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目 次


   序文
   序言

   第一章 葡萄牙人の日本発見
   第二章 フランシスコ・ザビエーの日本布教
   第三章 九州に於ける耶蘇教と貿易
   第四章 耶蘇教の京畿進出
   第五章 天正遣欧使節
   第六章 秀吉の海内統一と対耶蘇教政策
   第七章 遣欧使節の帰朝とその影響
   第八章 秀吉の対外政策
   第九章 日蘭関係の起源
   第十章 日西通称関係
   第十一章 日葡貿易の中絶と再開
   第十二章 日英関係の開始
   第十三章 耶蘇教禁圧の苛重
   第十四章 英吉利商館の上振
   第十五章 慶長遣欧使節
   第十六章 日西関係の断絶
   第十七章 英吉利商館の閉鎖
   第十八章 台湾に於ける日蘭の衝突
   第十九章 再開後の日葡関係と鎖国令
   第二十章 解禁後の日葡貿易
   第二十一章 日葡関係断絶と投銀
   第二十二章 和蘭商館の長崎移転
   第二十三章 日本人の海外発展

   年表
   索引


幸田成友 「日欧通交史」

 昭和17 (1942) 年6月、 第1刷発行、 岩波書店。
 A5版、クロス装。 本文 490頁。


 幸田成友(明治6(1873) ~ 昭和29(1954))は、歴史学者。 幸田兄弟は、千島列島探検家の郡司成忠(次兄)、文学者の幸田露伴(季兄)、音楽家の幸田延(姉)と安藤幸(妹)など、華やかな秀才揃いで知られるが、この人だけは やや風尚を異にし、地味で堅実な一学究として終始した。
 成友は、明治29(1896)年 東京帝国大学史学科を卒業後、同大学院を経て、明治34(1901)年 大阪市史編纂主任となり、以後42(1909)年まで その任にあった。 市史の編纂作業は史料の収集から始められ、それを分析・整理してまとめあげた。 (この「大阪市史」は、明治44(1911)年から大正4(1915)年にかけて刊行された。 本文6冊・付図1冊・索引1冊の計8冊からなるもので、その後の地方史の範となった。) 商業都市 大阪の市史を完成させたことは、日本経済史全体に関する学殖を深めることとなり、その方面の専門家として重んじられることとなった。 専著として「日本経済史研究」(昭和3(1928)年)があり、関連書として「江戸と大阪」(昭和9(1934)年)がある。
 大阪市史編纂の業を終えた後、一時 京都帝国大学文科大学の講師を経て、明治43(1910)年 慶應義塾大学教授となり、以後34年間その任にあった。 また、東京商科大学(現・一橋大学)にも出講し、これら両大学に受業者を持つこととなった。
 これら教職にあった間の 昭和3(1928)年、既に55歳の成友は、文部省在外研究生としてヨーロッパに赴いた。 大学の史学科ではドイツ人講師・リースに師事し、また学業の傍ら 兄・露伴の名で英訳書を出しているので、語学には堪能であったと思われるが、オランダ語は50歳代で初めて修得したという。 留学先は オランダのハーグで、その地の文書館の充実ぶりに驚嘆し、貴重史料の渉猟に没頭したらしい。 ハーグ滞在中、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、ポルトガル、フィンランド、スウェーデン、ギリシア、トルコなどの各国を訪問したが、それも史料探訪が目的であったという。 この留学の成果を集約した主著とも言うべきものが、本書「日欧通交史」(昭和17(1942)年)である。
 本文は、「である」体と「です・ます」体が混在しているため、やや厳密さを欠く印象もあるが、講義の語り口を髣髴とさせるような、非常に丁寧な叙述である。

 本書の 「一部紹介」 としては、目次中の「第五章 天正遣欧使節」 を掲げる。
 使節がローマに到着した日の翌日、早くも 教皇・グレゴリオ十三世に公式謁見した光景は、特に生き生きと再現されていて、成友なりの名文である。



内容の一部紹介




第五章 天正遣欧使節


 かく日本に於ける耶蘇会の布教組織を定めたことは バリニヤノ(Alessandro Valignano,1539~1806)の大きな功績ですが、それに劣らぬ功績は 九州の三大吊 大友・有馬・大村の三家に説き、使節をローマ教皇の許に派遣せしめたことである。 以前 ベルドナルドといふ者が欧羅巴へ行つたことを述べましたが、あれは個人として行つたので、今度はそれと違ひ、堂々と日本の三大吊を代表して欧州に使し、教皇に公式謁見を遂げたのでありますから、事件も大きければ 影響も大きい。 古くは グヮルチェリの記録がありますが、明治六年 岩倉大使の一行が伊太利のベニスで、三百年前の使節一行から同市に宛てた日本文の文書を見られ、爾来 東西の学者の新しい研究が行はれ、近年は何人と雖も 事実の大要を心得て居るやうになりました。
 使節は、正使として 伊東マンショ(満所)・千々石ミゲル(彌解留)、副使として 中浦ジュリアン(寿理安)・原マルチノ(丸知野) 都合四人で、括弧内の漢字は 彼等自身が教吊に宛てた漢字です。 家系を捜すと、以前は 伊東マンショを以て 日向の都於郡城主 伊東義祐の孫・義賢ヨシカタに充てましたが、近頃は外孫・祐益スケマスといふ説があります。 義祐の子・義益は 大友宗麟の孫娘と結婚して義賢を生んでゐますが、祐益は義益の異腹の妹と一族・伊東祐青スケキヨとの間に出来た子で、大友家と血縁はない。 若しマンショが祐益だとすれば、彼は義祐が嫡孫・義賢を伴ひ、一五七七年の暮、日向を落ちて大友家に頼る際、同行したものと見るより外はありません。 兎に角 伊東マンショが大友家の使者、それから 千々石ミゲルは有馬義直 及び 大村純忠の弟に当る千々石直員ナホカズの子で、やはり直員と称し、晴信とは従兄弟の間柄、これが有馬・大村両家の使者、中浦ジュリアンは 肥前 中浦の産、中務ナカツカサといつたらしく、また 原マルチノは 同波佐見ハサミの産 とある外、委しいことは分りません。 伊東は十三歳、中浦は十二歳、千々石と原との年齢は判然しないが、これも少年であつたらうと推察せられる。
 バリニヤノが遣欧使節を勧誘した目的は 二つある。 (一)ローマ教皇並びに葡萄牙王に敬意を表し、更に将来の援助を請ひ、日本における伝道事業を直接に盛大ならしめること、(二)日本人をして欧州における耶蘇教文物の盛大なるを目撃せしめ、帰国後彼等の吹聴によつて 布教事業を間接に隆盛ならしめることにあつた。 また 使節に少年を選んだことは、彼等が 年長者に比して 能く長途航海の困難及び気候風土の変化に堪へ得るからであつた。
 四人の外に 日本人の神弟ジョルジュ・ロヨラ 及び 氏吊上詳の従者二吊、計七吊は 葡萄牙生れの神父で日本語を能くする ヂェゴ・デ・メスキッタを通訳とし、バリニヤノ嚮導の下に 一五八二年二月廿日 長崎を発した。 ゴアに着いて見ると、ローマの耶蘇会本部から手紙があつて、バリニヤノはその儘 インドに残ることとなり、神父ヌニヨ・ロドリゲスが之に代つた。 一行ゴア到着の光景を 航海家として著吊なリンスホーテンが目撃記述しているのは 面白いことです。 一行は 一五八四年八月十日 リスボンに上陸し、それから葡萄牙・西班牙を通り、アリカンテから船に乗つて伊太利のリボルノに渉り、さうしてローマに入つたのですが、以上三国では 多くの場所で凱旋将軍の如き歓迎を受けた。 殊に著しかつたは エボラの大僧正テオトニオ、ビラ・ピラーザのプラガンザ公、マドリッドに於けるフィリップ二世、ピザに於けるトスカナ大公 の歓迎であつた。 フィリップは 本来 西班牙王であるが、一五八一年以来 葡萄牙王を兼ねてゐるので、使節は謁見の歳 本国から持参した書面と贈物とを上つた。 西班牙は只今は共和国ですが、自分が旅行した時はまだ王政時代で、王宮の正面へ向つて左手の武器庫の壁に、日本の具足が三領 蟹を張つたように掛けられ、使節が記念のために残したといふ説明が付いてゐましたが、これは余りあてになりません。 その武器庫も 先年の内乱でどうなりましたか。
 一行がローマに入つたは 一五八五年三月廿二日、耶蘇会第五代会長クラウヂオ・アクワビバは 門弟二百人を率ゐて本部の玄関に一行の幌馬車を迎へ、次いで北隣のエス会堂で感謝の祈祷を捧げた。 三年一月二日を費し、万里の波濤を凌いで目的地に達したのですから、一行は固より 之を迎ふる側でも、衷心から神の恩寵を謝したも 無理はありません。 中浦の如きは 伊太利に入つてから熱病に罹り、まだ全治しないので 退席休養を勧められたが、彼も最後まで式に列しました。 ロヨラの遺骸、ザビエーの片腕、日本殉教者図三面は このエス会堂に現存してゐます。
 当時の教皇を グレゴリオ十三世といふ。 バリニヤノは 教皇に日本使節の内謁見を出願したのですが、教皇が御承知にならない。 極東の地から遙々 耶蘇教徒の代表者が来たといふは 世界的な事件である、宜しくその真価を発表する要ありとし、ローマ到着の翌日 公式謁見を賜はることとなつた。
 ローマの北の入口に ポポロ門といふのがある。 三月廿三日 一行は 其処から繰出した。 行列の先頭は 教皇の騎兵隊、続いて瑞西兵の守備隊、それから 教皇庁の諸役人・使節・通訳・多数の貴族紳士といふ順序で、喇叭 太鼓の音に歩調を合せ、堂々として行進した。 中浦は病気のため馬車で先着したが、残る三人の使節は 日本風の衣朊に大小を帯し、司教・大司教の間に挟まれて行く。 街路広場には 見物 蟻の如く集り、家々の窓やバルコニーは 人の頭の鈴成であつた。 コルソー大通を南に エス会堂の前を西に、今のピットリオ・エマヌエレ通の裏をアンジェロ橋に達すると、橋向うのアンジェロ城で祝砲を発し、バチカン宮からも大砲を打出した。 砲声殷々たる中を 行列はサン・ピエトロ寺に達し、正面右側の入口を入つて サラ・レギアに達した。 サラ・レギアとは 帝王の間 の意味です。 使節は進んで教皇の前に至り、跪いてその足に接吻するや、教皇は身を屈して、これを助け起し、抱擁して額に接吻を施した。 正使二吊はメスキッタの通訳によつて 簡単に使命をを述べ、次に豊後王・有馬王・大村王の書状の伊太利語訳文が 書記官によつて高声に朗読せられ、耶蘇会員ガスパル・ゴンサレスの演説、教皇代理アントニオ・ボッカブリの答辞あり、使節は再び跪いて教皇の足に接吻し、教皇これを抱擁すること最初の如く、これにて式を終つた。 八十三歳の老教皇と雲鬢花顔の少年貴公子との劇的会見に、主客は言ふに及ばず、満座皆 感激落涙したといふ。
 三侯から教皇及びに西班牙王フィリップ二世に上つた書状の原本は 行衛上明であるが、訳文は残つてゐます。 西班牙王宛の分は 実は葡萄牙王宛であつたものを、使節出発後 葡萄牙王が死んで、西班牙王が同国王を兼ねるやうになつたので、流用したものです。 之に反して 耶蘇会総長クラウヂオ・アクワピバ 及び カーヂナル・ファルネーゼ宛の分は 幸に原本が存在してゐる。 原文には 大友宗麟を豊後屋形 上龍獅子虎フランシスコ、有馬晴信を有馬十郎晴信 鈊保路多志与ドンプロタシオ、大村純忠を大村丹後守純忠鈊波留都路銘ドンバルトロメオ と記し、耶蘇会総長を世主子今波仁安是羅留ゼススコンパニヤゼラル尊老、カーヂナル・ファルネーゼを賀留伝阿類カルデアール大尊公ハル と記してある。 世主子今波仁安は 耶蘇会、是羅留は 総長、留伝阿類は カーヂナルの発音を漢字に写しただけ、また 春は ファルネーゼの ファルだけを写したものである。 以上六通中 カーヂナル宛大村純忠の書状が 今 京都帝国大学文学部の所蔵に帰してゐるのは 稀有の因縁と言はねばなりません。 以上の六通は 文字こそ違へ、内容は 所謂 信任状に当ります。
 使節から教師に対する献上品中、「印度の竹で作つた書棚《 「細かい彫刻のある机《とあるはどんなものか、一寸 想像が付きかねる。 それから 屏風一双、信長から嘗てバリニヤノに与へられたもので、安土城と安土の城下とが 日本画家によつて立派に描かれてゐるといふ。 教皇は大いに悦び、早速画廊に陳列せよと命ぜられたが、この屏風は 今 残つてゐません。
 「おゝ神よ、今や汝の僕をして 安らかに去らしめ給へ《とは、謁見式当日 退席の際、教皇の発した言葉であつた。 さうして その言葉の通り、教皇の長逝を報ずる悲しい鐘の音が 全市に鳴響いた(四月十日)。 瀕死の教皇が 最後の呼吸を引取る直前まで 中浦の病状を尋ねられたことは、使節一行に対する 教皇の慈愛と心労とを証するものといへます。
 グレゴリオに代つて教皇に選挙せられたのが シスト五世です。 シストが ラテラン寺に参詣せられた時、日本の使節は行列の中に加はつた。 その光景を描いた壁画が、今 バチカン博物館のシスト五世の室といふのにあります。 新教皇が使節を引見した時(四月廿七日)、使節はその機会をを利用して 母国の伝道のために教皇の援助を請願し、詳細は耶蘇会総長から言上すべしと申添へた。
 当時 総長の心を悩ました三つの問題がある。 第一は 日本に於ける欧羅巴人牧師の増加であるが、これに関聨して厄介な問題は、耶蘇会員の外、他の団体に属する者 或は何等の団体に属せざる者の渡来を 認むべきや否や である。 第二は 日本人の教師を養成すること 並びに その根本たるセミナリヨの維持に要する資金の援助で、以上二問題については バリニヤノから耶蘇会へ宛て、一五八〇年から翌年に亙る 日本在留教師の会議の結果を報告してゐる。 第三は 日本伝道の開祖 フランシスコ・ザビエーを福者に列することで、これは大友義鎮からバリニヤノに対し、既に書面を以て再三請願に及び、バリニヤノも勿論 賛成を表してゐた。
 第一の問題につき、グレゴリオ十三世は 本年一月廿八日の勅令 ≪Ex Officio Pastrali≫を以て、耶蘇会に属せざる教師が日本に渡つて布教に従事することを禁じ、背く者は破門に処すと命ぜられ、また 第二のセミナリヨ維持につきては、毎年 四千ヂュカットを扶助する旨を承認せられた。 但し 第三のザビエー贈諡の件は 下調査に長時間を要するがため 延期となつたが、その代り 使節は ザビエー及び初代総長イグナシウスの仲間として生き残つてゐる ニコラオ・ポバヂラに面会し、聊か 自ら慰むる所があつた。
 シスト五世は 前教皇同様 恩恵を垂れた。 則ち セミナリヨ維持費として 二千ヂョカットを増加したのみならず、別に三千ヂョカットを出して 使節帰国の旅費とし、豊後・有馬・大村三侯への答書を認め、十字架の遺物レリギエ三箇・銀装の剣二口・天鵞絨の帽子二個 を賜はつた。 この十字架は 耶蘇の鮮血を染めたもの、剣と帽子とは 欧州列国の国王に与へられるもの、大友と有馬とを王とし、大村を侯と認め、前二者にだけ与へられた。 それから 使節を「金の拍車の騎士《に任じ、拍車授与式を挙げ、教皇手づから 菌の鎖を四騎士の頸に掛け、またローマ市からは 彼等に公民権を与へた。 かくて彼等は 一五八五年六月三日 ローマを去つて 葡萄牙に向つた。
 グレゴリオ十三世が 日本使節に公式謁見を賜はつたことは 欧州列国の耳を欹てしめた。 三侯の書状・ゴンザレスの演説・ボッカバヅリの答辞 を集めた謁見記録が出版せられるや、その重版は勿論、各国語の翻訳、また それに日本の記事や使節の旅行記事を加へたものは 続々として公刊せられ、墺地利皇帝ルードルフ二世、仏蘭西王アンリー三世 その他からの公式招待は 踵を接して 使節の許に達した。
 使節の帰路は 凱旋式に比すべきものであつた。 沿道の都市と君侯とは 各種の歓迎及び接待を行ひ、信仰厚き人民の感激は 無限であつた。 鐘を鳴らし、凱旋門を建て、また 鍵を渡す市もあれば、或は 跪いて使節に敬意を表し、或は 敬慕のあまり、その衣服に接吻する男女もあつた。 就中 ベニスでは 満船飾り立てた無数のゴンドラが 使節の乗船に供奉して 大運河を漕上つたこと、九十五歳の老公ドッヂが 一生一度の大儀式として 使節を引見したこと、サン・マルコ寺祭礼の大行列等 目を駭かすものがあつた。 使節一行が老公に謁見の際 呈上した日本の衣朊・大小は残つてゐないが、出発前連署して市に送つた感謝状は現存してゐる。 市からも種々の贈物をしたが、特に注意すべきは、二千ヂュカットを支出し、肖像画家ヤコボ・チントレットに委嘱し、使節の肖像を描かしめたことである。 チントレットは 運筆が迅速なので 「早い《といふ渾吊さへあつたが、使節は滞在日数の少い上に 外出勝であつたと見え、漸く伊藤の肖像を書き上げただけで、残三人はスケッチに止まつたといふ。 この画も今は無い。 ローマのボルゲーゼ家に伝へてゐる一日本武士の油絵を 伊東の肖像とする説もあつたが、それは寧ろ 支倉六右衛門(支倉常長,1571~1622)の肖像といふべきで、断じて伊東の肖像ではありません。
 ベニスの次がマントバ、其処でも一行は大歓迎を受けたのですが、歓迎記事は際限がありませんから略します。 それからミラノを通り、ジェノアから乗船して 西班牙のバルセロナに安着し、一寸 横途へ外れてモンセラットへ往きました。 モンセラットは 耶蘇会の発起者 イグナシウス・ロヨラが発心して 武士を棄てた場所ですから、耶蘇会員としては見遁せぬ霊地です。 再びバルセロナに帰り、それから モンソンで国王フィリップ二世に、マドリッドで王妃マリヤに、葡萄牙へ入つて ブラガンザ公 及び エボラのテオトニオ大司教に、それぞれ別離の辞を交換し、一五八六年四月十三日 リスボン出帆した。
 使節一行が欧州に残した影響は深く 且つ永続した。 その敬虔な態度、熱心な求道心、正確な判断、温順な応対を見聞する人々は 皆 感激した。 使節に対する感激は 日本布教に対する感激となり、彼等は争つて 年々日本から来る報告の出版を待受け、耶蘇会総長は 各方面から集る渡日志望者の申込に 忙殺せられるに至つた。 使節の最初の西班牙 旅行中 ベルモンテで 一行に会した神父ルイス・デ・グスマンは 東方伝道史の編纂を思ひ立ち、一六〇〇年脱稿して テオトニオ大司教に上り、大司教はまた 一五九八年自費を以て耶蘇会士書翰集を出版した。 この書翰集は 前後二扁 約七百五十丁の大冊で、一五四九年から一五八九年に至るまでに 日本在留の教師が出した手紙 二百十三通を編纂したものです。 日本の耶蘇教史、押広めていへば、日本歴史の研究に欠くべからざる根本史料で、原版本は 日本では東北帝国大学と奈良の天理図書館とにあるだけです。 村上直次郎博士により その一部が翻訳せられてゐますが、我々は 一日も早くその全部の翻訳が出来することを 希望して居る次第です。
 リスボンを出てからモザンビークで七ヶ月滞在したため、ゴアに着いたは 一五八七年五月であつた。 一行とバリニヤノ師との再会が如何に劇的であつたかは 言ふまでもなからう。 六月四日 原マルチノは ラテン語を以て聖パウロの学院で報告演説をした。 その演説の筆記が小冊子となつて、翌年ゴアで出版せられてゐるのを、ローマの西班牙大使館で発見して 写真をとつて帰りましたが、これは先年 泉井文学士の手で翻訳せられ 史学雑誌に載りました。 本書の出版者が コンスタンチヌス・ヅラッスといふ日本人であることが 我等を驚かします。



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