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目 次
再版につきて 緒言 第一 市街の発展 一 江戸 二 大阪 第二 市制 第三 市内の交通 一 道路 二 川筋 第四 江戸大阪間の交通 一 街道 二 廻船 第五 金融 一 両替屋 二 武家の金融 三 町人の金融 第六 御用金 第七 米 第八 油 第九 株仲間 附録 維新前の宮廷生活 一 親王家と門跡・准門跡 二 摂家と関白 三 清華及び大臣家 その他の諸家 四 摂家と門流 五 議奏・武家伝奏・職事 近習・内々・外様 六位の蔵人と非蔵人 六 地下官人 七 坊官 諸大夫 侍 八 口向諸役人 九 女官 索引 |
内容の一部紹介 |
再版につきて
本書出版に当り、読者の少数なるべきは 出版書肆も 著者も 予期したところであつた。 それにも拘らず 学友両三氏は 懇切な批評を執筆せられ、また 商科大学の同僚 英人スキーン・スミス氏は 日本亜細亜協会報告第二期第十四巻(一九三七年)所載「日本社会経済史資料」中に 本書の大部分を訳述せられ、同年 更に右資料を「徳川日本」と題し、ロンドンのキング・エンド・サン会社から 単行本として出版せられた。 これは 自分の大いに光栄とするところである。
再版に際し、多少の訂正を加へたが、批評を賜はつた前記両三氏の御希望に副ふだけの 十分の改訂を為し得なかつた事を遺憾とする。
改訂につき、初版の印刷本文と 商学士 津田禮次郎氏が整理浄写せられた原稿とを 再三対照する機会を生じ、その都度 同氏に対する感謝の念を新にした。
昭和十六年八月十日
緒言
自分は 大正十三年度以来 東京商科大学において 「日本経済史」の講義を担任した。 自分の研究のためと 学生諸君の聴講の便とを 併せ慮つて、毎年新しい講義案を作つたので、今日では それが相応の分量に達した。 これを整理して 追々出版したい考は以前からあつたが、毎年講義案の作製に逐はれて、旧稿の訂正に手を着ける暇を得なかつた。
自分の希望と現状とに同情せられた 商学士 津田禮次郎氏は、自分の第一回の講義案 「江戸と大阪」 の整理及び清書を申込まれた。 同君は 在学中 この講義を聴講せられた一人であるから、その仕事にとつて最適任者であることはいふまでもない。 かくて 出来上つた清書に対し、自分は昨年の夏季休暇中から訂正に取掛つた所、あまりに加除増減が多かつたため、折角の清書も 印刷用原稿として使用に堪へざる程になつたので、商学士 増田四郎氏を煩はし、再びそれを浄書して 印刷所へ廻すこととした。
「江戸と大阪」は、自分が 商科大学に於ける最初の講義であり、また最後の講義である。 大正十三年度に一回講演したまゝで 二度と繰返したことは無い。 従つて 自分にとつて少からざる思出を伴ふこの講義案が、津田 増田両学士の尽力によつて 一冊の本に纏つたと思へば、両氏に対する感謝の念は禁じ難い。 剰(あまつさ)へ、津田学士が、本書の印刷校正及び索引編纂を担任せられたのは 重々感謝に堪へぬ次第である。
昭和十六年八月十日
第七 米
米市といふ言葉は 萬治三年(1660) の触書に初めて見える。 「大坂町中米売買に付て 市を立て候義、並 手形を以 先々え致二商売一事 停止の旨、度々申渡候。 彌以 違背仕間敷事」とあるから、米市といふものは 萬治以前に 既にあつたに相違ない。 堂島の米市場は 毎年正月四日の初相場に限り、淀屋橋の南詰で行はれた。 これは 昔の淀屋の遺蹟で、町人の蔵元として最も名;高い淀屋の店先で、米市が盛んに行はれたことを記念する為めだといふことである。 淀屋の本姓は岡本で、元祖を常安といふ。 今 常安橋・常安町といふ橋名;・町名;に その名;を残してゐる。 その長男 即ち二代目の淀屋を言當(个庵)といつて、これは 諸家の蔵米の販売を引受け、また靭( (現在の大阪市西区に相当する地域)を開拓した人で、文学にも秀で、余程な人物であつたらしいが、五代目の三郎右衛門といふものに至り 家が絶えて居る。 淀屋が闕所になつた時の主人公を 通例 辰五郎といつて居るが、淀屋の系図を見ると、通称は三郎右衛門で、辰五郎といふものは無い。 兎に角 大阪では 淀屋が米市場の元祖のやうになつて居る。)
淀屋が潰(つぶ)れてから、今までその店先に集つた人々は、堂島新地の南岸に集つて 売買を行つた。 その売買に 二通ある。 正米売買 即ち正米切手(「切手」とは預かり証のことで、正米切手とは蔵屋敷に入った米に対する預かり証。有価証券として扱われた。)の取引を行ふ外に 延( 売買があつた。 延売買 一に帳合米) ( 売買とは 建物) ( 米を定め、限月限日を定めて売買することで、今の所謂 定期売買である。 これを 売繋) ( 買繋の法とも 称へた。 何時からそんな売買が始まつたか、分明に説明することは出来ないが、延売買は 表向許可せられたものでないと断言し得る。 米仲買が 時々延売買のために捕縛せられ、身代を闕所に処せられた実例がある。 然るに 享保度になつて 米切手の転売や延売買を許す等、米の売買につき 新しい仕法が続々として行はれるに至つた。 その理由を了解するには 先づ当時の米相場を一覧する必要がある。 享保度は 七八年の頃から豊作続きで 米価が安い。 十二年十二月の仕舞相場は 広島米三十六匁八分、中国米三十二匁八分、備前米三十七匁四分 とある。 諸蔵米中 主位を占めるは 筑前米・肥後米・中国米(周防長門)・広島米の四蔵米、略して四蔵で、加賀米・備前米が これに次ぐ。 それ等が皆 三十目台(「目」は重量単位の「もんめ」で、「匁」と同じであるが、「目」は10匁以上の整数倊の場合に限って使用される)であるから、人気は全然腐り(「人気を失なう」の意であろう)、蔵屋敷で払米の看板をかけても 入札する者がない位で、十四年 十五年になると愈々下落する。 十五年の仕舞相場は 広島米 二十九匁八分、中国米 二十二匁二分、備前米 二十八匁六分で、遂に二十目台を出現した。 米価の安いのは 武家百姓の迷惑、商工の利益で、武家百姓と商工とは 利害相反するやうに見えるが、余りに米価が安くなつて 前者の困難が極端になると、不景気は後者にも及んで、世情一統の迷惑となる。 幕府は 何としても米価を引き上げねばならぬ場合に陥つた。 米切手の転売許可は 勿論その一手段と認むべきであらう。)
米切手の転売が公許せられたのは 享保十三年(1728) 七月で、当時の触書に 「向後切手証文を以 延売( 之儀 勝手次第可レ被レ致候」とある。 延売の二字を 先手形の売買とも考へられないではないが、「買手段々請取候て延売有レ之」 とあるから、こゝでは 転売と解すべきである。 従来 米切手の転売は 米価騰貴の傾向を促すものとして 久しい以前から禁ぜられて居た。 それを今度 許可したのは、米価を引上げるためと解釈するのが 当然であらう。)
第二は 延売買の許可である。 大阪で一番最初に出来た米相場所は 享保十年十二月 江戸材木町紀伊国屋源兵衛外二人に設立を許可した 御為替米会所である。 これは 廻米を切手で売渡し、その正米を蔵屋敷に預り、必要の時に渡す仕組で、米仲買はすべてこの会所で売買を行ひ、買取つたものは 米一石に対して銀二分の口銭を出し、それを三人の願人と仲買全体とで分配する仕組であつた。 これならば 正米の取引に過ぎないが、果してさうであったか。 この会所が一年(享保十年十二月より十一年十二月迄)で止むと、今度は願人が中川清三郎外二人となつて 矢張り同様な会所が出来た。 堂島の米仲買は 最初から会所には反対で、幾度か町奉行所にその廃止を出願し、紀伊国屋の会所が止んで やれ安心と思ふと、また新会所ができたので、惣代数名;を江戸へ派遣し、勘定奉行や老中に出願したが 願意が通らぬ。 町奉行の大岡越前守へ訴へ 漸く廃止の目的を達した。 中川等の会所は 享保十二年二月に始まり 十三年十二月で中止となつたが、更に十五年五月になつて 江戸の町人 冬木善太郎等五名;の米会所が 北浜に出来たので、同じやうな陳情を繰返した。 同年八月 幕府は冬木善太郎の会所の廃止を告げ、それと同時に 大阪米商の儀は 従来の仕方によつて流相場商(延売買商)を勝手次第にせよ、五十軒の両替屋は 従来のやうに売買双方から出す敷銀の保管差引勘定等を行ひ、随分手広に商売せよ、畢竟 米相場宜敷成候ための事であるから、その趣を以て心次第 行へと命じた。 して見れば 幕府が延売買を許可した目的は 米相場を釣上げるためであつたのである。
江戸でも 大阪同様 米価釣上に対する種々の手段が講ぜられた。 江戸で許可せられた会所の名;前を 米延売切手売相場会所といひ、願人は 皆川町一丁目六兵衛外五組のもので、許可の趣が江戸市中へ発布されたのが 享保十五年の七月である。 この会所の趣旨は 正米を買入れて切手売とし、供給を減じて米価を釣上げるといふ申立である。 実は 帳合米の売買を行ひたいが、許可を得る方法がないので、大阪の例に倣つて 前記の会所を出願したので、許可になつてから実際帳合米商を行つて居たため、同年の末に閉鎖されてしまつた。 かくして 帳合米商は 堂島一ヶ所に限られた。
上方筋から江戸へ来る米は 本来 米問屋(高間伝兵衛外八人)以外では引受けてはならぬといふ法令が 享保十四年 十五年に出てゐる。 こゝに米問屋といふのは 後の下( リ米問屋と同一で、米問屋以外に下り米を引請けることを禁じたのは、矢張り 米穀が江戸に溢れるのを防がうとする意味である。 この外 幕府は諸大名;に令し、江戸大阪廻米高を近年の廻米高より余分になすべからず、また 一度に全部を廻送してはならぬといつて 廻米高を制限したり、高間伝兵衛を大阪に派して 米を買はせて見たり、色々やつた後で、とうとう享保十六年(1731) に 江戸 大阪で 買米を行はせた。 江戸は 十八万両、大阪は 六十万石といふ 大数であつた。 (以下 略))
第八 油
米に次いで 最も多く消費せらるゝ商品、また旧幕時代 米についで物価の標準となつた商品は 油である。 然るに 油のことは余り人が言はない。 成る程 今日では電燈があり、瓦斯燈があるが、徳川時代では 照明の方法としては 蝋燭を除けば、たゞ燈油あるのみであつた。
天保十二年 日本橋本船町の油問屋行事の届書に、御府内一ヶ年見積り入用油高 九万六千樽、下リ油 地廻り油にて 賄ふ積り と見えてゐる。 地廻り油といふのは 関東八ヶ国より出る油で、八ヶ国の内でも 主として武州・常州・野州・下総から出る。 安房・上総・上野・相模からは 余り出ない。 また 下リ油といふのは 大阪方面から来る油のことで、先づ 一年間江戸に入る油を十万樽とすれば、七八万樽が 下リ油、二三万樽が地廻り油である。 勿論 年によつて相違はあるが、まづ大体さうである。
江戸の油直段(値段)は 地廻り油の多少にもよるが、大体 大阪の油相場を標準とする。 弘化頃の大阪の油相場は 一石 銀四百五十目から五百五十目位で、これに樽代と運賃とを加へ、江戸の相場に直すと 十樽が 二十九両三分余から三十六両余になる。 してみれば 江戸の消費高十万樽は 約三十余万両であつて、その高下が江戸の市民にどんな影響を及ぼしたか、自ら明らかである。 幕府が 米直段の高下と同様に 油直段の高下を心配したのも 無理はないと思ふ。 殊に 油切といつて 油の江戸輸入が途絶する時は 大騒動である。 長い江戸時代の間に油切のあつたことは 決して一度や二度ではなく、文政九年(1826)の如きは 殊に騒動が大きかつた。 それがため幕府は 御勘定所役人を大阪に派して その原因を調査せしめ、油の生産及び分配に 大改革を施すに至つた。 (以下 略)
終