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表紙 |
総目次
叙例 総目部分 索引部分 付録 一、 Giles: 博物館蔵敦煌巻子分類総目 二、 博物館蔵敦煌巻子筆画検査目録 三、 斯担因編号和博物館新編号対照表 後記 (王重民) 総目部分
一、 北京図書館蔵敦煌遺書簡目 二、 斯担因劫経録 三、 伯希和劫経録 四、 敦煌遺書散録 1.前中央図書館蔵巻目 2.旅順博物館所存敦煌之仏教経典 3.李氏鑑蔵敦煌写本目録 4.徳化李氏出售敦煌写本目録 5.李木斎旧蔵敦煌名跡目録(第一部分) 6.李木斎旧蔵敦煌名跡目録(第二部分) 7.劉幼雲蔵敦煌巻子目録 8.羅振玉蔵敦煌巻子目録 9.傅増湘蔵敦煌巻子目録 10.日本大谷大学図書館所蔵敦煌遺書目録 11.日本龍谷大学図書館所蔵敦煌遺書目録 12.日本人中村不折所蔵敦煌遺書目録 13.日本諸私家折所蔵敦煌写経目録 14.日本未詳所蔵者敦煌写経目録 15.敦煌石室経巻中未入蔵経論著述目録 16.敦煌所出古逸経疑似経目録 17.敦煌変文残巻目録 18.敦煌曲子詞残巻目録 19.敦煌四部遺書目録 索引部分
一画 ~ 廿六画、 索引補遺 |
本文の一部紹介 |
斯担因劫経録
0081 大般涅槃経巻第十一
〔題記〕 天監五年(公元506) 七月廿五日 仏弟子譙良顒奉為亡父於荊州竹林寺敬造涅槃経一部、願七世含識速登法皇無畏之地、比丘僧倫龍龔和亮二人為営。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の44~45頁に掲載。 西川寧の解説あり。
0381-7 十二娘祭婆婆文
〔本文〕 惟歳次丁亥五月庚子朔十五日甲寅、孩女十二娘謹以清酌之奠、致祭於故婆婆之霊、伏惟霊天然徳厚、自性憐憐、毎蒙訓育、与子無異、久染時疾、医薬不佺(痊)、何禍来造、我兮無依、肝腸分裂、涙也涓涓、願霊不昧、請就欽隆、伏惟尚饗。
* 「十二娘」とは、兄弟の妻子が同居した大家族での、同世代(すなわち、いとこ同士)における 12番目の女子、であろう。 ただし、「孩」は「ちのみご」と訓読される文字であるから、年齢数歳の幼児である。 この娘が「婆婆」と呼んで懐いていた祖母(または別の年長の女性)が病気で亡くなり、娘は非常に悲しがるので、周囲の者が(おそらく僧侶に依頼して)婆婆の霊を慰める文(祭文)を作成し、娘と共に霊前に捧げたのである。 こうした文書も 粗末にできないので、葬儀の終了後、石窟に収められたのであろう。
0797 十誦比丘戒本
〔題記〕 建初元年(公元405) 歳在乙巳十二月五日戊時、 比丘徳祐於敦煌城南受具戒、和尚僧法性、戒師寶意、教師恵観。 時同戒場者、道輔恵御等十二人、到夏安居写到戒諷之文。 成具拙字而巳、手拙用愧、見者但念其意、莫笑其字也、故記之。
〔説明〕 鳴沙余韻解説、謂本経巻為斯担因所劫経巻中之有年代記録者、最古的一種。 又 謂此可能為現存十誦比丘戒本之最早的訳本。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の32~33頁に掲載。 西川寧の解説あり。
0996 雑阿毘曇心経巻第六
〔題記〕 雑阿毘曇心者、法盛大(師)之所説、以法相理、玄籍浩博、摧昏流迷於広文、乃略微以現、約瞻四有之弔、見通三界之差、別以識同至味、吊曰毘曇。 是以使持節侍中駙馬都尉羽真太師、中書監領秘書事車騎大将軍都尉諸軍事啓府洛州刺史昌黎王馮晋國、仰感恩遇、撰写十一切経一一経一千四百六十四巻、用答皇施、願皇帝陛下太皇太后、徳包久遠、明同三曜、振恩闡以熙寧、協醇気而し養壽、乃作讃曰:□麗毘曇、廓吊無比、文約義豊、摠演天地、駙尊延剖、声類斯視、理無上利、眷之斯邑、見云上帝、諦修呑玩、。
〔説明〕 鳴沙余韻解説、謂本経巻為斯担因所劫経巻中之有年代記録者、最古的一種。 又 謂此可能為現存十誦比丘戒本之最早的訳本。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の38~39頁に掲載。 西川寧の解説あり。
1427 誠実論.巻第十四
〔題記〕 経生曹清寿所写 用紙廿五帳。
永平四年(公元511)歳次辛卯七月廿五日 敦煌鎮官経生曹法寿所写論成訖。 典経師令狐崇哲。 校経道人恵顕。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の136~137頁に掲載。 西川寧の解説あり。 この図録の写真から判断するに、 「誠実論」は「成実論」の誤りのようである。
1947-2 送師讃
〔本文〕 師今曠寂去、捨我遂清閑、送師置何処?、至着宝台中。 送師回来無所見、唯見師空房、挙手開師戸、唯見空縄床、低頭禮師座、懐惜内心悲、低頭政(整)流涙落千行、律論今無主、有疑當問誰?、送師永長別、再遇是何時、願師早成仏、弟子逐師来、千千萬萬。
* 師の僧の逝去にあたり、その教えを受けていた弟子が、悲しみを表明しつつ、師をほめたたえた文(讃)である。 「手を挙て師の戸( を開くに、唯) ( 空しき縄床を見るのみ」というところ、石窟寺院での簡素な生活が 目に浮かぶ。)
2106 維摩義記
〔題記〕 景明原(此字衍文)元年(公元500)二月廿日、比丘曇興於定州豊楽寺写訖。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の40~41頁に掲載。 西川寧の解説あり。
2199 尼霊恵唯書
〔本文〕 咸通六年(公元805)十月廿三日、尼霊恵忽染疾病、日日漸加、恐身無常、遂告諸親一一分析、不是昏沈之語、並是醒甦之言、霊恵只有家生婢子一名威娘、留与姪女潘娘、更無房貲、霊恵遷変日、仰姪女潘娘葬送営辨、已後更不許諾諸親恢護、恐後無慿、並対諸親、遂作唯書、押署為験。 弟金剛 索家小娘子 外甥尼霊儕 外甥十二娘(十二娘指印) 外甥曹計之 侄男勝賢 勝賢 索郎水官 左郎督成眞
* 霊恵という尼僧の承諾書。 霊恵は このところ病気が悪化して心細くなったので、親族に種々のことを訴え 支援を求めるようになった。 実家には、下婢や姪の潘娘がいるが、金の余裕は無い。 霊恵の最後のとき、姪をして葬送のことはさせるが、それまでの面倒を看させることはできないので、親族を頼らないでほしい。 この文書は、このことを霊恵に承諾(唯)させた書類で、立会人の親族が連署している。
2200 書牘規範
〔説明〕 首尾失題、前列四季節候、如暮春猶寒、仲夏盛熱。 次為各種賀状、再次則為各式書札、最後為夫与妻書、妻与夫書。 尾末有 大中十年(公元856)六月十一日。 字様似可作推定此巻年代之参考。
* 書簡の用途別文例集。 夫から妻へと 妻から夫への 双方向の文例があるのが、興味深い。 (なお、「六月十一日」以下の文末は、原文では 句読が誤っている(印刷ミス)と思われるので、訂正した。)
2660 勝鬘義記
〔題記〕 正始元年(公元504)二月十四日、写訖。 用紙十一張 宝献共玄済上人校了。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の42~43頁に掲載。 西川寧の解説あり。
2724 華厳経巻第三 用紙廿七(張)
〔題記〕 夫妙旨無言、故仮教以通理、円体非形、必藉□以表真、是以亡兄沙門維那慧超、悟財命難持、識三聖易依、故資竭□、唯福是務、図金容於霊刹、写冲典於竹素、而終功未就、□□異世、弟比丘法定、仰瞻遺跡、感慕遂甚、故塋飾図□、広写衆経、華厳、涅槃、法華、維摩、金剛、般若、金光明、勝鬘、□福鍾亡兄、騰神梵郷、游形浄国、体無無生、早(出)苦海、普及含霊、斉成正覚。 大魏正光三年(公元 522)歳次壬寅四月八日写訖。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の48~49頁に掲載。 西川寧の解説あり。
2925 摩訶般若波羅蜜品 第四
〔題記〕 趙清信経。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の34頁に掲載。 西川寧の解説あり。
2925-2 仏経
〔題記〕 大安元年(公元455)歳在庚寅正月十九日写訖、伊吾南祠比丘申宗、手拙人巳、難得紙墨。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の36頁に掲載。 西川寧の解説あり。
3753 臨法帖
〔説明〕 残存十行、上節断、内容為書牘。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の54~55頁に掲載。 西川寧の解説あり。
4415 大般若涅槃経巻 第三十一
〔題記〕 大代大魏永煕二年(公元533)、七月十五日、清信士使持説散騎常侍開府儀同三司都督嶺西諸軍事車騎大将軍瓜州刺史東陽(?)王氏太粲(?)、敬造涅槃、法華、大雲、賢愚、観仏三昧、□持、金光明、維摩、薬師各一部、合一百巻、□為比(毗)沙門天王、願弟子前患永除、四体休寧、所願如是。 一校竟。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の50~51頁に掲載。 西川寧の解説あり。
5130 大智論 巻第三十二
〔題記〕 開皇十三年(公元593) 歳次癸丑四月八日 弟子李思賢敬写供養。
* 『大英博物館収蔵 敦煌・楼蘭古文書展』図録(1983年1月、朝日新聞社)の52~53頁に掲載。 西川寧の解説あり。
5357 妙法蓮華経巻第一
〔題記〕 乾元二年(公元759)七月十五日、玉門軍副使昭武校尉守右衛寧州彭池府折衝員外置同正員賜紫金魚帯上柱國皇甫鳴鑾 為亡妻尚氏 自写記。
* 玉門軍に所属し、非常に長い肩書を有する皇甫鳴鑾(皇甫が姓で、鳴鑾が名であろう)という人物は、妻が亡くなったので(この妻は尚という姓の家から嫁いできた人である)、その供養のために「妙法蓮華経巻第一」を寺院に奉納した。 その際、経巻の題のみは自ら書し、併せて奉納の趣旨を書き添えたのである。
6537-2 放妻書
〔本文〕 蓋聞夫婦之禮、是宿世之因、累(世)共修、今得縁會、一従結契、要盡百年、如水如魚、同感同□、生男満十、並受公卿、生女柔容、温和六親、歓美遠近、似父子之恩、九族邕怡、四時如上憎更改、奉上有謙恭之道、恤下無儻無偏、家饒上尽之財、妯娌称長延之楽。 何乃結為夫婦、上悦鼓叟、六親聚(而?)或怨、(妯)里見而含恨、蘇乳之和(?)尚恐異流、猫鼠同窠、安能得久、二人意□、大小上安。 更若連留(留連)、家業破散、顛鐺□卻、至見宿活、上残擎食□□、便招困□之苦、男飢耕種、衣結百穿、女□績麻、怨心在内、夫若挙口、婦便生嗔、婦欲発言、夫則捻棒、相曾終日、甚時得見飯飽衣全。 □隔累年、五親何得団会、乾沙捻合、永無□期、羊虎同心、一向陳話美詞、心上和合、当親取弁、夫覓上対、千世同歓、婦聘毫宋、鴛鴦為伴、所要活業、任意分将、奴碑駆馳、□□上動、両共取穏、各自分離、□更無期、一言致定。 今請両家父母、六親眷属、故勒手書、千萬永別、忽有上照験約、綺巷曲街、点眼弄眉、恩尋旧事、便招解脱之罪、為留後慿、謹立。
* 「放妻書」という文書名は、目録作成者の劉銘恕が付与したものであろう。 内容は離婚に関しているが、一般論に終始しているうえ 文飾が多く、固有の事情等は表現されていないので、これもモデル文書の類かと考えられる。 なお、「放妻書」にはもう一通(6537-9)があり、文字数は約半分であるが、文飾が多いことは同様である。
伯希和劫経録
2066 浄土五會念佛誦經觀行儀巻中
2250 浄土五會念佛誦經觀行儀巻下
2963 浄土念佛誦經觀行儀巻下
* これらは、唐代の僧・法照の編集した『浄土五會念佛觀行儀』なる書が、分離・散乱した状態で収集され、そのまま記録されたものである。 この書は、極楽浄土を讃美する詩を列ねたもので、その詩はもともと、前代の隋の学僧・君琮が作ったものであるという。 そのことを論証したのは、我が国の仏教学者・岩井大慧(1891~1979)である。
わが国の正倉院に、聖武天皇が自ら中国詩文を抄写された『聖武天皇宸翰雑集』が伝わっており、その中に「隋大業主浄土詩」(隋の煬帝の作った浄土詩)と名づけられた一篇がある。 岩井は これについても調査・研究し、煬帝ではなく煬帝の詩文の師であった 前記・君琮の作品であることを明らかにした。 そして、敦煌石窟にあった文献と 我が国の正倉院にあった文献とを対照し、君琮の「浄土詩」の全容を明らかにしたのである。 (岩井大慧「西域探検と仏教」、大東急記念文庫・文化講座シリーズ 第10巻、1959年刊)
2638 清泰三年河西都僧統算
〔説明〕 有「河西都僧統印」。 背為 陸法言切韻序、孫□唐韻序。
* これは、寺院の会計書類。
(藤枝晃「文字の文化史」、昭和46(1971)年刊、175頁。写真あり。)
2685 析算文契
〔説明〕 末有蔵文、似為立契者之簽書。
* これは、兄弟の財産分割証文。
(前掲 藤枝晃「文字の文化史」、176頁。写真あり。)
2826 賜張准深札
〔説明〕 上鈐二印、大者為「通天萬壽之印」小者為「大菟于闐漢天子制印」、則為于闐王致張准深者。
* これは、唐代に于闐国王が敦煌国王に宛てた手紙で、そこに押捺された、印章について説明している。
(前掲 藤枝晃「文字の文化史」、175頁。写真あり。)
2945 帰義軍公文集
〔説明〕 背為醜女縁起。
* これは、公式賀状の書式集。
(前掲 藤枝晃「文字の文化史」、176頁。写真あり。)
終