らんだむ書籍館


表紙
外袋

目 次


   賜将棊所宗桂法印大橋君追福碑
   宗春大窪先生墓表
   富津屋六左衛門墓表記
   処士董堂先生碑記
   竹庵居士墓表記
   巻菱湖碑
   駒谷吉田先生碑記
   萬街市嶋君墓表
   鈴木斧八郎君碑記
   板渓伊藤君墓表記
   原君公道墓誌銘
   桑弧黒沢君墓表
   松前故医官桜井君小膳墓碑銘
   処士乾君墓表
   二宮君齢順墓表
   荷塘道人圭公伝碑
   桐生故詩人佐羽淡斎君墓記
   鑁居士細川君墓表
   詩佛老人碑竹記
   附
   朝川善庵墓碑銘   松浦 郭軒



近代先哲碑文集 第卅七
「善庵朝川先生碑文集」


 昭和49(1974)年4月、 夢硯堂。
 縦 20.2 cm、横14.8cm、本文 34葉、線装。


 「近代先哲碑文集」 は、先に 第卅二(32)集の「敬宇中村先生碑文集」を紹介し、その中で シリーズの全体像(概要)や 特徴を示しておいたが、続けてここに 第卅七(37)集の「善庵朝川先生碑文集」 を紹介する。
 (なお、館蔵の この第卅七集には、販売時の外袋も残存しているので、それを 右の表紙の下に示す。)

 朝川善庵(名は鼎、天明元(1832)~嘉永2(1891))は、平戸藩の儒者。 もともと 江戸の儒者・片山兼山の子であるが、兼山の没後、母が再嫁した江戸の町医・朝川黙翁に養育されたため、その恩義を重んじて 朝川氏を称したという。
 本書には、善庵の作成した 19名の人物についての碑文が収録されているのであるが、更に、この朝川善庵について 松浦凞(平戸藩の前藩主、号:廓軒)が執筆した碑文も 収録されている。

 「本文の一部紹介」 としては、目次中の 「荷塘道人圭公伝碑」 の碑文を 訓読により示す。 この荷塘道人が、19名中で 最も異色の人物と思われるからである。
 かなり長文で そのままでは読みにくいので、7段落に分け、段落毎に改行を行なった。



本文の一部紹介





荷塘道人圭公伝碑



 師 いみなは 圓陀、初名は 松陀。 号は 一圭。 姓は 遠山氏。 陸奥の人なり。 生れて 岐嶷キギョク(幼時より英才)にして、夙慧シュッケイ(岐嶷と同義)・非凡なり。 やや長じて 斬然(ひときわ ぬきんでて)成人のごとし。 児童の嬉戯をはず。 好んで老人・長者の遊に従ひ、其のいにしへを話し、今を談ずるを聴く。 終夜といへどむ色(表情) 無し。 人 皆な これを 異とす。 一日、衆にしたがひて 寺に遊び、僧の説法を聴きて、おのずからかえりみること有るを覚ゆ。 のち 人に経論を借り、これるに、義理 融通して、一目に即領す。 殆ど夙悟のごとく 然り(全く天才的であった)
 これ り 誦経・念仏し、ふたたび 人事を以て挂念せず(もはや 世間的なことに関心をもたない)。  しばしば 父母にもうして、出俗を求むるも、父母は許さず。 しかれども、道心はいよいよ固く、頭陀行に服すること 久しくしてますます勤む。 年 十七、こころざしを決して 出家す。 石巻・禅昌寺の住持僧に従い、信濃に至る。 途中、落彩(剃髪)す。 諏訪・温泉寺に投じ、王和尚に願いて 受具得度し、禅学に参究す。 年二十二、遊方 ひとえに参じ、道公 ますますはげ(この二句、仏道への限りない精進を言う)。 其の行脚して至る所、住持・首座・開堂に遇えば、必ず 横機を聘辞し、深微を鋒出す(この二句、教義の核心的問題について問答・議論することを言う)。 一衆(寺の僧すべて)、之が為に靡然たり(圧倒されてしまう)
 京摂(京都・摂津)の間に居ること数年、中国を遊歴し、豊後の日田に至り、広瀬氏(漢学者・広瀬淡窓。1782~1856)の塾に寓して、文字の業を修む。 いくばくも無くして去り、長崎へき、崇福寺につえ(立)つ。 時に、年 二十六。 師 もとより 悉曇シッタン
(梵語)の学に通じ、兼ねて 声律にくわし。 ここに於て、訳司(長崎に置かれていた中国語通訳)・周なにがしに唐話(中国語)を学ぶ。 未だ数年ならざるに、土音・方言 通暁せざるし。 又、姑蘇の李鄴嗣の音楽に精しき、閔中の徐天秀の梵唄に妙なる、を聞き、亦、これらに従学し、皆、其の精妙を究む。 又、金琴江なる者 有りて、月琴を善くす。 師、ことごとく 其の指法を伝う。 江雲閣・朱柳橋・李少白・周安泉の諸子、交わりて最も親しむ。 源源として(絶えず)談をぎ、又、しばしば 篇章を以て往来したれば、其の伝奇・詞曲の学は けだこれを 其の間に得たるならんと云う。 他に、鼓笛箏琶の諸技は、皆、心に従いて悟り、必ずしも 指授にらず。 崎(長崎)に在ること 五年余りにして、再び日田に至る。
 既にして まさに信濃に帰り、老師を 温泉寺にみまわんとす。 路次(道すがら) 筑前によぎり、亀井翁(漢学者・亀井南冥。1743~1812)を訪う。 翁、一見して 其の才を奇とし、やかたを設けて (特別にしつらえて) サン(食べ物)を授く。 一家、之が為に、斎食(僧と同じ食事)となれり。 翁は即ち 西海(九州地方)の宿儒(学徳を積んだ儒者)にして、みだりに人を許可(実力を認めて受け入れること)せず。 しこうして、其の欣慕する(人)を見ること、かくの如し。 亦、以て其の 為人ひととなりおもうべし。 留まること 数月、飄然と錫を飛ばし、京摂・尾信(尾張・信濃)を経る。
 年 三十一、始めて江戸に来り、本所に寓す。 余の居と 相いへだたること 甚だしく遠からず。 故に、余の師を知ること 最も先なり。 余と 大窪行(号:詩佛。詩人として知られる)・宮崎雉などの諸友、席を設けて 延致(面会)し、西廂・琵琶二記(中国。元代の戯曲『西廂記』と『琵琶記』に関する講義)を受く。 是より先、江戸の文人にて 伝奇に精しきは無し。 何ぞ いわんや、詞曲をや。 月琴をつまびくがごときは、絶えて其の人を見ず。 而して 師は、兼ねて 之を能くし、ついに 是を以て名家たり。 人 皆 是を以て之を称す。 師は、長身にして玉立(容姿にすぐれる)、清痩(痩せてすらりとしている) 鶴の如く、手度端凝、而して 志趣高簡、真に神仙中の人なり。 しかれども、情地夷曠(おごりたかぶる)して 人を青白眼にて視ることをさず。 故に 名人・宿儒といえども、亦、みな 楽しみて、 折節おりふし(*国語「折節」が そのまま文に入ってしまったものか。)論交せり。
 ここに於て まじわりは一時にあまねく、名は四方にす。 其の 踵門・問業者(次々に訪問する人々)にて 履(はきもの)(つね)に満つ。 後、浅草に移居し、業日(面会日の意であろう)ますますにぎはふ。 師は、学問 淹博(深く広い)にして、内外 兼ねて通じ、兵法・律例・音韻・声律・蘭字・満字等 に至るまで、之を 包孕し 貫串せざる し。 其の 曲をうたひ 琴をつまびごときは、そもそも 末のこと(末梢的なこと)なるのみ。 又、攻工(工芸技術)すぐれ、琴・笛・鼓・板などもろもろの伎器(楽器)は、手自てづから 製造せり。 或は 梓人(大工・さしもの師)をして 之を為さしめるも、亦、一経(構造や方法)えがいてしめす。 妙理絶愉(意味不詳)、人 其の精巧に朊す。 是れ、其の最も末のことなり。 而して なお かくの如きを能くするは、天性乃爾(意味不詳)、亦 用心を費やせり。 に 多からずや。 又、昼は 則ち 門人、諸友、四方の客なりの、雑沓・坌至(きわめて混雑)し、応接にいとま あらず。 夜は則ち 一灯 熒熒ケイケイ(輝くさま)として、誦読を自ら課し、鶏鳴して 始めて寝ぬ。 或は、あさに達して くらからざれば、攻苦(努力)して 学につとむ。 やすむを がえんぜずして、自らのいとまを 自ら逸す。 からだは 素よりつかれたり。 労悴ロウスイ して もちこたえず、ついに 生を促すを以てす。
 天保二年辛卯(1831年) 秋七月朔日(ついたち、一日) 鴨脚山房に於て示寂す。 年、僅かに三十七。 浅草・称念寺に葬る。 嗚呼 哀しいかな。 著書 家に満つるも、未だほとんど 業をえず。 其の 僅かに脱稿せるは、「西廂記注釈(*原文には「北西廂記…」とあるが、「北」は誤って付加された文字(衍字)であろう)」「月琴考」「胡言漢語考」など 数部 のみ。 卒するの前五日、つとめて 起き、端座し、筆をとりて 小詞を書し、以て 諸友とわかる。 字字 活動し、病 無き者の如し。 越えて 二日、病 いよいよ 滋甚(進行)し、目は 見ること無し。 お 月琴を病床に引き、臥して漫板に流水を弾くこと 一回。 音節 調和し、平常と異なること無し。 又、侍病の人をして 異なる歌を奏せしめること 一闋(一曲)。 破顔微笑して曰く、「好好」と。 蓋し、永訣の意なり。 守邨もりむら(号は鴎嶼、江戸の人、生没年不詳)、師と 友として善し。 為に、石をって 墨多(墨田)の長命寺に立て、以て 遊踪(遊跡、荷塘の暮らしたあと)を存す。 其の清唱の地なるを以てなり。 其の 曲をうたひ 琴をつまびごときは、そもそも 末のことなるのみ。 もとより 以て師を称する(賞揚する)に足らず。 然れども 是 猶これ なお(やはり) つたふべきなり。 荷塘道人圭公伝碑を作る。 天保壬辰(天保三年、1832年) 秋九月。



参 考


 荷塘道人圭公伝碑は、碑文の終り近くに「石を…墨多の長命寺に立て」とある、その長命寺 (東京都墨田区向島5丁目 4 - 4) に現存している。
 ただし、現在のこの寺は、併設 (?) の幼稚園の方が主要施設となっており、その施設内に保存された形になっている。 このため、かつては境内に散在していたと思われる 古碑(十基あまり)は、かなり狭い範囲内にまとめて 整理・存置されている。
 本碑の場合、碑文の文字の存在する部分が、かなり土中に埋没しているようである。 土と接した 目に見える部分は、浸潤・劣化が明らかで、大きな破損も見られる。 整理の際には、扁平形状の石を安定に保持するために、根元を 深く埋設する必要もあったことであろう。
 ここに掲げたスナップ写真では、浅い陽刻の題額部分の文字を出すのがやっとで、陰刻の本文を出すことはできなかった。









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