らんだむ書籍館 |
![]() |
表紙 |
目 次
明治期のヒューマニズム 岡 邦雄 ― ヒューマニストとしての啄木 ― 啄木の詩歌と個人主義思想の問題 窪川鶴次郎 啄木の発展 小田切秀雄 ― 批評家および作家としての成長 ― 啄木の日記 桑原 武夫 ユニオン会と啄木 小澤 恒一 青年教師としての啄木 上田庄三郎 人生への愛情 石垣 綾子 啄木についての雑感 土岐 善麿 「あこがれ」 反響 「一握の砂」 反響 「悲しき玩具」 反響 啄木の人と生活 (座談会) 〔語る人〕 桑原 武夫、 中野 重治、 石母田 正 野村 胡堂 (啄木中学時代の上級生) 金田一京助 (啄木中学時代の上級生) 秋田 雨雀 (啄木晩年の友人) 柴内栄治郎 (啄木中学時代の上級生) 石川 正雄 (啄木女婿) 〔司会〕 斎藤 三郎 啄木関係地図 小伝 年譜 |
本文の一部紹介 |
ユニオン会と啄木*スペース*
小澤 恒一*スペース*
一
啄木や私どもが盛岡中学に入学したのは、明治三十一年四月であった。 その頃のクラス編制は 身長順によったもので、私どもは小さい者の集りである 丙組であった。 啄木も私も 追々身長は伸びた筈であるが、いつも小さい者のクラスに編制され、それが五年まで続いた。 啄木は クラスの中でも何かと目立つ方であったから 一年の二学期頃から親しく話し合うようになったが、下宿に訪ねて話すようになったには 三年になってからであった。 恰度 日清戦争の後で、富国強兵の華やかな頃であり、盛中の生徒のうちには軍人熱が盛んであり、その人達は 修養団というグループを造っておった。 啄木も一二年の頃は このグループの一人で、及川古志郎さんに可愛がられたもので、私どもがそれがうらやましく、「石川君は及川さんのPだ」とひやかしたものであった。
軍人になると言ひ出して
父母に
苦労させたる昔の我かな
うつとりとなりて、
剣をさげ、馬にのれる己が姿を
胸に描ける (啄木)
二年の頃、啄木が主になって 「爾伎多麻」という同人雑誌を造り、級友に回覧したことがあったが、三号位で中止してしまった。 今 思うと「爾伎多麻」というのは 和魂 のことで、及川古志郎さんの級友に 吉田初五郎氏や、私の従兄 小澤 永治があり、「古事記」の研究をしておったから、「爾伎多麻」という名称は 多分 及川さんあたりにつけてもらったのであったろうとおもわれる。 ところで、啄木にすすめられて 私も蘇峰の「日曜講壇」をまねたような感想録を書いたが、体操の教師の批評めいたことを書いたというので、クラス担任の富田先生に 教員室に呼び出されて、注意をうけたことがあった。
二
三年の頃、 土着の教師と外来の教師のあつれきが導火線で ストライキが起り、英語の教師が三人とも欠員となった。 そこで 英語の学力が低下しては 上級学校への入学も出来なくなるというので、啄木が音頭取りになって 級友五人が集って 英語の自習をすることになった。 学校では「ナショナルリーダァ」を用いておったが、それより程度の高い「ユニオン・リーダァ」をやることになり、しかも三年用ではもの足りないから、「ユニオン・リーダァ」の四をやることにした。 負けん気の啄木の面目が この頃から躍如としておった。 「ユニオン・リーダァ」の勉強をすることから、「ユニオン会」と名づけて、それが 第二学期から第三学期の冬の頃まで継続した。 会員は 級長の阿部修一郎君、副級長の小野弘吉君、自由党の代議士 伊東圭介の息・伊東圭一郎君、それに 啄木と私の五人であった。 啄木も 高等小学校は盛岡であったから、純粋の田舎ものは 私だけであったわけで、啄木の推薦によって 田舎ものの私が「ユニオン」会員に加えてもらったのは、今思うと 甚だ光栄であったわけである。
「ユニオン・リーダァ」を順番に一章ずつ自習して、音読と訳読をし、ほかのものには自由に質問するということにしたが、訳読するだけが精一杯で、とても質疑応答までの余裕がなかったが、それでも負けん気の青年達は義務としてこれを継続し、とにかく一章の訳読すましてから自由に雑談し、茶菓を頬張ることにした。 阿部君は その頃から常識家で蘇峰の愛読者であり、伊東君は政治に興味があり、民友社ものを よく読んで居った。 啄木と私は 思想的なものから文芸物を広く読みあさるようになった。 前にも述べた私の従兄小澤永治が文学青年で そのため学習が片寄り 三年の頃 落第したらしく、及川、吉田両君とも親しく交わり、露伴、浪六、蘆花、紅葉等の創作物をもっており、私も同居しておったところから、かかる文芸物を読む機会をもった。 しかし私自身は 文学より思想の方に興味がかたよって居ったから、小説を読んでも「何故にかかる事件が発生するのであろうか」と考えてみることに興味をもっておった。
五人の青年が 毎週土曜の晩に各自の勉強室に順番に集まって、分担の訳読一章をすますと、一週間に読んだ新聞、雑誌の出来事についての自由な感想から 勝手な批評、伝記物や小説や評論や、読みあさったものについて 怪しげな気焔をあげたものであった。 夜の更けるのも忘れて談り合い、やがて帰路につくのは午前一時頃であったろうか、何処の家も戸をしめて、人通りのない静かな、凍りついた路を からころ下駄音をたてて。各自の家に帰ったものであった。
その後に我を棄てし友も
あの頃は共に書( 読み)
共にあそびき (啄木)
三十四年の早春、新山小路( の宿に 啄木を訪ねたことがあった。 姉さんの家で、啄木の室は二階にあり、二人だけでいろいろ談り合ったが、その時 節子さんとの恋物語を打ちあけられた。 私は恰度、樗牛の「滝口入道」を読んでおった頃であったから、この話を至極 真面目なものとして謹聴し、お互自重すべきことをすすめて、他のユニオン会員にも絶対秘密を守ることを誓った。 帰るとき、啄木は わざわざ私を送って来て、垣根越しに節子さんの家を知らせてくれたものであった。)
わが恋を
はじめて友にうち明けし 夜( のことなど)
思ひ出づる日 (啄木)
三
東北の青年には珍しい、快活で社交的な啄木は 恋を知ることも早く、恋を知ると 精神的な「メタモァポーヂス」(蝉脱性)が起り、文学的才能が急に芽を吹き出して来た。 二年上級の金田一京助氏から「明星」を借りて読んだのが縁で、「明星」の愛読者となり、詩作に耽るようになった。 何回か投書しても 最初は没書されたらしいが、四年の第二学期になって 漸く短歌が載り、次ぎに長詩が載るようになった。 啄木という雅号も 啄木のことを歌った彼の短歌にちなんで 鉄幹からもらったもので、非常に得意気な様子であった。 一年下級の 小林茂雄、岡山儀七、瀬川深等の諸君を集めて 白羊会という短歌会を作っており、或る時 私を誘って 田圃の中の閑静な 明宣庵とかいうところの短歌会に つれて行ったことがあった。 その頃 私は 金子元臣の「古今集評釈」ぐらいを読んだ程度で、明星派の短歌などには少しも親しみがなかったので 至極閉口して、啄木が良くないことをする男だと 衷心甚だ不満であった。 歌作をしなくてもよいから評点だけに加わってくれと言われて 無理矢理 参加させられたがが、今思っても 甚だ気まづい感じのするものであった。
かくて 四年頃から六年頃にかけて、啄木の学習は非常に片寄り、数学の宿題などは怠けるようになり、化学の実験などにも欠席勝ちであった。 そんなことで 担任の教員からも二三度 注意をうけたことがあったのであろう。
師も友も 知らで責めにき
謎に似る
わが学業のおこたりの因( (啄木))
五年の第二学期になり、上京すると言出して、その理由は何も説明してくれなかったが、兎に角、送別会を開き、ユニオン会員五人が揃って 記念に写真をとった。 夕方 盛岡の駅に見送ったが、その時 ホームの柱の蔭に人知れず、若い女性が何時までも名残り惜しげに見送っておったが、あれは 節子さんであったらしい。
〔後略〕
終