らんだむ書籍館 |
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表紙 右上の箔押しは 二葉亭の肖像で、 写真から書き起こしたものである。 |
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口絵写真 二葉亭の露西亜赴任送別会 (明治41年6月6日) 前列中央の洋服姿が二葉亭、左側が坪内逍遥、 右側が内田魯庵。 |
目 次
生涯と作品 中村 光夫 二葉亭の影響 吉田 精一 二葉亭の評論 稲垣 達郎 二葉亭の翻訳態度 神西 清 人と作品 ― 同時代人の観た二葉亭四迷 ― 竹馬の友たりし長谷川君 中村達太郎 卅年前の長谷川君 土屋 大夢 種々なる思ひ出 大田黒重五郎 長谷川君の略歴 桑原 謙蔵 憂国の志士としての長谷川君 日向利兵衛 忠実なる教師 鈴木於菟平 北京警務学堂に於ける長谷川君 阿部精一 二葉亭先生追想録 松原岩五郎 対露西亜の長谷川君 大庭 柯公 露西亜に於ける長谷川氏 夏秋 亀一 二葉亭主人と朝日新聞 池辺吉太郎 著作に関する計画 西本 翠蔭 文学嫌の文学者 坪内 逍遥 二葉亭の人物 内田 魯庵 故人と僕 山田 美妙 『浮雲』の苦心と思想 矢崎嵯峨の舎 長谷川二葉亭君 木下 尚江 二葉亭氏と独歩氏 吉江 孤雁 露国に赴かれたる長谷川二葉亭氏 小栗風葉 二葉亭氏 小川 未明 官報局時代 横山源之助 長谷川二葉亭氏 蒲原 有明 二葉亭の文章 大町 桂月 二葉亭氏 岩野 泡鳴 長谷川二葉亭氏逝く 滝田 樗陰 吁 長谷川二葉亭 新潮記者 真の文章家 相馬 御風 二葉亭四迷論 中村 星湖 二葉亭の平生 西海 枝静 二葉亭主人の送別会 前田 晁 二葉亭氏送別会 一 記 者 長谷川二葉亭送別会出席者 二葉亭を倫敦迄見送たる末永の談 船中の二葉亭 (賀茂丸事務長の報告) 賀茂丸船長の報告 二葉亭遺骨到着 (長崎) 二葉亭の葬儀 埋骨の地 染井 二葉亭の旧居(露都に於て) 渋川 玄耳 主人(二葉亭)の平生に就て 私の悲しき思ひ出 長谷川 柳子 参考文献 (二葉亭死去当時の雑誌、新聞に発表 されたもので、本書に収めなかったものの一覧。) |
本文の一部紹介 |
文学嫌の文学者*スペース*
坪内逍遙 談*スペース*
今はまだ僕の頭脳が落着いてゐないから、筋を立てゝお話をすることは出来ない。 長谷川君が既に今迄に為られた事で、十分明治文学史に特筆すべき功績もあると思ふが、当人の抱負から云へば 未だ〜大に為すべきところが有つたのだ。 夫を果さずして、中途に空しくなられたのは、第一当人が如何に無念であつたかと想像されて、何とも云ひ様のない次第である。 同君は、最も早く最も深く、西洋文学に現れたる十九世紀の新精神を玩味し、体得し得た人と謂つて可い。
明治文学の魁
( 明治文学の第一期の大家としては、故尾崎君(紅葉)あり、幸田君(露伴)あり、尚 其他にもあるが、彼の西洋のクラツシシズムや、ロマンティシズムに反動して 盛に勃興しつゝあつた 写実的 乃至 自然主義的精神を作に、評に実現した人は、同君を真先となすと信ずる僕は、『書生気質』及び『小説真髄』を書いた当時に同君と知人に成り、只一回の談論によって西洋小説を味はふ力、及び文学に関する識見が、総て僕等とは質を異にし、度を異にすることを知った。)
時勢に先じたる識見 僕は君の意見を聞いてから、如何に時分の浅薄なるかを知り、一年二年と交際するに及んで、到底 小説は僕等の筆で書けぬとまで思つた。 惜しいかな、其の時分の同君の評論は 殆ど総て席上の談論に止まつた故に、世間には少しも知られてゐないが、その頃の文学論としては尤も進んだもので有つたことは確だ。 何うして同君が 左程に時勢に先んじた文学観及び人生観を抱いてゐたかと云ふに、主として当時の外国語学校露語教師の感化であつたらしい。 昨今に成つて漸く盛んに翻訳せられるツルゲネフなどは、其の頃 同君の既に熟読して居つた許でなく、『父と子』の如きは 僕が『妹背鏡』を書いた少し後頃に、慥か七八十枚の原稿紙に訳してゐた。 その他 ゴーゴリの或る作の如きも、幾分か翻訳をしかけて居られた。 併し あの通りな入念な人で、決して苟くもしないと云ふ性質だから、稿を更へること三度四度、尚それでも満足せず 遂に筐底に葬つたことが多かつた。
新文体の創始者 かの言文一致の文体の如きも、世に公にしたのは 美妙斎君の方が先だったが、僕が同君の言文一致を翻訳その他で見たのは、美妙斎君と同時か 或は幾何か前であつたかと思ふ。 今に成つて考へると、『浮雲』創作の際、僕が生中に口を出して 同君の本志に背かせた点があつた。 と云ふのは、同君の初発心は 飽く迄も俗語許で言文一致をやるのに有つた。 自然の儘、有りの儘の文体と云ふ点から云へば、成程 その方が適当であつた。 然るを 僕が口を出して、余り俗語のみでは卑しく誤解される損がある、処によりては最
( つと漢語を入れ給へと云つて、末には同君も其説を容れて、『浮雲』のある部分なぞには、大分 洒落た漢語を用ひられたことがある。 是などは、今考へると、却て間違つたサゼッションであつた。)
二十年の深交 併し こんな風に話をしてゐたら、果しがない。 同君と僕との関係は、中途で交際に濃淡はあつたが、断絶せざること 二十年。 こんな事を話してたら、果しはない。 文学上の古い功績に関しての話は、今日はこんな事で御免を被つて置かう。
氏は文学嫌 それ程 文学には功労ある同君ながら、非常な文学嫌で、長く交際
( つた僕等ですら 殆ど信じ得られぬ程に、嫌ひであつた。 蓋し 同君の志ざす所は、島国的の日本の文学などではなくッて、常に社会経営とか国際問題とか云ふやうな方面にあつた。 一時は満州経営に熱中して、専ら其方面の取調に全力を傾注してゐた事があつた。)
深刻な人生批判家 従つて、昨年 貴社の用で露国へ行くやうに成つたに就いては、君が内心の喜びは、僕等が始め想像したよりも以上で、数十年来の宿志の一端が 或はこれによつて開かれやうと云ふ意気込であつた。 出立せらるゝ前に逢つた時、「これで多年の君の宿志も、兎に角 糸口だけは開けるではないか。 君は文学を厭がるのを、僕等が思遣もなく無理に勧めて見たり何かしたッけが、最う僕もそんな無理は云はぬ」と云つたら、眼中に涙を湛て居られた。 如何にも文学的 俗務
( が厭で〜 堪らなかつたものと見える。 夫にも拘はらず 僕等は今も尚、長谷川君を以て 飽く迄も文学者、飽迄も作者、殊に尤も進んだる 尤も深刻なる人生の批判家として推重せざるを得ないから、同君の今度の逝去は、明治文学上の大なる損失と思はざるを得ない。)
大に閉口
( まさる 逸話はいくらも有るが、何うも頭が落着かないので、一寸と思ひだせない。 併し 前に云つた初対面の時の事などは、今も忘れぬ。 確 矢崎君(嵯峨の屋)の紹介で、真砂町の僕の宅へ始て見えた。 『小説神髄』を持参して、一々 質問が始まつた。 見ると、大概 二三枚置に朱唐) ( 紙がいくらも貼つてある。 夫を出して、極 謙遜な、さりとて卑屈らしい様子は少しもなく、極 穏かな調子で、一々 質問が始まつた。 本来『小説神髄』と云ふ著述は、僕が在学中の 徒ら書も同然、始めは 世に出す積でもなかつたのが、友人に勧められ、後に修正して出したもの。 審美学などは一冊も読んだことなく、真) ( の寄せ集めの浅薄な議論、それを長谷川君は 露西亜仕込ベリンスキイの審美論を真向に振りかざしての質問、一太刀二太刀は受けもしたが、三太刀目には いつも たぢたぢ大敗北。 しかも 同君の態度の奥ゆかしさ、真に敬服して教へを聞いた其の頃は、確か 一週間に一度位は 少くとも逢つてゐたかと記憶する。 未だいくらも話しがあるが、今日はもう 堪忍して置いてくれ給へ。)
〔 明治四二年五月一六日 「東京朝日新聞」 〕
主人(二葉亭)の平生に就て 私の悲しき思ひ出*スペース*
長谷川 柳子*スペース*
長谷川が露国( に参りましたのは 昨年の六月でしたが、余り消息) ( を仕ませんでしたので、只 忙しいからとのみ思つてゐました。 今年一月七日、露国では歳暮のクリスマスだと申しまして 手紙を寄越しました。 其れに、此頃は神経衰弱で夜間三時間とは眠れない、子供は如何してゐると 書いてありました。 三月十四日には 病気 帰つてもよいかと社の方に言ふて寄こしましたさうで、社では坪内さんに御知らせ下さつたさうですが、恰度『露都雑感』が「朝日」に載りました。 十八日、家では 之が出るやうでは身体も快) ( いのだらうと 悦んでをりました時、坪内さんから病気とのお知らせを受けて 驚きました。)
病院に子供の写真 それから間もなく来ました手紙に、此方から送つた子供の写真が病院に届きましたので、門番の婆さんが大急ぎで持つて来て呉たさうで、二人の子供の写真を見て、お前達は健坊が変つた変つたと言ふて寄越したが、富継
( の方が余程 変つたではないかと書いて、私の病気は余り煙草を喫んではいけぬと医者が言ふので、八歳の時から喫んで あれだけ好きな煙草を止めてをると 附言) ( てあるので、可哀想でした。 其次の手紙には、「熱が激いので 身動きが出来ぬ。 再び日本の土は踏めないかも知れぬが、万里を踏出して 病気で帰るのは残念だ」と書いてありました。 倫敦) ( までは 露国で懇意になつた友人が送つて下すつたので、非常に救かつたさうですが、倫敦から来た端書に 「お前達にも直き遇へる。 併し 途中が疑問だ。 言ひたい事は沢山あるが、書けない。」 と書いてありました。 馬耳塞) ( から絵葉書で、「只今 マルセイユ着」と書いて寄越したのが 絶筆でした。)
原稿も日記も焼く 筆無精で、あまり書かない性
( でしたが、原稿も余程 御座いましたし、其れから、日記も続けては書きませんでしたが、子供の遊んで余念のない状) ( を見たり、平素 大好きな動物の事や、雪の降た日の感想や、又 折にふれて歌を詠みなどしたのを 書きつけて置いたものも、長い間の事ですから 大分ありましたが、出立の時に「こんなものは要らん」と言つて、破つてしまひました。 今になつては、実に惜しう御座います。)
非常な子供好き 夜は 十二時より早く寝たことは 御座いませんでした。 床に入つても 二時頃まで眼が醒めてゐますので、朝は十一時頃でなくば起きません。 午後は 来客が常に御座いますので、筆を執るのは夜間の外 ありませんでした。 朝飯は大抵 喰べませんし、夕食なども子供と一緒では騒しいので、自分一人で喰べましたから、家族と一緒に談話する時は、尠
( なう御座いました。 併し 退屈すると子供と遊ぶのが好きで、子供に頭を打たれても 肩に乗られても 黙つてをつて、「誰れにも打たれたことのない頭だが、此児) ( にあつては 敵はない」と 能く笑ひました。)
飲食物の嗜好 酒は 全たく飲めず、その代り 甘いものは大好きで、普通の餅菓子では気に入らず、一番甘いものをとの望みで、甘い菓子を選んでは 毎晩書斎に持つて往くのを 例としました。 お茶も非常に好きで、十時過ぎに子供が寝静つた頃、お茶を煎れて持つて往きますと、自分の書いて居るものに就て 種々談話を仕てくれましたが、別段 快活に話して笑ふやうな事は御座いませんでした。 煙草は非常に好きで、喫まないでも左の手に煙草を持つてゐないと、筆も執れない程でした。
犬と猫を可愛がる 其の他 好きなのは犬と猫で、西片町に住んでゐました時、隣家の犬が子を生んで 其の小狗が一匹残つて大切にして、自分の飲むべき牛乳を 珈琲茶碗に三分の一も残しておいて、其れを飲せねば承知しないのです。 その小狗を 私が「マル」と呼んでゐたので、出かける時には何時でも 「マル頼む」と言つて出かけました。 其頃 恰度あの『平凡』を書いてゐましたので、彼
( の中にある犬の事は、事実でないでせうが、其れから想像したものかも知れません。 其れから 十三年飼つてゐました牝猫が 見えなくなつてしまつたのが、恰度『其の面影』を書いてゐました時で、毎日 原稿を書いてしまつては、其猫を捜しに出ましたが、見つかりませんでした。) 〔 明治四二年五月二三日 「東京朝日新聞」 〕
終