らんだむ書籍館


表 紙




目 次


 書估文石               森 大狂
 国訳禅宗叢書 第三巻         勝峰清幹
 未刊行「日本民権次良長談話」について 井棲 閑
 イー・ワーレン・クラーク の「勝安房」伝      秋山寛治
 採選亭 木活字板について (一)    笹野 堅
 大日本続蔵経未収目録 (二)      勝峰清幹
 駿府時代に製作された木活字      峯 山火
 山梨稲川先生遺事           内藤虎次郎
 「安鶴在世記」を読みて (四)      痴 庵
 「安部川の流」            法月吐志楼
 食売下女奉公人の請状
 大塩平八郎等人相書           涛衣生
 花井昌斎漫談               城東生
 忙中閑                  恥無郎
 笹野葵園君へ             西ケ谷潔
 明治十三、四年の頃 (一)       光頭痴人
 静岡繁盛記に就て            坂井生


「本道楽」 改巻 第七号

 大正15 (1926) 年 11月。
 茂林脩竹山房 (発行兼編輯人:西ヶ谷 潔)。
 縦 23 cm、横 16 cm。 本文 25 葉 (50頁)。


 この「本道楽」 は、静岡県清水市(現在の静岡市清水区)に存在した古書店「茂林脩竹山房」 が発行していた、古書に関する情報誌である。
 書誌学的に有益な記事が多く、全国的に知られていたようである。
 本号にも、内藤湖南が寄稿している。

 「本文の一部紹介」としては、秋山寛治(1835~1910、漢学者)の 『イー・ワーレン・クラーク の「勝安房」伝』を、掲げることにする。
 幕府の廃絶(慶応3(1868)年)後、将軍家(徳川宗家)は静岡に移封され、新たに編成された静岡藩を領することとなった。 旧幕臣達の中には、それまでの縁故から、この静岡の地に移住した人も多かったようである。 このため、ここには藩学校などの施設も設けられた。 
 イー・ワーレン・クラーク (E.Warren Clerk) は、この静岡藩学校に赴任してきた 米国人教師である。 この秋山寛治の文は、 主に このクラークその人の紹介に費やされていて、タイトルの「勝安房」伝には ほとんどふれていない。 (これは、文末で予告されているように、本誌の次号から全訳が掲載されるから、当然であるが。)
 この 静岡の「クラーク先生」も、教え子の少年達との親身の交流という点では、大きな影響を残したようである。






本文の一部紹介

イー・ワーレン・クラーク の「勝安房」伝

― 静岡藩学校に於けるクラーク先生の思ひ出 ―

秋山 寛治


(一)
 静岡市に洋館を立てゝ居住した 恐らく最初の外国人であつた 米人 イー・ワーレン・クラーク (E.Warren Clerk) の著書「勝安房」 伝 が、最近 私達の前に提供せられた。 此書は、菊半裁版にも満たない 九十五頁程の英文の小著で、内容の文化的価値に於ても 大したものではないかも知れぬが、静岡の地に かの思ひ出の深きクラーク先生が、特に日本の青年に献して(ママ)書かれたものとして、私は静岡の読書子の読書慾をそゝるに足る可き 一つの珍本であると信じる。
 先年 静岡の旧幕臣で沼津学校の出身である工学博士・小田川全之氏が渡米された時、北米ニューヨーク市に於て クラーク先生に会合されたことがあつた。 其時 既に八十才位の白髪の老人になられてゐた クラーク先生は、小田川博士が静岡の人であることを聞いて、懐旧に耐えず、老の両眼に涙を浮べては、なつかしそうに 色々静岡の思ひ出話に耽られたそうである。 別れる時、クラーク先生は、小田川博士に此の自著「勝安房」伝を与へて、静岡の人々に是非示されんことを 懇願したのであつた。 帰朝後 小田川博士は此本を暫し秘蔵してゐられたが、先頃 静岡市に県立葵文庫の落成を聞き、静岡に居住する工学士・高橋邦太郎氏に寄贈方を依頼したのである。 今は 此書は葵文庫内に蔵められてゐる。

(二)
 此書は 一千九百〇四年のクリスマスに、ニューヨークの ビー・エフ・バツク会社 (B.F.BUCK) より出版されてゐる。 表紙は 藍色のクロースで、左の肩上に 日本字を知らぬ米国製本屋の誤りであつたらうか、逆まに「海舟勝安房」と 海舟の筆で 金字に印刷されてある。
 本の扉の表題には 「KATZ AWA」 としてあり、其下に 「日本のビスマルク」 或は 「高貴なる生活の物語」 と 註がされてゐる。 又 其の次の扉の頁には、
 『日本近代史の最高貴なる一人格の代表的スケツチを 日本の少年達・・・・・・に献ず』
と書いて、続けて 著者自らを説明してゐる。 曰く
 『過ぐる日、かつて彼等の或者を教へたことのある クラーク様(CLARK - SAMA)即ち 、静岡先生・・・・、そして其者(クラーク自身を言うのであろう)は、思ひ出に、はたまた希望に於て 今猶 彼等の総べてを愛してゐるものだ!』
と云つてゐるのである。 SHIDZ_U_O_KA SEN_SI と書いてあるのは、『静岡先生・・・・』 の誤りであらうか。 又は 『静岡先師・・・・』 なる言葉を あてはめる可きものであらうか。
 此の書物の中に於て クラークは 彼の所謂 『日本のビスマーク』としての勝海舟を 讃美してゐる。 そして ビスマークは剣をとつて勇名をとゞろかしたが、海舟は平和のうちに維新の功業を成就したと云つて ビスマーク以上の人物として 敬朊してゐる。 そして 彼の今日無事なるを得たのは、単に海舟の保護によるものとして 命の恩人として海舟に感謝してゐる。 そして 其 感謝の結果 この本を著したのである。

〔挿入写真〕
米人クラーク と 其の著書「勝安房」伝
(上掲本文に記載のように、左側の書籍表紙は 標題の「海舟勝安房」の文字が上下逆になっている。参考までに、上下を正した標題を添えておく。)


(三)
 当時 静岡藩学校にありて 身親しくクラークの教へを受けた 工学士・二宮正 老人(恐らくクラークの教へ子として現在唯一人であらう)は、思ひ出の糸をほぐしながら、クラークのことに就いて 次の如く語られた。
 クラークは 明治三年頃、米国より 静岡藩学校に招聘されて 渡来した。 多分 米人グリフイスが越前へ来たのも 其頃であらう。 初め 三松の蓮永寺に住んでゐたが、後 西深草、四ッ足御門の中、城番屋敷・・・・の所(今の衛戌病院の所)へ新しい洋館を立てゝ 移り住んだのであつた。 そして 松の間より富士を眺めては 独り喜んでゐたのであつた。 見なれない異人の家を見て、静岡の人々は それを「異人館」と呼んで 珍しがつたそうである。 当時の静岡藩学校は 今の城内静岡倶楽部の前の 知事官舎 辺りに在り、クラークは毎日 其処へ通つてゐた。 時の藩学校長は 中村敬宇先生で、其他 外山正一、乙骨太郎乙 其他の諸先生がゐた。 クラークは 給 四百円であり、中村敬宇学長は俸 僅かに三百円であつたそうである。 クラークは、其処に於て 英語、物理、化学、数学、倫理、経済書等 色々の課目に亘つて教へられてゐた。 其頃 クラークが教へる化学実験を見て、キリシタンバテレンの法を教へると云ふた 田舎者もゐたと言ふ。 教授には仲々熱心で 話上手であつた。 クラークは 当時二十五六才位の青年で 独身者であつた。 それ故 横浜にゐた英語の話せる日本人コツクを一人連れて来てゐて 料理其他の世話をさせてゐた。 一週に一度位学生が遊びに行くと、クラークは 西洋料理を馳走して呉れたそうだ。 学生達は 其時 初めて西洋料理の味を知り、其名前を教へられたそうである。 もともとキリスト教の布教が目的で 日本に来られたようであるが、学校では決して宗教には触れなかつたと云ふことである。 併し 学生が其自宅に行けば、キリストのことを熱心に語り、バイブルを与へて読むことを奨めたそうである。
 静岡に只一人の異人さんだと云ふので、町の人々から珍しがられ 道を歩む時 人々が彼れの囲りに群れるのを、非常に不快に思つてゐたと云ふ。 「ある年の六月 藩学校の生徒達が白糸の瀧へ遠足を試み、上井出に一泊した時に、クラーク先生が家の外の道端で入浴させられたことを、さも大事件であるかの如く 人に語られてゐた時の顔や、ある年の正月に 学生二三人打連れてクラーク先生の異人館へ年賀の御禮に行つた時、私達が先生を驚ろかすために着て行つた四角張つた上下を見て、フライングマシーン(飛行器のこと)と叫んで喜んだ時の 先生のあの親しみ深い顔が 今に思ひ出されて懐しい」 と 二宮老人は語り終つて、感慨無量の有様であつた。
 クラークは、明治七年頃迄 静岡にゐたが 後 東京へ出て、暫く東京大学・・・・に教鞭をとつたが、間もなく帰国したのであつた。 其後の消息は判明しないが、人の話には 老年になつてから失明されて、もう今は 静岡及日本文化の恩人クラーク先生は 長逝されたことであらう。

(四)
 此書の中には 十葉の写真が入れてあり、巻頭には クラーク自らが写した徳川家達公(クラークが赴任した当時の 静岡藩主→藩知事)と勝海舟との写真がある。
 此書の内容の歴史的価値には 或は疑問があるかも知れない。 例へば 此書の中に静岡に於て 赤鞘の青年武士が、絶へずクラーク先生を付けねらつてゐたが 勝海舟は陰になつては彼を護衛してゐたとあるなどは 問題であると思ふ。 二宮正老人の言に拠れば 当時は既に明治三、四年の事ではあり、キリシタン禁制の時代ではないのである。 静岡に於ける世情は 斯くの如く殺風景ではなかつたのである。 即ち クラークは、彼の所謂「日本のビスマーク」を ビスマーク以上に描出するために、斯くの如き材料を用ひたのであらう。 若し然らずとせば、或は言語、人情の通ぜざる異邦人として、一つの強迫観念を抱き、斯く自ら思ひすごしてゐたのかも知れぬと思はれても 仕方がないであらう。 彼には尚、日本 東洋に関して 次の如き著書があると云ふことである。
(一) LIFE AND ADVENTURE IN JAPAN. (日本に於ける生活と冒険)
(二) RISE AND FALL OF TYCOONISM IN JAPAN. (日本に於ける武士道の盛衰)
(三) HONG KONG TO THE HIMALAYAS.
 尚 クラークの「勝安房」伝 の内容に関しては、次号より高橋邦太郎氏の全訳が連載される筈である。




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