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目 次
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本文の一部紹介 |
荷塘道人圭公伝碑
師 諱は 圓陀、初名は 松陀。 号は 一圭。 姓は 遠山氏。 陸奥の人なり。 生れて 岐嶷( (幼時より英才)にして、夙慧) ( (岐嶷と同義)・非凡なり。 稊) ( 長じて 斬然(ひときわ ぬきんでて)成人の若) ( し。 児童の嬉戯を逐) ( はず。 好んで老人・長者の遊に従ひ、其の古) ( を話し、今を談ずるを聴く。 終夜と謂) ( も 倦) ( む色(表情) 無し。 人 皆な 之) ( を 異とす。 一日、衆に随) ( ひて 寺に遊び、僧の説法を聴きて、自) ( から省) ( ること有るを覚ゆ。 後) ( 人に経論を借り、之) ( を観) ( るに、義理 融通して、一目に即領す。 殆ど夙悟の若) ( く 然り(全く天才的であった)。)
此( 従) ( り 誦経・念仏し、復) ( び 人事を以て挂念せず(もはや 世間的なことに関心をもたない)。 屡) ( 父母に稟) ( て、出俗を求むるも、父母は許さず。 然) ( れども、道心は愈) ( 固く、頭陀行に服すること 久しくして益) ( 勤む。 年 十七、志) ( を決して 出家す。 石巻・禅昌寺の住持僧に従い、信濃に至る。 途中、落彩(剃髪)す。 諏訪・温泉寺に投じ、王和尚に願いて 受具得度し、禅学に参究す。 年二十二、遊方 偏) ( に参じ、道公 益) ( 励) ( む(この二句、仏道への限りない精進を言う)。 其の行脚して至る所、住持・首座・開堂に遇えば、必ず 横機を聘辞し、深微を鋒出す(この二句、教義の核心的問題について問答・議論することを言う)。 一衆(寺の僧すべて)、之が為に靡然たり(圧倒されてしまう)。)
京摂(京都・摂津)の間に居ること数年、中国を遊歴し、豊後の日田に至り、広瀬氏(漢学者・広瀬淡窓。1782~1856)の塾に寓して、文字の業を修む。 幾( も無くして去り、長崎へ往) ( き、崇福寺に錫) ( を卓) ( (立)つ。 時に、年 二十六。 師 素) ( より 悉曇) ( (梵語)の学に通じ、兼ねて 声律に精) ( し。 是) ( に於て、訳司(長崎に置かれていた中国語通訳)・周某) ( に唐話(中国語)を学ぶ。 未だ数年ならざるに、土音・方言 通暁せざる莫) ( し。 又、姑蘇の李鄴嗣の音楽に精しき、閔中の徐天秀の梵唄に妙なる、を聞き、亦、之) ( に従学し、皆、其の精妙を究む。 又、金琴江なる者 有りて、月琴を善くす。 師、尽) ( く 其の指法を伝う。 江雲閣・朱柳橋・李少白・周安泉の諸子、交わりて最も親しむ。 源源として(絶えず)談を接) ( ぎ、又、数) ( 篇章を以て往来したれば、其の伝奇・詞曲の学は 蓋) ( し 諸) ( を 其の間に得たるならんと云う。 他に、鼓笛箏琶の諸技は、皆、心に従いて悟り、必ずしも 指授に仮) ( らず。 崎(長崎)に在ること 五年余りにして、再び日田に至る。)
既にして 将( に信濃に帰り、老師を 温泉寺に省) ( わんとす。 路次(道すがら) 筑前に過) ( り、亀井翁(漢学者・亀井南冥。1743~1812)を訪う。 翁、一見して 其の才を奇とし、館) ( を設けて (特別にしつらえて) 餐) ( (食べ物)を授く。 一家、之が為に、斎食(僧と同じ食事)となれり。 翁は即ち 西海(九州地方)の宿儒(学徳を積んだ儒者)にして、苟) ( に人を許可(実力を認めて受け入れること)せず。 而) ( して、其の欣慕する(人)を見ること、此) ( の如し。 亦、以て其の 為人) ( を 想) ( うべし。 留まること 数月、飄然と錫を飛ばし、京摂・尾信(尾張・信濃)を経る。)
年 三十一、始めて江戸に来り、本所に寓す。 余の居と 相い距( ること 甚だしく遠からず。 故に、余の師を知ること 最も先なり。 余と 大窪行(号:詩佛。詩人として知られる)・宮崎雉などの諸友、席を設けて 延致(面会)し、西廂・琵琶二記(中国。元代の戯曲『西廂記』と『琵琶記』に関する講義)を受く。 是より先、江戸の文人にて 伝奇に精しきは無し。 何ぞ 況) ( んや、詞曲をや。 月琴を摘) ( くが若) ( きは、絶えて其の人を見ず。 而して 師は、兼ねて 之を能くし、竟) ( に 是を以て名家たり。 人 皆 是を以て之を称す。 師は、長身にして玉立(容姿にすぐれる)、清痩(痩せてすらりとしている) 鶴の如く、手度端凝、而して 志趣高簡、真に神仙中の人なり。 然) ( れども、情地夷曠(おごりたかぶる)して 人を青白眼にて視ることを作) ( さず。 故に 名人・宿儒と雖) ( も、亦、咸) ( 楽しみて、 折節) ( (*国語「折節」が そのまま文に入ってしまったものか。)論交せり。)
是( に於て 交) ( は一時に遍) ( く、名は四方に馳) ( す。 其の 踵門・問業者(次々に訪問する人々)にて 履(はきもの) 恒(つね)に満つ。 後、浅草に移居し、業日(面会日の意であろう)は 益) ( 振) ( ふ。 師は、学問 淹博(深く広い)にして、内外 兼ねて通じ、兵法・律例・音韻・声律・蘭字・満字等 に至るまで、之を 包孕し 貫串せざる 靡) ( し。 其の 曲を唱) ( ひ 琴を摘) ( く 若) ( きは、抑) ( 末のこと(末梢的なこと)なる耳) ( 。 又、攻工(工芸技術)に精) ( れ、琴・笛・鼓・板など諸) ( の伎器(楽器)は、手自) ( 製造せり。 或は 梓人(大工・さしもの師)をして 之を為さしめるも、亦、一経(構造や方法)を 画) ( いて指) ( す。 妙理絶愉(意味不詳)、人 其の精巧に朊す。 是れ、其の最も末のこと也) ( 。 而して 猶) ( 此) ( の如きを能くするは、天性乃爾(意味不詳)、亦 用心を費やせり。 豈) ( に 多からずや。 又、昼は 則ち 門人、諸友、四方の客なりの、雑沓・坌至(きわめて混雑)し、応接に暇) ( あらず。 夜は則ち 一灯 熒熒) ( (輝くさま)として、誦読を自ら課し、鶏鳴して 始めて寝ぬ。 或は、旦) ( に達して 瞑) ( からざれば、攻苦(努力)して 学に力) ( む。 偸) ( むを 肯) ( ずして、自らの暇) ( を 自ら逸す。 體) ( は 素より羸) ( たり。 労悴) ( して 支) ( えず、 竟) ( に 生を促すを以てす。)
天保二年辛卯(1831年) 秋七月朔日(ついたち、一日) 鴨脚山房に於て示寂す。 年、僅かに三十七。 浅草・称念寺に葬る。 嗚呼 哀しいかな。 著書 家に満つるも、未だ率( 業を卒) ( えず。 其の 僅かに脱稿せるは、「西廂記注釈(*原文には「北西廂記…」とあるが、「北」は誤って付加された文字(衍字)であろう)」「月琴考」「胡言漢語考」など 数部 耳) ( 。 卒するの前五日、力) ( めて 起き、端座し、筆を援) ( て 小詞を書し、以て 諸友と訣) ( る。 字字 活動し、病 無き者の如し。 越えて 二日、病 弥) ( 滋甚(進行)し、目は 見ること無し。 猶) ( お 月琴を病床に引き、臥して漫板に流水を弾くこと 一回。 音節 調和し、平常と異なること無し。 又、侍病の人をして 異なる歌を奏せしめること 一闋(一曲)。 破顔微笑して曰く、「好好」と。 蓋し、永訣の意なり。 守邨) ( 約(号は鴎嶼、江戸の人、生没年不詳)、師と 友として善し。 為に、石を将) ( って 墨多(墨田)の長命寺に立て、以て 遊踪(遊跡、荷塘の暮らしたあと)を存す。 其の清唱の地なるを以てなり。 其の 曲を唱) ( ひ 琴を摘) ( く 若) ( きは、抑) ( 末のことなる耳) ( 。 固) ( より 以て師を称する(賞揚する)に足らず。 然れども 是 猶) ( (やはり) 伝) ( ふべきなり。 荷塘道人圭公伝碑を作る。 天保壬辰(天保三年、1832年) 秋九月。)
参 考
荷塘道人圭公伝碑は、碑文の終り近くに「石を…墨多の長命寺に立て」とある、その長命寺 (東京都墨田区向島5丁目 4 - 4) に現存している。
ただし、現在のこの寺は、併設 (?) の幼稚園の方が主要施設となっており、その施設内に保存された形になっている。 このため、かつては境内に散在していたと思われる 古碑(十基あまり)は、かなり狭い範囲内にまとめて 整理・存置されている。
本碑の場合、碑文の文字の存在する部分が、かなり土中に埋没しているようである。 土と接した 目に見える部分は、浸潤・劣化が明らかで、大きな破損も見られる。 整理の際には、扁平形状の石を安定に保持するために、根元を 深く埋設する必要もあったことであろう。
ここに掲げたスナップ写真では、浅い陽刻の題額部分の文字を出すのがやっとで、陰刻の本文を出すことはできなかった。
終