢張 岡田に関係のあつた者がありました。




参 考


 医学士専門の高利貸に関しては、明治12年当時 東京大学医学部綜理心得の任にあった 石黒忠悳の『懐旧九十年』(岩波文庫)にも、洋行させようと指名した学生(梅錦之丞)が「大学に小使をしていた某」からの膨大な借金があることを理由に辞退したので、その返済を援助して洋行を実現させた旨の記述がある。 この高利貸が上掲の人物であることは間違いないであろうし、多くの学生がこの人物に籠絡されていたことも事実であろう。
 鴎外『雁』の登場人物のモデルであることも、既にかなり知られているようであるが、
     槌田満文「『雁』の世相史的背景」(文教大学女子短期大学部「文芸論叢」14巻、1978)
の説明が 行き届いている。




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