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表 紙




目 次


 晩翠堂詩文集序          三渓隠士
 旧聞新識 (前号之続)

航西日乗             濹上漁史

 辛巳孟冬賀不忍池長酡楼新築 (七律)   中州居士
 伊香保温泉雑詩 (七絶、五首)   復軒学人
 初聞秋声 (七絶)         東洲吟客
 秋日山行 (五律)         錦湖漁客
 墨水観流燈戯戯作 (七絶)     松塘釣客

 夕時雨              原 宏平
 羽後霧             中尾五百樹
 山皆紅葉             吉田正明
 網代眺望             佐々豊水
 芳原に遊び 娼妓の身を思ひやりて    三田潜龍
 椿                高崎正風

 紅勘伝             恕軒学人


「花月新誌」 第百十八号

 明治14 (1881) 年 11月。
 朝野新聞社内 花月社。
 縦 17.8 cm、横 11.6 cm。 本文 9 葉 (18頁)。


 活版印刷により制作された 明治初期の書籍としては、「皇朝名家史論」 および 「続皇朝名家史論」 を 紹介した。 これらは 洋式製本の技術も適用した堅牢・優美なもので、新時代にふさわしい体裁のものであった。
 しかし、活版印刷という 印刷技術そのものは、より身近な印刷物への適用が 幅広く、急速に進められたのである。 右に示す「花月新誌」は、1ヶ月に3回発行の 簡易な和本スタイルの定期刊行物(雑誌)であるが、活版印刷が適用されている。 この雑誌は、元幕臣の 文人・成島柳北(天保8(1837)~明治17(1884))が 明治10年(1877年)に創刊したもので、同17年(1884年)まで継続刊行された。 (同年における柳北の死によって、廃刊となった。) 右に示すものは、安定刊行を続けていた 明治14(1881)年のものであるが、表紙はこのとおりの簡素なもので、全体の体裁も終始変らなかったと考えられる。

 本誌中の目次は 特に設けられていないが、今 掲載順に整理して示せば、右下のとおりである。
 この掲載順は、文章等の種類に応じているので、段落毎にまとめておいた。 種類は、漢文、通常文語文(漢字・仮名交じり文)、漢詩、和歌・和文、漢文(再び) と なる。
 柳北の許に寄せられた詩文が、多少の取捨選択を経て、このように編集され、定期発行されていたのであろう。

 本誌中 最も注目・重視すべきは、「濹上漁史」の名を以て掲げられている 「航西日乗」(印)である。 濹上漁史とは 成島柳北の別名で、この文は、柳北が明治5(1872)年9月から翌年7月にかけて欧米を訪問・視察した際の日記である。 この 118 号から始まって、153 号まで連載された。
 本 118 号 掲載分が冒頭部分であるから、ここには 欧米に渡航するに至った経緯(柳北は、東本願寺派の法主・大谷光瑩の勧誘により その訪問団に加わったのである)、同行者、横浜出航前後の状況、さらに 出航後、日向・薩摩の海上を航行して 国土を離れるまでの船内の状況などが述べられている。
 幕末から明治初期にかけて 数多くの欧米見聞録の類が出版されたが、この「航西日乗」は 日記であることに特徴があり、「解説ふう、回想ふう、或いは漫遊記や案内記ふうに書き改められた他の見聞録よりも、はるかに強い現場感があり、迫力がある」 (小田切進『近代日本の日記』、1984年刊)と評価されている。 今は、栗本鋤雲の『暁窓追録』との抱き合わせで、岩波文庫の『幕末維新パリ見聞記』(井田進也・校注、2009年初版)に収められている。 行き届いた解説・注釈・年譜等が備わった、便利な一本である。 この文庫本の「凡例」によれば、「航西日乗」の底本としては、(当然ながら)本「花月新誌」が用いられている。


 今回の「一部紹介」には、(「航西日乗」は 岩波文庫本があるので、) 恕軒学人こと 信夫恕軒(1835~1910、漢学者)の 「紅勘伝」を、訓読文により 掲げることにする。
 幕末期に実在したらしい 異色の人物の評伝であるが、奔放に世を渡りながら あくまでも自己の芸(三味線)の実現にこだわった人であることを、巧緻な文章で表現している。 (「紅勘」は、本文の記述からすると、「べにかん」と発音するのであろう。)
 なお、この文には 菊池三渓と中村敬宇の評語が付されているので、それらも併せて掲げる。






本文の一部紹介

紅勘伝


恕軒学人
(信夫恕軒)

 紅勘なる者は、何許いずこの人なるかを知らず。 また、其の姓字を つまびらかにせず。 婦女 呼んで「紅勘」「紅勘」とふ。 故に名づく。 或は曰ふ、紅勘は 「勘蔵」を通称とす。 初め 紅粉をひさぎ、以て業と為す。 故に号して 紅勘と曰ふと。 是の人や、性 かたくなにして、才 多く、状 陋にして、芸にくわし。 かつて芳原(吉原)妓郭の幇間(遊廓で客の遊興を助ける者。たいこもち)るも、一旦 思い有り、則ち とどむ。 勘(紅勘)の言に曰く、人の世に処し 活を求むるは、心に欲せざるも 笑いて献じ、意に満たざるも言を呈し、点頭して 人の髭髯を払拭し、膝行して人の鼻息を窺伺す。 暗夜に哀れみを求め、白日には其の妻妾に驕る。 奴(私、自分)は、不肖にして、為すに忍びざるなり。 れ 花柳の巷(まち)に逊遥し、歌妓・舞女の間に食息すれば、晒然として笑ひ、怡然としてたのしむ。 得ること無く、うしなうことも無し。 惟適之安ただてきにやすんずれば(唐・韓愈の詩句)、吾の天なり。 奴や いずくんぞ 之を為さざるを得ん。 ここに於いて、手に三弦(三味線)を持ち、腰に 笛と小鼓を帯び、一曲 以て一笑を博し、一演 以て数銭にふ。 江都(江戸)は富盛の地にして、俗(庶民)の弦歌(三味線を弾きながらうたう歌)とおとぶこと、およそ 一郭五街より 三劇七妓の巷に至る。 紅勘の名は、嘖々サクサク(ほめそやすさま)と伝播す。 其の三弦を用ふるに、柄(棹)は 未だ必ずしも紫檀ならず、槽(胴)は 未だ必ずしも花櫚ならず、ばちは 未だ必ずしも象牙・鼈甲ならざるなり。 柄 折れれば 則ちへるに 擂木すりこぎを以てし、弦 絶つれば 則ちぐに 麻糸を以てす。 或は 飯匕しゃもじを以て 撥と為し、或は やぶれし鼓の皮を以て 槽と為す。 しかしこうして、其の弦を一弾すれば、則ち 韻調は雅淡にして、抗墜(? 意不明)は宜しきを得。 人をして 肉飛び 魂を消さ使む。 たちまちにして 小鼓、忽ちにして 細管、歌舞 ひとしく発し、宮商 並び奏す。 弦 ひとつ のみ、而して 音に至りては 則ち二。 笛 ひとつ のみ、而して 声に至りては 則ち双。 縹渺 宛転、行雲 遅廻。 士女・群集 囲繞し、喜んで微笑する者 有り、感じて黙聴する者 有り、覚えず喝采する者 有り。  けだし 五人の合奏するにあらざれば、其の一曲を学ぶあたはず、一人の十手を有するにあらざれば、其の一段を擬するあたはず。 而して 紅勘 ひとり 能く之を行なふ。 其の曲 終り、人 散ずれば、則ち 眇たる(貧弱な)小丈夫の 弦を抱きて凝立(じっと立つ)するのみ。
 天倪氏(恕軒の自称であるが、「宇宙人」のようなニュアンス) 曰く、吾 嘗て『開元遺事』(正しくは『開元天宝遺事』で、唐代 開元・天宝期 (713~755年頃) の 出来事や逸話を集めた書)を読むに、曰く 「賀懐智(楽人の名) 琵琶にし。 石を以て槽(ソウ、弦楽器の胴)と為す 」と。 た 聞く、「紅勘 三絃を善くし、やぶれし鼓の皮を以て、槽と為す」 と。 勘 (紅勘) ほとんど 其(賀懐智)の苗裔(子孫)ならんか、何ぞ其の技の妙(たくみで、すばらしい)なること。 れ 弾吹歌舞(楽器を奏し、歌舞を演じること)は、婦女の小技たるのみにして、君子は之をいやしむ。 しかれども、其の妙処に到らんと欲すれば、一曲一技といえども、一朝一夕にく得る所にらず。 いわんや 衆技を貫穿して、ほまれを一世に取るをや。 余 少壮のとき、先妣(亡き母)に従ひ、紅勘の技を観る毎に、慨然として歎じて曰く、「かれ 裙釵の小技(女性が行なうべき わざごと)おさむるといへども、既に天下の絶技と為る。 我は 則ち 書を読みて道を志し、自ら君子の徒と称す。 而して かつて 一技の長ずる所、人の 為に(長ずるが為に)称誉する所を、有するあたわず。 に 内に 能く 心にじざるを得ん」と。 蓋し 紅勘を知る者は、おおむね皆 婦人女子 のみ。 故に、口に能く之をぐ。 而して 手に之を筆する能わず。 余 為に 之を惜しむ。 よつて、之が伝を作り、以て 後の 虞初氏(前漢の武帝の時、初めて小説を作った人) その人の如き者をつ。

 菊池三渓 云う。 予も亦た 紅勘なる者を知れり。 其の人、短小にして、眇然たる一匹夫たるのみまさに 其の一たび弦を弾ずるや、 曲を度し、音節清朗として 金石をいだすが如し。 聴く者をして 怡然イゼンとして楽しましめ、帰るを忘れさせしむ。 今や 紅勘は物故し、墓には宿草(はびこった雑草)有り。 其の人と其の技は、泯滅ビンメツ(ほろびてなくなる)して伝わらず。 天倪氏 記して之を存したれば、其の人 ちず。 以て、一片の墓碣につべきなり。

 中村敬宇 云う。 此の篇は 紅勘を写し得て、躍々然として 紙上に露出せり。 余 紅勘を知らず。 然れども、之を読むに 其の人を見るが如し。 し 其の人を知る者に之を読ましめ、則ち驚きて 逼肖なる者と為さんには、まさに如何ぞ。 古人曰く、文は化工して 物にせるが如くす、と。 まことしかり。




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