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目 次
書估文石 森 大狂 国訳禅宗叢書 第三巻 勝峰清幹 未刊行「日本民権次良長談話」について 井棲 閑 イー・ワーレン・クラーク の「勝安房」伝 秋山寛治 採選亭 木活字板について (一) 笹野 堅 大日本続蔵経未収目録 (二) 勝峰清幹 駿府時代に製作された木活字 峯 山火 山梨稲川先生遺事 内藤虎次郎 「安鶴在世記」を読みて (四) 痴 庵 「安部川の流」 法月吐志楼 食売下女奉公人の請状 大塩平八郎等人相書 涛衣生 花井昌斎漫談 城東生 忙中閑 恥無郎 笹野葵園君へ 西ケ谷潔 明治十三、四年の頃 (一) 光頭痴人 静岡繁盛記に就て 坂井生 |
本文の一部紹介 |
イー・ワーレン・クラーク の「勝安房」伝
― 静岡藩学校に於けるクラーク先生の思ひ出 ―
秋山 寛治
(一)静岡市に洋館を立てゝ居住した 恐らく最初の外国人であつた 米人 イー・ワーレン・クラーク (E.Warren Clerk) の著書「勝安房」 伝 が、最近 私達の前に提供せられた。 此書は、菊半裁版にも満たない 九十五頁程の英文の小著で、内容の文化的価値に於ても 大したものではないかも知れぬが、静岡の地に かの思ひ出の深きクラーク先生が、特に日本の青年に献して(ママ)書かれたものとして、私は静岡の読書子の読書慾をそゝるに足る可き 一つの珍本であると信じる。
先年 静岡の旧幕臣で沼津学校の出身である工学博士・小田川全之氏が渡米された時、北米ニューヨーク市に於て クラーク先生に会合されたことがあつた。 其時 既に八十才位の白髪の老人になられてゐた クラーク先生は、小田川博士が静岡の人であることを聞いて、懐旧に耐えず、老の両眼に涙を浮べては、なつかしそうに 色々静岡の思ひ出話に耽られたそうである。 別れる時、クラーク先生は、小田川博士に此の自著「勝安房」伝を与へて、静岡の人々に是非示されんことを 懇願したのであつた。 帰朝後 小田川博士は此本を暫し秘蔵してゐられたが、先頃 静岡市に県立葵文庫の落成を聞き、静岡に居住する工学士・高橋邦太郎氏に寄贈方を依頼したのである。 今は 此書は葵文庫内に蔵められてゐる。
(二)此書は 一千九百〇四年のクリスマスに、ニューヨークの ビー・エフ・バツク会社 (B.F.BUCK) より出版されてゐる。 表紙は 藍色のクロースで、左の肩上に 日本字を知らぬ米国製本屋の誤りであつたらうか、逆まに「海舟勝安房」と 海舟の筆で 金字に印刷されてある。
本の扉の表題には 「KATZ AWA」 としてあり、其下に 「日本のビスマルク」 或は 「高貴なる生活の物語」 と 註がされてゐる。 又 其の次の扉の頁には、
『日本近代史の最高貴なる一人格の代表的スケツチを 日本の少年達に献ず』
と書いて、続けて 著者自らを説明してゐる。 曰く
『過ぐる日、かつて彼等の或者を教へたことのある クラーク様(CLARK - SAMA)即ち 、静岡先生( 、そして其者(クラーク自身を言うのであろう)は、思ひ出に、はたまた希望に於て 今猶 彼等の総べてを愛してゐるものだ!』)
と云つてゐるのである。 SHIDZ_U_O_KA SEN_SI と書いてあるのは、『静岡先生( 』 の誤りであらうか。 又は 『静岡先師) ( 』 なる言葉を あてはめる可きものであらうか。)
此の書物の中に於て クラークは 彼の所謂 『日本のビスマーク』としての勝海舟を 讃美してゐる。 そして ビスマークは剣をとつて勇名をとゞろかしたが、海舟は平和のうちに維新の功業を成就したと云つて ビスマーク以上の人物として 敬朊してゐる。 そして 彼の今日無事なるを得たのは、単に海舟の保護によるものとして 命の恩人として海舟に感謝してゐる。 そして 其 感謝の結果 この本を著したのである。
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〔挿入写真〕
米人クラーク と 其の著書「勝安房」伝
(上掲本文に記載のように、左側の書籍表紙は 標題の「海舟勝安房」の文字が上下逆になっている。参考までに、上下を正した標題を添えておく。)
(三)当時 静岡藩学校にありて 身親しくクラークの教へを受けた 工学士・二宮正 老人(恐らくクラークの教へ子として現在唯一人であらう)は、思ひ出の糸をほぐしながら、クラークのことに就いて 次の如く語られた。
クラークは 明治三年頃、米国より 静岡藩学校に招聘されて 渡来した。 多分 米人グリフイスが越前へ来たのも 其頃であらう。 初め 三松の蓮永寺に住んでゐたが、後 西深草、四ッ足御門の中、城番屋敷( の所(今の衛戌病院の所)へ新しい洋館を立てゝ 移り住んだのであつた。 そして 松の間より富士を眺めては 独り喜んでゐたのであつた。 見なれない異人の家を見て、静岡の人々は それを「異人館」と呼んで 珍しがつたそうである。 当時の静岡藩学校は 今の城内静岡倶楽部の前の 知事官舎 辺りに在り、クラークは毎日 其処へ通つてゐた。 時の藩学校長は 中村敬宇先生で、其他 外山正一、乙骨太郎乙 其他の諸先生がゐた。 クラークは 月) ( 給 四百円であり、中村敬宇学長は年) ( 俸 僅かに三百円であつたそうである。 クラークは、其処に於て 英語、物理、化学、数学、倫理、経済書等 色々の課目に亘つて教へられてゐた。 其頃 クラークが教へる化学実験を見て、キリシタンバテレンの法を教へると云ふた 田舎者もゐたと言ふ。 教授には仲々熱心で 話上手であつた。 クラークは 当時二十五六才位の青年で 独身者であつた。 それ故 横浜にゐた英語の話せる日本人コツクを一人連れて来てゐて 料理其他の世話をさせてゐた。 一週に一度位学生が遊びに行くと、クラークは 西洋料理を馳走して呉れたそうだ。 学生達は 其時 初めて西洋料理の味を知り、其名前を教へられたそうである。 もともとキリスト教の布教が目的で 日本に来られたようであるが、学校では決して宗教には触れなかつたと云ふことである。 併し 学生が其自宅に行けば、キリストのことを熱心に語り、バイブルを与へて読むことを奨めたそうである。)
静岡に只一人の異人さんだと云ふので、町の人々から珍しがられ 道を歩む時 人々が彼れの囲りに群れるのを、非常に不快に思つてゐたと云ふ。 「ある年の六月 藩学校の生徒達が白糸の瀧へ遠足を試み、上井出に一泊した時に、クラーク先生が家の外の道端で入浴させられたことを、さも大事件であるかの如く 人に語られてゐた時の顔や、ある年の正月に 学生二三人打連れてクラーク先生の異人館へ年賀の御禮に行つた時、私達が先生を驚ろかすために着て行つた四角張つた上下を見て、フライングマシーン(飛行器のこと)と叫んで喜んだ時の 先生のあの親しみ深い顔が 今に思ひ出されて懐しい」 と 二宮老人は語り終つて、感慨無量の有様であつた。
クラークは、明治七年頃迄 静岡にゐたが 後 東京へ出て、暫く東京大学( に教鞭をとつたが、間もなく帰国したのであつた。 其後の消息は判明しないが、人の話には 老年になつてから失明されて、もう今は 静岡及日本文化の恩人クラーク先生は 長逝されたことであらう。)
(四)此書の中には 十葉の写真が入れてあり、巻頭には クラーク自らが写した徳川家達公(クラークが赴任した当時の 静岡藩主→藩知事)と勝海舟との写真がある。
此書の内容の歴史的価値には 或は疑問があるかも知れない。 例へば 此書の中に静岡に於て 赤鞘の青年武士が、絶へずクラーク先生を付けねらつてゐたが 勝海舟は陰になつては彼を護衛してゐたとあるなどは 問題であると思ふ。 二宮正老人の言に拠れば 当時は既に明治三、四年の事ではあり、キリシタン禁制の時代ではないのである。 静岡に於ける世情は 斯くの如く殺風景ではなかつたのである。 即ち クラークは、彼の所謂「日本のビスマーク」を ビスマーク以上に描出するために、斯くの如き材料を用ひたのであらう。 若し然らずとせば、或は言語、人情の通ぜざる異邦人として、一つの強迫観念を抱き、斯く自ら思ひすごしてゐたのかも知れぬと思はれても 仕方がないであらう。 彼には尚、日本 東洋に関して 次の如き著書があると云ふことである。
(一) LIFE AND ADVENTURE IN JAPAN. (日本に於ける生活と冒険)
(二) RISE AND FALL OF TYCOONISM IN JAPAN. (日本に於ける武士道の盛衰)
(三) HONG KONG TO THE HIMALAYAS.
尚 クラークの「勝安房」伝 の内容に関しては、次号より高橋邦太郎氏の全訳が連載される筈である。
終