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表紙 |
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中扉 |
目 次
明遺民張非文伝 (青山延光) 莽蒼園文稿序 (会沢 安) 頌 上水戸侯頌 賦 登高賦 序 贈徐止于序、医序、 贈何氏兄弟序、 贈徐身先序、贈金筮文序、 南北史合注序 記 琴記、観音山井泉記 伝 呂文粛正公伝、皮太師伝、 張黙伝、農部許公伝 書啓 答友人為其子請名書、 寄今井弘済書、 復大串元善書、 復子平論華夷書、 復大串元善書、 寄下川三省大串元善書、 又、又、又、又、 与大串元善書 墓誌 呂幼陶墓誌銘、 陳孝明墓誌銘、 李儀及墓誌銘 雑 字説、書劉青田集、 書少陵集、 至長崎告朱舜水先生文、 祭朱舜水先生文 書刻張非文真蹟後 (宇佐美 充) 章炳麟の後語(跋文) (題記なし) |
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簡章 |
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奥付 |
本文の一部紹介 |
明遺民張非文伝
青山延光***空白***
張斐、字は非文、初名は宗升、号は霞池、明の浙江 餘姚の人なり。 兄の宗観は、字は用賓、号は朗屋にして(「張斐筆語」)、楽府歌詩を善くし、王伯(その道の権威者)を以て 略 自ら許し、朱士稚(?~1660、詩人であるが 遊侠の人)と 名を斉( しくす。 士稚、乱(明朝に対して蜂起した農民反乱)に遭) ( い、千金を散じて結客(同志と結合)するも、繋獄に坐し、死を論) ( めらる。 宗観、知る所に号呼(よびかけ)して、重貲(大金)を斂) ( め、獄吏を賄) ( いて、不死を得(朱士稚は死をまぬかれた)。 既にして論) ( は釈) ( る。 宗観、之を聞きて大喜踊躍し、夜 江を渡り、馳せて士稚に見) ( わんとす。 未だ至らざるに、盗(盗賊)の為に殺さる(朱彜尊撰「朱士稚墓表」)。 斐(張斐)は、幼くして孤(みなしご)となり、年 十一にして国変に遭うも、猶) ( 挙業(科挙)を習) ( う(受験を志向する)。 父執(父の友人) 見て、之を誡) ( む。 乃) ( ち 挙業を棄てて、明の遺老・李一鱗に従い学ばせしむ(「筆語」)。 為人) ( は、卓犖不羈(才能・学識がずばぬけている)、交わるところの多くは 賢豪なり(「莽蒼園集」)。 郷党の推すところとなり、斐は 既に志を仕進に絶ち、慨然として魯仲連(戦国時代の節操の人物)の為人) ( を慕う(「筆語」)。 天下を周遊し、自) ( ら 客星山人と号す(姚江「与今井書」)。 常に 明国の淪覆(滅亡)を憤り、事に触れて悲慨す。 嘗) ( て 夜 「楚辞」を読むに、声気 激烈なれば、聞く者 涕) ( を隕) ( せり。 親戚に 清(清朝)に仕) ( える者 有れども、斐は 家の貧なるを以て 絶) ( つ(交際を絶つ)こと 能) ( わず。 然) ( れども、平生 多く 当時の義士伝を作り、以て其の意を寓す。 又、儒を以て自ら名) ( ることを欲せず、侠客・大鉄椎の徒と 相い善し。 初め、「甲申の難」(1664年、農民反乱の主力・李自成軍の攻撃による明朝滅亡)のとき、明主(明の皇帝)の諸子は賊(李自成)の執) ( る所と為) ( る。 賊の敗) ( るに及び、其の党の毛貞生は 定王の慈炤(上記「明主の諸子」の一人)を挟) ( て逃げ、呉三桂に投じて 反正の計(正道に戻すための はかりごと)を作) ( さんと欲するも、三桂の清に降るを聞き、乃ち之(定王の慈炤)を巣県の葉五羑に託せり。 五羑 及び 盧州の李應生は、力を悉) ( して調護(保護)するも、五羑は事の漏れるを恐れ、之を携へて遠遊し、五羑は尋) ( いで 害に遭) ( う。 慈炤は、転じて南京に赴き、王俊公に依る。 俊公の子・伊其は、師弟を以て名と為) ( し、之に事) ( えて 甚だ謹) ( しむ。 鄭成功の清を討) ( ちて 捷) ( たざるに及び、清人は明主の子孫を索 捕) ( う。 伊其は 慈炤に給するに路資(旅費)を以てし、斐(張斐)の家に至らしむ。 斐は蕭山に卜居(転居)を為したるも、是の後は 益) ( 遠遊を事とし、陰に有志の士と結ぶ(「筆語」)。 斐の郷人(同郷の人)・朱舜水も亦、嘗て 潜) ( に興復を謀) ( り、将) ( に 本邦に援) ( を乞わんとして、航海して長崎に来たり、困苦最も甚) ( し。 我が水戸の義公 其の忠義に感じ、厚禮にて之を招き、賓師を以て待) ( せり(「舜水文集」)。 舜水 既に没す。 義公、其の孫の毓仁 及び 姚江に諭) ( げ、奇士を求めしむ。 江(姚江)は、斐(張斐)を以て 之に応ぜんと欲し、一日 之と呉興に遇) ( い、語るに 其の事を以てす(姚江「与今井書」)。 斐 喜びて曰く、「我が朝の興る(復興する)は、必ず日本に藉) ( 有り。 今 水戸公の義を好まれんには、我 此) ( を舎) ( いて、何) ( に適) ( んや」と(「筆語」)。 乃ち 奮然と途) ( に就き、復) ( び 家に還) ( らず。 妻子と辞) ( れて、遂に長崎に来たり(姚江「与今井書」)、舜水を祭る文を作る。 時に 貞享三年(清・康煕25年、1686年)なり。 義公は 儒臣・大串元春を遣) ( わし、其の才学を試みしむ。 斐は、頌(義公をたたえる文)を作りて之を献ず(「筆語」)。 義公 其の為人) ( を愛し、之を延) ( かんと欲するも、海禁(海外交通の制限)の甚だ厳なるに会し、聘招するを得ざりき。 斐は 悵怏(失望・落胆する)として去り、義公もまた 之を深く惜しめり(「中村雑記 」。 明くる年、斐は 再び長崎に来る(「莽蒼園集」。 是の歳 義公は年六十。 斐は 友人・湯来賀に属(委嘱)して寿序を作り、以て献ず。 来賀もまた 明の遺老なり(「来賀寿序」。 斐の著わす所、「莽蒼園集」有り。 其の終る所を知るもの 莫) ( し。)
(麟(章炳麟)按ずるに、湯来賀は、福王の位を嗣ぎし時に揚州の推官(刑罰をつかさどる官吏)と為( り、高潔の来りて城(揚州城、すなわち揚州のまち)を攻め、日ごとに廂村(城下の村、地域)の婦女を掠) ( うや、来賀は 知府の馬鳴騄と与) ( に、月余にわたって (揚州城を)堅守したること、『明史・高潔伝』に見ゆ。 亦) ( 、称すべき有る者なり。))
莽蒼園文稿序
会沢 安***空白***
天地の正気は 両間(天と池の間)に充塞し、而して 賢豪に萃( る。 夫) ( れ 天下の賢豪の士、何) ( れの世か 無きこと在らん。 廟堂に在) ( らざれば、則ち 草野に在り。 其の廟堂に在るや 正気も廟堂に萃る。 草野に在るや 正気は草野に湮) ( る。 古) ( より、正気を草野に湮れ使) ( め 以て自) ( ら危亡を速めたる者、何ぞ限りあらん。 是れ 天下の常勢にして、固より怪しむに足る無し。 明季(明代末期)の如き、外には則ち権臣 内には則ち宦寺(宦官)あり、所謂) ( 南衙北司に、其の毒螫(どくむし)の肆) ( れり。 忠諫の士は、無きものにされ 或は免ぜられて 遠竄枉死し、遂には九有の大乱を致) ( く。 北京の流賊に陥) ( されしとき、満清をして鷸蚌の術を逞しくせしむれば(流賊と満清とを、鷸) ( と蚌) ( のように争わせたならば)、陥落した州縣に長躯し、一時 賢豪にして草野に在る者を 義旅(義勇軍)に糾合し、諸王を奉じて 以て恢復を謀) ( るべかりしを。 而) ( るに、大勢 既に去り、一成一旅(本来の領地を取り戻すこと)も 遂に得ずして止む。 其の滔天の勢) ( いは 相い踵) ( いで殲滅し、尺土寸壌も 満清の有に非) ( ざる莫) ( し。 而して 賢豪の士は、草野と雖) ( も身を容) ( るる所 無く、往往 海に航し、清の粟を食わざるを義とす。 亦) ( に 慨) ( るべきにあらずや。 我が義公は、この神明の邦に挺生) ( れ、尊攘(尊皇攘夷)の志は 素已) ( より、其の正気を専) ( にす。 而して、明の遺臣の 聞風して来投するもの、前には朱文恭 有り、後には張非文 及び 朱毓仁・姚江・仁元衡 の倫) ( 有り。 皆 長崎に詣) ( り、「包胥乞師」(春秋時代の楚の忠臣・包胥が、宿敵の呉を破るため、遠方の秦に援軍を求めたこと)の躅) ( を追わんとす。 是) ( に於て、正気の扁艇上に在るは、乃ち神州(日本)の正気と相い合す。 天地の間を信を以てするは、則ち 其の恢復の志は遂げずと雖) ( も、其の忠精は、日月を貫き 霄壌を塞) ( して、千載の下) ( に 頑) ( を廉) ( し、懦) ( を 立) ( せるは、以て 夷斉(伯夷叔斉)と並び駕し、光を争うものとす可) ( し。 夫) ( の 文恭遺文の若) ( きは、義公 既に之を梓に上) ( せたり(印刷させた)。 而して、非文の稿せる所の「莽蒼園文」は、蔵して彰考館に在るも、世に之を知るもの無し。 迺) ( ち 同社(彰考館)と謀) ( りて、一本を謄写す。 而して、非文の事蹟の如きは、則ち 亡友・宇佐美公実、嘗て「刻非文真蹟後」に詳しく其の顛末を書せり。 故に亦、以て巻尾に附し、他日 世に公にするを俟) ( たんとす。 是亦) ( 区区たる(ささやかな)犬馬の心(忠誠心)にして、窃) ( に 明季賢豪の正気の 啻) ( ならず草野に埋没するを 恐れるなり。 而して、其の滄海波濤の間に存する者と雖) ( も、亦 澌滅) ( (ほろびる)し、将に尽きんとするなり。)
嘉永辛亥七月稔五(*) 常陸 会沢 安 正志斎に於いて書す。
* 「稔五」とは「五年」の意であるが、「嘉永辛亥」は「嘉永四年」(西暦1851年)である。
参 考
上掲した 青山延光 および 会沢安の文によって、明代末期に日本への亡命を希望した張斐(張非文)の人物像が、かなり明らかになったであろう。
この張斐(張非文)の著書『張非文莽蒼園文稿余』が、明治40年8月発行の「民報」第15号の別冊として、刊行されたわけである。 この明治40年(1907年)は、中国においては 清朝の末期で、章炳麟らは その清朝を打倒すべく革命運動を展開していた。 その革命運動の中で、清朝政府を打倒 せんとの議論を展開している「民報」が、2世紀以上も前の 明末の人物の事蹟をとりあげ、民末における その行動に大きな関心を寄せているのである。 これは、どういうことか。
清朝打倒は、単に旧套政治を廃止させることではなく、満州族という中国東北部の一異民族が全土を支配している状況を変えること、明確に言えば、本来の漢民族中心の政治体制を確立することであった。 この 異民族支配の打破・排除(=漢民族政権の復興)という行動軸においては、漢民族政権たる明王朝の末期における その政権を存続させるための行動は、大きな連続性を有しているわけである。
終