らんだむ書籍館


表紙




目 次


 明治期のヒューマニズム      岡  邦雄
  ― ヒューマニストとしての啄木 ―

 啄木の詩歌と個人主義思想の問題  窪川鶴次郎

 啄木の発展            小田切秀雄
  ― 批評家および作家としての成長 ―

 啄木の日記            桑原 武夫

 ユニオン会と啄木         小澤 恒一

 青年教師としての啄木       上田庄三郎

 人生への愛情           石垣 綾子

 啄木についての雑感        土岐 善麿

 「あこがれ」 反響
 「一握の砂」 反響
 「悲しき玩具」 反響


 啄木の人と生活 (座談会)
  〔語る人〕
  桑原 武夫、 中野 重治、 石母田 正
  野村 胡堂 (啄木中学時代の上級生)
  金田一京助 (啄木中学時代の上級生)
  秋田 雨雀 (啄木晩年の友人)
  柴内栄治郎 (啄木中学時代の上級生)
  石川 正雄 (啄木女婿)
  〔司会〕
  斎藤 三郎



 啄木関係地図
 小伝
 年譜



啄木全集・別巻
「啄木案内」


 昭和29 (1954) 年6月 第1刷、 岩波書店。
 新書版、クロース装。 本文 235頁。


 啄木全集は、岩波書店が 昭和28 (1953) 年から 29 (1954) 年にかけて、 「二葉亭全集」と同時併行的に刊行した、石川啄木(本名:一(はじめ)、明治18(1885)〜明治45(1912))の全集(16巻)である。
 この 「啄木案内」 も、二葉亭全集の「二葉亭案内」 と同じく , その別巻として制作されたものである。 これも 装幀・造本等は全集各巻と全く同じで、表紙の右上には やはり線描の啄木肖像が箔押しされている。
 口絵写真として、「呼子と口笛」原稿 が掲げられているが、不鮮明で、画面では判読困難のため、割愛した。

 本書の 「一部紹介」 としては、目次中の「ユニオン会と啄木」の前半を掲げる。 (「」〜「」の5章のうちの「」まで。)
 10 代後半頃からの 同級生の眼に映じた、才気煥発の啄木の姿 が描かれている。





本文の一部紹介

ユニオン会と啄木*スペース*

小澤 恒一*スペース*


     
 啄木や私どもが盛岡中学に入学したのは、明治三十一年四月であった。 その頃のクラス編制は 身長順によったもので、私どもは小さい者の集りである 丙組であった。 啄木も私も 追々身長は伸びた筈であるが、いつも小さい者のクラスに編制され、それが五年まで続いた。 啄木は クラスの中でも何かと目立つ方であったから 一年の二学期頃から親しく話し合うようになったが、下宿に訪ねて話すようになったには 三年になってからであった。 恰度 日清戦争の後で、富国強兵の華やかな頃であり、盛中の生徒のうちには軍人熱が盛んであり、その人達は 修養団というグループを造っておった。 啄木も一二年の頃は このグループの一人で、及川古志郎さんに可愛がられたもので、私どもがそれがうらやましく、「石川君は及川さんのPだ」とひやかしたものであった。

  軍人になると言ひ出して
  父母に
  苦労させたる昔の我かな

  うつとりとなりて、
  剣をさげ、馬にのれる己が姿を
  胸に描ける          (啄木)

 二年の頃、啄木が主になって 「爾伎多麻」という同人雑誌を造り、級友に回覧したことがあったが、三号位で中止してしまった。 今 思うと「爾伎多麻」というのは 和魂にぎたま のことで、及川古志郎さんの級友に 吉田初五郎氏や、私の従兄 小澤 永治があり、「古事記」の研究をしておったから、「爾伎多麻」という名称は 多分 及川さんあたりにつけてもらったのであったろうとおもわれる。 ところで、啄木にすすめられて 私も蘇峰の「日曜講壇」をまねたような感想録を書いたが、体操の教師の批評めいたことを書いたというので、クラス担任の富田先生に 教員室に呼び出されて、注意をうけたことがあった。

     
 三年の頃、 土着の教師と外来の教師のあつれきが導火線で ストライキが起り、英語の教師が三人とも欠員となった。 そこで 英語の学力が低下しては 上級学校への入学も出来なくなるというので、啄木が音頭取りになって 級友五人が集って 英語の自習をすることになった。 学校では「ナショナルリーダァ」を用いておったが、それより程度の高い「ユニオン・リーダァ」をやることになり、しかも三年用ではもの足りないから、「ユニオン・リーダァ」の四をやることにした。 負けん気の啄木の面目が この頃から躍如としておった。 「ユニオン・リーダァ」の勉強をすることから、「ユニオン会」と名づけて、それが 第二学期から第三学期の冬の頃まで継続した。 会員は 級長の阿部修一郎君、副級長の小野弘吉君、自由党の代議士 伊東圭介の息・伊東圭一郎君、それに 啄木と私の五人であった。 啄木も 高等小学校は盛岡であったから、純粋の田舎ものは 私だけであったわけで、啄木の推薦によって 田舎ものの私が「ユニオン」会員に加えてもらったのは、今思うと 甚だ光栄であったわけである。
 「ユニオン・リーダァ」を順番に一章ずつ自習して、音読と訳読をし、ほかのものには自由に質問するということにしたが、訳読するだけが精一杯で、とても質疑応答までの余裕がなかったが、それでも負けん気の青年達は義務としてこれを継続し、とにかく一章の訳読すましてから自由に雑談し、茶菓を頬張ることにした。 阿部君は その頃から常識家で蘇峰の愛読者であり、伊東君は政治に興味があり、民友社ものを よく読んで居った。 啄木と私は 思想的なものから文芸物を広く読みあさるようになった。 前にも述べた私の従兄小澤永治が文学青年で そのため学習が片寄り 三年の頃 落第したらしく、及川、吉田両君とも親しく交わり、露伴、浪六、蘆花、紅葉等の創作物をもっており、私も同居しておったところから、かかる文芸物を読む機会をもった。 しかし私自身は 文学より思想の方に興味がかたよって居ったから、小説を読んでも「何故にかかる事件が発生するのであろうか」と考えてみることに興味をもっておった。
 五人の青年が 毎週土曜の晩に各自の勉強室に順番に集まって、分担の訳読一章をすますと、一週間に読んだ新聞、雑誌の出来事についての自由な感想から 勝手な批評、伝記物や小説や評論や、読みあさったものについて 怪しげな気焔をあげたものであった。 夜の更けるのも忘れて談り合い、やがて帰路につくのは午前一時頃であったろうか、何処の家も戸をしめて、人通りのない静かな、凍りついた路を からころ下駄音をたてて。各自の家に帰ったものであった。

  その後に我を棄てし友も
  あの頃は共にふみ読み
  共にあそびき          (啄木)

 三十四年の早春、新山小路しんざんこうじの宿に 啄木を訪ねたことがあった。 姉さんの家で、啄木の室は二階にあり、二人だけでいろいろ談り合ったが、その時 節子さんとの恋物語を打ちあけられた。 私は恰度、樗牛の「滝口入道」を読んでおった頃であったから、この話を至極 真面目なものとして謹聴し、お互自重すべきことをすすめて、他のユニオン会員にも絶対秘密を守ることを誓った。 帰るとき、啄木は わざわざ私を送って来て、垣根越しに節子さんの家を知らせてくれたものであった。

  わが恋を
  はじめて友にうち明けし よるのことなど
  思ひ出づる日          (啄木)

     
 東北の青年には珍しい、快活で社交的な啄木は 恋を知ることも早く、恋を知ると 精神的な「メタモァポーヂス」(蝉脱性)が起り、文学的才能が急に芽を吹き出して来た。 二年上級の金田一京助氏から「明星」を借りて読んだのが縁で、「明星」の愛読者となり、詩作に耽るようになった。 何回か投書しても 最初は没書されたらしいが、四年の第二学期になって 漸く短歌が載り、次ぎに長詩が載るようになった。 啄木という雅号も 啄木のことを歌った彼の短歌にちなんで 鉄幹からもらったもので、非常に得意気な様子であった。 一年下級の 小林茂雄、岡山儀七、瀬川深等の諸君を集めて 白羊会という短歌会を作っており、或る時 私を誘って 田圃の中の閑静な 明宣庵とかいうところの短歌会に つれて行ったことがあった。 その頃 私は 金子元臣の「古今集評釈」ぐらいを読んだ程度で、明星派の短歌などには少しも親しみがなかったので 至極閉口して、啄木が良くないことをする男だと 衷心甚だ不満であった。 歌作をしなくてもよいから評点だけに加わってくれと言われて 無理矢理 参加させられたがが、今思っても 甚だ気まづい感じのするものであった。
 かくて 四年頃から六年頃にかけて、啄木の学習は非常に片寄り、数学の宿題などは怠けるようになり、化学の実験などにも欠席勝ちであった。 そんなことで 担任の教員からも二三度 注意をうけたことがあったのであろう。

  師も友も 知らで責めにき
  謎に似る
  わが学業のおこたりのもと          (啄木)

 五年の第二学期になり、上京すると言出して、その理由は何も説明してくれなかったが、兎に角、送別会を開き、ユニオン会員五人が揃って 記念に写真をとった。 夕方 盛岡の駅に見送ったが、その時 ホームの柱の蔭に人知れず、若い女性が何時までも名残り惜しげに見送っておったが、あれは 節子さんであったらしい。
  〔後略〕




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