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表 紙




目 次


 社寺建築略史     

 伽藍配置       

 仏堂         

 塔          

 門          

 社殿         

 構造概説       

 軸部・組物      

 屋根         

 構架         

 造作・装飾      

 堂内部        


岩波写真文庫 268
「日本の社寺建築」


 1958 (昭和33) 年 9 月 第2刷。
 (第1刷は、同年 7月刊)
 B6版。 本文 64 頁。 岩波書店。


 『岩波写真文庫』の書としては、既に 42番目の 「仏像 ― イコノグラフィー ―」 (1951年刊) を紹介した。
 この書は、仏像の様式に関する かなり専門的な知識を、正確な写真表現との組合せで 体系的に整理・編集したものであった。

 268番目の刊行になる本書「日本の社寺建築」においては、同種の様式的知識について、さらに洗練された整理・編集がなされている。
 そのうえ、新たな工夫として、大げさに言うと、現在の情報システムにおけるリンク(link、ひも付け)のような処理が施されている。 離れて存在する特定の語彙どうしを、結びつける 機能である。


 本書の「一部紹介」としては、右の目次中の
   社寺建築略史 の 文
   仏堂 中の 金堂の 文および写真
   ( 目次の「仏堂」は、本文では 「金堂」と「双堂・本堂」の2部分に分れている。その「金堂」の方を紹介。)
を掲げることにする。
 後者の金堂の文中に、前述の「リンク」が施されている。 文中の 所々の語彙の後に、 (2) 、 (36) 、 (49) などの番号が付されているが、これらは頁を示しており、その頁には 当該語彙に関する 他の面からの記述が存在する。 すなわち、これらの番号は、記述と記述を結びつける(リンクさせる)ための 「アドレス」となっている。



本文の一部紹介





社寺建築略史


古墳時代 (3世紀中ごろ~6世紀頃)
 伊勢神宮や出雲大社の様式は、柱を掘立てとし、白木造りで、柱上に組物くみものを用いず、床を高く張り、屋根は草ぶきで、反りがなく、壁を板壁とし、次の時代の仏教建築の様式とは違っているから、その成立は五世紀ごろとみてよいであろう。

飛鳥あすか時代 (6世紀中ごろ~709)
 6世紀の後半になって、朝鮮から仏教が伝えられると、大陸建築の様式により、飛鳥寺・法隆寺・四天王寺などが建てられた。 これらの建物は 高く基壇きだんを築き、床は土間で、柱は礎石そせきの上に立ち、柱上に組物を用い、屋根は瓦葺きで 反りがあり、壁は土壁で、木部には彩色が施されていた。

奈良時代 (710~793)
 仏教建築の黄金時代で、平城京を始め 各地に続々と大寺院が建立された。 とうの建築様式が直接伝えられ、柱の膨みや 雲斗くもと雲肘木くもひじきがなくなり、組物が整備され、軒は二軒ふたのきとなり、日本における仏教建築の基本的様式は この時代に完成されている。 仏教建築は神社建築にも影響を及ぼし、春日造かすがづくり流造ながれづくり八幡造はちまんづくり などの本殿形式は いずれも奈良時代末に成立したものと思われる。

平安時代 (794~1182)
 天台てんだい真言しんごん 二宗が伝来し、山地寺院が起り、礼堂らいどうの付設が一般的となり、多宝塔たほうとうが 建てられた。 仏教建築の日本化が進み、日本住宅の床張り、檜皮ひはだ屋根・蔀戸しとみどなどが仏教建築に採り入れられ、大陸風の土間のままのものは少なくなった。 中期からは 浄土教の発達により、阿弥陀堂あみだどうの造立が相ついで行われた。 神社に 仏教建築の廻廊・楼門・塔などを建て始めたのも この時代であるが、また 拝殿その他の諸建築も整備されていった。

鎌倉時代 (1185~1332)
 この時代の初頭、東大寺の復興にあたり、宋の様式が輸入された。 これを 大仏様だいぶつよう天竺様てんじくよう)と呼ぶ。 大仏様は豪放な様式で 東大寺その他に用いられたが、ごく生命の短いものであった。 しかし、これは 平安時代以来の様式(これを和様わようと呼ぶ)に大きな影響を与え、その ぬき木鼻きばな桟唐戸さんからどなどは 和様に入って、和様に新しい美しさを増した。 禅宗の伝来に伴う 禅宗様ぜんしゅうよう唐様からよう)の輸入は、大仏様にやや遅れるが、禅宗の発展に伴って急速に発達し、鎌倉時代の末には全国的にひろがった。 禅宗様は 木割きわりの細い、装飾的手法の多い、整然とした様式である。 禅宗様の細部も 次第に和様のうちに採用されて、鎌倉時代末以後の建築で、大仏様・禅宗様の影響をうけない建築は ほとんど見られなくなった。

室町時代 (1333~1572)
 前半は 禅宗様建築の最盛期であったが、後半になって 幕府が衰微して行くと、中央の建築界は衰え、それに代って地方の建築界が勃興し、和様の禅宗様化が進み、建築装飾が次第に発達し、細部の変化あるものが多くなった。 神社建築も この傾向をうけて、変った社殿形式をもつものが多い。

桃山時代 (1573~1614)・ 江戸時代 (1615~1867)
 初期は 応仁の乱後衰えた社寺建築の 復興時代であった。 室町時代以来 発達して来た建築彫刻は、その後 目覚しい発展をとげ、豪華・華麗な桃山様式を出現させた。 また中世に起った新宗派である 浄土宗・真宗・日蓮宗などが、大寺院としてその基礎を確立したのも この時代であった。 しかし、時代はすでに宗教建築の時代ではなく、建築界の主流は 城郭・住宅などに移って行った。






金 堂


 飛鳥奈良時代の仏教は 三論さんろん成実じょうじつ法相ほっそう倶舎くしゃりつ華厳けごん の いわゆる南都六宗で、平安時代に入ると 天台・真言の密教二宗が伝わり、鎌倉時代には禅宗が輸入され、また 日蓮宗・浄土宗・真宗などが相次いで起った。 宗派により 本尊をまつる堂の吊称が違う。 南都六宗では 金堂(仏殿)、天台・真言両宗では 金堂あるいは本堂、禅宗では仏殿、日蓮宗・浄土宗・真宗では 本堂という。

 南都六宗の金堂は 仏殿院 (2) の中央に位置し、奥行は四間が普通で、正面は五間あるいは七間のものが多い (36) 。 最前列の柱に壁をつけないで、吹放ふきはなちとしたのは ここに回廊がつながるためである。 立面は 一重、一重裳階もこし (36) 付、二重などがあるが、稀には 薬師寺のように 二重で各重裳階付という変ったものもあった。 屋根は 入母屋造いりもやづくり (49) か 寄棟造よせむねづくり (49) が 多いが、奈良時代には とくに寄棟造が多かったらしい。

 これらはみな 大陸伝来そのままの形式であるから、基壇 (38) 上に立ち、板床 (38) を設けず、土間のままである。 なお 金堂が三つあるときには その位置に応じて、それぞれ 中金堂・東金堂・西金堂 と呼ぶ。 現存する主なものに 法隆寺(飛鳥)・唐招提寺(奈良)・当麻たいま寺(鎌倉再建)・東大寺(江戸再建)のものがある。




 興福寺 東金堂













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